スサノヲが神社で祭神として祀られるようになったのは、いつ頃だろうか。『古事記』や『日本書紀』が編纂された白鳳時代よりは、遙か昔の頃。稲作が集団でするようになり、村が形成された頃、集団で生活する上で、祭事場所が設置され、米の豊作を祈り、災害や疫病が起こらないように祈祷する習慣が生まれました。その時に各集団で独自の神が存在していた。縄文時代から受け継がれてきた神であり、中国から渡ってきた人達の神、八十の神々と言われています。その当時、アマテラスやスサノヲの神を信仰していたのは、国を興そうとしていた天孫族の一部かも知れません。
村から国家に移行していく流れの中で、集団をまとめていく指導者が現れ、大王と言われるようになった。その大王の住居が集団のまつりごとの場であり、祭事場所ともなり、そこで八十神が祀られるようになった。この時代が、古墳時代と言われ、それぞれの小国家の大王が崩去すると墓地として古墳が形成され、その古墳に人々が集まり、その場が祭事場所になった。その頃の庶民の住居は、昔ながらの竪穴式住居であったが、大王の政治拠点は木造建ての居館で、そこでは大王の住まい兼祭事場所となっていた。
小国家の中に、日々の農作業で無事を願う太陽神と集団の疫病を排除や水害などの災害から守る山神・海神を祀る集団、天孫族がいた。その天孫族では、太陽神をアマテラスと言い、水害や疫病から守る神をスサノヲと。天孫族が日本を治める国家となっていく。それがヤマト王権です。ヤマト王権では、高天原から降りてきた神を天津神(アマテラスなど)とし、それ以外を国津神とした。何故か、スサノヲは国津神となっている。地方の神や生産的な神を国津神としていたようです。ヤマト王権は、その唯一絶対な神である天津神を生み出すためにイザナギとイザナミを登場させる。そう、国産みの神です。さて、イザナギにしてもイザナミも『古事記』や『日本書紀』を編纂するに当たって作られた神なのか、以前からの言い伝えの神なのか、西洋で言うイヴとアダムのような伝説的な神だったのか。
ヤマト王権が登場してくる古墳時代の頃、大小の村は存在し、その村では○○連と言っていた。後の物部○○連とか中臣○○連とかである。そんな村での災害や疫病がないように祈る対象として祠が建てられるようになった。それが○○神社です。天孫族でない国津神を祀る村もあった。そんな村でも神社が存在していた。古墳時代以前の祭事場所が神社に変わっていった。ちょうどその頃、ヤマト王権は河内平野が水田に適した地で、縄文時代には海だったが紀元前後には河内湖になり、琵琶湖や生駒山から流れてきた川の土により砂州ができ、稲作には適した土壌であった。近畿圏に政権を持つようになったヤマト王権にとって広大な田園地帯を得ることになる。しかし、川の氾濫などによる水害には悩まされていた。そのため、川縁りに祠を建て、『古事記』や『日本書紀』に記載されているように、アマテラスは高天原(農地を表していると思う)の支配を、スサノヲは海の支配をイザナギから与えられた。即ち、スサノヲは水害を抑える神として存在した。
『古事記』や『出雲風土記』に出てくる神話では、スサノヲは高天原から下界に降り、出雲の地(根の国)で、ヤマタノオロチの生け贄にされそうな美しい少女(クシナヒメ)に出会う。スサノヲは、クシナヒメを助けるため、ヤマタノオロチと戦う。このことは、何を表しているのだろう。スサノヲが向かった出雲とは、出雲大社がある出雲市大社町杵築東とすると、この地も宍道湖から流れてくる斐伊川の下流にあり、河内平野に注がれる大和川や淀川と同じように、土が川から流れてくる砂洲の状態で、稲作に適していたが水害も。また、スサノヲが根の国に降り立ったとされる奥出雲市や安来市も同じような土地柄だった。クシナヒメが生け贄に、ということはヤマタノオロチが水害としたら、水害に襲われそうになった美しい少女となる。現にその少女の姉たちはその水害で命を落としている。そこで、スサノヲはヤマタノオロチを退治したとあると、スサノヲの神は水害から逃れられる神となる。
現在の大阪平野も昔は、砂洲からできて、弥生時代には川の氾濫が起こる可能性のある土地柄だった。そこで、水害から守ってくれる素戔嗚尊を祭神として祠=神社を建てた。河内平野には、以前は川縁りであったところに素戔嗚尊を祀る神社が多くある。明治元年に神仏分離令が明治政府から施行されて、京都で牛頭天王=素戔嗚尊を祭神にしていた祇園神社が八坂神社に改名されたと同じ頃、大阪の素戔嗚尊を祭神にしていた神社も八坂神社に。中には、昔ながらの素戔嗚神社の名称も、その地名の神社もある。京都の八坂神社の祭神が素戔嗚尊。スサノヲは、海を治める神とすると京都には海=水害などないはず。でも、京都が1,000年以上都であったため、疫病の流行りも半端ではなかった。その時、疫病をお祓いする神社として、素戔嗚尊を祭神とする神社が沢山あったのも事実です。現在でも、素戔嗚尊を祭神としている神社は、全国に約2,300社あるそうです。
日本古代稲作の経緯
雑草稲は、縄文時代草創期から日本本土に存在していた。でも、栽培稲になるまでには永い歳月がかかった。縄文時代中期の稲のプラント・オパールが岡山県で発見され、栽培稲の痕跡があった。本格的には、朝鮮半島から温帯ジャポニカ米とともに水田技術が縄文時代晩期入ってきてから。
原始ブログ集まれ。
隠された古代史を探索する会