いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

タグ:古代史

サヘラントロプスの頭蓋骨 生物学で地球上にヒト科として登場するのは、700万年前のサヘラントロプス属でチンパンジー科から分かれた種と言われている。この種の発見は頭蓋骨だけで、ヒト科の要素である直立歩行が成されていたかどうかは、推測の境地でしかない。もし、直立歩行をしていたとすれば、ヒト科での最初の歩行ができる遺伝子を持っていたと考えられる。直立歩行できる染色体はどのようにして得られたのだろうか。染色体の組み替えは、ウイルス感染と異種との交配(交雑)から起きる。サヘラントロプスの場合、直立歩行できるようになったのは、交雑ではなく、ウイルス感染ではなかろうか。サヘラントロプスの脳の容積が約350~380ccだとされている。発見されたのは、中央アフリカのチャド湖。
アウストラロピテクスの頭蓋骨 サヘラントロプス自体は680万年前に食肉としていた哺乳類のウイルスによって絶滅したが、一部生き残ったサヘラントロプスは交雑によって、遺伝子の組み換えが行われ、脳の容積が500ccに達したアウストラロピテクスが400万年前に誕生した。日本では猿人と言われ、直立二足歩行ができるようになっていた。アウストラロピテクス系で最後のアウストラロピテクス・セディバが180万年前まで生存した。この種は、道具を使用した可能性がある。パラントロプス系は、パラントロプス・エチオピクスが270万年前から230万年前まで生息し、その後引き続いて120万年前まで生存していた。このことを考慮すると、アフリカには、遺伝子の違った猿人が200万年前代に存在していたことになり、交雑によって新種の猿人が誕生する可能性があった。
人類の起源
ホモ・ハビリスの頭蓋骨 このようにアフリカで異種の猿人男女が出会い、性交を重ねる内に新種のヒトが誕生した。イギリス人類学者ルイス・リーキーは、1964年にタンザニア北部ンゴロンゴロ保全地域のオルドヴァイ渓谷から240万年前に生息していたホモ・ハビリスの化石(歯)を発見した。その後、頭蓋骨も、そしてヒト属のホモ・ハビリスと名付けられた。また、このオルドヴァイ渓谷から1959年に猿人であるアウストラロピテクス・ボイセイの頭蓋骨を発見していた。この地で猿人とヒトが共存していたことになる。アウストラロピテクス・ボイセイは115万年前まで生息していたので、生存期間が長かったホモ・エレクトスとの交雑も十分考えられる。
ヒト属の時代・大陸分布図 ホモ・エレクトスは長い生存期間に、アフリカを出てアジアに移動した人もいて、1891年にジャワ島トリニールで発見されたジャワ原人や中国北京の竜骨山の森林で1921年に発見された北京原人もホモ・エレクトス種に属している。その他に、18,000年前までインドネシアのフローレス島で生息していたフローレス人もホモ・エレクトス種に属しているとされている。ホモ・エレクトスは、80万年前からアフリカやヨーロッパで生息していたにネアンデルタール人や27万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスとの生存競争(狩猟獲得率)で敗れ、餓死者が増え7万年前に絶滅した。しかし、ネアンデルタール人やホモ・サピエンスの混血はヨーロッパやアジアにも存在していた。ホモ・エレクトスの遺伝子を持ったネアンデルタール人やホモ・サピエンスがいたことになる。ネアンデルタール人も2万年前代に姿を消してしまう。これは、ホモ・サピエンス・サピエンスとの混血が進むことにより、純粋のネアンデルタール人がいなくなったことかも知れない。純粋ではないが、64万年前にネアンデルタール人から枝分かれしたデニソワ人は、分岐した後、アジアを拠点にし、中央アジアから東アジアに移り、中国を南下し、東南アジアから西南太平洋のメラネシア(ソロモン諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島等)に移ったと言われ、メラネシアの先住民たちは純粋のデニソワ人の遺伝子を引き継いでいるかも知れない。
Y-染色体の変転とヒトの移動
 現在まで生き残ったホモ・サピエンス・サピエンスは、アフリカの中部から北西部で30万年前にホモ・エレクトスと多種の交雑で誕生したと思われ、アフリカで遺伝子の組み換えが行われ、7万年前から6万年前にY-染色体パプログループCTの分岐したDEとCFがアフリカを出た。その中で、DとCがアジアに向かった。その当時、アジアにはネアンデルタール人の一部とデニソワ人がまだ生息していた。そこで、DとCを持ったホモ・サピエンス・サピエンスは異種との交雑もあって、Dが日本人で38.8%を占めるD-M55となって日本に21,200年前に到達した。Cも異種との交雑を重ねて、12,000年前までに日本人が5%を所持するC-M8とC-M217として到達した。C-M217はモンゴル人や満州族に見られる。C-M8の経路は謎に包まれているが、C1がインドからインドネシア経由で東南アジアから北上して日本にたどり着いた。D-M55とC-M8が日本で縄文文化を築いた。日本では日本人を形成する上でY-染色体があり、俗に言う弥生人。この弥生人のパプログループは、OのO-M176とO-M122です。Oに成るまでかなりの分岐があり、それが中央アジアで行われた。元は、アフリカ出のCFのFから始まります。Fは48,000年前に誕生し、僅か1,000年の間に西アジアでNOの祖であるKを生み出します。このKは西アジアからシベリア辺りまで北上し、4万年前にNとOが分離し、Nはさらに北上し、Oは中国経由で南下して、東南アジアまで至った。この経路はまだこの時期には生息していたデニソワ人と同じであり、交雑もあったかも知れない。また、Oが東南アジアに至った時、パプログループCと出会い、遺伝子の組み換えが盛んに行われた。その結果、OはO-F75とO-M122に分かれ、O-F75はO-M268とO-M119に。O-M268から日本人で33.5%あるO-M176に染色体の組み替えが行われた。O-M119は日本人にも見られるが極少で、台湾人に多く見られる。また、日本人で16.7%あるO-M122からO-M7とO-M134に変化し、O-M7はミャオ族に見られ、O-M134はタイ人やチベット人にも見られ、O-M134から分かれたO-M117はネパール人にみられる。
 このように遺伝子の変化が異種との交雑によって行われ、現在の日本人が誕生したと思う。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 現在、ウクライナはスラヴ人系で占められて、ロシア人と同じ民族です。この人達の祖先は、紀元前600年頃以前にウクライナ一帯に移住してきたスキタイ人とポーランド辺りにいたゲルマン人。それと、紀元前800年頃から植民地活動を展開するようになった古代ギリシアの国々。紀元前400年頃には、ギリシア人がこのウクライナの地に侵入。それで、ギリシア人とスキタイ人の混血が始まる。その人達も含めてスラヴ人となっていった。Y-染色体では、スラヴ人はハプログループR1aで、50%~100%を占めています。ウクライナは元々、スキタイ人が支配していた地域で、アーリア人から変化してきた民族。そして、ヨーロッパ諸国の言語がこのアーリア人から来ているインド・ヨーロッパ語族です。
パブログループR1a
 アーリア人の基本的なY-染色体は、ハプログループRで今から約19,000~27,000年前に西南アジアで発生した。親のハプログループPは東南アジア。さらに遡ると縄文人が多く持つ、ハプログループDに至る。だから、日本人はアーリア人よりも古いY-染色体を所持していることになります。ハプログループDがアフリカを出て、東へと移動するなかで、西南アジアに留まった人類が遺伝子の変化により、ハプログループRになって、こんどは西へ向かう。そして、カスピ海東岸あたりで、インド・イラン系とヨーロッパ・スラヴ系に分かれ、ウクライナ辺りでハプログループR1aが18,500年前以降に誕生した。このグループがスキタイ人となっていく。この時代、青森県の大平山元Ⅰ遺跡で発見され、16,500年前の世界的にも最古の縄文土器を日本人の祖先は作っていた。縄文時代草創期に当たります。ウクライナ周辺の西アジアの最古の土器は、9,000年前のイラクとイランの国境付近のガンジ・ダレ遺跡のイノシシ縄目文土器形土地製品とされ、この地方での本格的な土器は農耕作業が行われてからだとされています。紀元前2,900年前から始まった縄目文土器文化からですね。ここで初めて、縄文土器と同じ模様、縄を使った土器が。それと同時に銅の冶金技術、銅器文化も発展してきた。
 この縄目文土器文化の範囲内に、銅器文化をもった球状アンフォラ文化(ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ北東部)がありました。その時期にメソポタミアで銅とスズの合金である青銅器の鋳造技術が開発された。しかし、その当時から鉄鉱石が存在していたが精錬するには難しく、鉄鉱石を鍛造することができなかった。鉄の精製技術が開発されたのが紀元前1,500年でアナトリア半島のヒッタイトでした。それから、紀元前1,100年頃にはアーリア人が築いたアンドロノヴォ文化を持ってイラン系遊牧騎馬民族のスキタイ人がウクライナの地に移動してきた。そして、ウクライナ北部にチェルノレス文化(黒森文化)を築く。紀元前500年頃、スキタイ人はウクライナを拠点にして全盛期を向かえ、クリミア半島に国家を築いた王族スキタイとか、ギリシア系スキタイ人のカッリピダイ、原スラヴ人と呼ばれ、ロシア人やウクライナ人の祖先と言われている農耕スキタイなどが国を作り、それぞれ大王が存在していた。王族スキタイには古代スキタイ文化があり、カッリピダイにはギリシアから伝わった鉄器のベッサラビア文化があり、農耕スキタイには非常に肥沃な黒色の土壌で黒森文化とも言われたがあった。
スキタイの遺跡
 穀物栽培に適し、鉄器の製造もしていたスキタイではあったが、紀元前4世紀頃になると、王族スキタイの領地の一部がギリシアの植民地になり、ギリシア主導でボスポロス王国ができる。さらに、南ウラル地域の遊牧騎馬民族、サルマタイがスキタイの領土を侵略して、スキタイ人の一部は東方に移動した。紀元前4世紀後半には、ギリシアのアレクサンドロス大王がペルシャ帝国を制圧のため東方侵略。紀元前329年から紀元前327年までソグディアナとバクトリアでのソグディアナ攻防戦で、スキタイ人はアレクサンドロス軍と戦った。結局、アレクサンドロス大王はインドまで遠征している。中央アジアから東アジアまで、ギリシアのヘレニズム文化が浸透していった。
アレクサンドロス帝国の最大領域
グレコ・バクトリア王国 その当時バクトリアには、アレクサンドロス大王の配下にあるグレコ・バクトリア王国があった。しかし、中央アジアの西側を本拠地にしていたサカ・ティグラハウダー、中央アジアの東側のサカ・ハウマヴァルガー、カスピ海もしくは黒海の北のサカ・パラドラヤ、すなわちスキタイ人がグレコ・秦と周辺国バクトリア王国を脅かした。結局、バクトリアにあったグレコ・バクトリア王国の首都、アイ・ハヌムは、スキタイ人と月氏が占領してしまい、月氏の領土になった。西のスキタイ人と北のモンゴル系の遊牧民、月氏の交流があったと思われる。バクトリアのサカ人も元々、スキタイ人だった。そんなことで、スキタイの鉄器文化とギリシア文化が紀元前3世紀までには、モンゴル系の月氏に伝授されていた。月氏の隣国だった秦はこの月氏の領土を侵略し、鉄器文化を吸収し、馬と鉄器を手に入れた。そして、秦の始皇帝は、中国を紀元前221年に統一してしまう。
 そんな秦の始皇帝が不老不死の薬を日本に求め、徐福を代表とする1,000人近くの人々が渡ってきた。その時に青銅器や鉄器の文化が日本に伝授されることになる。紀元前2世紀のことです。その後、秦が滅亡し、秦の人々特に、鉄器の職人などは朝鮮半島へ。そして、のちの新羅に。日本と新羅とは、その当時、友好国であったので、新羅から対馬、対馬から壱岐へ。そして、壱岐から北部九州に鉄器文化が伝わった。
大乗仏教の広がり 鉄器がスキタイ人から秦経由で日本に入ってきたように、仏教も同じような経路で。少し遅れて。秦の始皇帝が死去してから、中国は前漢の時代になり、月氏を東に追いやって、現在のキルギス辺りまで領土を広げた。月氏は、大月氏となってバクトリア地方を支配するようになった。この結果、インドにいたスキタイ人(イラン高原にいたサカ人がガンザーラ地方に)と手を組み、北はバクトリアから南はカシミールまでのクシャーナ朝となっていった。インドにいたアーリア人で釈迦族が小国を作っていた、そこの皇子であった釈尊が紀元前6世紀ごろに仏教を開経し、紀元前3世紀頃、クシャーナ朝のガンダーラまで広がった。その後、前漢が西に進行することにより、ガンダーラで熟した大乗仏教が中国に入ってきた。それが紀元前1世紀頃です。その後、朝鮮半島に百済が誕生し、日本は新羅との付き合いから、百済優先に舵を取って、仏教が百済から伝道されることになった。
 日本とウクライナとは、余り関係がないように思われます。しかし、弥生時代以降中国から入ってきた文化で、日本で定着したのはたくさんありますが、その一部は遠いウクライナ、言い換えればスキタイ人から伝わったと言って良いでしょう。



にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 現在の日本人の祖先をY-染色体で探索してみた。
Y-染色体の分布状況
ツンクウェのサン族 ホモ・サピエンスが誕生したのは、270,000年も前で、アフリカ中部から北西部辺りで、すべての遺伝子の根源が、ハプログループAとして誕生している。現在でも、ハプログループA を66%も持つ部族がアフリカのナミビア北東部の秘境(ツンクウェ)で今でも狩りを行うサン族が約500人の集落で暮らしている。通称ブッシュマンと呼ばれる民族です。70,000~80,000年前にグループAから進化したハプログループBTが特別変異で、遺伝子の組み換えが行われ誕生している。ここから、60,000~79,000年前にカメルーンのバカ族ハプログループBとハプログループCTが分かれた。ここまでは、ホモ・サピエンスの単一人類であった。ハプログループBはアフリカに留まり、63~72%を保持するカメルーン南東部の熱帯雨林、コンゴ北部、ガボン北部、中央アフリカ共和国南東部に住むピグミーのバカ族が代表的部族で、現在30,000~40,000人が生存している。ハプログループCTは、ハプログループBと分かれてエチオピアからスーダン辺りに移り、現在のネグロイ出アフリカド・コーカソイド・オーストラロイド・モンゴロイドの共通の祖先となる。ハプログループCTからがホモ・サピエンス・サピエンスとなった。今から65,000年前にこのハプログループCTからハプログループDEとハプログループCFに分かれ、ハプログループDEからハプログループDとハプログループEに分かれ、ハプログループEはネグロイドとして、ハプログループD2もアフリカに留まり、ハプログループD1とパログループCFは、現在のジブチからエリトリアの辺りから紅海(バブ・エル・マンデブ海峡)を渡って、現在のイエメン南部に53,000年以上前に渡った。

最終氷期の最寒冷期における植生
ハプログループDに関連する民族移動香坂山遺跡の石刃 ハプログループD1がアフリカを出た時期的は、地球が最終氷期(70,000~10,000年前)で、日本列島では海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっていた。日本海と東シナ海をつなぐ対馬海峡もきわめて浅くなり、東シナ海の大部分も陸地となっていた。この影響もあり日本列島は現在より寒冷で、冬季の降雪量が少なかったと考えられている。北海道では永久凍土やツンドラ、標高の高い地域では山岳氷河が発達し、針葉樹林は西日本まで南下していたと言われている。2020年10月に長野県佐久市の香坂山遺跡から36,000年前の大型石刃、小石刃、尖頭器がセットで発掘された。おおよそ、17,000年にかけて、ハプログループD1a2a(D-M55)の人達が氷期であったので、食料を求め、砂漠やツンドラを避けて、日本にたどり着いたのでしょう。この人達の子孫が後氷期になって、現在の日本列島になり、縄文人となっていった。ハプログループD1a2aは、現在日本人の35%を占めている。
ハプログループOに関連する民族移動 次に日本人に多いハプログループO1b2は、パログループCFからCとFに分かれ、FからKに、そしてKからK1とK2に、このK2からONが生まれ、ONからハプログループOに、ハプログループO1になったのが中国の湖北省辺りで30,000年前とされている。ハプログループO1b2になってから揚子江河口から日本へ、或いは揚子江から北上して朝鮮半島経由で日本にやって来た。弥生人と称されるY-染色体を持った人達です。ハプログループONから分かれたハプログループNも日本にやって来ています。日本人全体では2%程ですが、青森県では8%程を記録しています。遼河文明の遺跡人骨からもパログループN1が60%以上の高頻度で見つかって、ロシアのウラジオストック辺りから日本に。三内丸山遺跡との関係が囁かれている。このハプログループNのY-染色体は北欧も分布し、フィンランドの発音やアクセントが日本語と似ている。勿論、言葉の意味や文法はちがいますが、裸でお風呂に入浴や、玄関で靴を脱ぐ習慣とか日本人の生活環境とよく似ている。また、ハンガリー語と日本語も似ていて、主語・述語の順番がほとんど同じなのだとか。さらには、苗字と名前の順番が日本と同じ。エストニアもそうで、フィン・ウゴル系民族なのです。ハY-染色体では、プログループN1a1に属している。日本にやって来たY-染色体は、プログループN1a2でモンゴル系民族です。そう考えると、日本語の起源はハプログループNを持った人達によってもたらされたと。
ハプログループCに関連する民族移動 その他、パログループCFからCが60,000年前にイラン辺りで発生し、パログループC1a1(C-M8)が12,000年前に日本にやって来て縄文人となった。鳥取市青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代後期とみられる人骨2点にパログループC1a1が発見されている。パログループCはイラン辺りから東のはて日本まで移動し、西にはハンガリーあたりまで。このハンガリー辺りまで移動したY-染色体がパログループC1a2で、ここでもハンガリーと日本の共通点が見られる。また、パログループC2も35,000年前にモンゴル辺りで生まれ、バイカル湖辺りに移動してパログループC2aになり、日本の北海道や東北地方に上陸した。また、モンゴルから南下してパログループC2bとなり、朝鮮半島経由で日本にやって来た。
 このパログループC系で日本人の中に10%程占め、石器時代から縄文時代にかけて、日本にやって来たと思われる。パログループN系も石器時代にロシアのウラジオストック辺りから日本にやって来ているが、日本人の中で1.5%に満たない。やはり、日本人のY-染色体は、縄文人の血をひくハプログループD1a2aが3割と紀元前6世紀ころから日本にやって来た弥生人、ハプログループO系列が半数を占めている。
日本のDNA比率


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 日本人のABO血液型で、世界に比べて均等に分布されている。おおよそのところ、A型が40%、O型が30%、B型が20%、AB型が10%となっている。現在のように人口移動が多い世の中では、都道府県別の分布は計りにくいので、戦前のデーターをもとに作製した分布表を利用して、日本人はどこから、いつ頃からやってきたかを探ってみた。
戦前の都道府県別血液型分布状況
全国平均の血液型比率を基準にした都道府県別血液型分布
 石器時代に日本にやって来たのは、シベリアのバイカル湖付近に住んでいた古モンゴロイド達が南下して、日本にもやって来た。この人達の血液型は、B型比率が多かった。この地方には、B型比率が多いようで、縄文人とは違うが同じ北方系古モンゴロイドのアイヌ人は、B型が32.4%、A型が31.8%、O型が17%となっている。日本人でB型だけの県別分布を見ると、平均20%となっているが、25%付近にある県は青森県、秋田県、長野県となっている。この地域、縄文遺跡の多い地区で、青森の三内丸山遺跡や縄文のビーナスの土偶が発掘された長野県の棚畑遺跡がある。やはり縄文人は、B型が多かったのだろう。
世界の血液型分布状況 縄文時代に入ってから南方系古モンゴロイドが沖縄諸島経由で、日本に流れてきた。この人達の血液型は、O型比率が多かった。沖縄では、B型やAB型に比率は全国平均だけど、A型は36%で、O型が33%となり、全国平均と比較してA型が少なく、O型が多い。鹿児島も同じような傾向。では、O型比率が下回り、A型比率が高いのは、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、島根県となっている。特に佐賀県、福岡県、島根県は、朝鮮半島に近く、水田式稲作が早くから行われていた地域で、弥生時代の初め頃ですね。新モンゴロイドが日本に朝鮮半島から渡ってきた人達です。この新モンゴロイドは、モンゴルから南下して中国の四川省辺りから揚子江を下り、黒潮に乗って日本へ、または陸に沿って北上し、山東半島から或いは朝鮮半島からやって来た。新モンゴロイドのA型比率の高い人達です。
 このように、日本には、北方系古モンゴロイド、縄文人のB型と新モンゴロイド、弥生人のA型が交わるようになって、AB型比率が世界的にも高いことになった。AB型比率が10%を超えている県は、福島県、茨城県、群馬県、新潟県、長野県、滋賀県、島根県、岡山県、愛媛県、佐賀県、長崎県、大分県、宮崎県となっている。福島県、茨城県、群馬県、新潟県、長野県においては、元々B型が多かったところに、ヤマト王権が東国に進出した結果だろうか。新潟県は、縄文時代からヒスイが取れた土地柄で、縄文人も弥生人も。長野県も多くの縄文人が集まったところではあるが、ヤマト王権の多氏が国造になって、この地を支配したところ。滋賀県は、縄文時代から縄文人が住み着いた土地で、弥生時代になって安曇氏や息長氏や物部氏や中臣氏などが一時的に本拠地にしていたところ。A型の弥生人もかなり入ってきた土地であった。佐賀県、長崎県、大分県、宮崎県などは、縄文時代晩期から弥生時代前半までには、A型とB型の混合が始まっていたところで、その混合が島根県、岡山県、愛媛県に普及した感じ。
 全国平均の血液型比率よりも偏っている都道府県としては、兵庫県、大阪府、奈良県のようにA型が平均よりも多く、O型は平均並みだが、B型が平均より下回っている。これは、ヤマト王権の中心部であったからだろうか。東北地方と埼玉県を除く北関東の茨城県、栃木県、群馬県と長野県は、全国平均よりもB型が多くてA型が少ない。これは、縄文人がこの地域に多く住んでいたと考えられる。相対的に愛知県から西日本では、A型が多いと戦前の都道府県血液型分布から読み取れます。一般的に関東がA型の人が多くて、関西ではO型が多いとよく言われますが、この血液分布とは少し異なっていますね。
モンゴロイドの移動 この血液型比率による分布だけで、日本人はどこから来たのかを断定することはできないものの参考にはなると思います。石器時代から縄文時代初期に北方系古モンゴロイドが日本にやって来て、B型の人達が中心になって縄文文化を築いた。そして、約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火以後、南方系古モンゴロイドが日本に。その人達はO型が多かった。紀元前900年頃から、新モンゴロイドのA型の多い人達が日本にきて、稲作を広げていった。古モンゴロイドと新モンゴロイドが日本で交わっていく。それにより、世界でも珍しいABO型のバランスのとれた日本人が出来上がっていった。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 初期ヤマト王権が誕生する前、九州を中心に100余りの小国家が存在していた。これは、中国の歴史書から、現在までの日本の研究者が発表している既成事実です。そこに、吉備王国やヤマト王権の前身が含まれているとは思わない。中国が倭国として指定している範囲はどのようなものか。これも、中国に渡った倭人が伝えたものだろう。2世紀後半に、確かに倭国大乱があったのは事実。そして、邪馬台国も存在したのも事実。でも、邪馬台国が日本全土を掌握していたかというと疑問です。邪馬台国は、いくらかの小国が集まって、狗奴国と戦うためにできた国であり、女王を立てて中国と交渉した国。ただ、それだけ。2世紀後半頃には、岡山県に吉備一族が支配する国があった。そして、奈良県桜井市付近にはヤマト王権の前身の国が存在していた。この辺りでは、九州のように戦争をしなくても、平和に暮らせる生活水準が整っていた。
吉備王国地図
 2005年2月に彦崎貝塚に6,000年前のイネのプラント・オパールが大量に発見された吉備では、津島遺跡のように2,500年前には集落の側に水田がある暮らしをしていた。この吉備に九州から流れてくる人々がいたであろう。『古事記』の神武東征の項では、神武天皇は、広島の安芸国多祁理の宮に7年、岡山の吉備国高島の宮に6年も滞在していたとある。実際は、推古天皇或いは天武天皇に創られた物語なので、この居館の場所は定かでない。ただ、初期ヤマト王権を支えた人達が、この安芸国や吉備国に移り住んだのだろう。多分、倭国大乱を逃れた人達だったかも知れない。
楯築墳丘墓楯築墳丘墓出土_特殊器台旋帯文石 稲作の先進国、吉備国では、2世紀後半にはしっかりとした王国が出来上がっていたと思われる。それも、現在の岡山市や倉敷市の平野部の殆どが、浅瀬の海でした。津島遺跡の水田式稲作は、海岸線から始まったのですね。倭国大乱の時代には存在していた倉敷市矢部の集落、楯築遺跡では、前方後円墳を代表とする古墳時代の幕開け的弥生墳丘墓が存在していた。また、この楯築遺跡の北側の山が鬼城山で、「桃太郎伝説」の鬼ヶ城のモデル担った場所。「桃から生まれた桃太郎」の話は日本全国に知れ渡上東遺跡の桃の種っていて、この地は1960年代まで、桃の生産が全国的にも1位だった。弥生時代でも、桃の生産があったみたいで、倉敷市東部の足守川西岸の上東遺跡では、桃の種が9,608個も発掘されました。その他に製塩炉や波止場状遺構が発見されています。この辺りが吉備王国の中心部だったのでしょう。
 『古事記』のイザナギとイザナミが天の沼を矛でかき混ぜて国造りの段で、最後に出来た島、児島はこの吉備国の島だったのです。現在では陸続きになっていますが。架空のオノゴロ島も吉備国のどこかかも知れませんね。『古事記』でイザナギがイザナミの死後、八つイカヅチと千五百の黄泉の軍人が追いかけてきたので、坂本の比良坂(黄泉の国境)に生えていた桃の実を三つ取って投げつけた。そして、追っ手から逃れたとあります。これって、吉備国での話ではないですか。桃を使っての退治。また、桃の種が吉備の上東遺跡で大量に見つかったが、それ以外に不思議なことに纏向遺跡でも約2,800個出土されたことに驚き。その当時では、かなりの遠方。そうすると、2世紀後半には吉備の人達が初期ヤマト王権の本拠地、奈良県の巻向地域に移動していたことになる。纏向遺跡からそれほど遠くないところの唐古・鍵遺跡にも吉備製の土器や祭事具などが発掘されているので、間違いなく吉備の人達が移り住んで新しい国作りをしていたのだろう。この唐古・鍵遺跡から発掘された吉備製の祭事場でお供えするための特殊器台と同じものが楯築遺跡からも出土されており、他にも弥生墳丘墓の頂上に、大正時代の初め頃まであった楯築神社のご神体としての神石は、毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれ、この弧帯文は、纏向遺跡の纏向石塚古墳から発掘された弧紋円盤と葬送儀礼で共通する。
 纏向石塚古墳は3世紀初頭に築造されたと言われ、日本最古の前方後円墳とされている。そんな時代にも吉備では、岡山県総社市秦に方墳派の勢力と円墳派の勢力が存在していた。方墳派は、一丁グロ古墳群で1号墳のように前方後方墳を。円墳派は、金子古墳群で10号墳が前方後円墳を。一丁グロ古墳群は38墳もあり、4世紀初頭から5世紀中頃まで築造された。金子古墳群は、14墳があり、その中には消滅天王日月銘三角縁四神四獣鏡してしまった円墳もあった。その姿がない2号墳(秦上沼古墳)からは、天王日月銘三角縁四神四獣鏡が発掘されている。卑弥呼が魏の皇帝から贈られた100面の銅鏡なのか。卑弥呼の三角縁神獣鏡というと、11面が4世紀初頭に築造された前方後方墳の備前車塚古墳から発見されている。
 これだけの古墳が古墳草創期から吉備に存在するのには、何故だろう。方墳は高句麗からの影響、円墳は新羅の影響と言われ、日本独自の前方後方墳或いは、前方後円墳が出来上がっていく。それと、三角縁神獣鏡にも敏感に反応していた。そんなことで、邪馬台国は吉備にあったという説を唱える人もいる。纏向地域だけでなく、大和にも三角縁神獣鏡が発見されている。吉備の人達は朝鮮半島に渡って、新羅の文化や人材を吉備に。また、3世紀初頭には、大和に移住してそれらの文化を伝え、渡来人とともに古墳の築造にあたった。ある程度、纏向を中心とした初期ヤマト王権が軌道に乗った段階、崇神天皇が四道将軍の一人、吉備津彦命に西道(中国地方)を任せた段階で、吉備に戻ってきた。たぶん、吉備津彦命は作られた人物で実際には、吉備出身の大王たちだったのだろう。
大神神社麻佐岐神社 吉備の人達が纏向地域で祭事を司っていたのは事実で、三輪山に宿る大神(大物主大神)を祀っていたように、吉備には最古神社として正木山の頂上に祀られている麻佐岐神社がある。一説には377年に創建され、大国主命を祭神としている。また、備前車塚古墳の麓に大神神社があり、この神社は平安時代初期にはすでに存在していた。三輪山の大神神社の分霊をこの地に。勿論、祭神は大物主大神である。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ