生物学で地球上にヒト科として登場するのは、700万年前のサヘラントロプス属でチンパンジー科から分かれた種と言われている。この種の発見は頭蓋骨だけで、ヒト科の要素である直立歩行が成されていたかどうかは、推測の境地でしかない。もし、直立歩行をしていたとすれば、ヒト科での最初の歩行ができる遺伝子を持っていたと考えられる。直立歩行できる染色体はどのようにして得られたのだろうか。染色体の組み替えは、ウイルス感染と異種との交配(交雑)から起きる。サヘラントロプスの場合、直立歩行できるようになったのは、交雑ではなく、ウイルス感染ではなかろうか。サヘラントロプスの脳の容積が約350~380ccだとされている。発見されたのは、中央アフリカのチャド湖。
サヘラントロプス自体は680万年前に食肉としていた哺乳類のウイルスによって絶滅したが、一部生き残ったサヘラントロプスは交雑によって、遺伝子の組み換えが行われ、脳の容積が500ccに達したアウストラロピテクスが400万年前に誕生した。日本では猿人と言われ、直立二足歩行ができるようになっていた。アウストラロピテクス系で最後のアウストラロピテクス・セディバが180万年前まで生存した。この種は、道具を使用した可能性がある。パラントロプス系は、パラントロプス・エチオピクスが270万年前から230万年前まで生息し、その後引き続いて120万年前まで生存していた。このことを考慮すると、アフリカには、遺伝子の違った猿人が200万年前代に存在していたことになり、交雑によって新種の猿人が誕生する可能性があった。
このようにアフリカで異種の猿人男女が出会い、性交を重ねる内に新種のヒトが誕生した。イギリス人類学者ルイス・リーキーは、1964年にタンザニア北部ンゴロンゴロ保全地域のオルドヴァイ渓谷から240万年前に生息していたホモ・ハビリスの化石(歯)を発見した。その後、頭蓋骨も、そしてヒト属のホモ・ハビリスと名付けられた。また、このオルドヴァイ渓谷から1959年に猿人であるアウストラロピテクス・ボイセイの頭蓋骨を発見していた。この地で猿人とヒトが共存していたことになる。アウストラロピテクス・ボイセイは115万年前まで生息していたので、生存期間が長かったホモ・エレクトスとの交雑も十分考えられる。
ホモ・エレクトスは長い生存期間に、アフリカを出てアジアに移動した人もいて、1891年にジャワ島トリニールで発見されたジャワ原人や中国北京の竜骨山の森林で1921年に発見された北京原人もホモ・エレクトス種に属している。その他に、18,000年前までインドネシアのフローレス島で生息していたフローレス人もホモ・エレクトス種に属しているとされている。ホモ・エレクトスは、80万年前からアフリカやヨーロッパで生息していたにネアンデルタール人や27万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスとの生存競争(狩猟獲得率)で敗れ、餓死者が増え7万年前に絶滅した。しかし、ネアンデルタール人やホモ・サピエンスの混血はヨーロッパやアジアにも存在していた。ホモ・エレクトスの遺伝子を持ったネアンデルタール人やホモ・サピエンスがいたことになる。ネアンデルタール人も2万年前代に姿を消してしまう。これは、ホモ・サピエンス・サピエンスとの混血が進むことにより、純粋のネアンデルタール人がいなくなったことかも知れない。純粋ではないが、64万年前にネアンデルタール人から枝分かれしたデニソワ人は、分岐した後、アジアを拠点にし、中央アジアから東アジアに移り、中国を南下し、東南アジアから西南太平洋のメラネシア(ソロモン諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島等)に移ったと言われ、メラネシアの先住民たちは純粋のデニソワ人の遺伝子を引き継いでいるかも知れない。
現在まで生き残ったホモ・サピエンス・サピエンスは、アフリカの中部から北西部で30万年前にホモ・エレクトスと多種の交雑で誕生したと思われ、アフリカで遺伝子の組み換えが行われ、7万年前から6万年前にY-染色体パプログループCTの分岐したDEとCFがアフリカを出た。その中で、DとCがアジアに向かった。その当時、アジアにはネアンデルタール人の一部とデニソワ人がまだ生息していた。そこで、DとCを持ったホモ・サピエンス・サピエンスは異種との交雑もあって、Dが日本人で38.8%を占めるD-M55となって日本に21,200年前に到達した。Cも異種との交雑を重ねて、12,000年前までに日本人が5%を所持するC-M8とC-M217として到達した。C-M217はモンゴル人や満州族に見られる。C-M8の経路は謎に包まれているが、C1がインドからインドネシア経由で東南アジアから北上して日本にたどり着いた。D-M55とC-M8が日本で縄文文化を築いた。日本では日本人を形成する上でY-染色体があり、俗に言う弥生人。この弥生人のパプログループは、OのO-M176とO-M122です。Oに成るまでかなりの分岐があり、それが中央アジアで行われた。元は、アフリカ出のCFのFから始まります。Fは48,000年前に誕生し、僅か1,000年の間に西アジアでNOの祖であるKを生み出します。このKは西アジアからシベリア辺りまで北上し、4万年前にNとOが分離し、Nはさらに北上し、Oは中国経由で南下して、東南アジアまで至った。この経路はまだこの時期には生息していたデニソワ人と同じであり、交雑もあったかも知れない。また、Oが東南アジアに至った時、パプログループCと出会い、遺伝子の組み換えが盛んに行われた。その結果、OはO-F75とO-M122に分かれ、O-F75はO-M268とO-M119に。O-M268から日本人で33.5%あるO-M176に染色体の組み替えが行われた。O-M119は日本人にも見られるが極少で、台湾人に多く見られる。また、日本人で16.7%あるO-M122からO-M7とO-M134に変化し、O-M7はミャオ族に見られ、O-M134はタイ人やチベット人にも見られ、O-M134から分かれたO-M117はネパール人にみられる。
現在まで生き残ったホモ・サピエンス・サピエンスは、アフリカの中部から北西部で30万年前にホモ・エレクトスと多種の交雑で誕生したと思われ、アフリカで遺伝子の組み換えが行われ、7万年前から6万年前にY-染色体パプログループCTの分岐したDEとCFがアフリカを出た。その中で、DとCがアジアに向かった。その当時、アジアにはネアンデルタール人の一部とデニソワ人がまだ生息していた。そこで、DとCを持ったホモ・サピエンス・サピエンスは異種との交雑もあって、Dが日本人で38.8%を占めるD-M55となって日本に21,200年前に到達した。Cも異種との交雑を重ねて、12,000年前までに日本人が5%を所持するC-M8とC-M217として到達した。C-M217はモンゴル人や満州族に見られる。C-M8の経路は謎に包まれているが、C1がインドからインドネシア経由で東南アジアから北上して日本にたどり着いた。D-M55とC-M8が日本で縄文文化を築いた。日本では日本人を形成する上でY-染色体があり、俗に言う弥生人。この弥生人のパプログループは、OのO-M176とO-M122です。Oに成るまでかなりの分岐があり、それが中央アジアで行われた。元は、アフリカ出のCFのFから始まります。Fは48,000年前に誕生し、僅か1,000年の間に西アジアでNOの祖であるKを生み出します。このKは西アジアからシベリア辺りまで北上し、4万年前にNとOが分離し、Nはさらに北上し、Oは中国経由で南下して、東南アジアまで至った。この経路はまだこの時期には生息していたデニソワ人と同じであり、交雑もあったかも知れない。また、Oが東南アジアに至った時、パプログループCと出会い、遺伝子の組み換えが盛んに行われた。その結果、OはO-F75とO-M122に分かれ、O-F75はO-M268とO-M119に。O-M268から日本人で33.5%あるO-M176に染色体の組み替えが行われた。O-M119は日本人にも見られるが極少で、台湾人に多く見られる。また、日本人で16.7%あるO-M122からO-M7とO-M134に変化し、O-M7はミャオ族に見られ、O-M134はタイ人やチベット人にも見られ、O-M134から分かれたO-M117はネパール人にみられる。
このように遺伝子の変化が異種との交雑によって行われ、現在の日本人が誕生したと思う。
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