いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代伝記小説「いにしえララバイ」 > 漢委奴国王印

第2部 漢委奴国王印 第1章 帰郷(1)
 
 イハレビコ達は、八ヶ月ぶりに筑紫の国に戻って来た。山田の宮のガリサミに会って、今回の旅について報告し、マラヒトを引き取り、ワタツミの豊の国に向かった。
 「マラヒト、ガリサミ様から教わった漢文の勉強、進んでいますか。」
 「若が、ガリサミ様から頂いた漢文の書を読み返しています。」
 「日向に帰ったら、私にも聞かせてもらえないか。」
 「分かりました。その代わり、旅の話を詳しく聞かせてください。」
 イハレビコは筑紫の国で、ガリサミから聞いた神代の話と、今回の旅で感じてきた天つ神と国つ神の話との比較もしたかった。また、ウマシマヂの祖先ニギハヤヒが筑紫の国遠賀川付近にいた事。そして、ニギハヤヒが遠賀川の土地を捨て、倭の国を目指した事に関心があった。
 「今回の旅で、ウマシマヂの部族が遠賀の集落にいたと。マラヒト聞いていないか。」
 「この間、遠賀のヒカレミ様がガリサミ様の所に来られて、遠賀の昔話をしておられました。」
 「それで。」
 「高句麗から渡ってきた部族がいまして、遠賀川の西側に住みつき、筑紫の国を荒らしまわったそうです。」
 「高句麗か。」
 「その部族が、ニギハヤヒの部族であったかは分かりません。」
 「その部族がその後、どのようになったかは、ヒカレミ様に会って聞いてみよう。」
 高句麗は、紀元前一世紀頃に中国東北地方の東方に建国し、七世紀に新羅と唐の連合軍に滅ぼされる中国の扶余地方と朝鮮半島の北部の国である。高句麗の民族は、紀元前七世紀から六世紀頃まで中国の河北省長城地帯にいたツングース系の (わい)と貊(はく)の民族で、紀元前六世紀から一世紀の間に、漢族・モンゴル族にこの地帯から中国東北地方に追いやられ、さらに中国の吉林省の西部から北朝鮮の北西部、韓国の江原道にかけて移動した。この民族は鉄器文化を持ち、優秀な金工鍛冶技術を持っていた。また、言語はアルタイ語族系のツングース諸語に属している。なお、一世紀頃に中国の扶余地方にいたこの民族の一部が馬韓に移住して、百済を建国している。
 民族と言語とは遺伝子的に関係が深く、言語には世界の代表的な三大言語(ウラル・アルタイ語族とインド・ヨーロッパ語族とアロフ・アジア語族)がある。ウラル・アルタイ語族は、ウラル語族(フィンランド語・ハンガリー語・エストニア語等)とアルタイ諸語族(ツングース諸語・モンゴル諸語・テュルク諸語・日本語族・朝鮮語)に分かれる。アルタイ諸語族の特徴はSVO型言語で、主語、目的語、動詞の順番で並んでいる。SOV型言語を持つ言語は、ドイツ語、オランダ語、日本語、琉球語、アイヌ語、朝鮮語、インド・イラン語派、アルメニア語、ドラヴィダ語、チベット・ミャンマー語派、アムハラ語、ナバ語、ケチュア語、アイマラ語、パスク語、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語等、その他に、ラテン語、サンスクリットもかなりの語順がこの型であり、フィンランド語やハンガリー語も一部の地域ではこの型である。また、中国語は、インド・ヨーロッパ語族と同じSVO型(主語、動詞、目的語)であるが、日本語は、中国語の漢字や一部の文法を取り入れている。
 イハレビコ達は山田の宮から遠賀川を渡り、ヒカレミの遠賀の集落に着いた。
 「イハレビコ様、アマテラス様にお目通りされましたか。」
 「五十鈴川で身を清めたら、清純な気持ちになって、アマテラス様に拝顔することができました。」
 「それはよかった。」
 「ヒカレミ様、伊勢の国に行く途中で、倭の国に寄りました。石上の集落にウマシマヂがいまして、倭の国をほぼ支配しているのですが、そのウマシマヂの祖先が遠賀川付近にいたと聞きましたが。」
 「ニギハヤヒのことだろう。ウマシマヂの祖父に当たるのかな。」
 ヒカレミは、イハレビコ達に獲りたての魚と貝を用意した。それから、ニギハヤヒの事を話はじめた。
 「ニギハヤヒの部族はツングース系のワイ族で、昔(紀元前二世紀頃)、中国の扶余地方に住んでいた。鉄器を作る金工鍛冶技術に優れたニギハヤヒの部族は、前漢や鮮卑(騎馬民族で南北時代の北魏を建国する)、 婁(ゆうろう・航海術を持った古代人)と戦い、負けて、扶余を離れ、鉄鉱石を求めて、朝鮮半島を南下し、この遠賀川の下流に辿り着いたそうだ。」
 「金工鍛冶技術と言えば、ワニの部族もいるのではないですか。」
 「そうだな。ワニの部族はニギハヤヒの部族より先に筑紫の国に辿り着いて、出雲の国に砂鉄が取れる事を知り、東の方へ行ってしまった。ニギハヤヒの部族は、ワニの部族を追っかけて来た形だな。」
 「遠賀川に着いたニギハヤヒは、それから、どのようになりました。」
 「ニギハヤヒはこの筑紫の国で、国家を樹立するのだと言って、私達の筑紫の国で戦いが頻繁に起こり、国が乱れた。」
 「ヒカレミ様が、年少の頃ですか。」
 「いや、まだ、生まれていない時の話だよ。それから、娜の津に品格のある高貴な青年が、また、沃沮(よくそ・朝鮮半島北部の咸鏡道(かんきょうどう)付近にいたワイ族)から渡って来た。その青年は、多分、沃沮の王室の子孫ではないか。ニギハヤヒはその王子を頭に据え、娜(奴)国を建国した。」
 「奴国。そんな国ありましたか。」
 「娜国は、筑紫の国のことですよ。漢の国に対する対外的な名称でしょうね。私達は、大君が政を治めてくれれば良い訳で、平穏に、稲作が出来れば良い訳ですから。」
 筑紫の国から、西暦五十七年に後漢の光武帝に使節団を送り、金印「漢委奴国王印」を授かった。その時の使節団の長が、倭の娜の国から来た大夫(わのなのくにからきただいふ)と発音して、挨拶したのですが、まだ、日本には文字がない時代であるから、後漢の役人は「わ」を倭(委)、「な」を奴にしたのでしょう。
 中国では、北部に匈奴(中央アジアの北部にいた遊牧民族)がおり、秦の始皇帝が万里の長城を築いたのも、匈奴の侵略から守るためであった。この匈奴の奴という漢字は中国が付けた民族名であり、高句麗が県名に絶奴、順奴、潅奴、涓奴の奴という漢字を付けている。また、日本でも卑弥呼の時代に邪馬台国の南東方向に狗奴(くな)国があったと魏史倭人伝に記載されている。実際の処、狗奴国と言う名の国があったかは分からない。
 「それから、ニギハヤヒは、どうなったのですか。」
 「私が年少の頃、筑紫の国から出て行ってしまった。ニギハヤヒの子孫が、倭の国にいましたか。」
 「沃沮の王子の子孫が、今の筑紫の国の大君ですか。」
 「沃沮のワイ族の出身だけあって、国作りに手腕があるから。」
 「どんな手腕があるのですか。」
 「沃沮のワイ族は、韓の国の北東部の日本海岸沿いに住んでいただけあって、航海術に優れていて、遼東半島まで船で行き、漢の国に使者大夫を送っているとか。やはり、国を失ったものは、建国した国を大事にするものですね。私達は、平和で平穏な筑紫の国にいるので、政にはうといので。」
 「大君は、訶志比の宮に居られるのですよね。落ち着いたら、一度、訶志比の宮に行って、お会いしましょう。」
 イハレビコ達は、ヒカレミに別れを告げて、ワタツミがいる豊の国の臼杵の集落に向かった。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第2部 漢委奴国王印  第1章 帰郷(2)
 
 「若、ニギハヤヒは何故、筑紫の国から姿を消したのでしょう。」
 「タシト、私も疑問に思っている。」
 「ニギハヤヒには、何か目的があったはずです。」
 「マラヒトはその事について、如何だ。」
 「ガリサミ様の所へ、ヒカレミ様が来られた時に、ニギハヤヒの話でガリサミ様が天の岩船かと言われた事を思い出しました。」
 「天の岩船。」
 「それにしても、漢の国や韓の国から渡って来ているな。」
 「そんなに良い国なのですかね。私達の国が。」
 「やって来たって、よそ者扱いをしないし、第一、政には関心がないようだし。一部の者だけでやっとけばよいと言う感じかな。」
 「政に関心があるのは一部の者だけなのですね。」
 「よそ者が来て、困る者だけだ。よそ者が来て、いろいろな技術を伝えてくれるのは、ありがたいことだ。」
 「今回、旅をして分かった事は、集落はたくさんあるけれど、必ずしも、纏まっていないことです。」
 「だから、アマテラス様が私に、豊葦原の瑞穂の国を治めよとの仰せなのだろう。」
 「あ、そうか、ニギハヤヒは豊葦原の瑞穂の国を治めるため、筑紫の国を出て、倭の国に行ったのではないですか。」
 「そうかも知れないな。」
 イハレビコ達は、遠賀の集落から沿岸線に沿って進み、豊の国に入り、足一騰宮を通って、臼杵の集落に入った。
 「イハレビコ君、よく戻られた。」
 「アマテラス様に、草薙の剣を奉納してまいりました。」
 「こちらの居間に入られよ。ラサトモも来ておるからな。」
 「アマテラス様から、何かお告げがあったかね。」
 「お爺様、アマテラス様は、私に豊葦原の瑞穂の国を治めるようにと。」
 「豊葦原の瑞穂の国と。水と稲作を中心に、生活をしている国々のことだな。」
 「豊葦原の瑞穂の国とは、倭の国の事ではないのですか。」
 「倭の国も、瑞穂の国の一部じゃ。」
 「お爺様にお会いする前に、遠賀の集落のヒカレミ様に会って、ニギハヤヒの話を聞いてきました。ニギハヤヒの子孫ウマシマヂが倭の国にいるのです。」
 「ニギハヤヒか。漢の国の扶余から来たワイの部族だな。」
 「倭の国には、他にも韓の国から来た部族もいました。」
 「確かに、倭の国は瑞穂の国の中心的な国だから。」
 「倭の国にサルタビコの部族がいて、ニギハヤヒが倭の国にやって来て、サルタビコのニワ一族と戦って、ニギハヤヒに倭の国を追い出され、サルタビコの部族が各地に散らばったと言う話もありました。」
 「サルタビコか。私達の部族より先にこの地に辿り着いた部族や。」
 「え、お爺様の部族もこの地に。」
 「昔の事だが。漢の国に楚(河南省の南陽の周辺)呉(江蘇省の上海の周辺)の国と越(淅江省の杭州の周辺)の国があって、呉が越に滅ぼされ、越が楚に滅ぼされた頃にこの地に渡って来た。」
 「サルタビコの部族は。」
 「キン族と言って、台湾やそれより南の島からこの地に渡って来たのさ。日向の国の隼人の集落の部族もキン族ですよ。」
 「倭の国に宇陀の集落があるのですが、その部族もキン族だと聞きましたが。」
 「多分、台湾やそれより南の島から韓の国の南端に渡ったキン族が、筑紫の国に渡って来たのだろう。」
 「伊勢の国の丹生の集落に行った時、オオヒルメとワカルヒメ姉妹の話を聞いたのですが。」
 「オオヒルメ様ですか。若君の祖先に当られる方ですね。」
 「オオヒルメがアマテラス様ですか。」
 「オオヒルメとワカルヒメ姉妹も、私達と同族でね。楚の国に越の国が滅ぼされた時の呉の国出身のヒメで、私達と一緒にこの地に渡って来たのです。」
 日本のことわざに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とか呉越同船とかがあるが、中国の春秋時代に呉の夫差と越の勾践の戦いや越が楚に滅ぼされる前に、越と呉が力を合わせて戦った逸話から出た故事成語である。また、北陸地方の事を昔は越後とか言われたのも、日本の弥生時代に中国の杭州付近から渡って来た部族がいたと言う話もまんだら嘘ではない。
 「お爺様、いろいろな話を聞かせて戴いてありがとうございました。疑問に思っていた事が分かりました。」
 「イハレビコ君、日向に帰られても、お爺の所へ来なさい。また、ウサツヒコ大君やウサツヒメ様にもお会いなされよ。必ず、力になって戴けるから。」
 イハレビコ達はワタツミに別れを告げ、祖母山の谷間を通って、アジキの集落に出た。そして、アジキがイハレビコ達を出迎え、アジキの集落で一夜を過ごした。早朝、いよいよ、大君のいる高千穂の宮に向かった。
 「大君、ただ今、戻ってまいりました。」
 「イハレビコ、どこまで行っていたのだ。心配しておった。」
 「伊勢の国まで行き、アマテラス様に拝顔してまいりました。」
 「アマテラス様に会って来たか。」
 「旅の話は、後日に聴こう。旅の疲れを取りなされ。」
 イハレビコは日向に帰り、今まで張り詰めていた気持ちが、穏やかになるのを感じていた。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第2部 漢委奴国王印  第2章 若君結婚
 
 イハレビコがアマテラス大御神に草薙の剣を奉納する旅から、日向の国に帰って来たのは、稲作の用意をする時期で、気候も穏やかになってきた頃である。イハレビコは高千穂の宮で、旅の疲れを癒すため、寝床に付き、早朝、大君と母君に旅の報告をするため、大君の居間を訪れた。
 「イハレビコ、旅の疲れはとれたか。」
 「やはり、高千穂の宮は心が和みます。」
 「アマテラス様の御神体は、この高千穂の宮にも祀られているが、我が祖父ヒコホノニニギ様が、アメノウズメに命じて、伊勢の国でアマテラス様を祀るように命じなされたのじゃ。」
 「伊勢の国の丹生の集落に行った時、クレヨウサカビメが居られて、アマテラス様は漢の国から渡って来たオオヒルメ様だと言われました。」
 「そうか、オオヒルメ様の話を聞いたか。オオヒルメ様は、私達の遠い昔の祖先に当られる方で、隼人の集落の南西に笠沙の集落があって、その地に越の国から渡って来られた。そして、高千穂で、祖先の大君と仲睦まじくなられたと聞いている。オオヒルメ様は貴賓があり、お姿も端整に整われていたので、アマテラス様の生まれ変わりだと。」
 「そうでしたか。」
 「アマテラス様は、私達の部族の祖先神だからな。ずうっと昔から、お日さんの神として崇められているのだ。」
 「よく分かりました。」
 「そうだ、イハレビコが旅をしている間に、そちの住居を建てといたので、これからはそこで暮らせ。また、イグラの子でミチノオミ(大伴氏の祖)とオホクメ(久米氏の祖)を使わす事にした。」
 「ありがとうございます。」
 ミチノオミとオホクメは、イハレビコが幼少の頃、ヨホトネに預けられていた時の幼馴染であった。イハレビコは大君から与えられた住居に着いた時、馬に乗ってミチノオミとオホクメがやって来た。
 「若、父イグラから、旅の話を聞きました。お疲れでしょう。」
 「いや、もう大丈夫。大君に朝、お会いしてそち達の事を聞いた。早速、来てくれたのか。」
 「ヨホトネの爺が、早く行けというので、馬を用意してくれました。若の白馬もここに連れて来ました。」
 「良き馬じゃ。早速、乗ってみよう。付いてまいれ。」
 「若、何処へ行くのですか。」
 「笠沙の集落じゃ。」
 イハレビコ達は、以前、熊曾と戦った鹿久山の麓を通り、大平川を渡って、隼人の集落に着いた。
 「ミチノオミ、ワタツミのお爺や大君が言っているオオヒルメ様が、越の国から渡ってきて、笠沙の集落に着いたと言う話を聞いて行ってみたくなった。」
 「確か、笠沙の集落には前大君アマツヒコヒコホホデミ様の兄上ホデリ様の子孫がおられるのではないですか。」
 「阿多の小椅の君の事だな。」
 古事記には、イハレビコの曾祖父アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ(天つ神)が笠沙の岬で、オホヤマツミ(国つ神)の子コノハナノサクヤビメやイハナガヒメと出会う話があり、コノハナノサクヤビメが火の中で子を生み、火が燃え始めた時の子がホデリ、火が燃え滾っている時に生まれた子がホスセリ、火が消えてから生まれた子がホヲリ(ヒコホノニニギ)である。ホデリはウミサチヒコとも呼ばれ、魚介類を狩りし、ホヲリはヤマサチヒコとも呼ばれ、獣類を狩りしていた。ホヲリは兄の釣り針を借りて、魚を釣っていたところ、釣り針をなくしてしまった。そこで、シホツチ(潮の神)が出てきて、ワタツミの宮に竹の船で行き、ワタツミやトヨタマビメと会い、釣り針をみつけてもらう神話がある。このホデリの子孫が阿多の小椅の君(阿多氏の祖)である。
 「阿多の小椅の君は、ホデリ様の子孫だと言われているのだが。ワタツミの爺は隼人の集落にワニ族の部族がいると言っていたし、笠沙の集落もワニ族かも。ひょっとすると、私達もワニ族の部族かも知れない。」
 「そんな事を調べに、隼人の集落へ来たのですか。」
 「いや、ただ隼人の集落や笠沙の集落がどんな処か知りたかっただけだ。」
 イハレビコ達が隼人の集落を散策していると、がっちりした体格の男が近寄って来た。
 「お主ら、この辺では見かけないやつらだな。何処の者だ。」
 「日向の国の高千穂の宮から来た者です。今から、遠い親戚に当る阿多の小椅の君に会うため、笠沙の集落に行く途中です。」
 「笠沙の阿多の君に会いに行くのか。」
 「阿多の小椅の君をご存知ですか。」
 「この地は桜島があって、稲作をしているのだが、火山灰でなかなか育たない。苦労していると阿多の君が来て、魚の取り方や塩の作り方を教えてくれた恩人だ。」
 鹿児島県は薩摩の国と大隈の国と言われ、男気が強く、琢磨しい事から、男性の事を薩摩隼人とも呼ばれた。薩摩の国や大隈の国と言われる前は、吾田(阿多)の国と呼ばれた事もある。ヤマトタケルの時代にはこの地方の事を古事記では熊曾、日本書記では熊襲と言われ、平安時代以降、隼人と呼ばれるようになった。鹿児島の方言は、一説にはオーストロネシア語族系とも言われている事から、ワニ族ではないかと推測される。
 「そうですか。この辺りでは、稲作が育たないのですか。」
 「そのかわり、粟や芋等を植えている。」
 イハレビコ達は隼人の集落を後にして、笠沙の集落に向かい、笠沙の集落の浜辺に着いたのは、夕陽が野間岳の所まで来ていた。浜辺で、海藻類を触っているヒメに出くわした。
 「今、海藻を集められて、如何されるのですか。」
 「今日は、朝から海藻を海から取ってきて、海水を海藻に掛けて、乾燥させ、また、海水を掛けて、乾燥させての繰り返しをしていたのです。夕暮も近づいて来ましたので、海藻を片付けているところです。」
 「この海藻を集めて、どのようにされるのですか。」
 「土器に入れて、煮るのです。土器の水分がなくなれば、土器の底に塩の結晶が残ります。」
 「塩を作って、居られたのですか。」
 「私は、日向の国のイハレビコです。」
 「兄、阿多の小椅の君の妹、アヒラヒメです。日向の若君でイハレビコ様が居られる事は、兄から聞いています。私達の住居まで、お越しください。」
 これが、イハレビコとアヒラヒメの最初の出会いである。
 「兄上様、片浦の浜から、イハレビコ様をお連れしました。」
 「日向の国の若君か。お通ししろ。」
 「これは、若君、ようこそ笠沙の集落まで来られました。我が居間でお泊りください。お酒も踊りも用意します。」
 鹿児島には、酒造技術があったみたいで、あまり米が取れなかったいにしえの時代では、粟等で焼酎を作っていたようです。この技術も台湾以南の島国から。踊りは、隼人舞と言い、ホヲリ(ヤマサチヒコ・ソラツヒコ)がワタツミから与えられた塩盈珠(しおみつたま・満ち潮になる珠)と塩乾珠(しおふるたま・引き潮になる珠)を使って、ホデリ(ウミサチヒコ)を困らせ、最後にホヲリに従って、その悔しい姿を舞にしたと言われている。
 イハレビコ達は、焼酎を嗜み、アヒラヒメの舞を見て楽しんだ。そして、翌朝、阿多の小椅の君に別れを告げ、野間岳に登る事にした。
 「ミチノオミ、この北の海の向こうに韓の国が、そして、西の向こうには漢の国があるのだ。」
 「若、海の向こうにそんな国があるのですか。」
 「いずれ、行ってみようと思う。また、この山へ来ようぜ。」
 「また、この山に来て、アヒラヒメに会おうぜじゃないのですか。」
 「ばかなことを言うな。」
 イハレビコは、アヒラヒメの舞や言葉遣いが気になったようである。それから、笠沙の集落に足を運ぶことが多くなった。そして、片浦の浜辺をふたりで走り回ったり、恋文を交わしたりした。
 イハレビコの恋歌の内容を紹介しますと。
   片浦の浜にワカサギが飛んで来て、砂浜に足跡が付きました。その足跡が残    ればよいのに、浜風が吹いて消えてしまいます。
 アヒラヒメの返し歌の内容は。
   片浦の浜の桂木が夕暮になると、浜風でひゅーひゅーと音がします。音が治ま   ると静けさばかりが身に浸みます。
 イハレビコが笠沙の集落に頻繁に通うてい る噂を聞いた大君は、イハレビコに聞きただした。
  「イハレビコ、そちはこの頃、笠沙の集落に行っておるそうだが。」
 「アヒラヒメに会いに行っています。」
 「そうか、アヒラヒメを嫁に貰うか。」
 「お願いします。」
 大君は早速、コナキネを呼んだ。
 「コナキネ、そちに笠沙の集落の阿多の小椅の君に会ってきてくれないか。」
 「大君、どうかなされたのですか。」
 「イハレビコに嫁を取らそうと思う。」
 「若の嫁ですか。」
 「阿多のアヒラヒメだ。」
 コナキネは、若君が阿多の小椅の君の妹アヒラヒメを嫁に貰うため、大君の詔を用意し、笠沙の集落に向かった。
 いにしえの時代の婚姻制度は、その部族によって違っていた。イハレビコの部族では父系家族制度をとり、一夫多妻制度を採っていたが、ニフの部族では辰砂の採取や金工鍛冶技術の施工のため、危険性を伴い、死者も多数出たので、父系家族制度を採用していると、家系が絶えてしまう事から、金工鍛冶技術の伝道は養子と言う形で行ったため、母系家族制度を採用していた。また、日本人は中国の周の時代(紀元前十一世紀から八世紀頃・弥生時代初期から前期頃)には、倭人として認められていた。そして、日本の九州南部に台湾より南方の島々から日本に渡ってきていたし、中国の春秋時代(紀元前四世紀から一世紀頃・弥生時代後期)には、鉄を使う倭人として認められ、揚子江南部(呉越地方)からも渡って来た。また、九州北部には、朝鮮半島や遼東半島や山東半島から、日本の本州北部日本海側には、朝鮮半島北部、長春や哈爾浜等の中国の吉林省や黒竜江省から、北海道には、カムチャッカ半島やウラジオストック等のシベリア南部から渡って来て、気候等の環境のよい、稲作がよくできる北九州や近畿地方が文化や政治の中心になった。このように、弥生時代には日本人は雑種の民族となっていった。だから、日本の家族形態や婚姻形態は、多種多様であった。言語も北方のアルタイ語族系のツングース諸語と南方のオーストロネシア語族の混合である。
 コナキネは、阿多の小椅の君の玄関先に現われた。そして、次のように叫んだ。
 「我は、日向の国のコナキネでござる。大君から、詔をお伝えするため、阿多の小椅の君にお会いしたい。」
 「これはコナキネ様、どうぞお入りください。」
 「日向の国の大君は、阿多の小椅の君の妹君アヒラヒメをイハレビコ君の嫁に貰いたいと仰せだ。」
 「分かりました。用意ができしだい、アヒラヒメを高千穂の宮に行かせます。」
 コナキネは役目を終え、高千穂の宮に帰って行った。それから、阿多の小椅の君はアヒラヒメを呼んだ。
 「ヒメ、今、日向の国の大君からお達しがあった。イハレビコ君に嫁ぎなさい。」
 「兄上様、いろいろご心配をお掛けしました。喜んで嫁ぎます。」
 数日後、アヒラヒメは輿に担がれ、頭に勾玉をかぶり、高千穂の宮に現われた。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第2部 漢委奴国王印  第3章 稲作
 
 イハレビコの新居(宮崎県都城市庄内町付近)にアヒラヒメが嫁いできて、イハレビコは大君から、奴婢(ぬひ・賎民)タジロとヒカメを下働きに、それと水田(庄内川一帯)を与えられた。
 大化の改新により、律令制を基に階級制度ができ、奴婢が存在したが、いにしえの時代もすでに、階級制度が芽生えていた。農耕社会では、農業を営んでいる民を良民と言い、農耕作業に失敗し、土地を手放した民や戦で捕虜になった民を賎民と言った。賎民はその当時、五から十パーセントと言われている。奴婢は男を奴と言い、女を婢と言った。筑紫の国(奴国)が後漢の光武帝に奴婢を数十人献上して、漢委奴国王印を頂戴した話やその後に、肥の国(面土国)の帥升(すいしょう)が後漢の安帝に生口(戦争捕虜)を百六十人献上していると、「後漢書東夷伝」に記載されている。
 稲にはアフリカイネとアジアイネがあり、アジアイネにはインディカイネとジャボニカイネがあり、ジャボニカイネには熱帯ジャボニカと温帯ジャボニカがある。野生のジャボニカが人工的に栽培されるようになったのは、一万年以上前と言われ、インドネシアやフイリピン等の東南アジアが起源とされている。また、ジャボニカの類似種が中国の雲南省で見つかっている。水稲は五千年前の頃から、中国の揚子江下流の淅江省や江蘇省付近で行われるようになった。その頃の日本は、竪穴式住居で、狩りを中心に生活していた。縄文時代前期の最大級の竪穴式住居は日向の国、鹿児島県霧島市の上野原遺跡に四十六基、鹿児島市の加栗山遺跡に十六基がある。そして、縄文時代後期(三千五百年前の頃)の陸稲(熱帯ジャボニカ)が吉備の国、岡山県の南溝手遺跡や津島岡大遺跡で発見され、縄文時代晩期・弥生時代早期(三千年前の頃)の水稲(温帯ジャボニカ)が筑紫の国、福岡県の板付遺跡や野多目遺跡や吉備の国、岡山県の津島江道遺跡で発見されている。日本の稲は温帯ジャボニカであるが、縄文時代前期、中期には稲は存在しないで、縄文時代後期から弥生時代前期(三千年前から二千五百年前の頃)に、中国の山東半島、遼東半島から朝鮮半島を経たルートと揚子江下流の江蘇省・浙江省のルートと台湾から南方の島々のルートから渡って来た。
 イハレビコとアヒラヒメが新居で暮らし始めたのは、霧島山系に桜が咲く頃であった。大君から頂いた水田も、タジロとヒカメが管理し、お田植えの準備に掛かっていた。気候も穏やかになり、平穏な日々を暮らしていた二人のところにミチノオミがやって来た。
 「若、大君が御田祭に参加するようにと、仰せです。」
 「御田祭か。アヒラヒメも行くか。」
 「姫も行かれますか。御田祭には、我ら久米一族のお田植踊りもありますし、日向の国の部族の長や姫君も来られますので、参加してください。」
 「私も、お田植踊りを舞いましょうか。」
 「それはよい。ヒメ用意しなさい。」
 現在の天皇家の行事には、四方拝(しほうはい・元旦の早朝に宮中で行われる一年最初の儀式)、歳旦祭(さいたんさい・四方拝の後、年の初めを祝う儀式)、元始祭(げんしさい・一月三日に皇族が集まって、皇位の元始を祝う儀式)、先帝祭、紀元節祭(二月十一日旧暦の正月元旦に神武天皇が即位した日を祝う儀式)、祈年祭(きねんさい・二月十七日・旧暦二月四日に一年の五穀豊穣を祈る儀式)、皇霊祭(春分の日に春季皇霊祭、秋分の日に秋季皇霊祭。歴代天皇や主たる皇族の忌日を祈る儀式)、神武天皇祭(四月三日旧暦三月十一日に神武天皇が崩御された日にちなんでの儀式)、大祓(おおはらえ・六月三十日に夏越の祓、十二月三十一日の年越の祓。除災行事)、神嘗祭(かんなめのまつり・十月十七日旧暦九月十七日にその年に獲れた新穀を天照大御神に奉る儀式)、鎮魂祭(ちんこんさい・十一月二十二日冬至の日に天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式)、招魂祭(しょうこんのまつり・陰陽道や道教の祭祀)、新嘗祭(にいなめのまつり・十一月二十三日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する儀式)、大嘗祭(おおにえのまつり・天皇が即位して、最初の新嘗祭。即位の儀式)、天長節祭(今上天皇の誕生日を祝う儀式)がある。
 イハレビコの時代には、現在の天皇家の祭事はなかったようです。ただ、イハレビコの曾祖父アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニキがアマテラス大御神から豊葦原の瑞穂の国を治めよと、稲の種を頂戴して、高千穂に降り立ったのですから、新嘗祭はあったようです。
 「ミコ、御田祭に竹で作った笠をかぶって行ってよろしいですか。」
 「ヒメは、まだ皆に会わしていないのに。なぜ、顔を隠す。」
 「ですから、初めての方に笠を脱いで、挨拶をするのです。」
 「そうか。明日にでも、タジロに裏山の竹藪から、竹を取って来させよう。」
 「ありがとうございます。竹細工して、笠を作ります。」
 アヒラヒメは、絹織物の布を纏い、頭には竹細工された笠をかぶって、イハレビコの後から高千穂の宮に入った。
 「アヒラヒメ、よくぞ来られた。入られよ。」
 「大君様、婚礼以来、ご挨拶にお寄りしないですいません。」
 「硬い挨拶はよいぞ。イハレビコにはもったいないぐらいだ。」
 「イツセの兄は来られているのですか。」
 「みんな、来て居るぞ。今宵は、みんなで宴をしよう。」
 「ミコ、母上に挨拶に行きましょう。」
 「そうだな。」
 「母上、アヒラヒメを連れてきました。」
 「アヒラヒメ、入られよ。あれ、少しお腹が大きいようだな。」
 「まあ、母上、イハレビコ様の子がいます。」
 「体に気をつけなさいよ。」
 イハレビコとアヒラヒメにはその後、タギシミミとキスミミが生まれる事になる。タギシミミは、イハレビコが大和朝廷を樹立して、イハレビコが崩御した時に、跡継ぎ問題でイスケヨリヒメから生まれた子カムヌナカハミミと争い、敗れる事になる。
 「みんな、揃うたな。宴を始めよう。」
 「イハレビコ、よき嫁をもらったな。」
 「兄上、アヒラヒメは。」
 「アヒラヒメに子が授かったようですよ。」
 「母上までも。イハレビコを。」
 「めでたい事だ。また、ひとり、わしの孫ができる。」
 「大君から頂いた水田、今、苗代を作っているところでして、順調に進んでいます。」
 「それは良かった。苗代が出来ても、水路が大事だぞ。なあ、イツセ。」
 「イハレビコ、そちの庄内の集落には、庄内川が流れておろう。その川から水を引くのだが、水田に水が流れるように水田を低くしないとだめなのだぞ。」
 「私達の祖先が、アマテラス様に頂いた稲の種を絶やさないようにしなければならないのだ。」
 「よく分かります。大君から頂戴した水田を広げるため、開墾しようと思っています。そのためには、今使っている鍬ではらちがあきません。」
 「鍬がだめだと言うのか。」
 「そうです。鍬です。それも鉄の鍬がいります。」
 「鉄か。剣には鉄を使っておるが、高価なものだぞ。その鉄を鍬に。」
 「旅をして、出雲の国や吉備の国等を見てきましたが、やはり鉄です。これからの戦をするにも、剣や矢尻は鉄で作らないとだめです。」
 「イハレビコの言うことはよく分かった。さあて、如何したらよいかの。」
 イハレビコも大君に鉄の事を進言したのですが、如何してよいものか、検討が付かなかった。イハレビコが大和朝廷を樹立するために東征したのも、この鉄の問題があったからかもしれない。
 「さあ、明日は御田祭だ。この辺でお開きにしよう。今日は、高千穂の宮でゆっくりしてくれ。」
 御田祭の当日、イハレビコが目を覚ますと、アヒラヒメがそわそわしていた。
 「ヒメ、どうしたのだ。」
 「ミコ、兄上がこの高千穂の宮に大君の誘いで、来られると。」
 「阿多の小椅の君が。大君もやるな。もう、阿多の部族を見方に入れたか。」
 イハレビコとアヒラヒメが御田祭の場所に行くと、松明や薪が置かれ、篝火の用意ができ、舞を踊る舞台が設置され、イグラを始めとする重臣の他、各集落の長達が控えていた。正面には、大君の横に阿多の小椅の君が座る場所があった。大君と阿多の小椅の君が座ると、御田祭がはじまった。
 御田祭の最初は、薪に火を付け、松明に火を付け、篝火に火を付けて、巫女が登場し、呪文を唱え、それが終わると久米一族によるお田植踊りと音曲が始まった。踊りが終わり、篝火が消えたところで、御田祭が終わります。
 皇室の行事には、太鼓や笛を鳴らして、舞を踊る雅楽が演じられるが、最古の舞に久米舞があり、神武天皇が大和朝廷を樹立した時に、神武天皇が詠んだ歌に合わせて舞ったのが久米舞だと言われている。雅楽の発祥の地は中国とされ、平安時代に唐から輸入されたものである。しかし、大和歌(和歌、倭歌、倭詩)に合わせて、雅楽を舞ったのが、ピッタリあったのだろう。イハレビコの時代に、お田植踊りや隼人踊り等があった事は、否定できない。
 御田祭が終わって、高千穂の宮に戻った時、大君がイハレビコに声を掛けた。
 「イハレビコ、筑紫の国で不穏な動きがある事を知っているか。」
 「漢の国に使者を送っている話ですか。」
 「そうだ。私達の瑞穂の国の代表だと言って、漢の国と交渉しているようだ。許す訳にはいかない。」
 「遠賀の集落のヒカレミ様から聞いた事があります。確か、筑紫の国の大君は沃沮のワイ族の出身ですよね。」
 「そうか。イハレビコ、稲の収穫が終わったら、筑紫の国に行って貰えないか。」
 「分かりました。」
 イハレビコとアヒラヒメは、大君と母上に挨拶して、高千穂の宮をあとにした。
 「ヒメ、兄上とお話が出来たか。」
 「はい、妊娠した事を報告しました。体には気を付けるようにと。」
 「そうか。体を大事にしろと。」
 庄内の集落に帰ったイハレビコは、稲作に従事し、水田に水を張り、苗代を田植えして、秋には、稲穂が垂れ下がり、収穫の時期に来た。イハレビコは、稲作をしながら、鉄の事や筑紫の国の事を考えていた。
 稲の収穫が終わった頃、イハレビコとアヒラヒメの間に第一子が誕生した。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第2部 漢委奴国王印 第4章 八幡神(1)
 
 イハレビコの集落、庄内では稲かりも終えた頃、大君から新嘗祭についての打ち合わせがあるので、高千穂の宮に来るようにと、お達しがあった。
 イハレビコ、ここへ座れと、大君が諭した。イハレビコは、日向の国の政に参加するのは初めてであった。新嘗祭の打ち合わせの進行役を勤めたのは、長老のイグラで、祭祀を司るコナキネ、久米の部族のヨホトネ、各集落の長が集まっていた。
 「皆さん、稲の収穫は順調に進んでいますか。」
 「桜島の噴火が七月にあって、その影響で日照りが少なかった。」
 「アラト様、確かに桜島の噴火は堪えましたね。大淀川の水質には影響なかったですか。」
 「今年の春先に、例年に比べて、雨がかなり降ったので、大丈夫でした。」
 「アギシ様の集落は、どうでした。」
 「今年は、阿蘇山の噴火もなく、日照り続きで豊作でした。」
 「そうですか。それでは、豊の国も豊作だったのですね。」
 「豊の国の宇佐の集落では、八幡神に稲穂を奉納する祭りがあります。」
 豊の国では、八幡神は元々農業神として祀られていました。記紀には、イザナキが我が子、アマテラスに高天の原、ツクヨミに夜の食国、スサノヲに海原を治めるようにと、仰せになったが、スサノヲが海原を治めるのを嫌がって、根の堅州の国に行きたいと言って、アマテラスの高天の原で泣き喚いていた。そこで、アマテラスがスサノヲの心の清らかさを諮るのに、ウケヒをすることになり、スサノヲの十拳の剣を取り上げて、口の中に入れ、噛み砕いて、噴出した時に生まれたのがタギリビメ(オキツシマヒメ)、イチキシマヒメ(サヨリビメ)、タキツヒメの女神が誕生した。そして、スサノヲはアマテラスの八尺の勾玉を砕いて、吐き出したのがイハレビコの祖先神アサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネイクツヒコネ、クマノクスヒである。
 この三女神は、豊の国の宇佐嶋(御許山)に降り立ったとあり、宇佐で八幡神として祀られている他、宗像三女神(むなかたさんじょじん)とも言い、玄海灘の航海を守ってくれる神である。また、朝鮮半島の南方の済州島の神話に、済州島の祖先神(高、梁、夫の兄弟)が東国(日本)から、木の箱が流れてきて、開けてみると、三女神と馬が入っていた。そして、済州島の神はその女神と結ばれた。この三女神が宗像三女神だと言う。
 八幡神と名づけられたのは、神功皇后の三韓征伐で、対馬に寄った時に、八本の旗を掲げて、三女神に帰依した事や応神天皇の御魂の一部を宇佐神宮に供えた時に、八本の旗を掲げた事から来ている。
 「さて、新嘗祭の準備だが、式典の用意はコナキネ様にお願いします。今年は、広渡のヤコメ様の集落で行いたいと思います。依存はないですか。」
 「大君、他に何かございませんか。」
 「新嘗祭は、一年の行事の中で、一番大事な祭事なので、みんな協力して行ってください。それから、豊の国の話が出たが、ウサツヒコ大君から豊作を祝う祭事の招待状が来ている。イハレビコを行かせようと思うが、異議はないか。」
 「異議なし。」
 新嘗祭の打ち合わせが終わり、皆が退席した後、大君がイハレビコを呼び止めた。
 「イハレビコ、豊の国のウサツヒコ大君にお会いした後、筑紫の国に行って、娜国の状況を探ってきてくれないか。」
 「分かりました。ミチノオミとオホクメを連れて行ってきます。」
 イハレビコは、豊の国のウサツヒコやウサツヒメに合うのを楽しみに、ミチノオミとオホクメを引き連れて馬に乗り、稲刈りをタジロとヒカメに任せて、庄内の集落を後にした。
 「若、これから、先ずは豊の国のワタツミ様まで行かれるのですか。」
 「お爺様にお会いして、足一騰宮の状況をお聞きしようと思う。」
 「それでしたら、海岸沿いに馬を走らせ、五十鈴の集落のカラヤ様の所で一泊しましょう。」
 五十鈴川付近(宮崎県東臼杵郡門川町)のカラヤの集落は、日向の国でも、有数の田園地帯で、米の収穫は日向の国のトップクラスでした。カラヤの部族は、イハレビコの祖先で、中国の越の国から渡って来たオオヒルメの部族の末柄で、イハレビコの部族が山麓で稲作をしているのに対して、最新の土木工事も含めて、水田作りから、脱穀技術まで優れていた。しかし、軍事力については、イハレビコの部族に頼らなければならなかった。この五十鈴の集落の海岸線上に浮かぶ枇榔島(びろうじま)は、神武天皇の軍船が枇榔島付近でくじらを仕留めようとした時、そのくじらが美女に変身したと言う伝説がある。
 イハレビコ達は、五十鈴川下流に着き、馬上から西の山並みや東の海岸線を眺めた。
 「ミチノオミ、この西北の山の向こうにアギシ様の集落があり、その向こうに阿蘇山があるのだ。」
 「阿蘇山の西には、肥の国がありますね。そして、阿蘇山の南、丁度、西の山の向こうに国見岳があります。その山録には硬い鉱石(ヒスイ)が取れると言われています。」
 「タシトからも聞いたことがある。」
 イハレビコは西の山並みを見ながら、鉄鉱石の事を考えていた。アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ大君が亡くなってから、高千穂の宮をアジキの集落に移し、本格的に鉄鉱石の採取と製鉄に取り組んでいく。そして、五十鈴川の下流の門川湾に軍船を浮かべる事になる。
 「若、よく来られた。どうぞお入りください。居間に食事を用意しています。」
 「カラヤ様、稲穂がよく茂っていますね。今年も、豊作のようですね。」
 「この辺りは、日照りもよく、水源も豊富で、土壌もよいですからね。」
 「田を耕すのに、何を使っていますか。」
 「裏山の向こうに国見岳がありまして、そこで、硬い石がとれるので、その石を鍬等に使っています。」
 「やはり、国見岳か。」
 イハレビコ達は、早朝、門川湾からの日の出を見ながら、カラヤの集落を出発し、ワタツミのいる臼杵の集落に向かった。そして、五ヶ瀬川を渡った頃、イハレビコは回りを見渡した。
 「ミチノオミ、この辺り、まだ、稲穂が少ないではないか。」
 「土を耕し、水路を整備すれば、よき水田になるでしょうね。豊の国にも近いし。」
 「高千穂の宮に帰ったら、大君に進言しよう。」
 イハレビコ達が立ち止まった場所は、現在の宮崎県延岡市付近で、五百七十年に欽明天皇が田部宿禰直亥に宇佐神宮(宇佐八幡宮)を造営する様に命じ、この地は宇佐神宮の領土になり、田部宿禰直亥の子孫土持氏が管理することになった。
 宇佐神宮のもとは、やはり、ウサツヒコとウサツヒメになる訳であるが、宇佐神宮には応神天皇、比咩大神(比売神)、神功皇后を祀られている。そして、皇室の奉斎で伊勢神宮の次に、宇佐神宮が上げられている。なぜ、宇佐神宮なのだろうか。また、応神天皇や神功皇后が祀られているのだろう。
 比咩大神は、スサノヲとアマテラスのウケヒによって生まれた三女神である事になっているが、古事記のホムダワケ(応神天皇)の章で、アメノヒボシとアカルヒメの話がある。アメノヒボシは、新羅の王室の昔(そく)氏の王子で、赤い玉から生まれかわったアカルヒメを妻にするのですが、アメノヒボシが妻を罵ったため、アカルヒメは祖国、難波に帰ってしまった。そこで、アメノヒボシはアカルヒメを追って、難波の津まで来たが、嵐に遭い、多遅摩(但馬)の国に留まった。そして、タヂマノマタヲの娘マヘツミを妻にする。その子孫にカズラキノタカヌカヒメがいる。このヒメとヒコイマスの曾孫オキナガノスクネの娘がオキナガタラヒメ(神功皇后)となり、オキナガタラヒメとタラシナカツヒコの子ホムダワケ(応神天皇)である。アカルヒメは、難波の比売碁曾の社(大阪市東成区東小橋三丁目の比売許曾神社と言われている)に。この比売許曾神社に祀られているのが、スサノヲとアマテラスのウケヒによって生まれたタキリビメとオホクニヌシの娘シタデルヒメである。この様な流れを見ていくと、宇佐神宮の祭神が繋がってくる。
 アメノヒボコは、垂仁天皇の時代に新羅の王子として渡来したとなっているが、実際のところ定かでない。朝鮮半島では、紀元前二世紀の頃に辰国が倒れ、朝鮮半島の南半分は三韓時代になるのだが、アメノヒボシの昔氏の部族は、辰国の鉄器技術を引き継ぎ、弁韓付近で優れた鉄製造技術を持ち、稲作に従事していた。一世紀頃、昔氏の祖、昔脱解は朴南解の娘阿孝夫人を妻にし、朴南解の子朴儒理の後をついで、新羅の王となった。
 昔脱解の生誕の説話には、日本の多婆那の国(魏志倭人伝に記載されている邪馬台国に行く途中の国)の大君の娘が七年間も妊娠して、生んだのが大きな卵で、不吉だと言って、絹の布で巻いて、箱に入れ、海に流した。その箱が、伽耶に流れ着いた。しかし、伽耶の人は不気味な箱であるので、開けずに海に流した。その箱が辰韓の阿珍浦に流れついて、老婆が箱を開けると大きな男の子が現われた。その男の子が昔脱解だという説話。
 この様に、アメノヒボシが誰であったかは限定できないにしろ、昔脱解が倭人であったにしろ、日本の古代人、倭人と関係があり、おそらく、朝鮮の弁韓地方の民族と倭人とは、交流があったと考えられる。この昔氏の部族が、日本の丹波地方だけでなく、東北地方まで移住していたことも囁かれている。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ