いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2021

日本国土面積 弥生時代中期における国としての体裁は、どのようになっていたのだろうか。その当時の人口と実際の住居環境は、どのようになっていたのだろうか。学問的には、歴史人口学という分野。その第一人者で、現在、静岡県立大学の学長をされている鬼頭宏先生によると、縄文時代晩期、九州北部に水田式稲作が始められた時期、日本の人口は75,800人でした。九州北部が3,000人、畿内は僅か800人という統計データーがあります。この時期、人口が多いのは、まだ狩猟採取の生活をしていた縄文人が多く住む東北地方でした。北海道を除いた本州・四国・九州の面積は、283,021㎢ですから、山岳部や川や湖の面積を考慮しないで、単純に人口密度を計算すると、10㎢当り2人~3人となります。弥生縄文時代晩期と弥生時代中期の地域別推定人口時代中期、倭国の大乱があった頃の人口は594,900人ですから、その当時の人口密度は10㎢当り21人となります。この1,100年の間に平均して各地で人口が増えたのではなく、水田式稲作が九州から西日本に普及していった課程で人口が増えている。そして、ヤマト王権が誕生する。そして、朝鮮半島から渡ってくる人達を受け入れていった。九州では、紀元前900年頃、人口が6,300人だったのが、紀元200年には16.7倍の105,100人に。それより大きな倍率で人口が増えているのが、近畿圏。紀元前900年頃、2,000人だったのが、紀元200年には50倍の100,500人に。この時期には近畿圏でヤマト王権が設立していたと思う。そのため、近畿圏で人口が増加とともに、九州と同じぐらいの勢力に成長していた。
 紀元前900年頃には、日本で人口が多かった東北ではあったが、紀元200年には西日本で人口が増加したのに対して、殆ど横ばいか減少している。その分、関東や中部での紀元前900年頃、25,400人であったが、紀元200年には10倍の259,200人になった。この現象は、東北から人口移動したのだろうか。また、諏訪湖を中心にした甲斐、信濃、飛騨で紀元200年に85,100人。九州、近畿に次いで人口が多いのは何を表しているのだろうか。中部で160,200人。ヤマヤマトタケルト王権の景行天皇の時代、4世紀の中程に美濃行幸や九州巡幸を行い、ヤマトタケルを熊襲征討・東国征討に行かせています。その当時、人口の多い九州でヤマト王権に従わない首長や大王のために派遣したのだろう。その後、東国にも。
 ヤマトタケルは、お伴に吉備武彦と大伴武日を連れて、駿河・相模や信濃・甲斐を回って、美濃から尾張に。ヤマトタケルが駿河の賊衆に襲われ、草那藝剣で草を刈り掃い、火打石で迎え火を付ける火攻めの話は、昔話として有名ですね。景行天皇・ヤマトタケルの時代に、景行天皇の軍事的部民(来目部や靫負部から大きくなった伴造として成長した大伴連)やヤマトタケルの軍事的部民(建部、吉備の出身者)を東国に派遣して、ヤマト王権の東国支配を固めた。その後、大伴氏の子孫は富士浅間神社社家や甲斐伴氏となり、鶴岡八幡宮社家や三河伴氏に、静岡県や山梨県や神奈川県に土着した。吉備氏では、飛鳥時代に吉備の笠麻呂が国司になっている。ヤマトタケルが伊吹山付近で死亡してしまい、景行天皇は、東国に叔父の豊城入彦命の三世孫、御諸別王を派遣している。この御諸別王が上毛野氏、下毛野氏の祖となる人物です。
 吉備氏は本来三輪氏族の出身であったのが、同じく三輪氏族出身の彦坐王一族(息長氏・和邇氏)や御諸別王(毛野氏)と共に大王家の系譜に結びつけられた説がある。吉備氏も息長氏・和邇氏・安曇氏も毛野氏も皇室扱いされた同族ではないか。ヤマト王権は、これらの皇族扱いした氏族の長(君または公)を国造(くにのみやつこ)に。『日本書紀』の巻第七には、成務天皇が「諸国(くにぐに)に令(のりごと)して、国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)に稲置を置(た)つ」とあり、造長は国造にあたる。この当時、ヤマト王権には、直轄地として屯田・屯倉があり、その領土を国造に対して「県」とし、その土地の管理に皇族出身のワケ(地方に領地を得た者およびその一族)に「県主」を命じた。また、ヤマト王権の県を管理及び微税官として稲置(いなぎ)を任命した。
 国造について、唯一、分析と掲載している歴史書がある。それは、平安時代初期に刊行された『先代旧事本紀』で、神代から推古天皇まで、1巻から9巻に編纂され、10巻目が「国造本紀」となっている。初代国造の任命時期と初代国造と初代国造の系譜関係と令制遺称地が書かれている。任命時期は神武天皇の時代もあり、崇神天皇の時代もあるが、その半数は成務天皇の時代で、総数は132の国造と摂津と和泉の国司が編纂されている。応神・仁徳天皇の時代もあり、最後の1国造は継体天皇の時代。まぁ、神武天皇や崇神天皇の時代に、ヤマト王権が国造の領土が存在していたかは疑問ではあるが、景行天皇・ヤマトタケルの時代から成務天皇の時代には、ヤマト王権の領土拡大があったことは間違いないだろう。
先代旧事本紀10巻国造本紀


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 縄文時代晩期に水田式稲作が九州北部で始まり、血族関係の各集落によってコメの収穫を分散して生活をしていました。弥生時代の初期までは、平和で平等な社会だったと思われます。現在でも、世界でも有数の平和国家を構築しているのは、過去の農業主体国家が長く続いた日本であり、日本人の国民性は古代より永遠と引き継がれていると思います。
銅戈 弥生時代初期から、稲作の生産性を向上させるための技術、青銅器や鉄器が朝鮮半島経由で日本に入ってきます。その技術をもたらしたのは、中国の戦国時代を生き抜いた人達で、九州北部に上陸しました。そのような技術を持った人を養うことができる、稲作の収穫量が多い集落が大規模に膨らんできます。例えば、佐賀県伊万里市の土井頭遺跡から紀元前中国のチャリオット100年頃の甕棺墓の中から銅戈(どうか)が発見されています。この銅戈は、中国の戦国時代に使用された戦車(チャリオット)に乗車して戦う敵兵を、この棒の先に付けた戦具で引きずり下ろす。そんな青銅器の道具。甕棺墓に埋葬されていたとすると、その当時の日本では戦争の道具というよりは、銅鐸と同じように祭事に使用されていたのでしょう。
 弥生時代中期から、縄文時代から住んでいた人と渡来人の同化が進み、中国からもたらされた最新の知識をもとに、大規模集落は小国家として成長していきます。そして、人口も増加し、小国家同士で稲作ができる土地や水争いが始まりました。最終的に倭国の大乱の時期を迎える。邪馬台国や卑弥呼が出てくる時代、2世紀~3世紀の頃ですね。そんな小国家の中から経済力と軍事力のあるヤマト王権が誕生します。4世紀に入ってから、崇神・垂仁・景行天皇の時代ですね。
安閑天皇の頃の屯倉
 ヤマト王権は、播磨や但馬などの近畿圏を固め、筑紫などの九州地方、出雲や吉備の中国地方を政権下に納めます。さらに、美濃や諏訪の中部に進出。そして、各地からの収穫産物を徴収することに。ヤマト王権が所持していた土地から収穫された稲や各地の産物の倉庫として、屯倉が誕生します。この屯倉が最初の意味。それが、仁徳天皇の時代、5世紀の初め頃に河内平野の交野郡三宅の郷にあった稲の倉庫としての屯倉だったが、茨田堤・依網池・和珥池・横野堤等の土木工事により、ヤマト王権の直轄地となり、開墾された土地を屯倉と呼ぶようになった。屯倉の発生は垂仁天皇の時代の大和国の來目邑屯倉とされ、景行天皇の時代の大和国城下郡三宅郷の倭屯倉がある。ヤマト王権が所有地の拡大を図ったのは、応神・仁徳天皇時代の土木工事からでした。仁徳天皇以前の景行天皇や仲哀天皇の時代、九州を中心にヤマト王権の所有地、屯倉が存在しますが、それはヤマト王権の勢力範囲の拡大により、各地の首長の所領の一部を譲渡された土地でした。神功皇后の時代、4世紀後半に三韓征伐が行われ、新羅や高句麗の捕虜を日本に連れてきて、ヤマト王権の屯倉や宮殿で働かせた。継体天皇の時代、6世紀の初め頃に百済へ任那4県割譲が行われ、新羅が任那の併合問題で新羅辺りから連れてこられた人や任那から日本に戻ってきた人達を養い、適材適所でいろいろな部署に就かせた。そのため、継体天皇の時代には、そのような人達をヤマト王権の大王のもとで土木工事や宮使いに雇った。このように雇われた者のリーダーを名代と言います。その名代の率いる集団が、大王の下で軍事行動や朝廷での仕事で働いた。この集団を〇〇部と呼び、部民制ですね。漢代から魏晋南北朝時代に軍隊組織した部曲をヤマト王権は手本にした。その部民制の集団の長を「伴造」といい、「伴」が大王に奉仕することを表し、「造」はその長を意味する。「伴造」は成務天皇が制度化した身分制度でカバネの一つ。「伴造」が朝廷から何らかの役職を受けると「連」となった。「臣」や「国造」もその当時のカバネで、各地の首長を表し、「伴造」と「連」は物部や大伴のように、朝廷に従事していた集団に与えられた。そして、允恭天皇の時代、5世紀の中頃に政務に当たるようになった「臣」と「連」の中から、さらにそのカバネの中からリーダーとなる「大臣」と「大連」が出現し、臣連制で朝廷を動かすようになった。
氏姓制度
 また、允恭天皇は各氏族の氏姓を正す政策も行っていて、朝廷の業務にあたる者に対して、新たにウヂ名を与えたりした。そして、〇〇部の長を「氏の上」とし、その集団の人を「氏人」とし、その他にその集団に従事している者を「奴婢」とした。集団内での身分制度ですね。朝鮮半島から渡ってきた渡来人にもウヂ名を与えられた。例えば、秦氏や倭文氏などがある。臣連制が確立してから、雄略天皇の時代、5世紀中後期に大伴室屋と物部目が「大連」、平群真鳥が「大臣」を務め、欽明天皇の時代、6世紀中期に大伴金村と物部尾輿が「大連」、蘇我稲目が「大臣」を務めるようになった。欽明天皇即位後に大伴金村が失脚して、物部・蘇我体制が飛鳥・白鳳時代に。敏達天皇の時代、仏教の排仏崇仏の時代、用明天皇の時代、6世紀後期に物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされる。このような臣連制が大化の改新まで続く。
 縄文時代の小集落から允恭天皇時代には、氏家といった大集団が構成されるようになった。古代史では、「氏の上」だけが注目されていますが、氏の集団には「氏の上」の血筋もいて、「氏人」のように「氏の上」に何らかの関係がある人達も、その集団に従事した「奴婢」もいた。その人達の氏名は現在と違って、「姓」と「名」の間に「の」が付きますね。これは何を表しているかと言いますと、本名は「名」の部分で、「姓」はその人が所属している集団を表していたのです。江戸時代、庶民には姓が与えられなかったので、〇〇村の〇〇と言った感じだったのですね。日本史では、この「の」がとれるのが室町時代からですか。でも、その当時はもっと複雑。例えば、徳川家康の場合、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」がウジ、「朝臣」がカバネ、「家康」が実名となる。室町時代まで、生まれてきた子に実名を付けて、その前には先祖の出所を示していたのですね。江戸時代に公家・武士だけは「姓」を名乗ることができましたが、庶民にも「姓」はあった。しかし、名乗ることが出来なかっただけでした。
名字


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

相谷土偶 人の形をした造形物の最古のもの。人形の起源が今から約13,000年も前、縄文時代早期の土偶。この土偶は、滋賀県の永源寺の近くの東近江市永源寺相谷町の相谷熊原遺跡から発見された。この時代に竪穴式住居が現れたころで、新石器時代の人たちが永住し出した頃。縄文人の始まり。この竪穴式住居跡から高さ、3.1㎝、重さ、14.6gの相谷土偶が見つかった。現在で言うとアクセサリーみたいなもの。この竪穴式住居には、家族形成が確立されていたのだろうか、この土偶を女の子の玩具として与えていたのだろうか。それとも、お守りとして。この相谷熊原遺跡から5棟の竪穴式住居跡が発見され、その1棟から発掘された。この土偶は、女性の胸の部分だけなので、どのような意味合いがあったか分からない。制作者は男性だろう。異性を意識して。
 新石器時代には、食料を求めて狩りをし、定住をしない生活を続けていた人たち、特に男性が縄文時代草創期には、半定住をしていた女性のもとへ、そして家族を形成していった。そんな家族には、狩りをして食料を持ち帰る働き手の男性が必要でした。そんな男性を呼び止めるためには、女の子の誕生は宝だったのです。所謂、母系家族の形成ですね。そんな観点からすると、誕生した女の子にこのアクセサリーのような土偶を身につけさせたとしても不思議ではありません。
画像_2021-02-14_100918 縄文時代中期には、大切な女の子の守り神としての土偶が制作されるようになった。長野県棚畑遺跡出土の土偶「縄文のビーナス」のように高さ、27㎝、重さ、2.14㎏という大きさになり、アクセサリーではなく、母系社会或いは農耕社会の象徴である地母神崇拝のための土偶として形つくられた。この頃には、かなり大きな集落ができ、女の子が誕生を祝い、穢れを祓う祭事を集落の中心部の祭事場で、このような大きな土偶を据えて、神にお祈りしたのでしょう。
 縄文時代の土偶は、ある説によると全国で三千万箇とも言われ、その時代その時に応じて普通の庶民が制作してきた。古墳時代になると土偶は、埴輪と変化していきます。そして、縄文時代の集落も、大規模集落から小国家となり、そこにはリーダーとしての大王が。各地で政権争いが始まり、父系社会となっていきます。でも、女の子の誕生はその氏族の宝とされ、政権を担う大王に嫁がすことで、政権の中心部に。現在では許されない、このような仕来りが江戸時代まで続く。3月3日の桃の節句に、誕生した女の子の穢れを祓うためにおひな様を飾る風習は、天皇制中心の男性社会とは言え、現在でも母系社会が陰ながら続いているようにも思える。
 縄文時代のように土で女性の人形を作る風習はなくなりましたが、女の子の誕生と共にその子の穢れを祓う行事として、上巳の節句に紙や藁で作られた人形を川に流す、「流し雛」が行われていました。飛鳥時代や奈良時代の頃だと思います。平安時代になって、宮中で「ひいな遊び」が女性の間で流行ります。紙で作られた人形と小道具を並べて遊ぶ、現在で言う「ままごと遊び」。それが、「流し雛」と「ひいな遊び」が合体して、桃の節句の時期に紙で作ったひな人形を飾るようになったのが「ひな祭り」の起源だとされています。
七段飾りのひな人形 現在の七段飾りのひな人形を設置するようになったのは、安土桃山時代で、豊臣秀吉が宮廷に近づき、関白の称号を賜った頃から。それでも、名だたる武家の家でのことでした。江戸時代になって、ひな人形の制作技術が上方(京都)だけに限られていましたが、江戸(東京)が発展する中で、上方から嫁にもらうことが増え、その時に嫁入り道具として、ひな人形を持参した。それが江戸の庶民に普及。そして、ひな人形も京都から仕入れるのではなく、江戸の職人がひな人形を制作するようになった。江戸木目込み雛人形前のひな人形として、木目込み雛人形があるが。この制作でも、元々、京都の賀茂人形と言って、上賀茂神社の奉納箱を作る京職人が切り込みの木くずを固めて作ったひな人形だった。それが江戸末期のひな人形職人がその技術を江戸に持ち帰り、木目込み雛人形を制作するようになった。
 縄文時代から受け継いだ「女の子の誕生を祝い、穢れを祓うための人形」。そして、3月3日に「ひな祭り」を行う。これは日本人の文化であり、形を変えながらも引き継がれなければならない。日本女性のために。

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

木の神様 神社を訪ねると森林に囲まれた環境にあり、中には巨木にしめ縄が巻かれた風景が見受けられる。古代人は、高い巨木頭上に天、神が宿ると考えていた。神社の発生は、いつ頃か等、定かではない。気温が低い山岳地帯で、落葉広葉樹林系のドングリやクリを主食にしていた縄文人が集落を作り、そこで祭りが開かれるようになり、祭事場の周りにはストーンサークル(環状列石)の代わりに、高い材木を立てた。木の柱から、天或いは神建木に通じる道があると信じられていた。その沿線上に、神社の木信仰がある。神木と言われ、スギやヒノキ等、天候の変化に強く、高く伸びる針葉樹林が選ばれた。
 古代中国の伝説には、天と地を結ぶ神聖な樹木として、建木という言葉が出てきます。戦国時代から秦朝を経て、漢朝までの地理書『山海経』や前漢の武帝時代に書かれた『淮南子』にも出てくる。この時代には、天地の中央に位置する建木から、天動説神のお告げを受け、帝(皇帝)に乗り移る。それをつかって往来をしたと考えられる記述があり、天梯(天に通ずるはしご)、通天柱(天と交通するための柱)と表現している。この天地中央の考え方は、中国で稲作が始まった頃、太陽信仰思想で、太陽は東から昇り、西に沈む、天動説だった。そして、太陽はから東の巨木、扶桑昇り、西の巨木、若木に沈む。こ八仙渡海図の太陽信仰は、現在の中国のミャオ族に受け継がれている。
 秦の始皇帝の時代、不老不死の薬を求めて徐福の一行は、東の地のはて、太陽が昇る地、扶桑国にたどり着くために日本にやって来た。そして、神仙思想を広げていく。滝に打たれて身を清める行為、禊ぎも仙人信仰から来ている。日本神話でイザナギがイザナミの死体を見て、逃げる場面で、最後に禊ぎをする。その禊ぎです。ニニギが天孫降臨する場所が高千穂山の頂上、或いは岩に囲まれた高千穂峡だと言われていますが、これも神仙思想。日本神話は、神仙思想の影響を受けて書かれています。紀元前2世紀頃、山東半島以南の中国人が扶桑の地、広くて大きな木のある地、取りあえず九州に舟で渡って来た。そして、原住民である縄文人と混じっていく。その当時の中国人の扶桑の地は、日本列島の九州だったのですね。『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると高千穂峡記され、この黒歯国が宮古島以北の琉球諸島の何処かだとすると、扶桑国は九州になる。その当時、日本では大集落は存在していたが、まだまだ、国の形態ではなかった。黒歯国にしても、扶桑国などはその頃の中国の王朝が名付けた国なのです。
 邪馬台国の時代、紀元2世紀後半ころになると安定していた後漢王朝が184年の黄巾の乱を封切りに、魏・呉・蜀の三国時代に入り、南北朝時代を経て、隋王朝によって中国が統一する581年まで分裂してしまう。日本では、魏王朝と交渉を始めた北部九州の小国家が生まれ、倭国大乱という小国同士の戦いがあり、それが治まって、中国側が言う邪馬台国が魏と交渉を始める。紀元3世紀頃。その頃、近畿圏にヤマト王権が誕生している。紀元4世紀になると、中国は北朝の北魏王朝と南朝の宋王朝に分かれ、邪馬台国を中心にした北部九州勢は北朝と交渉を続ける。一方、ヤマト王権は仙人思想を生み出した山東半島以南の南朝と交渉していた。その南朝は宋・斉・梁・陳で、日本の政権とはヤマト王権。ヤマト王権は中国と交渉を始め、南朝側(概ね宋王朝)では倭の五王(讃・珍・済・興・武)として、5人の魏志倭人伝の倭人日本の王が交渉のため、使者を派遣したとある。南朝梁王朝の歴史書『梁書』では、日本のことを東海上に実在する島国と考えられるようになった。そして、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替された。梁王朝(502年~557年)は、日本にヤマト王権という政権が存在していることを認識していた。その頃、南朝の文化、特に梁王朝から仏教が入ってきます。『扶桑略記』によると、梁王朝出身の司馬達等が522年(継体天皇16年)2月に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したという。日本では、梁王朝の時代に武烈天皇、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、そして欽明天皇と続く。仏教公伝は、朝鮮半島の百済から入ってきましたが、僧呂は梁王朝の人ではなかったか。欽明天皇の時代に仏典だけでなく、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志』、『晋書』、『宋書』、『梁書』等も入ってきたかも知れませんね。そこには、中国から見た日本の姿が書かれてあった。倭国のことや扶桑国のこと。
 欽明天皇の子には、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇があり、用明天皇の子に厩戸皇子(聖徳太子)がいます。聖徳太子は、中国の歴史書を読んで勉強していたのでしょう。推古天皇の時代に皇太子に。就任すると、冠位十二階や十七条憲法を次々と制定し、力量を発揮した。そして、中国では北朝と南朝に分かれていたが、581年に隋が統一し、その隋王朝に小野妹子を派遣し、ヤマト王権の正当性を示す書状を持たせた。遣隋使の始まりです。その書状には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で、日が出るところの天子、これは扶桑国の天子、ヤマト王権の天皇を表している。「私の国は、太陽が最初に昇る国なのですよ」と言わんばかりの書状だったのです。聖徳太子の従兄弟に当たる押坂彦人大兄皇子の子、舒明天皇の子が天武天皇で、この聖徳太子の「日出處」という言葉を引用して、日の本、国名を日本と定めた。
 「東の端から太陽が昇る」それが「扶桑」と名付け、中国人が神仙思想をもって、日本に渡ってきた。そして、原住民である縄文人と同化していく。日本文化の源は、仙人信仰とともに進化していったと考えてもいいのではないか。

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

おかめ面 現在では、美人でない女性のことを「おかめ」、おっちょこちょいの男性のことを「ひょっとこ」と軽視する言葉をあまり使わなくなった。おかめの面は、頬が膨らんでいて、ひょっとこの面は、片目で口を尖らせている表情、戦前までは大衆の娯楽、民間芸能でよく使われた。村の祭りなどで、獅子舞とともに現れ、道化役を演じた。
 女性を表す「おかめ」となったのは、わりと新しく江戸時代のことで、その頃は頬が膨らんでいるの平安美人お福人形は美人顔でなかったのでしょう。室町時代には、「おかめ」のことを「お福」と言い、文楽でも登場、或いは大黒天や恵比寿天などの民間信仰にも登場させた。また、福が多いという意味で「お多福」もこの時代から狂言で使われるようになった。侮辱感情が問題にならなかった時代では、あまりいい言葉ではありますが、醜い顔の女性に浴びせることもあります。現在では、使われませんね。しかし、平安時代より以前は、頬が膨らんだ女性は美人顔だったのです。それは、太った福々しい体躯の女性が災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味していた。「平安美人」ですね。
伎楽の呉女面 おかめ面の発祥は、推古天皇の時代に百済人、味摩之によって中国南部の呉から伝えられた伎楽の呉女面だと言われています。ふくよかな顔は、インドから西域を経由し、中国南部に伝わった仏教の影響を受けているのでしょうね。『古事記』や『日本書紀』が書かれた時代の神話の世界でも、アマテラスが岩戸に隠れられた時に、踊り子として登場するアメノウズメが「おかめ」の原型だと言われています。能や狂言の祖、猿楽では、神々を和ませ、神の真似をする巫女を表現した演目もあり、その巫女役が「おかめ」の元の姿と言われています。
ひょっとこ面安来節 「ひょっとこ」は、出雲の民謡「安来節」で、ひょっとこの面をかぶり、ドジョウすくいをするコミカルな踊りで知られています。この「ドジョウ掬い踊り」は、大正時代に吉本興業の舞台で演じてから、全国的に広まった。「安来節」は、それまで元々あった鳥取県下で歌われていた「さんこ節」などと舟方節である「出雲節」とが合体したもので、明治時代初期に家元制ができた。まぁ、このような民間芸能は、江戸時代からですね。江戸時代にはその村の神社で、祭りの際に神楽が演じられた。里神楽とか町神楽とか言われ、その演目の中に「ひょっとこ」が出てきます。現在のひょっとこの面の原型は、室町時代で猿楽の面でうそぶきと呼ばれ、目はまるく、口をとがらせて突き出た形の黒塗りの面まつりのひょっとこだと言われています。この顔つきは、安来節の「ひょっとこ」ですね。中には、両目の大きさが違うひょっとこの面もある。この顔の形は、弥生時代に鉄器を生産する時に火を熾す際の顔の様子、口で火を熾すために息を吹く、煙が出てきて目を細める。「ひょっとこ」は、火に関係している事がわかる。「ひょっとこ」と名付けられたのは、かまどの火を竹筒で吹く「火男」がなまったというのが定説ですが、東北地方では、「うんとく、したり、ひょうとく」などの子供が登場する昔話があって、その呼び名がなまって「ひょっとこ」となったとあり、おおむねその後身が火神(かまど神)となったとされている。
 かまどの神としての「ひょっとこ」を日本神話の神に当てはめると。アマテラスが玉、スサノヲが剣を交換することにより、アマテラスの玉から天皇家の祖先、ニニギの父、アメノオシホミミのほか、四神が生まれた。その中にアマツヒコネ、その子に天之御影神(天目一箇神とか天津麻羅とか言われる神)がおり、この神が鍛冶の神。この神が岩戸隠れの段で鍛冶をして、刀斧・鉄鐸を造った神。天目一箇神とも言われるのは、鍛冶をするのに鉄の色で温度を見るため、片目をつぶすので、目がひとつの神となり、「ひょっとこ」の片目がつぶっているのを表している。
 おかめ・ひょっとこの関係が、日本神話の岩戸隠しの段で繋がる。天武・持統天皇の時代に作られた神話があって、そこに中国南朝から伝わった伎楽があり、室町時代に猿楽と「おかめ」と「ひょっとこ」、形を変えながら伝えられてきた。そして、江戸時代になって大衆の中に浸透し、おかめ・ひょっとこのコミカルな芸能が始まる。

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ