いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2021

 戦前までの任那に対する認識は、紀元前3世紀頃の弁韓=任那。そして、任那は倭国(日本)の領土。『日本書紀』に記載されているように、任那日本府が存在した。神武天皇が橿原の地で即位したのが、紀元前600 年頃だと信じられていた時代だから、任那はヤマト王権の領土だと信じられていました。しかし、現在では任那の地域には小国が沢山あり、その連合会議みたいなのがあり、新羅の侵略に対抗していた。その軍事的援助をヤマト王権が行っていたとされる。最近の文部科学省の歴史認識は、「倭国には任那の恒常的統治機構がなかった」としている。また、2002年に新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に対する検定で認可しなかった。
 韓国では、日本が任那を支配していた事について否定している。北朝鮮の歴史学者、金錫亨が1960年代に発表した『分国論』では、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)三国(高句麗・百済・新羅)の分国が日本列島に存在していた。そして、日本古代の文化のルーツは朝鮮にあると論じた。確かに、任那の地域から日本に渡ってきて、ヤマト王権の管理下で集落を形成していたのは事実。でも、日本国内で三韓・三国洛東江下流の分国があったとは、ちょっと言い過ぎではないだろうか。朝鮮半島南部の洛東江下流地域に、紀元前400年頃から中国の長江から伝えられたとする稲作が始まり、無文土器をしようした住民が住み着いた。九州・佐賀県の吉野ヶ里の無文土器と同じ。そこで集落を形成した人達は、稲作の技術を持った日本に住み着いた人達と同じだったかも知れませんね。ただ、揚子江から舟に乗って、北部九州とか洛東江下流地域に。或いは揚子江から北上して、山東半島や遼東半島から朝鮮半島を南下。それとも、北部九州から壱岐、対馬経由で洛東江下流地域に。任那の人達は、日本人(弥生人)と密接な関係があったのは事実です。
 大加羅紀元前後には、洛東江下流地域と北部九州の人達で交流が盛んに、そして、鉄器の生産技術もその洛東江下流地域から。特に、紀元前2世紀後半の鋳造鉄器の製造跡が発見された莱城遺跡をはじめとして、三韓時代には楽民洞貝塚・城山貝塚・固城貝塚でも鉄の鍛冶工房が発見された。倭人は、この地域に早くから目を付け、鉄器の原料、鉄鉱石を洛東江の支流(密陽江)の上流、沙村遺跡当りから採取していた。倭人が鉄を求めて、最初に上陸したのは、紀元前4、3世紀に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始める金官国(現代の慶尚南道金海市)、後に狗邪韓国、駕洛国とも言われている。この地が後の任那となり、地域に繋がる倭人が進出した結果と見られる。
 ヤマト王権は、鉄器の生産に任那の地がどうしても必要であった。ヤマト王権が畿内を政権下に置き、北部九州に勢力を伸ばしていた景行天皇・ヤマトタケルの時代、さらに仲哀天皇・神功皇后の時代、4世紀後半には、金官国を拠点に安羅、多羅、大伽耶を掌握し、伽耶連合(任那の小国家連合)に軍事援助を行った。新羅の領土内(現在の慶尚北道慶州市)にも隍城洞遺跡、鶏林南便遺跡、瓦村遺跡のように鉄の鍛冶工房があって、鉄鉱石が採れる密陽江の上流の支配権が欲しかった。そこで、ヤマト任那の遍歴王権軍と新羅軍との衝突が起こった。神功皇后の三韓征伐ですね。さらに、南下してきた高句麗も任那の鉄鉱石が欲しかった。倭人と高句麗が戦っています。そのことは、広開土王碑文にも書かれている。倭の五王時代になった400年頃には、中国の南朝に使者を送り、任那の領土権を認めさせようとした。『宋書倭国伝』によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。このように、ヤマト王権では、任那・加羅を軍事基点としていたことがわかる。
 武烈天皇の時代までは、北部九州の弥生人が任那でも生活していたのは韓国の前方後円墳事実。それが継体天皇の時代になって、高句麗が南下し、百済の領地が縮小。神功皇后が三韓征伐を行い、その時に手に入れた朝鮮半島西南部、任那4県にあたる。応神天皇以来の領土を百済に譲渡する。512年のことです。応神天皇以来、朝鮮半島西南部に多くの前方後円墳を築き、倭人の大王が存在していた地域を失うのです。さらに、新羅が南加羅・喙己呑に進軍して領土を奪われた。そこで領土の回復のため、近江毛野軍、6万人が出陣した。だが、筑紫国造で新羅に内通していた磐井氏阻止して内乱が起こった。磐井の乱です。ヤマト王権は、物部麁鹿火を派遣して、528年11月に磐井の乱を終結させた。
 継体天皇の時代に、任那4県が百済の領土になった関係で、朝鮮半島西南部にいた倭人は、ヤマト王権が指示する土地に移住。継体天皇自身も507年に樟葉宮で即位し、511年に筒城宮、518年に弟国宮、526年に磐余玉穂宮と転々と宮殿を移動させている。移転した都には、任那から移り住む倭人を吸収した。継体天皇の後、安閑天皇が4年間。この間に各地に41件もの屯倉を設置している。そして、その屯倉を守衛する役人、犬養部をおいた。その犬養部は、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連、辛犬養連が海神族系、阿多御手犬養は隼人系、県犬養連が山祇族系。とあるが、たぶん、任那からの移住者だったと思う。安閑天皇の次が宣化天皇、そして欽明天皇。この頃になると、任那では新羅の攻撃が続き、頻繁に任那に兵を送っている。欽明天皇は、522年に百済の聖明王より仏教を教わる。仏教公伝ですね。欽明天皇と聖明王は、541年に任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇は、562年に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却した。これで、任那は完全に朝鮮半島から姿を消えてしまった。


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 倭国大乱の時代、2世紀から3世紀頃、日本では「倭国」とか「ヤマト王権」と言った統一国家ではなく、縄文時代からの集落の延長線上にある小さな国が存在していた。その小国には、稲作を中心にした人達や多少の土器、青銅器、鉄器などを製作する工房があり、そこで作業する人達が共同生活をしていた。生活の源である稲の発育において、天候不順からの凶作になら内容に祈りを捧げる巫女がいて、「日女」と書いて「ヒミ→ヒメ」と呼んでいた。その当時、まだ日本には日本語の漢字が存在せず、中国から入ってきた漢字を当てはめているので、時代によって或いはそれらの小国の集団によって「ヒメ」は、(比売、比咩、日女、孫女、火売)と書かれていた。「ヒミ」は(比彌)。この「ヒミ」は、邪馬台国の卑弥呼の「卑弥」に当り、「姫子(ひみこ→ひめこ)」を表している。となると、『魏志倭人伝』に書かれている「卑弥呼」は個人名ではなく、一種のカバネ? 「姫」や「媛」が使われるようになったのは、『日本書紀』が編纂されてから。
 縄文時代には平和な集落で、巫女を中心にした集団社会であった。それが、中国や朝鮮半島との交流が盛んになった九州、紀元前後の時代には、大陸との往来が盛んになり、日本への移民も増えてきた。そして、平和な従来の集落は大集落から小国へと。そうなると、食料の確保、水田の拡大や水路の維持など領土が問題になってくる。そうすると、隣国との戦争に。小国には、戦いを指示する男性が必要になってきて、今までの女王的存在だった「ヒメ」が首長としての「ヒコ」に。『魏志倭人伝』によると、対馬国や壱岐国には首長として、「ヒコ」が存在していた。その『魏志倭人伝』では、その「ヒコ」を「卑狗」と書かれている。また、「日女」に対して「日子」、「比売」に対して「比古」、その他に彦、孫、日古などが「ヒコ」の漢字に当てはめられている。この「ヒコ」の他に、首長を表す言葉として、「ミミ(耳、彌彌、美美)或いはミ(彌、見、美、海、看)」と「ネ(根、禰、尼)」があります。
 「ミ」は霊を表し、日本神話で「ワタツミ(海の霊)」た「ヤマツミ(山の霊)」の「ミ」ですね。『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。この「ミ或いはミミ」は、神霊的な人物に使用され、神武天皇の子、タギシミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミと記紀に書かれている。このことは、天皇家が神霊的な存在であり、大王の継承者を意味しているのだろう。天皇家だけでなく、賀茂氏の祖先オオカモツミ、久米氏のウマシミミ、吉備氏のミスキトモミミ、紀氏のトヨミミなど、ヤマト王権の豪族の祖先も首長として「ミ或いはミミ」が付いている。それにしても、3世紀までの日本は、まだヤマト王権化ではなく、首長(女王)が女性である小国もあり、豊国のウサツヒコとウサツヒメのように「ヒコ」と「ヒメ」体制のところもあり、まだ小国だったヤマト王権では、兄弟体制、結局は末っ子のカムヌナカワミミが第二代綏靖天皇になる。この頃はヤマト王権が日本を支配していない時代でした。
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣 「ネ」は、3世紀から4世紀に政治的・英雄的首長に付けられる名称であり、応神・仁徳天皇期以前に限られ、古くは「タリネ(垂根)」、「イリネ(入根)」、「タラシネ(帯根)」、「ヤネ(屋根、八根、矢根)」、「トネ(刀禰、戸根、等禰)」等、さまざまな「ネ」があった。ヤマト王権の初期、崇神天皇の時代、4世紀になってもこの「ネ」を使用していた。物部の「トチネ(物部十千根)」、中臣の「アマノコヤネ(天児屋根命)」、穂積の「タケオシヤマタリネ(建忍山垂根)」。「ネ」と言えば、スクネ(宿禰、足尼、足禰、少名、宿儺)があり、武内宿禰が有名ですが、この宿禰は官位を表し、崇神天皇の時代から現れた国造に任命された人物に○○スクネと官位を与えていた。たとえば、甲斐国造に塩海足尼、穂国造に菟上足尼 、淡道国造に矢口足尼など。その人物のほとんどが首長で、軍事的長の称号でした。軍事的部族としての物部に「オオネ(大根、大禰、大尼」と付き、明治時代から終戦までの日本軍隊で最高司令部責任者に「大将」という職位を与えたのと同じ。この大将を補助するのが「少将」。「オオネ(大根)」を補助する意味で「スクネ(少根)」。行政官とでも言えるかもしれないが、その行政官に武内宿禰の子となっている葛城、波多、平群、紀、巨勢、蘇我の部族が就任した。
 崇神天皇の時代になって、ヤマト王権初期が始まると地方の首長に使われていた「ヒコ」は、皇室に近い、身分の高い男性にもこのカバネ「ヒコ」を与えるようになった。第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である大彦命も「大」「彦」が付けられた例です。垂仁・景行天皇の時代に、ヤマト王権の権威を高めるため、または王権との関係や地位を明確にするため、各地で使われていた首長(ヒコ、ミ、ネなど)の称号整理が行われ、国造、県主という地域の長官の役目を与える称号を設け、その国造に就任する地位として「ワケ(和気、別)」、県主(郡)に就任する地位として「イナギ(稲置)」などが定められた。「ワケ」は初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者で、地方の領地を得た者に付けられた称号。それが、成務・仲哀天皇の時代には、皇子に分け与える領地がなくなったため、「ワケ」の称号をつけられた皇子はほとんど見られなくなった。また、景行天皇はオシロワケ(大足彦忍代別)、応神天皇はホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇はイザホワケ(大兄去来穂別、大江之伊邪本和気)、反正天皇はミズハワケ(多遅比瑞歯別)とワケの称号にもっている。このことは、皇室に生まれ、領地を分け与えた皇子に付けられた「ワケ」ではあり、本来、天皇になれないはずが、何かの理由で天皇になった。そして、允恭天皇の時代、5世紀の中程に、領地を求めて、皇族を名乗る者も現れたりしたので、氏姓制度の改革を断行。領地を分ける意味合いがあった「ワケ」の称号は、「キミ(君、公、王)」や「オミ(臣)」に。この允恭天皇が、後の大連・大臣体制の基礎を築いた。


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富士山 富士山は、どの場所から見ても綺麗な山の姿を見せていますね。この美しい姿はいつ頃から存在しているのでしょうか。富士山の形は、滑らかな斜面状になっていて、古来の大和言葉で、そのような形態を「フジ」といった。現在の「富士」という漢字が使われる前、『常陸国風土記』では「福慈岳」という語が使われ、不二山もしくは不尽山という表記された古文献もある。では、正式に「富士山」となったのは、平安時代前期の文人、都良香の書『富士山記』からだとされている。では、いつ頃から現在の富士山の構造富士山の姿を現したか。2004年に東京大学地震研究所がボーリングして調査した。その結果、現在の富士山の形になったのは、古富士は80,000年前頃から15,000年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。その古富士の下に、小御岳があり、その下に先小御岳があることが判った。先小御岳は、数十万年前の更新世にできた火山。
配石遺構 富士山の形は、縄文時代初期には出来上がっていた。静岡県富士宮市の12,900年前~12,600年前ごろの縄文時代の集落跡、大鹿窪遺跡がある。この遺跡には、14の竪穴式住居が発掘され、石器時代から縄文時代へとつながる中で、半永久的に住まいの定着がなされた。これは、日本全国でも最古にあたる。富士山の溶岩流からできた岩石を集石し、配石した遺構が発見されている。また、同じ富士宮市の縄文時代中期の遺跡、千居遺跡では祭事場としてストーン・サークル(配石遺構)が築かれていた。この痕跡は、まさしく富士山を神として崇めていたに違いない。
浅間神社奥宮 富士山の頂上には、浅間神社が祀られている。「あさま」とは火山を示す古語らしくて、九州起源の故事が原始信仰では、阿蘇山を表していた。同じように富士山も火山なので、「火の神」=「浅間神」を祀っていた。それが、『古事記』や『日本書紀』で日本神話が完成してから、富士山の浅間神社の主祭神が浅間大神からコノハナノサクヤビメに変わる。垂仁天皇の時代、ヤマト王権が東海に進出した頃。江戸時代の大宮司の富士民済が記した社伝『富士本宮浅間富士山本宮浅間神社社記』によると垂仁天皇3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたとされている。そして、景行天皇の時代、日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った時に、浅間大神に祈念して難を逃れた。賊徒を平定した後に、山宮浅間神社に磐境を設け、浅間大神を祀った。806年に、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の富士見市宮町に社殿を造営した。元々は、この地には「福地神」の社殿であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座したという。景行天皇の時代から続いた山宮浅間神社は、現在、富士見市朝日町の富知神社となっている。この富知神社の主祭神は、コノハナノサクヤ富知神社ビメの父のオオヤマツミ。また、現在、富士山という名称は、この富知神社が「福地社」「福地明神社」「不二神社」とも言われ、この神社から「富士」と名付けられたようです。
 日本と言えば、富士山とさくらが最初に頭に浮かぶ。富士山にはさくらが似合いますね。『古事記』や『日本書紀』には、ニニギが高天原から高千穂に天孫降臨し、オオヤマツミの娘、コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)をみそめる。姉のイワナガヒメ(石長比売)を拒否する。そんな神話では、結局、ニニギが岩のように永久性をのぞまないで、木花=さくらのように短期間の繁栄を選んだ。では何故、コノハナノサクヤビメが富士山の浅間神社に祀られているのだろう。富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は、江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』によると、「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとした。このことから、浅間神社の主祭神にコノハナノサクヤヒメを持ってきたと。まぁ、近世になってからそんな説がでてきた。でも、現在でも、浅間神社の大宮司は富士氏が務めている。この富士氏は、第五代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする和邇氏の末裔。和邇氏は、安曇氏とも関係が深い海人系氏族。そして、欠史八代の孝霊大王、和邇氏が開化大王に后妃2人を入れ、葛城氏の没落後に多くの大王に11人の后妃を出し、勢力を広げた。また、崇神天皇の時代の五大夫の一人、彦国葺も和邇氏。
和邇氏の祖
 浅間神社の大宮司家、富士氏の系図にこの彦国葺も記載され、神功皇后時代に忍熊皇子が反乱を起こし、討伐に遣わされた人物、武振熊も和邇氏の祖となっている。このように、和邇氏は当初のヤマト王権の軍事集団で、天皇家の維持のために継体天皇まで妃を。また、垂仁天皇の時代に天皇から神祇祭祀のことを命じられている。この時に、和邇氏は浅間神社の主祭神にコノハナノサクヤヒメを持ち出してきたのではないだろうか。ニニギが天孫降臨して、コノハナノサクヤヒメに出会う神話は、和邇氏が付け加えたのではないだろうか。


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日本国土面積 弥生時代中期における国としての体裁は、どのようになっていたのだろうか。その当時の人口と実際の住居環境は、どのようになっていたのだろうか。学問的には、歴史人口学という分野。その第一人者で、現在、静岡県立大学の学長をされている鬼頭宏先生によると、縄文時代晩期、九州北部に水田式稲作が始められた時期、日本の人口は75,800人でした。九州北部が3,000人、畿内は僅か800人という統計データーがあります。この時期、人口が多いのは、まだ狩猟採取の生活をしていた縄文人が多く住む東北地方でした。北海道を除いた本州・四国・九州の面積は、283,021㎢ですから、山岳部や川や湖の面積を考慮しないで、単純に人口密度を計算すると、10㎢当り2人~3人となります。弥生縄文時代晩期と弥生時代中期の地域別推定人口時代中期、倭国の大乱があった頃の人口は594,900人ですから、その当時の人口密度は10㎢当り21人となります。この1,100年の間に平均して各地で人口が増えたのではなく、水田式稲作が九州から西日本に普及していった課程で人口が増えている。そして、ヤマト王権が誕生する。そして、朝鮮半島から渡ってくる人達を受け入れていった。九州では、紀元前900年頃、人口が6,300人だったのが、紀元200年には16.7倍の105,100人に。それより大きな倍率で人口が増えているのが、近畿圏。紀元前900年頃、2,000人だったのが、紀元200年には50倍の100,500人に。この時期には近畿圏でヤマト王権が設立していたと思う。そのため、近畿圏で人口が増加とともに、九州と同じぐらいの勢力に成長していた。
 紀元前900年頃には、日本で人口が多かった東北ではあったが、紀元200年には西日本で人口が増加したのに対して、殆ど横ばいか減少している。その分、関東や中部での紀元前900年頃、25,400人であったが、紀元200年には10倍の259,200人になった。この現象は、東北から人口移動したのだろうか。また、諏訪湖を中心にした甲斐、信濃、飛騨で紀元200年に85,100人。九州、近畿に次いで人口が多いのは何を表しているのだろうか。中部で160,200人。ヤマヤマトタケルト王権の景行天皇の時代、4世紀の中程に美濃行幸や九州巡幸を行い、ヤマトタケルを熊襲征討・東国征討に行かせています。その当時、人口の多い九州でヤマト王権に従わない首長や大王のために派遣したのだろう。その後、東国にも。
 ヤマトタケルは、お伴に吉備武彦と大伴武日を連れて、駿河・相模や信濃・甲斐を回って、美濃から尾張に。ヤマトタケルが駿河の賊衆に襲われ、草那藝剣で草を刈り掃い、火打石で迎え火を付ける火攻めの話は、昔話として有名ですね。景行天皇・ヤマトタケルの時代に、景行天皇の軍事的部民(来目部や靫負部から大きくなった伴造として成長した大伴連)やヤマトタケルの軍事的部民(建部、吉備の出身者)を東国に派遣して、ヤマト王権の東国支配を固めた。その後、大伴氏の子孫は富士浅間神社社家や甲斐伴氏となり、鶴岡八幡宮社家や三河伴氏に、静岡県や山梨県や神奈川県に土着した。吉備氏では、飛鳥時代に吉備の笠麻呂が国司になっている。ヤマトタケルが伊吹山付近で死亡してしまい、景行天皇は、東国に叔父の豊城入彦命の三世孫、御諸別王を派遣している。この御諸別王が上毛野氏、下毛野氏の祖となる人物です。
 吉備氏は本来三輪氏族の出身であったのが、同じく三輪氏族出身の彦坐王一族(息長氏・和邇氏)や御諸別王(毛野氏)と共に大王家の系譜に結びつけられた説がある。吉備氏も息長氏・和邇氏・安曇氏も毛野氏も皇室扱いされた同族ではないか。ヤマト王権は、これらの皇族扱いした氏族の長(君または公)を国造(くにのみやつこ)に。『日本書紀』の巻第七には、成務天皇が「諸国(くにぐに)に令(のりごと)して、国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)に稲置を置(た)つ」とあり、造長は国造にあたる。この当時、ヤマト王権には、直轄地として屯田・屯倉があり、その領土を国造に対して「県」とし、その土地の管理に皇族出身のワケ(地方に領地を得た者およびその一族)に「県主」を命じた。また、ヤマト王権の県を管理及び微税官として稲置(いなぎ)を任命した。
 国造について、唯一、分析と掲載している歴史書がある。それは、平安時代初期に刊行された『先代旧事本紀』で、神代から推古天皇まで、1巻から9巻に編纂され、10巻目が「国造本紀」となっている。初代国造の任命時期と初代国造と初代国造の系譜関係と令制遺称地が書かれている。任命時期は神武天皇の時代もあり、崇神天皇の時代もあるが、その半数は成務天皇の時代で、総数は132の国造と摂津と和泉の国司が編纂されている。応神・仁徳天皇の時代もあり、最後の1国造は継体天皇の時代。まぁ、神武天皇や崇神天皇の時代に、ヤマト王権が国造の領土が存在していたかは疑問ではあるが、景行天皇・ヤマトタケルの時代から成務天皇の時代には、ヤマト王権の領土拡大があったことは間違いないだろう。
先代旧事本紀10巻国造本紀


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 縄文時代晩期に水田式稲作が九州北部で始まり、血族関係の各集落によってコメの収穫を分散して生活をしていました。弥生時代の初期までは、平和で平等な社会だったと思われます。現在でも、世界でも有数の平和国家を構築しているのは、過去の農業主体国家が長く続いた日本であり、日本人の国民性は古代より永遠と引き継がれていると思います。
銅戈 弥生時代初期から、稲作の生産性を向上させるための技術、青銅器や鉄器が朝鮮半島経由で日本に入ってきます。その技術をもたらしたのは、中国の戦国時代を生き抜いた人達で、九州北部に上陸しました。そのような技術を持った人を養うことができる、稲作の収穫量が多い集落が大規模に膨らんできます。例えば、佐賀県伊万里市の土井頭遺跡から紀元前中国のチャリオット100年頃の甕棺墓の中から銅戈(どうか)が発見されています。この銅戈は、中国の戦国時代に使用された戦車(チャリオット)に乗車して戦う敵兵を、この棒の先に付けた戦具で引きずり下ろす。そんな青銅器の道具。甕棺墓に埋葬されていたとすると、その当時の日本では戦争の道具というよりは、銅鐸と同じように祭事に使用されていたのでしょう。
 弥生時代中期から、縄文時代から住んでいた人と渡来人の同化が進み、中国からもたらされた最新の知識をもとに、大規模集落は小国家として成長していきます。そして、人口も増加し、小国家同士で稲作ができる土地や水争いが始まりました。最終的に倭国の大乱の時期を迎える。邪馬台国や卑弥呼が出てくる時代、2世紀~3世紀の頃ですね。そんな小国家の中から経済力と軍事力のあるヤマト王権が誕生します。4世紀に入ってから、崇神・垂仁・景行天皇の時代ですね。
安閑天皇の頃の屯倉
 ヤマト王権は、播磨や但馬などの近畿圏を固め、筑紫などの九州地方、出雲や吉備の中国地方を政権下に納めます。さらに、美濃や諏訪の中部に進出。そして、各地からの収穫産物を徴収することに。ヤマト王権が所持していた土地から収穫された稲や各地の産物の倉庫として、屯倉が誕生します。この屯倉が最初の意味。それが、仁徳天皇の時代、5世紀の初め頃に河内平野の交野郡三宅の郷にあった稲の倉庫としての屯倉だったが、茨田堤・依網池・和珥池・横野堤等の土木工事により、ヤマト王権の直轄地となり、開墾された土地を屯倉と呼ぶようになった。屯倉の発生は垂仁天皇の時代の大和国の來目邑屯倉とされ、景行天皇の時代の大和国城下郡三宅郷の倭屯倉がある。ヤマト王権が所有地の拡大を図ったのは、応神・仁徳天皇時代の土木工事からでした。仁徳天皇以前の景行天皇や仲哀天皇の時代、九州を中心にヤマト王権の所有地、屯倉が存在しますが、それはヤマト王権の勢力範囲の拡大により、各地の首長の所領の一部を譲渡された土地でした。神功皇后の時代、4世紀後半に三韓征伐が行われ、新羅や高句麗の捕虜を日本に連れてきて、ヤマト王権の屯倉や宮殿で働かせた。継体天皇の時代、6世紀の初め頃に百済へ任那4県割譲が行われ、新羅が任那の併合問題で新羅辺りから連れてこられた人や任那から日本に戻ってきた人達を養い、適材適所でいろいろな部署に就かせた。そのため、継体天皇の時代には、そのような人達をヤマト王権の大王のもとで土木工事や宮使いに雇った。このように雇われた者のリーダーを名代と言います。その名代の率いる集団が、大王の下で軍事行動や朝廷での仕事で働いた。この集団を〇〇部と呼び、部民制ですね。漢代から魏晋南北朝時代に軍隊組織した部曲をヤマト王権は手本にした。その部民制の集団の長を「伴造」といい、「伴」が大王に奉仕することを表し、「造」はその長を意味する。「伴造」は成務天皇が制度化した身分制度でカバネの一つ。「伴造」が朝廷から何らかの役職を受けると「連」となった。「臣」や「国造」もその当時のカバネで、各地の首長を表し、「伴造」と「連」は物部や大伴のように、朝廷に従事していた集団に与えられた。そして、允恭天皇の時代、5世紀の中頃に政務に当たるようになった「臣」と「連」の中から、さらにそのカバネの中からリーダーとなる「大臣」と「大連」が出現し、臣連制で朝廷を動かすようになった。
氏姓制度
 また、允恭天皇は各氏族の氏姓を正す政策も行っていて、朝廷の業務にあたる者に対して、新たにウヂ名を与えたりした。そして、〇〇部の長を「氏の上」とし、その集団の人を「氏人」とし、その他にその集団に従事している者を「奴婢」とした。集団内での身分制度ですね。朝鮮半島から渡ってきた渡来人にもウヂ名を与えられた。例えば、秦氏や倭文氏などがある。臣連制が確立してから、雄略天皇の時代、5世紀中後期に大伴室屋と物部目が「大連」、平群真鳥が「大臣」を務め、欽明天皇の時代、6世紀中期に大伴金村と物部尾輿が「大連」、蘇我稲目が「大臣」を務めるようになった。欽明天皇即位後に大伴金村が失脚して、物部・蘇我体制が飛鳥・白鳳時代に。敏達天皇の時代、仏教の排仏崇仏の時代、用明天皇の時代、6世紀後期に物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされる。このような臣連制が大化の改新まで続く。
 縄文時代の小集落から允恭天皇時代には、氏家といった大集団が構成されるようになった。古代史では、「氏の上」だけが注目されていますが、氏の集団には「氏の上」の血筋もいて、「氏人」のように「氏の上」に何らかの関係がある人達も、その集団に従事した「奴婢」もいた。その人達の氏名は現在と違って、「姓」と「名」の間に「の」が付きますね。これは何を表しているかと言いますと、本名は「名」の部分で、「姓」はその人が所属している集団を表していたのです。江戸時代、庶民には姓が与えられなかったので、〇〇村の〇〇と言った感じだったのですね。日本史では、この「の」がとれるのが室町時代からですか。でも、その当時はもっと複雑。例えば、徳川家康の場合、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」がウジ、「朝臣」がカバネ、「家康」が実名となる。室町時代まで、生まれてきた子に実名を付けて、その前には先祖の出所を示していたのですね。江戸時代に公家・武士だけは「姓」を名乗ることができましたが、庶民にも「姓」はあった。しかし、名乗ることが出来なかっただけでした。
名字


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