いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2021

星糞峠で採れた黒曜石
 石器時代に、鋭い石器を求め、狩りをしながら移動生活を送っていた。そして、黒い輝きのある石を発見する。黒曜石ですね。黒曜石を砕けば、鋭い矢尻にもなった。また、獲物を解体する刃物にもなった。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道遠軽町(旧白滝村)、長野県霧ヶ峰周辺(和田峠や星糞峠)、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)などの山地、海水に接して急冷される機会があった島嶼では、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県松浦市の牟田、同県佐世保市の東浜と針尾、同県川棚町の大崎などが知られる。この黒曜石の産地に縄文人が集結してくるようになった。特に山地では、クルミなどが取れて、食肉となる野生動物もいたであろう。鹿とかウサギや野鳥類。その宝庫が諏訪地域にあった。黒曜石が取れる霧ヶ峰を中心にした八ヶ岳山麓に縄文人が。
諏訪湖とその周辺
 今から30,000年前から20,000年前、旧石器時代の石器人が黒曜石の魅力を知って、この八ヶ岳山麓で生活していた痕跡が茅野市奥蓼科の渋川遺跡で発見されている。10,000年前になって、狩猟採集生活をする縄文人がこの八ヶ岳山麓に集結し、諏訪市の細久保遺跡あたりに集落を形成するようになった。また、日本最古の黒曜石鉱山、星糞峠と星ヶ塔辺りで採掘坑の痕跡が発見されている。この黒曜石鉱山で取れた黒曜石の矢尻などが5,900年前から4,200年前の青森県三内丸山遺跡からも発見されている事からもわかるように、霧ヶ峰周辺の黒曜石は良質であった。三内丸山遺跡で糸魚川の翡翠が発見されているように、縄文人のネットワークが確立していたようです。
八ヶ岳山麓の遺跡
 三内丸山地域は4,000年前ころから寒冷化と広葉樹が少なくなり、針葉樹が増えて、食料としての木の実の収穫が減少。そのため新たな地を求めて、縄文人は南下した。東北地方にいた縄文人が、広葉樹の豊富な信濃・諏訪地域まで。5,000年前頃、縄文時代中期に八ヶ岳山麓に集落が発生し、たとえば、「縄文のビーナス」や「仮面の女神」で有名な茅野市の尖石遺跡を始めとするこの地域、富士見町藤内遺跡、井戸尻遺跡、原村阿久遺跡、茅野市の駒形遺跡、棚畑遺跡、中ッ原遺跡などに、東北地方の縄文人が移動してきて、大規模な集落を形成した。この地域では縄文人の食物、ドングリなどの実や鹿、イノシシ、川魚などが生息する豊かな森が広がり、人口が増加し、「縄文の都」とまで言われるようになった。中には、黒曜石の矢や槍を使いこなす集団も出現したかも知れませんね。それが物部氏か。
守屋神社 八ヶ岳山麓の向かい側に守屋山があり、頂上に守屋神社があります。「守屋」、そうです、物部守屋を祀っています。587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋の屋敷があった河内国渋川郡に追討軍の派遣した丁未の乱。これにより、屋敷を焼かれた物部守屋は死去した。そして、物部一族は全国に散らばった。その中に、物部守屋の次男の武麿が守屋山に逃れて、やがて守矢氏へ養子入りして神長となった。元々、この山は守矢氏が諏訪大社の諏訪氏がこの地に入ってくるまでは、諏訪地方の民間信仰の神、洩矢神(もりやのかみ)を祀っていた。武麿がこの地で生活するようになって、守屋神社を祀り、守屋山と名付けるようになった。ちょっと穿った考えかも知れないが、物部氏の本拠地、河内国渋川郡の「渋川」と石器人も生活していた茅野市奥蓼科の渋川遺跡の「渋川」とは同じではないか。また、次男の物部武麿がこの地を選んだのは、物部氏の祖先は八ヶ岳山麓周辺の縄文人ではないだろうか。守矢氏と物部氏とは何らかの関係がある。


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南ツングース諸語満州語群 日本人のルーツは、騎馬民族であると唱えた人がいた。確かに、以前、日本語はアルタイ諸語のツングース語族に属していると言われていた。現在では、アルタイ諸語の日球語族となっている。1968年に、中央公論新社から発行された江上波夫さんの『騎馬民族国家日本古代史へのアプローチ』では、東北ユーラシア系の騎馬民族が朝鮮半島を南下して、伽耶地方を支配し、任那を基地に日本列島に入り、4世紀から5世紀に、大和地方の王朝を支配、或いは征服し大和朝廷を樹立した。騎馬民族征服王朝説ですね。江上波夫さんは東洋史学者の観点から、そんな風に唱えられたと思う。その当時、かなり説得力があって、日本人の祖先は遊牧民族だったと理解された方もおられたようです。
 日本人の起源は、新石器時代まで遡り、バルカン湖辺りから日本列島に。そして、東日本に縄文文化を築いた。その後、少し遅れて西日本には、東アジアから黒潮に乗って、日本列島に上陸した南方系縄文人。その北方系縄文人と南方系縄文人の混合が原始的日本人。それが、紀元前1,000年頃から中国の山東半島辺りからと朝鮮半島経由で日本列島に入ってきた。その人達は、日本で稲作を始め、中国の「邑」のように一族で共有の農地を開拓し、集落を形成して、周壁を築いた。最初は、縄文人の侵入を防ぐため。それが、永い歳月の間に、従来の縄文人と同化していった。
殷王朝と異民族 紀元前1,000年頃の中国は、殷王朝が周王朝によって滅ぼされた頃で、殷の残党は山東半島の異民族地域とか揚子江下流地区とか遼寧省や遼東半島周辺に。そして、それらの異民族と同化し、殷の青銅器文化を伝えた。その中に、殷の最後の王、帝辛の叔父にあたる箕子という人物がいて、現在の遼寧省あたりを治めていた。殷王朝が滅亡してから、箕子朝鮮を建国。この遼寧省辺りの異民族は、新石器時代の紅山文化で栄えた土地で牛河梁文化発祥の民で、文化水準が高く、箕子の時代には、殷から流れてきていた青銅器も製造していた。それがこの遼寧省辺りを周王朝の燕が支配するようになって、箕子は朝鮮半島に。青銅器を習得した異民族は、箕子政権とともに南部朝鮮まで南下し、馬韓や弁韓に。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃、伽耶地域から日本に青銅器を伝えた。
4世紀頃の百済と前燕二号鞍金具 遼寧省や遼東半島周辺の異民族は、4世紀前半に百済を建国する。当初の百済は、鮮卑が建国した前燕(遼寧省や遼東半島周辺)と隣国関係にあるほど大きな国でした。当然、殷王朝に関わりある遼寧省や遼東半島周辺の異民族の繋がりがあったと思う。前燕時代(337年から370年)の朝陽市北票市の喇嘛洞IIM101号墓から遊牧民族の鮮卑が使う馬具、龍文透彫鞍が出土され、その馬具を製作したのは、百済に関係がある職人だったのだろうか。応神天皇陵の誉田丸山古墳の2号鞍と同一の馬具なのです。それでも、遼寧省朝陽市で作られた馬具が日本にあることは、南部朝鮮に遼寧省からやって来た人が製作したか百済からの贈り物だったのか。江上波夫さんの騎馬民族が大和朝廷を樹立したという論理は、言い過ぎかも知れないが、仲哀天皇・神功皇后時代に新羅と手を切り、百済と友好関係を結んで、南下する高句麗と戦ったのはうなずける。
 日本に青銅器が伝わった紀元前3世紀から2世紀の時代に、弁韓から遼寧省や遼東半島周辺の異民族が日本にやって来ている可能性はあり得る。佐賀県の吉野ケ里遺跡は紀元前4世紀頃から吉野ケ里丘陵に集落ができはじめ、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土し、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるもの、さらに銅鐸も発掘されている。この吉野ケ里遺跡から出土した巴形銅器や細形銅剣と酷似している出土品が、伽耶の金海貝塚から。その他に、弥生時代にあたる韓国靭島遺跡から、抜歯をした人骨やイモガイの腕輪や日本の弥生土器(須玖I式、II式土器など)が多数出土し、恐らく日本人が移住していたとの研究結果もある。吉野ケ里で生活していた人は、遼寧省や遼東半島周辺の異民族だったかも知れませんね。


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 古事記の神話で、どう見ても渡来系の神が現れる。アマテラスとスサノヲが剣と玉を交換したときにアマテラスの玉から生まれたアマツヒコネ。この神の子にアメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とヒメコソミコト(比売許曽命)がいる。アメノマヒトツノカミは製鉄・鍛冶の神で、『播磨国風土記』に農耕民の地元の道主日女命を娶って、意富伊我都命を生む。凡河内氏の祖・彦己曽保理命の父にあたる。物部氏とも関係が深い凡河内国、後の河内国、和泉国、摂津国を支配し、大阪湾を囲んでいたため、ヤマト王権では大阪湾に侵入する渡来人の管理と統率を担っていた。また、近江国野洲郡三上郷出身の三上氏も末裔としているので、中臣氏や物部氏が琵琶湖北湖に本拠地を置いていたことを考えると、凡河内氏・三上氏は物部氏の手下。大和朝廷が成立してからは、両氏も公家として宮中で仕事をし、凡河内氏は、ヤマト王権の時代から朝鮮との外交の役目を果たした。大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号にあ坐摩神社る坐摩神社は、日本の名字、渡辺の発祥地とされ、この渡辺も凡河内氏の末裔である。そのように考えると、製鉄や鍛冶に強い渡来人で、どうも任那の伽耶地方から日本にやってきたのではないか。物部氏が秦氏と関係があるように、凡河内氏も物部氏が伽耶から連れてきたかも知れない。『日本書紀』では、崇神天皇65年7月に蘇那曷叱知が任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。4世紀の初めの話。壱岐のカラカミ遺跡から鉄を加工したり生産したりするための炉や鉄片が発見されたが、その炉や鉄片は1,700年前のもので、その当時に凡河内氏の祖先が日本にやって来たと思う。
 アマツヒコネの子、ヒメコソミコトは、『古事記』応神天皇記では新羅王の子であるアメノヒボコの妻となっているアカルヒメノカミ(阿加流比売神)で、赤い玉の神話の娘。ある日奢り高ぶったアメノヒボコがアカルヒメノカミを罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げた。アメノヒボコは、日本まで追いかけて来る。『日本書紀』垂仁天皇紀では、伽耶王の子である都怒我阿羅斯等が持ち牛を殺され食肉にされた代償に得た白石が美しい童女と化し、難波の津に逃げた話。この都怒我阿羅斯等がアメノヒボコであり、その白石の童女がアカルヒメノカミ。また、崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着し、都怒我阿羅斯等が伽耶に帰るときに、垂仁天皇は崇神天皇の諱「みまき」を伽耶の国名にするように伝え、伽耶国王に赤絹を贈った。この「みまき」が任那の語源とされている。
応神天皇記の系図 よく似た話が『日本書紀』にダブって掲載されている。蘇那曷叱知と都怒我阿羅斯等とは同一人物。神話のアメノマヒトツノカミと『古事記』応神天皇記のアメノヒボコは、同一の神となる。この都怒我阿羅斯等ですが、「都怒我」は「角鹿(つねが)」の語源で、敦賀に転じた。福井県の敦賀湾に南部朝鮮から渡来してきたことを表している。伽耶や新羅の人達が渡ってきた。その人達は製鉄や鍛冶に優れた能力のある人や新羅・百済・高句麗と交渉できる人だった。アメノヒボコは、南部朝鮮から流れてきた集団の象徴として記紀に掲載されている。そして、アメノヒボコの子孫は但馬国に留まり、ヤマト王権に仕えることになる。その子孫に、『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」と言う人物が登場し、古代三宅氏の祖となる。三宅氏は、ヤマト王権の直轄地(屯倉)から来ていて、その屯倉で警備を担当していた。また、田道間守が垂仁天皇の命により、常世の国から不老不死の妙薬、橘の実を持ち帰ったことから、橘氏の祖ともなっている。
 崇神天皇・垂仁天皇の時代、3世紀後半から4世紀前半の南部朝鮮は小国がひしめいていた。任那と新羅の境がはっきりしなかった時代。新羅は高句麗の侵略を受けて、おおよそ洛東江を境にして東側は新羅、西側は伽耶として異なる政治的・文化的な領域を形成していた。そこに、製鉄の原料、鉄鉱石を求めてヤマト王権が侵入してきた。狗邪韓国(金官国)に人員を送っていたと思われる。そして、284年に慶尚北道星州郡星州面に侵入して、集落に放火して周り、1,000人を捕虜にした。その頃、ヤマト王権は百済と手を結んで、高句麗の南下政策に対抗しようとしていた。そして、300年に新羅から使者が送られてきて、ヤマト王権と新羅が和睦している。その頃の話が、アメノヒボコの説話になったのではないか。4世紀後半になって、任那に侵略するので、新羅に兵を送った。この時代のことが神功皇后の三韓征伐として語られている。

4世紀頃の任那


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 中国側から日本を表すのに「倭」を使用し、この表現は紀元前1,000年頃、周王朝から独立し、呉を建国した太伯・虞仲時代からのようです。その当時の倭人の風習は、髪を短く切り、刺青をする。これは、海に潜って魚を捕る素潜りのため。この様相は、呉国の海岸線の人達とよく似ていた。そこで中国では、太伯の子孫が日本に渡って倭人になったと言い伝えがある。「倭」に対して、そんな意識が紀元前後の漢王朝でもあった。また、そんな後漢の時代には、楽浪郡をはじめとして、山東半島の対岸である朝鮮半島東北部も支配していた。その当時、中国、後漢は、日本列島に一番近い国家であった。
2世紀の後漢
 日本では、まだ全国的に統一された国家らしきものはなかった。神武天皇が存在していたと主張する古代史愛好家は、そうとは思わないかもしれないが、あるとしたら、小さな国だった。朝鮮半島でも、高句麗が楽浪郡を占領するまでは、馬韓や弁韓や辰韓も小国ばかりだった。その中には、楽浪郡と交渉権を持った国があったと思う。このような三韓の小国と関係があった日本の小国家。そんな日本の国は、楽浪郡と交渉するに当たって、日本の代表、中国からすると、倭国と名乗った。南部朝鮮も含めて、日本の代表権、中国側からすると、倭国の代表権を争ったのが、2世紀後半の倭国大乱でした。日本の小国同士の争い。その範囲は、九州全土と下関から出雲に掛けて、そして瀬戸内海の沿岸。この時点では、ヤマト王権は蚊帳の外だったと思う。後漢との交渉権を争った小国が、邪馬台国の卑弥呼を女王にすることによって、倭国大乱は治まる。この大乱の時期は、中国では後漢の時代で、第11代桓帝と第12代霊帝の時代だと言われています。個々の小国が楽浪郡、桓帝や霊帝とのお目通りを目出して、日本の代表権と南部朝鮮支配を願い出た。それで、卑弥呼によって成就するのですね。
邪馬台国とその周辺国
 卑弥呼が女王になった頃、霊帝の末期に中国では黄巾の乱が起こり、魏・蜀・呉の三国時代を迎える。189年に霊帝が崩御、220年に後漢が滅亡して、日本としては魏と交渉することになる。魏が238年に楽浪郡を接収すると、卑弥呼は楽浪郡に難升米を派遣する。247年に狗奴国との戦いで、魏に応援を依頼している。そして、248年に卑弥呼が死去。魏も265年に滅亡し、西晋が魏の後を継いだ。その頃になると楽浪郡も313年に高句麗によって滅ばされる。それ以後、西晋は朝鮮半島の実権を失う。そして、西晋は291年から始まる内部分裂、八王の乱からにより316年に洛陽が陥落して、長江より南の江南に移住して東晋を建国した。また、その頃には邪馬台国の存在も消えてなくなっていた。
西晉軍鎮及八王封國分布圖
 南部朝鮮支配を願っている倭国の小国の首長達は、魏の後ろ盾をなくすことになる。魏が倭国の小国を把握していたのは、弁韓の狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国等の邪馬台国の関係国、その他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。これらの国が邪馬台国で統一しかけたが、魏や西晋の後ろ盾がなくなったことで、狗奴国やヤマト王権が日本の統一に向けて動き出す。それが、空白の4世紀と言われる時代です。
4世紀頃の中国
 さて、大和朝廷が編纂した『日本書紀』では、紀元前600年頃から政権を持続していたと言わんばかりに、神武天皇がその頃、奈良の橿原で即位したとなっている。そのため、実際年数と100年ほど食い違ってくる。戦前では、倭国大乱は景行天皇やヤマトタケルが九州に出向いて、戦ったという認識であった。卑弥呼においては、神功皇后ではないかと。実際はどうだったのだろうか。2世紀後半頃にはヤマト王権は存在しなかった。或いは寄せ集めの集団的存在。卑弥呼が死去した頃、奈良の大和国で崇神天皇が王権を誕生させた。空白の4世紀になって、景行天皇・ヤマトタケルの時代から仲哀天皇が九州を平定させ、念願の南部朝鮮の支配を目的として、神功皇后の三韓征伐がある。5世紀の始め頃に、ようやく、魏の後見国、南朝の東晋、梁などと交渉権を得られた。それが、倭の五王の時代です。その交渉権の主な目的が、やはり南部朝鮮の支配だったのです。南部朝鮮には、鉄の原料、鉄鉱石が大量に存在していましたからね。倭の五王は、ヤマト王権のスメラミコトではありますが、中国南朝の国王に対して、倭国の代表としていた。


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チャノキ 日本茶は、世界でも例のない製造方法で作られています。それは、原木のチャノキの葉っぱを「蒸す」という工程です。それは、酸化や発酵を防ぎ、蒸し終わった葉っぱを乾燥させる。そのことによって、緑茶が出来るわけですね。乾燥させた茶葉にお湯を注ぐ。私達がよく飲むお茶が出来上がります。原木のチャノキは、ツバキ科ツバキ属の常緑樹で、野生では熱帯から温帯のアジアに広く分布している。インド北東部のダージリン地方、台湾やセイロン島中央の山地といった高所の栽培に向いている。寒さの霜に弱く、酸性土壌に適している。日本での栽培は、酸性土壌であり、山地の多い日本には向いていますが、寒さだけに気をつけて栽培されているようです。そのため、11月頃になると、チャノキの株元に藁を敷いて、冬の茶畑冬の寒さや霜に備えます。
 日本茶として定着したのは、安土桃山時代に千利休が武家階層にわび茶を浸透させ、茶道を確立させてから。しかし、鎌倉時代に禅宗を広めた栄西が中国から持ち帰った茶を九州筑肥背振山に植え、1214年に抹茶とともに『喫茶養生記』を源実朝に献上し、武士階級に茶が広まる足がかりとした。この抹茶は、緑茶を石臼でひいたお茶。栄西から禅を学んだ明恵は、宇治の地に茶を植えた。これが宇治茶の起源と言われている。お茶を飲む抹茶習慣とか製造とかは、平安時代の遣唐使が薬として日本に持ち込んだ。804年に空海や最澄も茶の知識を最初に書いた『茶経』を持ち込み、茶の習慣を広めようとしたが、公家の間でも浸透しなかった。それ以前、奈良時代に聖武天皇が729年に、宮中に100人の僧侶を集めて大般若経を講義し、その2日目に行茶と称して茶を賜ったと伝えられている。その当時の中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の微発酵茶と考えられ、薬として飲むぐらいのものとしか認識していなかった。中国のお茶は、日本の緑茶と違って、茶の葉っぱを釜ゆでするため、微発酵していてお茶の色はブラウンで、この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色となる。日本でも、中国から輸入したときは、釜ゆでしたと思う。たぶん、朝鮮半島南部と北部九州が交易を始めた頃、紀元前後にはチャノキが入ってきていたと思われる。
緑茶 日本人がお茶を飲む習慣は近世からだと思うけれど、お茶の習慣もそうだけれど、お酒を飲む習慣も日本人にはありますね。3世紀末に発行された『三国志』の魏志倭人伝でもコメから作られる酒を倭人は嗜んでいたとある。その当時には原料としての豊富なコメであり、きれいな水も日本にはあった。でも、日本酒を製造する工程で「蒸す」という技術がなければ酒は出来ない。この「蒸す」という技術は日本茶を生産する上でも必要。土製蒸し器土製蒸し器、甑(こしき)は、甕という湯を沸かす土器とともに用い、甑の内部の底に布などを敷き、その上に米などの調理物を入れる土器。そして、湯を沸かす甕の上に乗せて蒸す。この甑は、中国では稲作で知られている河姆渡遺跡などで出土している。祭事などでコメを蒸し、餅を作るのに使っていたのだろう。それに朝鮮式のかまど(堀込炉)が必要でした。このかまどは、鉄器の製造にも使用された。それが、福岡市西新町の西南学院高等学校南側にある吉村韓竈病院新築工事にともなう発掘調査、1992年に行われ、竪穴住居と堀込炉、甑、甕が発見された。この西新遺跡には、3世紀の中程に朝鮮半島南部から渡ってきた人達が住み、日本でほとんど製造されていない鉄の板、鉄鍵を生産していたことが発掘調査で示された。
 古代中国、神農の時代、紀元前2,700年では、チャノキは薬草として食べられていた。そして、中国の神話なので、お茶を飲むようになった起源がハッキリしないが、「神農がお湯を飲もうとしたとき、偶然、茶の葉っぱが入ってきて、いい香りと旨味を覚えた」とある。紀元前59年に王褒によって書かれた『奴隷売買契約書』の中に「武陽買荼(武陽で茶を買う)」が出てくる。漢の時代には中国では、お茶を飲む習慣が既にあったと思われる。日本では、『日本後記』の815年の条に「嵯峨天皇に大僧都、永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが最初のお茶についての記事です。奈良時代から平安時代に掛けての、遣隋使・遣唐使の方々が中国に渡って、お茶という嗜好品を日本に持ち帰ったのでしょう。この辺りのお茶は、茶の葉っぱを釜ゆでして作られていたと思います。3世紀中期ころの蒸し器、甑は、時代が進む間に蒸籠に進化し、鎌倉時代頃から茶の葉っぱを蒸すようになり、日本茶の緑茶が完成していった。中国にも緑茶はあるが、製造の段階で釜炒りし、日本の蒸すとはちょっと違う。
 お茶の成分には、タンパク質、ビタミンB₂、葉酸、ビタミンC、カフェイン、タンニン、テアニンが含まれています。最近、問題になっているコロナ禍においては、お茶に含まれているタンニン(カテキン類)が抗菌作用を持ち、2020年11月27日に奈良県立医科大学の発表によると30分でほぼウイルスが不活化したとのこと。欧米諸国に比べて、コロナ禍の患者数が少ないのは、お茶を好む国民性からでしょうか。


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