いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2020

 人の名前をあらわす表現に氏名と姓名があります。氏名という表現は、公文書に使われ、姓名は一般的に名字を表します。氏名と姓名を使い分けされています。氏とは、古代の氏(うじ)として男系祖先を同じくする同族集団から来ていて、古代中国では同一の先祖から出た血縁集団(姓)から分れ出た小集団を表し、居住地や職業、一族の中の社会的序列などによって独立した集団でした。姓は古代の姓(かばね)から来ていて、大化の改新以前、天皇から賜与された名前や地位で、ヤマト王権が成立してから世襲制が牽かれるようになった。また、古代中国では血縁集団を表し、その漢字により地位・階級を示した。公文書で氏名が使われているのは、現在でも家族形成が父系を中心に行われていることを表していますね。
 ヤマト王権が成立以前は、母系の血縁関係+渡来系男子によって集落が結成され、集団は田を耕し、平等な集団生活を送っていたと思う。そして、その地の地名を姓で表されていた。それが古墳時代草創期には、各集落の貧富の差や特殊性が現れ、大きな集落となり、その大集落を支配するリーダーが出現、主導的立場にある家の家長が「氏の上」(うじのかみ)となった。その「氏の上」がヤマト王権に従うようになって、天皇から姓氏を賜ることになる。「氏の上」が支配する領土では、「氏の上」の祖先を氏神として祀られた。
中臣氏と物部氏の領土
 物部氏の場合、氏神はニギハヤヒで、ニギハヤヒを祀る集団は「氏の上」である十千根が垂仁天皇から物部という姓氏を賜り、カバネも「連」となり、物部連を名乗る。「部」とは職業や王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌を表し、物資を支給する「部」として名付けられた。軍事の意味合いもあった。その頃の物部の集落は、生駒山をはさんで河内の地と大和の地に〇〇物部連として存在していた。この頃には、田植えを生活の糧とし、その他に各集落で特技としての分業が行われていた。ヤマト王権からの要望で、商品の献上や軍事や災害の人員もこの物部の集落から調達していた。このそれぞれの物部連は、天皇家が畿内の大和に政権を樹立する前から河内・大和の地に。継体天皇の時代、527年から528年頃に九州で磐井の乱が起こり、物部麁鹿火は筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫から人民を送り出した。そのことからも、畿内に移り住む以前は、特殊技能を所持し北部九州を拠点に、朝鮮半島や中国との交流もあった氏族だったのでしょう。
 中臣氏の場合、氏神はアメノコヤネであるが、物部氏と同じぐらい古い氏族で、神話で天地開闢したとき、最初に現れる神、アメノミナカヌシから来ていると言われ、ヤマトタケルの子、仲哀天皇の時代、中臣烏賊津使主に亀卜の術に達したとして、卜部の「部」を与えている。中臣の姓氏は、「中つ臣」の略で、神と人との仲介をするという意味で付けられた。朝鮮半島から伝わった亀卜の術で天皇と豪族の間を取り持った。神功皇后の時代、仲哀天皇の急逝に際し、神が神功皇后に乗り移り、神主にな祭事場る。その時に中臣烏賊津使主に審神者(さにわ・祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者・神を祭り、神託を受けるために忌み清めた庭)を務めさせている。中臣烏賊津使主を祀る審神者神社が福岡県久山町にあることからも、中臣氏は物部氏と同じように北部九州の出身であることがわかる。それと、中臣氏は物部氏と関係が深い。というのは、崇神天皇の時代に、疫病が流行したことがあり、人民が多くなくなった。そこで、崇神天皇は、大和の神、大物主神をまつるため物部の伊香色雄命を神班物者(神に捧げる物を分かつ人)に任命し、その疫病騒ぎを治めている。物部氏も呪術を習得していた。そんな伊香色雄命の娘、新川媛命が中臣烏賊津使主の妃。中臣氏と物部氏は、何らかの関係があった。物部氏が畿内に進出した際にも、中臣氏も畿内に進出し、中臣〇〇連を形成している。物部氏の近くで。また、ヤマトタケルの東国遠征に対しても物部氏と共に参加し、東方に勢力を伸ばした。
吉野ヶ里歴史公園の祈祷師の様子 中臣氏は、亀卜の術を武器に集落の祭典に呼ばれ、呪術により集落の将来を占い、そして、その集落をものにしていった。物部氏は、鉄の鍛冶技術を始めとして、織物などの技術を朝鮮半島から入手し、職人を養う経済力を持ち、いざとなれば軍事力を背景に領土の拡大を進め、天皇家と対等の政治力を持つ存在だったと思う。日本書紀には、中臣鎌足や物部守屋の祖先として、烏賊津使主や伊香色雄命などが系図上出てくるが、それは作られた人物か、中臣や物部という集団の誰か、という可能性がある。


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 太古の時代、稲作が浸透していく過程で、生活や経済基盤として血縁関係にある一族の集団が形成されていった。水田の土地や水路の確保が集団規模を決定し、各集団での争いや婚姻関係により、大きな集落が九州を中心に中国・四国地方、更に近畿地方へと広がっていった。これが紀元前900年から紀元前500年頃の出来事です。稲作の進展と共に集落の拡大が始まった。
 集落での結束を図るために、自然崇拝の信仰(例えば岩、太陽、山など)が行われ、そこにその集団独自の神が存在していく。集落の真ん中にはその神を祀る祭壇が設けられた。その祭壇は、大きな岩を設置したり、木材を立てたり。そこで、イネの収穫の豊作を願い、川の氾濫などの災害からのがれるための祈祷などが行われた。
 紀元前500年頃から、稲作の発展により人口が増加。同じ神を信仰する集団の分割が始まる。そして、ある程度の地域に集落が拡散。それでも、同じ神を信じる同士の信頼関係があり、その規模が大きくなって小国が形成されていく。そこには血縁関係の正統性などから、その各集落を取りまとめるリーダーが出現。各地に大王が出現。これが紀元前200年頃。この頃に人口が倍に増えています。小国の出現は、九州だけではなかった。
紀元前後の人口推計
 紀元前200年頃から、鉄器や土木技術を持った渡来人が中国大陸や朝鮮半島から九州へ。青銅の鏡や銅鐸の生産が始まり、集落の祭壇に飾られるようになった。人口の増加に伴い、小国間で土地や水争いが始まる。また、中国から神仙思想が入ってきます。不老不死の仙人が棲むというユートピア、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹を求めて、東へ。ある集団は九州から畿内に移動。これが西暦100年から200年頃。畿内には異なった神を崇拝する集団が集落を。その集落には、従来からその地で生活していた人達と先進な頭脳を持った人達の集団生活が始まる。
古代の階級 畿内での集団生活から、住民に格差が生じ始め、先祖から崇拝してきた神(氏神)に近い血縁関係のあるリーダーが氏上となり、その親族が氏人、鉄器や土木技術などを持った部民、そして使用人としての奴に分かれていった。畿内に移動した中に天皇家も含まれ、ヤマト王権の基礎が築かれた。また、その畿内の集落には、氏神を祀る神社が建てられ、本殿には剣や鏡が信仰の対象物として設置された。これが西暦300年頃で、古墳が出現し始めた頃。畿内は、このような状況ではあるが九州や中国地方では、その地に留まった一族もあり、小国の大王として存在していた。
 西暦300年頃から、権力の象徴として古墳が築造されていきます。氏族の長の墓として。現在でいう宅地の開発で山を切り開いたりするわけですが、この古墳時代も田園地の開発や水路の構築のため、氏上の命で土木工事を行い、土を盛り古墳にし、余った土で埴輪を焼き、周辺の氏族に権威を表した。その傾向が大和や河内に普及、さらに吉備や筑紫に普及していった。それも急速に。さらには朝鮮半島の任那まで。
古墳出現期
 権力の象徴として早い段階で古墳を築造したヤマト王権は、西日本の制定と東日本の開拓を始める。各地の大王や氏上に姓(カバネ)として連(むらじ)という位を与えた。この位は、氏神を祀っている大集落に与えられ、そこに氏族の名前が付けられた。たとえば、大阪の茨木市太田地域の連には、太田中臣連。東大阪市にある枚岡神社辺りの連には、平岡中臣連。交野市の私市にあるニギハヤヒが天孫臨降したといわれる磐船神社辺りの連には、肩野物部連。
氏姓制度
 このように古墳時代には、氏族の台頭とともにヤマト王権は、氏族に連という地位を与え、政権を維持しようとした。ニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)を氏神としていた集団には物部という氏族の名前を与え、その中に物部尾輿や守屋親子がいた。また、中臣連の氏神はアメノコヤネで、その中臣連に中臣鎌子がいた。仏教が百済から入ってきたときに、崇仏派の蘇我稲目と戦った物部尾輿や中臣鎌子は、氏神を重要視する排仏派だったのですね。これは欽明天皇の時代で、西暦500年代のことですね。
崇仏派と排仏派
 古墳時代初期には、豪族という存在がまだ少なかった。それが、ヤマト王権が全国の小国を征圧して、姓という地位を与え、それに氏族の名前を与えたか、或いは以前から名乗っていたか。その集落全員が同じ名前、氏族名を名乗るようになった。

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 神武天皇が橿原の地で天皇に即位し、三輪山を支配していた大物主神または、三嶋湟咋(加茂建角身命・八咫烏と同一神)と玉節姫から生まれた娘、媛蹈鞴五十鈴媛を皇后に迎える。記紀ではそのようになっていますが、実際には神話の世界での話。この神話を2世紀から3世紀のころを想定してみると、現在の大阪府三島地域を支配していた大王が存在していた。それが賀茂氏であったか、定かでない。三島地域の遺跡や古墳をひもといてみます。
三島地域の遺跡群
津之江南遺跡の石器 最初に、津之江南遺跡から。この遺跡が発見されたのは、高槻市が新たに津之江北町7 に小学校を建設した1972年8月から10月のころでした。その遺跡調査高槻市教育委員会から1976年に報告されています。郡家今城遺跡でも発掘されていますが、この津之江南遺跡も旧石器時代の矢尻が発掘されています。旧石器時代、縄文時代、弥生時代とこの地で生活をしていた人たちがいたということです。この津之江小学校のすぐ近くに稲荷神社があり、その神社の由来は、継体天皇の子で、安閑天皇(母方がその当時、ヤマト王権で国造を務めるなど勢力があった尾張連の尾張草香の娘)に、その当時の三嶋県主、三嶋飯粒(スクナビコを祖とし、鳥類を飼う役どころにあった鳥養部の鳥取氏)が、屯倉として竹村屯倉(竹村の地40町からなる土地を献上)の一部として提供した。土地だけでなく、民の労働力も安閑天皇に献上したのですね。津之江南遺跡は、継体天皇の事実上の古墳、今城塚古墳からも近5000年前の河内湖く、古墳の築造の時には、この辺りの住民が労働力として参加したのでしょう。また、この辺りをアジャリの森と言われ、このアジャリは大河内味張のアジハリが訛ったとされています。この大河内味張(アマツネコを祖とする凡河内氏)は、三島全体の国造を務めていた。それが、安閑天皇が皇后のために屯倉を増やす政策に従わないで、自分の領地(大山崎辺り)は米を生産するのに相応しくない土地と嘘をついた。それが、大伴金持を同行させて、安閑天皇がこの地を視察。実際には、竹村村のような良田だったのです。その嘘を付いた罪で、大河内味張の領民が、春と秋に分かれて500人を津之江南遺跡の隣の五百住(よずみ)に住まわせた。現在でも、この地名は残っています。
 現在の高槻市津之江辺りは、住宅地となっていますが、継体・安閑天皇の時代には、河内湖の北端で筑紫津と言わ2000年前の河内湖れていました。九州北部から畿内にやって来て、この地に舟を着かせたのでしょう。この地に渡来人がやって来る港の役割を果たし、なかなか栄えていた土地柄だったようです。その津之江には、もう1500年前の河内湖一つの神社、筑紫津神社があります。スサノオの命が筑紫よりやって来て、この地で仮宿をしたという伝説が残っています。
 約2,500年前、稲作技術をたずさえた開拓者たちが安満山を望む葦辺に水田を拓き、先住の縄文人たちと共生するなかで、新たな弥生文化が華ひらきました。それが安満遺跡です。三島地域で最初に米作りの集落ができたのが安満(あま)です。高槻市には、五百住もそうですが、現在では読めない地名がたくさんあります。漢字が中国から入ってくる前から、この地域を「あま」と呼んでいたのでしょう。漢字が入ってきたのが西暦200年から400年頃、正式には仏教が日本に伝来された頃、それ以前から漢字文化が入ってきていたと思われます。あまを「安満」という漢字に当てはめたのは、安らかに満ちた土地という意味合いがあったのでしょうか。現在、安満山の中腹には高槻市公園墓地があり、そこから眺めた麓には、安満遺跡が広がっています。この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていました。安満古墳群も存在します。全体では東西1500m、南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている貴重な遺跡です。以前、京都大学農学部の農場があった場所から、多数の弥生土器、青銅製の矢尻や木製の農具、珍しい漆塗りのカンザシやクシ、勾玉などの装身具などもみつかっています。現在、京大農場は高槻市に譲渡され、安満史跡公園として生まれ変わろうとしています。
安満の水田のイラスト
安満古墳の銅鏡 この安満地域に縄文時代から人が生活し、弥生時代になって、九州北部から稲がもたらされ、渡来人が筑紫津などから渡来人が鉄器なども伝え、そこには小国家が生まれただろう。そして、大王も存在していたはず。そして、西暦300年頃から古墳時代が始まる。時の流れによって、そんな大王も変化していった。当初は、縄文系の人。稲作が入ってきた頃には、海人系(例えば、尾張氏や津守氏など)と天津神系(例えば、中臣氏や賀茂氏など)。鉄器が入ってきた頃には、国津神系(スサノオを崇拝している天神山遺跡の銅鐸氏族)や息長氏系(継体天皇も息長氏系だと思う)。西暦200年頃から、渡来系或いは北部九州の人達がこの三島地域に移り住んだ。天神山遺跡には、銅鐸が出土していますし、安満宮山古墳では、邪馬台国の卑弥呼が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部、三角縁神獣鏡が出土しています。この地域では古い、3世紀末の弁天山古墳群の岡本山古墳から北部九州でも発見された内行花文鏡、弁天山古墳からは中国製の二神二獣鏡や四獣鏡や三角縁三神三獣鏡が出土されている。普通、同じ遺跡や古墳から銅鐸と三角縁神獣鏡が出土することがない。この三島地域が、縄文人系から渡来系まで、入り交じっていて、そこには各大王が存在していたと思われます。
弁天山古墳の鏡 安満遺跡から東に行ったところに、磐手杜神社がある。この「安満」にも藤原氏が実権を握っていたようで、この神社は藤原鎌足が666年に創建した神社。当初は安満神社といっていたが、藤原氏が平安時代中期まで実権を握っていた時代、12世紀頃には、磐手杜神社と言う名所は春日神社と言っていたようですね。中臣氏に関係が深いタケイカヅチの命、アメノコヤネの命などを祭神として祀っている。それから、藤原鎌足が亡くなった時に、最終的に高槻市の阿武山に埋葬したそうです。1934年に京都大学地震観測所を建設する際に阿武山古墳(摂津安威の地)が発見されて、当時撮影されたX線写真などから、金糸で刺繍した冠帽と玉枕(現在、復元されて今塚古代歴史館に展示されている)が添えられていた。大織冠だった藤原鎌足の大冠帽子藤原鎌足が有力視されている。確かに、藤原鎌足は摂津安威の地に葬られた。その後、長男の定恵(藤原不比等の兄で僧侶として遣唐使になった)が奈良県桜井市の談山神社に遺骨を移したとされている。中臣氏の出身地は、三島地域ではないでしょうか。
 天智天皇崩御の後、大海人皇子がアマテラスを立てて、大友皇子から政権を奪い取った。そして、天武天皇として即位。この天武天皇を支えたのが藤原不比等で、天津神と国津神を分けて、天津神系を優位にしたのも。また、藤原不比等は、皇室に娘を嫁がせて生まれた子が天皇になり、平安時代には藤原氏が摂政として実権握った礎を築いた。そんな藤原不比等の出身地が「安満」だとするなら、「あま」という漢字が入ってきていない時代に何を表していたか。天津神の象徴、アマテラスも「あま」が付いている。ひょっとしたら、天照大神ではなく、「安満を照らす神」ではなかったか。また、尾張氏と関係がある海部氏は、京都府宮津市で元伊勢神宮の一つとして籠神社を建立している。籠神社もアマテラスを祀って、その海部氏の海部も「あま」とも読める。海部氏もこの三島地域が出身なのだろうか。大海人皇子がアマテラスを立てて、壬申の乱を起こして勝ち抜いた。その時に応援を依頼した尾張氏や安曇氏などもこの三島地域に関係が深い氏族だったかも知れない。大海人皇子に付いたのは、皇族、皇親氏族、近江朝廷から疎外された一流豪族や、かなりの数の二流豪族、畿内(きない)の下級豪族や東国の地方豪族であった。その応援部隊は、アマテラスの合い言葉によって集まってきたとすると、三島(安満)地域出身か関係が深い豪族だったかも知れませんね。


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大湯環状列石 ウッドサークルを取り上げる前に、サークルの起源、ストーンサークルを。日本でも、最初に発見された北海道小樽の忍路環状列石、それに続くように東北秋田の大湯環状列石が有名で、おおよそ縄文時代中期後半から後期、紀元前2,000年~紀元前1,000年の間頃に作られている。環状列石をサークルと言っているわけですが、直径5m~10mの範囲で円形に石が並んでいる。その内側では、縄文人が祭壇を設置し、薪をして神に祈りを捧げた祭事の場だったのでアファナシェヴォ文化の領域す。このストーンサークルの発祥の地は、紀元前3,500年から紀元前2,500年頃に中央アジア北東部からシベリア南部にかけての半遊牧・牧畜民、コーカソイドが築いたアファナシェヴォ文化だと言われています。その後、シベリア南部はモンゴロイドのオクネフ文化がストーンサークルを引き継いだ。これが紀元前2,000年頃です。オクネフ文化を築いたのも牧畜や漁労民だった。北海道、東北に現れたストーンサークルは、狩猟と漁労を中心にした民だったのでしょうか。
 円形内部で祭事を行う習慣はストーンサークルから始まったが、狩りや魚の収穫で生計を立てていた。その後、寒冷期が過ぎて暖かくなり、東北の縄文人は、気候の変化により亜寒帯性の針葉樹林からブナやナラなどの落葉広葉樹林が茂るようになり、ドングリやクリの採取をはじめた。そして、栽培も手がけ、狩猟が減少した分、その栽培で補った。この頃が縄文時代中期。紀元前2,000年頃。西日本、特に琵琶湖周辺、中部の諏訪湖周辺では、大集落が出現し、堅果類のアクを取って貯蔵、煮たりするのに土器が必要となった。土器だけでなく、土偶の生産も始まり、祭事で使われる土偶だけでなく、土面も制作された。このような近畿圏のクリなどの採集は、東北では、縄文時代後期、紀元前1,500年頃に広がった。サークルも石から木材、特にクリ材が使用されるようになった。サークルがクリ材を使ったウッドサークルに変化して、北陸の石川、富山、新潟などでは、水田の稲作が始まる紀元前500年ごろまで続いた。
真脇遺跡のウッドサークル 水田による稲作は、北部九州で紀元前900年頃から始まり、近畿の播磨地方には300年を経過して伝わった。それから100年後、紀元前500年頃に河内、大和、近江と伝わった。このことは、近畿の遺跡から水田式稲作を採用した北部九州の土器、遠賀川系土器と突帯文系土器の発掘状況である程度年代を探ることができる。近畿より西側は、シイなどの照葉樹林が広がっていて、稲が育つ環境が出来ていた。その当時でも、北陸、中部、関東、東北では、ブナやナラなどの落葉広葉樹林が広がっていて、ドングリやクリなどの堅果類が主食で、育てたクリ材を伐採して、ウッドサークルで祭事を行っていた。東北に水田式稲作の波が届くのは、近畿から遅れること400年で、紀元前100年代になってから。サークルで行われる祭事に使用される土偶も日本最古の土偶が三重の粥見井尻遺跡から出土した土偶、紀元前11,000年前後の土偶は別としても、紀元前4,000年頃の諏訪湖辺りで作られた土偶が一般的には有名ですが、東北の土偶は縄文時代の晩期になってから。サークルで祭事を行ったのは東北から全国に広がりましたが、サークルの考え方が水田式稲作を取り入れた北部九州では、灌漑にも関係があるかも知れないですが、集落の周りに柵や堀が設置された。ウッドサークルの形式が掘立柱建物に応用され、集落の貯蔵庫としての巨大倉庫が出現した。
秋田県山本郡二ツ井町麻生遺跡の土面 縄文時代は1万年も続いたので、気候の変化や狩猟の減少、水田の広がり、舟を使っての人、物資の交流が時間を十分に使って行われていたようです。それと、西日本と東日本との違いもハッキリと現れています。西日本の気候は、中国から流れてくる偏西風によって、春夏秋冬の季節が訪れ、稲作に適した常緑広葉樹林であった。東日本は、シベリアからの寒気によって、雪が積もり農作業には不向きであった。しかし、クリやドングリの堅果類はたくさん採れる落葉広葉樹林帯だったのです。寒く長い冬を備蓄したドングリやクリで過ごし、竪穴住居で時間がたっぷりあったのでしょう。そんな時間を使って、縄文土器の制作も凝ったものになったと思います。土器だけでなく、土偶は全国的に見られますが、東日本でしか見られない土面や凝った仮面も発掘されています。
 現在でも、東日本と西日本、関東と関西と区別され、国民性の違いも囁かれていたりしていますが、縄文時代からそんな感覚があったのでしょうか。


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 コロナ旋風が日本に押し寄せている現在、そんなウイルスが日本を直撃したのは、コロナウイルスだけではなかった。江戸時代末期から明治時代初期に大流行した結核菌もその一例です。その当時は、「労咳」と言われ、幕末の高杉晋作、新撰組の沖田総司、文芸人では、森鴎外や正岡子規や樋口一葉らの命を奪ったことで知られている結核。結核は、空気感染で結核患者からの咳、くしゃみ、唾より感染する。コロナウイルスは、空気感染ではないと言われていますが、密室で換気の悪い場所では、多少のコロナウイルスは生き残るらしい。
結核感染
 結核は現在でも起こりうる病気ですが、戦後日本では乳幼児の結核を防ぐために、判子注射と言われているBCGワクチンを接種、ツベルクリン反応でその後の状態を確認。これが、1949年にBCGによる結核予防接種が法制化されました。戦前では、度々流行していたようで、軍隊の中で、明治時代だと産業革命さながらの時代に、長時間労働や深夜業による過労と栄養不足、集団生活が大きな原因となった紡績工場で働く女工が感染した。ツベルクリン反応による陰性・陽性の判断は、明治時代から行われて判子注射いた。しかし、結核ワクチンであるBCGは戦時中の軍隊で試験的に実践され、効果を得たので厚生省は、結核予防法を。そして、BCG接種が行われるようになった。結核患者の減少と共に、1974年よりBCG接種の定期化、乳幼児(4歳未満)、小学校1年生、中学校2年生の3回に定期化されていたが、2005年に接種対象者が生後6ヵ月までに変更され、事前のツベルクリン反応検査を省略する直接接種となった。
 結核が流行するタイミングは、時代の変わり目が多いようで、明治初期の産業革命の時期や軍部が権力を握った昭和恐慌以後の時代。コロナウイルスの流行も時代の変わり目かも知れませんね。結核菌が空気感染により体内に入り、肺結核を起こす。しかし、肺結核を起こさないで更に体の奥に。そして、髄膜炎、リンパ腫、血流の粟粒結核、泌尿生殖器から骨、関節など腸結核も、体全体に症状が出てくる。それも、ジワジワと長期にわたって。コロナウイルスとは性格が違うようで、コロナウイルスの場合、重症になれば呼吸困難を起こし、酸素マスクが必要となる。最後は窒息死。潜伏期間は1週間から2週間だけど、重症になれば死に至るまでは早い。結核は明治時代以前にも流行していますが、これと言った記録がない。それよりも、労咳として国民病と扱われていたのでしょう。戦国時代、武田信玄が京都に上洛する前、織田信長と一戦を交える前、1573年に労咳で亡くなっている。
結核の痕跡 結核菌は、いつ頃日本にどこから来たのだろう。国民病ですからはっきりしたことは分かりませんが、弥生時代中期の鳥取県の青谷上寺地遺跡の人骨がら結核の痕が発見されています。その同時期の朝鮮半島の勒島で発見された人骨にも結核の痕が発見されていることから、結核菌は渡来人によってもたらされた。中国ですね。中国の最古の結核の痕跡は、中国・上海の広富林遺跡で出土した女性人骨から紀元前3,000年前の結核発症の痕跡を発見した。その後も前漢時代のミイラからも結核の痕跡が発見されて脊椎カリエスいます。更に遡ると紀元前1,000年頃のエジプトのミイラにも結核性脊椎炎(脊椎カリエス)の痕跡がみられた。結核菌の感染も人の移動によって起こるのですね。コロナウイルスも発生源は、中国の武漢といわれていますが、実際には人の移動によって日本にたどり着いた。現在、緊急事態宣言で外出を制限されていますが、ウイルス感染は人の移動によって起こることは明白です。
 日本で世界的に感染率や死法率が低いのは、結核のワクチンBCGが結核予防法で接種が義務付けられていたのでと言われています。早急にコロナウイルスのワクチンの開発が待たれるところですね。

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