いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2020

 滋賀県の方言アクセントは、シガの「ガ」にアクセントを置くそうです。全国的な標準語では「シ」に置きますけれどね。福岡県の志賀島や長野県の志賀高原のアクセントはどうなのか。この志賀のアクセントは、「ガ」にアクセントを置きますね。この高原には志賀山があり、約20万年前の火山噴火で川が堰き止められ、池がいくらか存在します。そこには、琵琶池と名付けられた池も存在します。湿地帯も多く、高天ヶ原・一ノ瀬湿原と名付けられた神話の世界に出てきそうな名称もあります。志賀高原の亀ヶ岡式土器の西日本への影響所在地は、長野県下高井群山ノ内町。この山之内町には、縄文時代晩期の佐野遺跡があり、そこには縄文時代の大規模な集落跡と今から約3,000年前に始まり、紀元前3世紀に終えた亀ヶ岡式文化の土器が発見されている。また、この志賀高原はオコジョやツキノワグマ、カモシカといった哺乳類から、森林性鳥類、河川や湖沼に生息する両生類・爬虫類や魚類・昆虫類等まで、複雑な山岳環境下に多種多様な生物の生息が見られる。特に、雑魚川及び魚野川源流域に生息するイワナやブナ、ミズナラなどからなる落葉広葉樹林や混交林などに生息するニホンカモシカが見られる。東北の縄文人文化が縄文晩期には近畿圏にまで南下し、河内湾の沿岸である森ノ宮遺跡(貝塚)でも亀ヶ岡式土器が発掘されています。縄文人が縄文晩期には積極的に移動していたことが窺える。東北から志賀高原や諏訪湖のある信濃へ、そして信濃から滋賀県の琵琶湖北湖へ移動。琵琶湖から丸太舟で河内湾へ。だから、森ノ宮に集落を形成した。
志賀島 縄文人は、巧みに丸太舟を使ってさらに移動して、北部九州で海人系集団として成長していく。福岡県の志賀島を中心に紀元前後に奴国を。その大王が安曇氏。安曇氏は志賀島から壱岐島を経て対馬列島、そして朝鮮半島南部、加羅地域(鉄製造技術の地)と玄界灘を行き行きし、平壌辺りにあった楽浪郡と外交関係を結んだ。あの後漢の光武帝から倭国の国王の承認を得た。倭国大乱を経て、卑弥呼の時代に。そして、神功皇后の時代には新羅の支配権を握るため、三韓征伐に安曇磯良らが参加し、皇后のもとにヤマト王権の配下に。この間に天皇と関係が深い和邇氏(安曇氏の同族)とともに安曇川安曇氏の拠点は滋賀県の琵琶湖西岸に移動していた。そこには、安曇川が流れ、律令制が成立したとき、その地を滋賀郡とした。文化的には百済からの吸収が大きかったが、新羅からは亡命者(中国人も含む)、日本に帰化を望む難民が多かった。継体天皇の時代、宮・宮殿・居館を変えながら、新羅からの帰化人を受け入れた。それを仕切っていたのが安曇氏。百済が新羅に滅亡させられて、中大兄皇子であった天智天皇の命で安曇比羅夫が新羅に派遣され、白村江の戦いで戦死している。その頃、安曇氏は東国の開拓の命を受け、新羅からの帰化人を連れて、長野県安曇野市辺りに本拠地を置き、国司となっていた。天武天皇が壬申の乱で近江王朝との戦いを始めた時、美濃・飛騨地域に勢力があった尾張氏(安曇氏と同族)と共に参加している。
 安曇氏の本拠地である長野県安曇野市の地は、縄文時代に多くの集落があった諏訪湖の北に位置し、志賀高原にある志賀山や縄文時代の集落跡がある佐野遺跡の所在地、長野県山之内町は安曇野市から東北の方向で千曲志賀高原のニホンカモシカ川の上流にある。この志賀高原には天然記念物のニホンカモシカも生息している。この地域、諏訪湖から太平洋に流れる天竜川があり、長野県の千曲川は、新潟県で信濃川になって日本海に流れ込む分岐点に位置する。東北にいた縄文人が信濃川に沿って、また関東にいた縄文人が天竜川の上流に向かって、丸太舟など交通手段として使って、食料のカモシカやどんぐりを求めて、この地域に集結した。その縄文人の中に丸太舟を道具とした縄文海人系集団が誕生していく。その海人系集団の中に安曇氏がいた。
志賀山
安曇野・志賀高原・諏訪湖 アマテラスがオオクニヌシに国を譲る『古事記』の国譲りの段で、なかなかオオクニヌシが国を譲ってくれないので、アマテラスはオモイカネに相談して、イズシヲハバリに頼むことにした。しかし、イズシヲハバリは天安河の水を塞き止め逆流させて道を塞ぎ、他の神を寄せ付けなかった。そこで、河水に手慣れたアメノカクを使者に送った。そして、イズシヲハバリの子、タケミカヅチがオオクニヌシと交渉し、無事国譲りが成し遂げられた。ここに出てくるアメノカクの「カク(迦久)」が「鹿」を表す。安曇野市穂高町に安曇氏の本宮、穂高神社があり、その主祭神は安曇氏の祖、ワタツミの子、穂高見命(古事記では宇都志日金拆命)で、アメノカクと同一神ではないかと言われている。安曇氏に関わりある「シガ」というのは、「シカ」から訛って、「志賀」とか「滋賀」と書かれるようになったのではないでしょうか。

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 壱岐島は長崎県に所属し、山岳地帯の多い対馬列島に比べて平野部の多い島です。『古事記』の国産み神話では、イザナギとイザナミがアメノヌボコをアメノウキハシから大地をかき混ぜて矛の先から落ちたしずくからオノゴロジマができ、その後、大八島を生み出していく。その大八島の5番目が壱岐島。別名をアメノヒトツバシラ(古事記では天比登都柱)。高天原に到達する柱を八本も立てた島です。古事記では、この島を「伊伎島」と、律令制により「壱岐国」と表示され、国扱いとなっています。中国の『魏志倭人伝』では、「一大国」と記載され、『隋書』では「一支国」。
 この壱岐島には、『魏志倭人伝』での「一大国」であったとされる原の辻遺跡と鉄器の生産地であったカラカミ遺跡がある。また、カラカミ遺跡では、旧石器時代から弥生時代後期までの遺物が出土さ家畜の骨れ、この地域には石器を求めた石器人や魚介類や家畜動物(特に北方系の犬)を食べていた縄文人が入れ替わり立ち替わり移り住んだ。弥生時代中期(紀元前2世紀頃)に大型の集落が形成され、弥生時代終末期(4世紀頃)まで集落が存在した。その頃、この地に中国からの渡来人も住み着いていたようで、土器に「周」という文字が刻まれている出土品も発掘されている。これは人名だったのでしょう。カラカミ遺跡から鉄生産用の地上炉跡が複数確認され、弥生の鍛冶工房・鍛冶炉それも日本の製鉄開始につながる精錬炉が出土されたことから、この渡来人は中国の鍛冶職人だったかも知れ地上炉跡鉄素材と加工中の矢尻ませんね。鉄器が発掘されている、時期的には1世紀から3世紀頃なので、壱岐島の鉄製造が日本の草創期であったことには違いない。この地から出雲のたたら製鉄に。また、淡路島の五斗長垣内遺跡の鉄製造工房に繋がっていきます。
 縄文時代後期からこの島に海人が住み着いた。それが郷ノ浦町片原触原の辻遺跡「船着き場」模型の吉ヶ崎遺跡から出土された土器などからも読み取れる。この辺り、弁天崎の入り江から南に佐賀県唐津や松浦、北は対馬列島の航路になっていて、縄文時代晩期には水田稲作が行われていた菜畑遺跡の稲もこのルートで入ってきたと思われる。対馬列島の北には朝鮮半島。縄文の海人が稲を運んだ。そうとも考えられます。郷ノ浦港また、菜畑遺跡の稲を壱岐島の広大な平野部、原の辻遺跡で大きな集落が生まれ、この地に縄文の海人系リーダーが大王になって。そして、「一大国」として、大陸と九州北部の物流を支配した。邪馬台国の卑弥呼が魏と交渉するため、楽浪郡に使者を送った時の航路も壱岐島の郷ノ浦港を経由したのでしょう。
 縄文時代後期から弥生時代末期まで壱岐島には、多くの海人系集団や渡来人集団が入れ替わり立ち替わり移り住んだ。その証拠に133.8 km²の小さな島に神社庁が登録している神社だけでも150以上ある。神功皇后に関係が深い神社としては、聖母宮や住吉神社や本宮八幡神社など、これらのほとんどが航海に関わる神社。
壱岐島
聖母宮 聖母宮は、神功皇后・仲哀天皇を祀る創建1300年以上の歴史深い神社で神功皇后伝説の馬蹄石がある。また、聖母宮は、元々は中臣氏に関係が深い、天津日高彦火瓊々杵尊・天児屋根尊・天太玉命を主祭神とした現在の中津神社にあったと言われている。
 神功皇后三韓征伐の最前線基地。安曇氏が祀っている底筒男命・中筒男命・表筒男命を主祭神とする住吉神社は、神功皇后が壱岐島に上陸した郷ノ浦港付近にあったが、後に芦辺町住吉神社の方に移った。
 本宮八幡神社は、神功皇后が三韓征伐の時に武内宿禰が持っていた紅白の幟旗を付けて、海人系集団、宗像一族がその幟旗を沖ノ島に立てて戦った本拠地で、神功皇后と仲哀天皇を祀っている。また、この本宮八幡神社は、桓武天皇の時代に創建されたが、この地には武内宿禰の紅白の幟旗「御手長」を神社の名前にした天手長男神社(天手長比売神社)が存在していたようです。その天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命本宮八幡神社を主祭神とする天手長男神社は、何故か郷ノ浦町田中触の旧物部村に移され、律令制により壱岐島は壱岐国になり、その国の一宮として神功皇后・仲哀天皇を主祭神とする興神社が創建され、その神社の若宮となった。
 このように壱岐島は神功皇后・仲哀天皇に纏わる神社が多く、三韓征伐の最前線基地だった。仲哀天皇の父、日本武尊を祀った志自岐神社もある。壱岐島には、海人系の宗像氏や安曇氏、さらには物部氏や中臣氏も。壱岐市郷ノ浦町になる前には、石田郡柳田村(物部村・半城村が合併した)が存在していた。そこには物部布都神社が存在する。また、壱岐島の平野部が多い芦辺地域には稲作の神、天照皇大神が祀られている神社が多い。律令制が導入される前、カバネ制があり、ヤマト王権が壱岐を任せた県主として壱岐氏に。この壱岐氏は、神功皇后の時代に登場する中臣烏賊津の子孫だと言われています。中臣連から分かれた卜部氏の子孫だと言われています。
 神功皇后に関係した神社が多くある壱岐島ですが、その他に壱岐島の鬼門である男岳に位置する男嶽神社(主祭神:猿田彦)、ダムを隔てて向かい側にある女岳に位置する女嶽神社(主祭神:天鈿女命)、イザナギ・イザナミから生まれた三貴神の月読神社(主祭神:月夜見命)、伊弉冉尊・伊弉諾尊や素戔嗚尊や大己貴命等々を主祭神とする神社があちこちにある。天孫臨降に関係ある天忍穗耳尊・邇邇藝命・大山津見神・花之佐久夜毘売が主祭神とする神社、神武天皇に関係ある天津日高日子穂穂手見命・彦波瀲武鸕鶿草葺不合命を主祭神とする神社までが壱岐島に存在します。正しく、神々の島ですね。それだけ、天皇家や息長氏、物部氏、中臣氏において重要な島だったのですね。
 神功皇后は、息長帯姫と言い、父親は息長宿禰王。息長氏の血筋。いち早く、鉄器を朝鮮半島から壱岐島経由で日本に持ち込んだ氏族です。出身地は、おそらく北部琵琶湖。物部氏も中臣氏もそうだったかも知れない。現在、壱岐島の海岸ビーチと言えば、島の南東部にある筒城浜が有名だけど、この筒城という名称、息長氏系の継体天皇の宮殿名で、京都府京田辺市多々羅都谷1-3 同志社大学京田辺キャンパス内の遺跡から発見された筒城京跡と同じ名称なのです。また、仁徳天皇の皇后、葛城襲津彦を父とする磐乃媛もこの筒城京付近の出身。

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30万年前の琵琶湖 琵琶湖といっても現在の形になるまでは、凄い歳月を費やしました。今から30万年程前、琵琶湖の原型ができ、徐々に現在の琵琶湖に近づいていきます。縄文時代初期には、現在の琵琶湖より一回り小さな形で、彦根から坂田の間に入江内湖があったが、現在は米原市入江になっている地域で、1944年から1950年まで干拓された。その干拓の時に干拓地より3m下辺りに、7,300年前の鬼界アカホヤ火山噴火による火山灰が南九州からこの琵琶湖まで飛んできたその火山灰が発見された。その後、この干拓地に国道8号米原バイパスが通過することになり、工事が2012年にはじまった。その工事を前にして、2007年に入江内湖遺跡調査が行われた。2m~3m掘ったところに縄文時代中期末地層から4艇の丸木舟を発見した。その他の1艇は、全国で発見された丸木舟で最古。約6,500年前の丸木舟が発見されて驚かされ銛た。縄文時代中期末地層からその他に、鹿の角で作ったヤスや釣り針、その重りか漁網用石錘が発見された。丁度、三内丸山遺跡の大規模集落が存在していた頃、4,500年前。琵琶湖北湖では、琵琶湖で採れるコイ・ギギ・ナマズなど骨や歯が発掘されていることから魚類の採取入江内湖が行われ、その中に1匹だけではありますが、何とマグロの背骨も。縄文時代中期末の琵琶湖北湖の縄文人は、琵琶湖で漁業に従事しているだけでなく、丸木舟で琵琶湖から淀川を下り、河内湾の海岸線まで。そして、物資の交流を行っていたのだろうか。
 琵琶湖北湖のこの地は、福井や岐阜の近隣県があり、北陸や中部・信濃辺りから人が流れてくる。森林樹から言うとクリやドングリが採れる落葉広葉樹林で育った縄文人が、食料を求めて西に。そこが琵琶湖北湖あたりなのです。琵琶湖の地は、西から流れてくる常緑広葉樹林で野生の稲などが生えている。この入江内湖遺跡の縄文土器から、ドングリやクリの他に球根も固着している炭が付着していた。しかし、縄文時代晩期末の地層の土器からは、イネの固着している炭も見られるようになった。琵琶湖の湖岸は、葦などが生える湿地帯だったので、稲作に適していた。河内湾の北東部、大阪府高槻市の安満遺跡の水田跡と同じ時期には、琵琶湖北湖でも水田式稲作が行われていたのではないだろうか。
入江内湖遺跡
木偶(大中湖南) 彦根から南に下がると近江八幡市がある。日本の戦国時代に織田信長が安土城を築いたあの安土町の琵琶湖湖岸に昔、大中の湖があった。この内湖も1964年に干拓工事が始まり、発掘調査が行われた。すると、弥生時代中期初め、紀元前100年頃の大規模集落跡が発見された。その大きさは、奈良の唐古遺跡に匹敵する。勿論、縄文時代からの遺跡も発見されている遺跡で、大中湖南遺跡と名付けられた。この遺跡からは、縄文時代中期の丸木舟も発見されているが、縄文人が水田式稲作を習得した可能性がある弥生時代前期初め、紀元前300年頃の木製の農具や祭事に使用されたろう木偶も発掘されている。
 入江内遺跡の北東部には、息長小学校や息長郵便局があり、この辺りが明治22年から昭和30年まで坂田郡息長村があった所です。そう、神功皇后の出身豪族、息長氏の本拠地とされています。この息長氏の同族、坂田氏、継体天皇の妃もこの氏族。お隣の坂田村(JR北陸本線の坂田駅周辺)を本拠地としていた。この息長村と坂田村が合併して現在の近江町になっている。私の所見としては、息長氏も坂田氏も元々、北琵琶湖に永住していた縄文人の子孫ではないいかと。うぅん、天皇家も。まぁ、謎に満ちていますけれどね。息長とは、「息が長い」「風を吹く」と言う意味で、潜水を専門とする海人、いや風の神で製鉄の民と言われていますけれどね。
琵琶湖北湖2
尾上浜と竹島
尾上浜遺跡の丸木舟 入江内遺跡より北には、長浜市があって、そこにも葛籠尾崎湖底遺跡と余呉湖に源を発する余呉川の河口に尾上浜遺跡があります。1924年に長浜市尾上の漁師が葛籠尾崎半島の奥琵琶湖で縄文時代の土器を引き上げた。これが葛籠尾崎湖底遺跡。また、尾上浜遺跡では、縄文時代後期末頃に川岸に並行するように沈んだ丸木舟が発見された。この尾上浜は、どうも船着き場だったようで、縄文時代から丸木舟での琵琶湖から河内湾、さらには瀬戸内海から北部九州との交流が盛んだったことが忍ばれる。また、この余呉川の上流には、『近江国風土記』にも記載されている、日本で一番古い羽衣伝説がある余呉湖があります。この周辺に伊香氏が勢力を持っていたと『近江国風土記』に記されている。この伊香氏の祖は、神功皇后の時代に登場する中臣烏賊津(伊香津臣命)。その子に臣知人命、梨迹臣、伊世理命、伊是理媛、奈是理媛の5人の子がいた。その臣知人命の子孫で672年に朝廷から伊香氏の姓を頂戴している。となると、中臣鎌足もこの琵琶湖北湖の出身と言うことになるかも。さらに驚かされるのが、物部氏と中臣氏の関係。物部氏の領土で河内国茨田郡伊香郷という所がある。この伊香郷と余呉湖の伊香氏との関係。ひょっとしたら、物部氏と中臣氏は縄文時代には同族であった可能性がある。
琵琶湖北湖 このように琵琶湖北湖で築かれた縄文人が、後世で息長氏、物部氏、中臣氏と分かれていった可能性もある。そして、神功皇后の時代に3氏族が中心になって三韓征伐を行い、そこに大伴氏も加えて、息長氏の子孫でもあるヲホト(継体天皇)を天皇に迎えた。継体天皇の母方は、越後の豪族である三尾氏。若きヲホトは、琵琶湖の北西部安曇川の河口、高嶋郷三尾野(現在の高島市)で生まれた。弥生時代に海人の安曇氏がこの琵琶湖北湖にも移住していた。となると、息長氏と安曇氏との関係も繋がってくる。神功皇后が三韓征伐の時に、海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求めた。そんな関係にあったのだろう。


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掘込炉 現時点で、日本での鉄器の最初の工房らしきものが発見されたのは、平成23年3月~5月にかけて、発掘調査がおこなわれた長崎県島原市有明町所在の小原下遺跡2区。縄文時代晩期の地層で、地面を掘りくぼめた炉のような遺構から鉄滓が発見された。縄文時代には、竪穴住居の中に掘込炉があり、土器を据え付けて掘り込んだ所から木材を燃やして、煮たり、蒸したり、乾燥したりと調理をしていた。その炉は室内の暖房にも利用されていた。縄文時代から鉄器の生産があったとは言いにくいが、ただ、火をおこすための炉を掘るのは、日常行われていた行為だったと思う。その炉に不純物の鉄鉱石や砂鉄が含まれていたとしても不思議ではない。縄文時代晩期になってから北部九州では、水田式稲作が中国から導入される。その当時はまだ鉄器はなく、黒曜石を砕いて斧を作り、その斧で木材を伐採して、黒曜石の刃物で鍬を作り、田を耕したり、灌漑を掘ったりしていた。これは、すべて、集落の共同作業であった。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片 弥生時代初期に渡来品として、刀子と鉄斧が入ってくる。これらをもたらしたのは壱岐や対馬の海人系の人達でした。北部九州でも鉄器の模造品が、生産されるようになった。福岡県春日市赤井手遺跡の鍛冶工房跡は、現在最古の鍛冶工房と言われている。そんな鍛冶工房が北部九州に出現すると共に、壱岐などの海人系人達は、朝鮮半島から鉄鋼石をそれらの鍛冶工房に引き渡し、生産された鉄斧や鉄鍬などと交換し、その農具などを水田式稲作の集落に。その集落で米を手に入れた。弥生時代中期になると、鉄器農具により農耕の効率化がはかられ、人口の増加と余暇に行っていた鍛冶工も、専門職となり、職業の分業化が進むようになった。また、北部九州では、中国の貨幣の流通がはじまった。そこで、物資の移動に伴う利益により、財力を蓄える者もあられ始めた。それが、弥生時代後期の大王に発展していく。その中には、壱岐の一支国であっただろう原の辻遺跡では、五銖錢が発五銖錢見され、朝鮮半島との交易が行われていた。そして、鍛冶工などの技術者も渡来人として受け入れていた。この原の辻遺跡にも鍛冶工房が発見されている。また、車馬具や馬骨も発掘されていることから、馬も北部九州の大王の手元には届いていたようです。
 古墳時代になって、鉄器の農具や工具の発達と共に大王の墓、古墳建造には、農作業の合間を使って、多くの民が参加した。開墾した土や灌漑で掘り起こされた土砂を使って、円墳を造り、更に余った土、堀の土などをその円墳に付けて、前方後円墳が完成した。神霊を映しだす青銅鏡や大王が使用していた鉄剣、鉄の馬具、そこには綺麗な刺繍された織物なども埋葬されたことでしょう。この頃には、北部九州の民を引き連れた大王が、畿内という中央政権に移動。ヤマト王権の連合政権に参画するようになる。
須賀古墳群の馬具
 ヤマト王権は、中国との繋がりが深かった百済と手を組み、朝鮮半島の新羅や高句麗との戦いを繰り返し、武器としての矢尻、兜、鎧などの鉄器の生産に力を注ぎ、朝鮮半島から逃げてくる渡来人を受け入れ、畿内での開墾とともに、特殊技能者を優遇して移住させた。そして、天皇家の直轄領土、屯倉を増やしていった。そこには、専門職の技術者や渡来系の工員も含まれ、宮中に献納させた。そして、稲作を中心した産業が発展していく。


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 鏡と言えば、透明ガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のめっきを塗って、さらに酸化防止のため銅めっきや有機塗料などを重ねたもの。女性の化粧には欠かせない道具ですね。このガラスの鏡が南天柄鏡日本に入ってきたのは、わりと新しい。大航海時代にキリスト教と共に日本にもたらされた。そう、織田信長や豊臣秀吉の時代、安土桃山時代からのことなのです。一般的に普及したのは明治時代から。西洋でも、ガラスの鏡を開発したのは、1317年にヴェネツィア(イタリア)のガラス工が、錫アマルガムをガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明してから。
 では、江戸時代までの鏡と言えば、青銅器で作られた銅鏡でした。平安時代から鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代まで嫁道具として、必ず娘に持たせたのも銅鏡。そんな銅鏡ではありますが、日本にこの銅鏡が大陸から入ってきたのは、青銅器技術が浸透して、剣や矛が製造される紀元前3世紀より、1世紀後の紀元前2世紀ころだと言われています。2015年に福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡から青銅鏡鋳型の破片が見つかった。中国が戦国時代から秦の始皇帝によって統一され、前漢の時代が始まる頃には、日本に朝鮮半島から青銅鏡が輸入され、その鏡の型版を石材で作り、銅を流し、固まった状態で鏡の表面を研磨した国産がすでに生産されていた。銅鏡が製造される前、縄文人や弥生人は、自分の姿が映る神秘さを水面神鏡で体験し、黒曜石を研磨しているときにも映る現象を体験していた。また、太陽光が反射するのも知っていたかも知れない。そんな弥生時代には、鏡は神霊の対象でしかなかった。その当時は、集落での祭礼が行われた場所には、この銅鏡が据えられていたでしょう。後に神社が建立されるようになった時、銅鏡は神体として祀られた。剣とともに鏡も神体の対象となった。
 紀元前後になると、北部九州を中心にして中国鏡(方格規矩鏡、内行花文鏡など)が輸入され、その当時の大王の手元に置かれた。それだけ貴重品だった。その後、邪馬台国時代に、三角縁神獣鏡が魏の明皇帝から卑弥呼に与えられた。日本で三角縁神獣鏡の模造が始まり、銅鏡の増産の基に、古墳時代の幕開けの頃から、銅鏡は大王の死後の霊魂に供える意味で、古墳のお棺に三角縁神獣鏡装飾品などと共に収められた。魏から与えられた100枚の三角縁神獣鏡が、現在の考古学の遺跡の発掘により、330枚近くが発見されていることは、日本での模造がかなりあったようです。大王の死によって神になったわけですね。各地の大王がヤマト王権によって統合され、古墳の築造も少なくなってきた6世紀頃から仏教が自然崇拝の神々に変わって信仰の対象に。神体としての鏡の役割は終わっていった。それでも、青銅鏡の生産は続けられ、女性の化粧道具となっていく。
白粉 古くから日本で女性の化粧と言うと、「おしろい(白粉)」がありますね。この白粉は、7世紀頃、飛鳥時代に唐から「はらや(塩化第一水銀)」や「はふに(塩基性炭酸鉛)」が入ってきた。そして、高貴な女性が白粉を塗って化粧しだした。胸元や背中に至るまで白粉を塗るのが主流でしたから鏡が必要だったのですね。平安時代になると、顔全体に「はふに」を塗るのが主流になった。しかし、その成分には鉛白(塩基性炭酸鉛)が含まれているので有害で、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至ることがあったようで、1934年に鉛を使用した白粉の製造が禁止された。現在では、ファンデーションを塗った上に仕上げとしてルースパウダー、化粧直しに用いるプレストパウダーを使用している。
 平安時代の女性は、顔全体に白粉を塗り、薄暗い所でも目立つように、唇にはおちょぼ口に見えるよ京紅う紅を。口紅ですね。そして、頬にうっすらと紅。頬紅ですね。その当時の紅は、ベニバナの色素を梅酢で分離したのを使用していた。江戸時代にになって、高級な「京紅」が持てはやされたが、これも良質のベニバナが原料でした。平安時代以前は、死者に紅を口基に塗った「死化粧」。この成分は、鉄鋼物の丹や朱であった。現在の女性にとって、化粧品としての口紅は必需品ですが、江戸時代以前には貴重品だったのですね。


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