いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:青春歴史小説「たつやの古代旅日記」 > 第1章

第1章 玉石混淆 第1節

 「先生、この石見付けたのですが。翡翠の岩石だそうです。」ヒスイ
 「ケイコさん、どれどれ。」
 ケイコは、古代の米作りを調べるため、日本でも有数の生産地である新潟に旅行してきた。そして、古代人の生活状況を調べるために新潟県長岡市を訪れた。
 「翡翠はきれいだね。糸魚川にでも行ってきたのかね。」
 「長岡市に新潟県立歴史博物館があって、米づくりの展示室があるので。」
 「古代の人々も新潟で米づくりをしていたのかね。」
 「それがね、新潟って寒い土地でしょ。展示室では、江戸時代に新田開発して現在の米の生産地になったそうです。」
 「ケイコさんは、古代人が新潟で米づくりをしていると思って長岡に行ったのでは。」
 「そうなのです。少し残念でした。しかし、新潟県立歴史博物館に縄文人の世界・縄文文化を探るという展示室があって。」
 ケイコが見た縄文人の生活をこの展示室で。約15,000年前から新潟では狩猟・採集に生活をしていた縄文人がいたことに驚いたようでした。
 「先生、新潟に縄文人が定住していたのですか。」
 「日本各地の遺跡から、縄文時代の遺跡が出ていますからね。新潟より北の青森の三内丸山遺跡などは有名です。」三内丸山遺跡
 三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡ですが、この遺跡は江戸時代から知られていて、弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』に大量の土偶が見つかったと記され、1992年に県営野球場を建設するために事前調査が行われた結果、その場所には大規模集落跡があったことがわかり、現在ではその集落のレプリカが建てられています。
 「へぇ、青森にそんな遺跡があるのですか。一度、行ってみよう。その展示室に縄文土器があり、その土器を眺めているとある人が近寄ってきて、糸魚川にはもっと凄い物があると教えてもらいました。」
 「それが翡翠だったのですね。」
 「それで、糸魚川に足を伸ばしたわけです。親不知の崖から日本海を見てみたかったので。」
 「糸魚川には長者ケ原遺跡があって、日本最初の硬玉生産跡が発見された。」
 「先生、そんな遺蹟があったのですか。」長者ヶ原遺跡
 「その翡翠の岩石はどこで拾った。」
 「長岡駅から糸魚川駅に。そして、地元のえちごトキめき鉄道に乗って親不知へ。その親不知で知り合った人が大和川海岸に行くと言われたので、その人に付いていったのです。」
 現在では、長野駅から糸魚川駅を通って金沢駅に北陸新幹線が開通したことで東京駅から糸魚川駅までは直行でいけるようになりました。ケイコも、大和川海岸に行くのにえちごトキめき鉄道で糸魚川駅に戻りその次の駅、梶屋敷駅で下車。
 「そこで、翡翠の岩石を。そして、糸魚川から新幹線で東京に帰ってきたというわけか。」


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第1章 玉石混淆 第2節

 翡翠を眺めていたたつやとケイコのところに。蛇紋石
 「先生、出雲の卒論でどうしてもわからないので。」
 「さとしくん、いいところに来ましたね。この石を見なさい。」
 「この石、きれいですね。」
 「わたし、糸魚川の大和川海岸で拾った翡翠という石らしいです。」
 「ケイコさん、本当に翡翠なの。大和川海岸って何処。ヒスイ海岸じゃないの。」
 糸魚川のヒスイ海岸に行けば誰しも翡翠を見付けられるわけではなく、専門家でも翡翡翠の岩石翠と断言することは難しい。大概が蛇紋石やネフライトと間違えるそうです。翡翠の特徴は、重量が重く、堅いので角があるような歪んだモノが多い、イノ珪酸塩鉱物の翡翠なので採取した色は白や灰色が多い、ヒスイ海岸などでは大きいものはなく、小指の先ぐらいの大きさしかない。
 「この石、翡翠ではないの。わたし、新潟県立歴史博物館で糸魚川にいけば凄い物に出会えると言われて。そして、この石を拾って。親不知で知り合った人が翡翠だと言ったので。」
 たつやは、本棚から「楽しい鉱物図鑑」と図録「歴史考古学入門事典」を探し、ケイコとさとしに見せた。
 「この図鑑のように、翡翠は白っぽいね。ヒスイ製勾玉
それがヒスイ製勾玉になるとこんなに透き通った綠色をした石になる。」
 「先生、勾玉はこれですね。まぁ、彎曲して穴が。この穴にヒモを通して首にかけたのですね。イヤリングみたい。」
 「ケイコさん、これが糸魚川の長者ヶ原遺跡で発見された勾玉です。」
 「岩石からこのような形を作って、穴まで開けて。大変な作業ですね。翡翠は硬いと聞いたことがあります。先生、今、出雲について調べていますが、そこにもヒスイ製勾玉があったのですか。」
牙状勾玉 「さとしくん、そうそう、宝石伝説の本に載っていた。」
 たつやは、本棚から「宝石伝説」を取り出してさとしに見せた。
 「先生、糸魚川のヒスイ製勾玉が出雲にあるのでしょうね。」
 「青森の三内丸山遺跡でも、ヒスイの勾玉が見つかっていますよ。」
出雲の勾玉  ヒスイ製勾玉は、5,000年前にはすでに存在していたと言われ、地球の冷寒化が和らぎ、青森の三内丸山遺跡のように東北から北海道にも縄文人が住み着いていました。その当時、北海道の美々4号遺跡、ヲフキ遺跡、青森の三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、糸魚川の長者ヶ原遺跡、長野の離山遺跡などからヒスイ製勾玉が発見され、蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかった。三内丸山遺跡などの北にいた縄文人は、丸太で糸魚川まで来ていたようです。そして、4,000年前~3,000年前まで地球が冷寒期に入り、青森や北海道にいた縄文人は南下した。ヒスイ製勾玉が再び現れてくるのが紀元前1,000年ころからで、日本に稲作が入って来たころ。北九州や出雲や朝鮮半島南部に現れてきます。
 「出雲のヒスイ製勾玉は、弥生時代に入ってきてからのモノなのでしょう。」


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第1章 玉石混淆 第3節

縄文のビーナス 縄文時代後期に気候が冷寒化して、1,000年ほど寒い時期が続いた。三内丸山遺跡などの北に住んでいた縄文人は、食料を求めて信濃や関東に移っていった。かなりの文化を持ったこの人達がどの辺りに住み着いたか。
 「先生、ヒスイ製勾玉を作っていた糸魚川の縄文人は、そのまま生活していたのでしょうか。出雲あたりに移動したのでしょうか。」
 「私は、そのまま糸魚川で生活していたと思いますよ。諏訪湖の周りにも縄文遺跡がありましたから。」
 「あの縄文のビーナスが発見された遺跡あたりですか。」
仮面の女神 三内丸山遺跡で1,000年以上生活していたころ、この八ヶ岳の麓の棚畑遺跡で4,500年前ころの「縄文のビーナス」と呼ばれている土偶が発見されている。さらに、それより500年後に作られたとされている「仮面の女神」が中ッ原遺跡からも発掘されています。この2つの遺跡も長野県茅野市に存在し、「縄文のビーナス」も「仮面の女神」も茅野市尖石縄文考古館に保存されています。
 「そうですね。諏訪湖から南に。この地には黒曜石も取れましから。」
 「石器時代から諏訪湖周辺に人が。」
 「諏訪郡下諏訪町に星ケ塔黒曜石原産地遺跡がありますか諏訪大社_本宮_御正面らね。縄文のビーナスが発見された棚畑遺跡からJRの茅野駅を挟んで西側に。そして、その近くには、諏訪大社の前宮と上社がありますよ。」
 「オオクニヌシの子のタケミナカタが祀られている諏訪大社が。」
 「それとね。諏訪湖周辺で採れた黒曜石が、遠くの青森の三内丸山遺跡まで運ばれていたこともわかっています。」
 「すると、ヒスイ製勾玉が三内丸山遺跡から見つかっているので、三内丸山遺黒曜石跡に住んでいた縄文人は、この諏訪湖周辺にまで来ていたとなりませね。」
 「ケイコさん、それだけではないのですよ。三内丸山遺跡には、食料としてクリの木が植えられていて、この諏訪湖周辺にもクリの木が。」
 「先生、縄文人はクリを食料にしていたのですか。」
 「三内丸山遺跡でもそうですが、この諏訪地域の遺跡、たとえば、尖石遺跡から縄文土器が発掘されていますが、その破片に引っ付いていたのがクリの遺跡でした。」
尖石遺跡の縄文土器 三内丸山遺跡に定住していた縄文人が気候の変化によって、諏訪湖周辺に移住した可能性は可成りあります。冷寒化が始まる4,000年前から温暖化になる3,000年前までもこの諏訪胡周辺で縄文人が生活していたのは確かです。
 「日本人は米を主食にするまで、クリが主食だったのですか。」
 「クリの他にドングリもそうでした。この当時でも日本は四季に分かれていましたから、冬には狩猟をし、春にはクリなどを植えて、海岸で貝を取り、夏には魚を獲り、秋にはクリなどの木の実を食べていたのですね。」
 「米は、その当時栽培されていなかったのですか。」
 「蕎麦、麦、緑豆などを焼畑で栽培していた可能性はありますね。縄文時代後期のころですけれどね。」
 「ジャポニカ米は、その頃には中国から入ってきてませんものね。」


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第1章 玉石混淆 第4節

 たつやは、東京大学大気海洋研究所の川幡穂高先生が研究されている縄文時代の気候と人口資料を持ち出してきた。
縄文時代の人口移動図 「ケイコさんもさとしくんも、この縄文時代の人口推移図を見てごらん。」
 「ケイコさん、ここ、確かに、縄文時代中期には東日本に集中していますね。そして、縄文時代後期に東北の方は、人口が減っています。そして、中部はあまり変わらず、西日本に少し増えていますね。」
 「これ、三内丸山遺跡の気候の変化を見るとクリが紀元前3,000年頃から低下していますね。」
 「ケイコさん、そうだね。この折れ線グラフはクリの花粉量を示しています。」
 「花粉が飛ばなくなれば、クリの採取量も減り、空腹から死に至る人も出て来たでようね。そして、クリが多く収穫できる地域に南下していくのですね。先生ぇ~。」
三内丸山遺跡の気候の変化 「元々、縄文人は採集狩猟の民族でしたから、この気候の変化でも人口推移図でもわかるように温暖化が進んでいた紀元前4,000年頃は、東日本に多くの人が集っていたのですね。その頃の推定では、日本に約26万人がいたというデータがあります。」
 「出雲の方でも、縄文時代後期には少しですが増えて。」
 「確かに、近畿や四国、九州は少しプラス、全体には減っているでしょ。紀元前1,000年頃には、8万人程度しかいなくなっていました。」
 「ほんとだ。」
 「2,000年の間に26万人から8万人ですか。食料難で餓死した人もいるかも知れませんが、それでも減りすぎではないですか。」
 「生活が出来なくなった人は、西日本に流れていった。それで、西日本でも食料、クリが乏しいことがわかり、海を渡った人もいたでしょうね。」
 「へぇ、朝鮮半島に。」
 「縄文人が朝鮮半島の南部に、住み着いたのは確かです。門田誠一先生の『韓国古代におけるヒスイ製勾玉の消長』という本では、現段階では、韓国の三国時代に出土するヒスイ製勾玉は日本列島より伝来されたと考えている。そして、数量的には伽耶お呼び新羅などの朝鮮半島南部に多出し、特に新羅の王墓を中心とした古墳から集中的に出土することから、日本から新羅へもたらされたと推定とあります。」
 「韓国にヒスイ製勾玉が持ち出されていた。」
 「勿論、糸魚川で採取される翡翠です。韓国には翡翠の産出地はありませんし、ヒスイ製勾玉の製作跡も見当たりませんからね。」
 「先生、いろいろと教えて頂いて、私がわからなかった、先生に聞こうと思っていた出雲こと。うっすらと見えてきました。先生、ありがとうございます。では、私はこれで。」
 「ケイコさん、言い忘れていたのですが、稲のことで。縄文時代晩期に、稲は日本に存在していたよ。」
 「それは、何処なのですか。」
 「約3,500年前に、岡山県の南溝手遺跡や津島岡大遺跡の土器胎土内からプラント・オパールが見つかっています。しかし、この頃、水田式稲作は行われていなかったので、畑で栽培する陸稲。だから、温帯ジャポニカ米ではなくて、熱帯ジャポニカ米ではないかと言われています。」
 「先生、ありがとう。それでは岡山に米の研究に行かなければならないですね。」


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