いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2019

 今日は、平成の時代から令和の時代に移っていく平成最後の日ですね。時代の境目。今上天皇陛下が退位される日。明日は、現在の皇太子さまが新しく天皇に即位される日。皇室では、厳かな神秘的な行事が行われていきます。この儀式、古代から天皇家で永遠と受け継がれてきた。このような国って、世界にあるでしょうか。多分、日本だけですね。
 日本では昔より、「まつりごと」と言う言葉があり、現在では「政」と漢字で書かれ、政治を意味する言葉ですが、上代では「祭り事」と表していました。祭政一致であったからですね。国の主権者がその領土・人民を祭事によって治めてきた名残ですね。今回の一連の儀式も祭事の一環なのです。そんな儀式が現在でも続いている。日本って、ある意味ではすごい国ですね。
深鉢形土器 深鉢形土器 このような慣例は、縄文時代からあったようです。1936年に近藤篤三郎によって新潟県長岡市の馬高遺跡から発掘された深鉢形土器(火焔型土器)が、縄文時代を代表するような土器として有名。この土器の上部は、どう考えても祭事に使われたとしか思えない。縄文時代中期の土器です。すでにこの頃から「祭り事」はあったのですね。日本で一番古い土器は、青森県外ヶ浜町の大平山元Ⅰ遺跡から発掘された無文土器で、紀元前14,500年頃とされています。この遺跡から黒曜石の石器も出土され、この地は湿地帯のすぐ近くの小高い場所だったとされる。海岸線から近く、青森県鰺ヶ沢町辺りの黒曜石を石斧や石鏃に使用していたようです。ここからは竪穴式住居跡は発見されなかったが、後期旧石器時代から造られ始めたと考えられるので、多分、竪穴式住居で生活していたと思います。この縄文時代早期には「祭り事」などなくて、ただ、ドングリや海産物やシカなどを煮るための土器だったと思います。やはりこの時代には祭政一致という社会的な仕組みがなかったのですね。
旧石器道
 原始的な祭政一致の仕組みができたのは、集落が形成された縄文時代中期で青森県の三内丸山遺跡に代表される集落辺りからでしょう。その頃に祭事に使用されたと思われる土偶が発見されています。土偶は、三重県松原市の粥見井尻遺跡で発見された縄文時代早期、紀元前10,000年前頃が最古だと言われていますが、祭事に使用となると1986年9月に長野県茅野市の棚畑遺跡も「縄文のビーナス」辺りかな。「縄文のビーナス」のような土偶は、長野県から北部、関東・東北・北海道に集中しています。縄文時代中期頃には、縄文人が東日本に集中していたことが解ります。それは何故なのでしょう。それは黒曜石の産地に関係があると思います。縄文時代でも石器は必要だった。黒曜石が採れる地域に人が集まり、集落ができてきたのでしょう。
 では、西日本はどうだったのでしょうか。黒曜石の産地から言うと北部九州ですね。大分市丹生遺跡から旧石器時代の礫器、自然石を打ち欠いただけの原初的な石器が発見され、その時代から原人が住んでいた。この礫器は別として、縄文時代早期の長崎県佐世保市の泉福寺洞窟では、天井の岩盤が屋根代わりとなって風雨を避けることができる岩陰状の洞窟から無文土器の次に出てきた豆粒文土器と黒曜石の細石器が1975年に発掘されている。伊万里市の腰岳や佐世保市の針尾島などの黒曜石産地があったからね。この時期の東日本の土器は、長野県南佐久郡の栃原岩陰遺跡からも発掘されている。長野県の霧ヶ峰(和田峠)が近かったから。諏訪湖があって、縄文時代中期には、多くの集落がありました。
栃原岩陰遺跡の土器
突帯文土器 縄文時代中期は、東日本ではたくさんの集落ができたのに、西日本での集落の誕生は縄文時代晩期になってからです。そう、水田式稲作が始まった時期なのです。佐賀県唐津市の菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡が有名ですね。水田跡と同時に出てきたのが、縄文土器の突帯文土器なのですね。水田式稲作は、紀元前900年代に北部九州から発生し、紀元前500年頃に近畿に、そして、紀元前300年頃に東日本に浸透していった。この辺りの状況から、縄文時代と弥生時代の境が難しくなった原因ですね。1970年代までは、稲作は「中国や朝鮮半島から来た人達(弥生人)によってもたらされた」と言う常識が崩れることになった。水田式稲作の技術や仕組みは確かに渡来人から教わったかも知れませんが、実際は、縄文人と弥生人の混血が始めたのですね。
 このように考えると、東日本の縄文人を旧縄文人と設定でき、純粋の縄文人なのです。祭政一致の仕組みができたのも東日本の縄文人の方が早かった。それに対して、西日本の縄文人を新縄文人と設定し、従来の縄文人と弥生人の混血だと思う。東日本に水田式稲作が浸透していった頃、西日本では青銅器が中国や朝鮮半島から入ってきて、祭事に使っていた土器や土偶は、銅鐸に変わっていた。
 今回の平成から令和に変わる時期に、皇室が行う儀式は縄文人から受け継がれているように思います。
2019年4月30日


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 現在では古代史において物部氏で通じていますが、物部と言う名前を崇神天皇の時代に河内国にいた伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が帝から頂戴した氏の名前。その当時、物とは「もののふ」の物で、軍事を預かる士族を表していた。安土桃山時代に織田信長が「もののふ」という言葉をいれた詞を歌っている。平安時代末期から宮中の護衛のために現れる武士のことです。部は被支配集団のこと。『古事記』によると崇神天皇が疫病に罹った民が多くでたことを嘆いていた時に、夢枕に大物主大神が現れ、「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になる」と言われたそうです。その人物が伊香色雄命だったのです。
 伊香色雄命が物部氏の祖で、三輪山に祀られている大物主大神と倭大国魂神に捧げる祭神之物を守る役目を仰せつかった。記紀ではこのように書かれていますが、現代風に考えると三輪山の神は政府で、祭神之物は年貢ですかね。五穀を耕し、年貢を納める民を護る役目を物部氏に与えたことになります。ヤマト王権での物部氏の地位は、政治を動かす中枢部ではなく、政権を守る兵を備えた役人だったのですね。普段は農作業をして生活し、いざ政権を揺るがす事態になったときには、兵を挙げる部族だった。その部族がすべて物部を名乗った。その部族の大王が物部十千根から始まり、物部守屋で終わる家系だった。
物部氏系譜
 大和国にある王権を護る役目を授かった物部氏の部族は、九州から瀬戸内海を通ってくる外敵に備えて、その当時の河内湾の沿岸線に住まいしていました。また、船艦を備え、各地の反乱を抑えるため河内湾から出港したようです。物部十千根は、垂仁天皇の時代に大夫(まえつきみ)の一人に数えられるようになって、出雲制圧に向かっています。そして、出雲にあった財源をも手に入れ、王権の中枢に成長していきました。
古墳時代の河内平野 仁徳天皇の時代に、難波高津宮の近辺に物部氏の本拠地を置きます。難波高津宮は、現在の大阪市天王寺区餌差町辺りにありましたから、物部氏本拠地は聖徳太子(厩戸皇子)が建立した旧四天王寺辺りに置き、河内湾の海岸線である大阪市中央区森ノ宮辺りに港を所有していました。物部伊莒弗の頃には、政権の中枢に入り、履中・反正天皇の時代には大伴氏と共に大連を務め、平群木菟や蘇我満智や葛城円等の中央官僚とともに国事を執った。仁徳天皇が崩御されて、履中天皇の弟、住吉仲皇子が安曇浜子と共に反乱を起こし、難波高津宮が焼かれたので、履中天皇は都を奈良県桜井市池之内の磐余稚桜宮に移した。それに伴って、物部伊莒弗は難波にあった住まい、領土をそのままにして、創建した石上神社付近の大和国山辺郡に移住し、大和での物部氏の拠点にした。物部伊莒弗の後も目、荒山、廃仏派と崇仏派で蘇我氏と戦った尾輿、そして蘇我馬子と聖徳太子によって滅ばされた守屋も大連を務めた。守屋の最後の拠点が、現在のJR森ノ宮駅付近に、聖徳太子が父、用明天皇のために創建された鵲森宮の社(通称:森の宮神社)辺りにあました。物部守屋は、蘇我馬子と厩戸皇子と戦った丁未の乱(587年7月)に破れ、廃墟になった守屋の拠点に聖徳太子は旧四天王寺を建立した。現在の森の宮神社に隣接する森の宮公園に建てられたと鵲森宮の社伝には記載されている。その後、推古天皇の時代、593年に現在の四天王寺の地(大阪市天王寺区四天王寺)に建立されている。
四天王寺
 この物部守屋の最後の拠点、鵲森宮の社の近くに森ノ宮ピロティホール(大阪市中央区森ノ宮中央1)があり、1979年に建設された施設ですが建築前の史跡調査で貝塚が発見され、森の宮遺跡と名付けられた。その遺跡森の宮遺跡の土器の流れには、紀元前3,000年前から縄文人が住み着き、東北の亀ヶ岡式土器、関東の堀之内式土器、北陸の八日市新保式土器、九州の西平式土器や富山県の蛇紋岩製石斧と翡翠が発掘され、縄文人が持ち込んでいます。縄文時代から弥生時代にかけて、河内湾の拠点となっていたことが証明され、ひょっとしたら、物部氏と名乗った人達の中には、縄文時代に東北や関東や九州からこの地に船を使ってやって来た人達の子孫が含まれているかも知れませんね。物部伊莒弗から守屋までの物部氏の大王の配下で兵士として戦った人達も含まれていたかも知れません。そして、物部氏の財源と権威のもとに各地に散らばった。東北や関東にまで遠征して、その地で物部氏を名乗った人達は、森の宮遺跡出身の人であったかも知れません。
2019年4月14日

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 天皇陛下の退位にともなって、元号が「平成」から「令和」に変わりますね。元号は、中国の前漢時代の武帝が最初に採用した年号で、それ以後の中国でも清の時代まで続きました。以前は、大韓民国が1962年まで一時期年号を採用していたことがあり、ベトナムが1945年まで採用していましたが、中国にしてもベトナムでも共産主義国家ですから。中国の周辺諸国で年号を使っているのは、現在では日本だけになってしまいました。

 日本が元号を必要になったのは、飛鳥時代で日本国家として法的整備が必要になり、唐の律令制を採用することになり、法律で国家を治める必要性に迫られたからです。推古天皇の時代に厩戸皇子(聖徳太子)が摂政になり、十七条憲法を公布され、天皇を中心とした律令国家を目指され、大化の改新により、最初の民の戸籍の調査や租税を徴収する目的で地権の調査するため班田収授が行われ、天智天皇が近江令を公布し、天武天皇時代の飛鳥浄御原令によって班田収授の法が定められた。元号も大化、白雉が孝徳天皇の時代(645年から654年まで)に定められたが、天武天皇の時代に32年ぶりに朱鳥で再会している。天武天皇が死去した686年のことですね。飛鳥浄御原令も未完成のままその年に公布されています。

班田収授の法


大宝律令の官制 班田収授の法の基本理念は、公地公民制(私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇が所有・支配する体制)にあったようです。天皇中心の国家を構築したかったため、詔を豪族に伝えた。この考え方が浸透したのは、大宝律令が公布され、中国の唐と国交正常化を成し遂げ、「倭」から「日本」と国号を定めた701年からでした。班田収授の法は、ある意味では外交政策の一環だったようです。しかし、官僚制度も大宝律令という法律によって確立された。この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立したことになる。現在でも、役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々のも、大宝律令から。

 班田収授の法は大宝律令から養老律令に受け継がれたが、平安時代には小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達して崩壊していきました。しかし、法律としての律令法は形を変えながら、年貢、兵役などの夫役は武士の世の中になっても続けられました。ある意味で言えば、現在の刑法や民法の源は律令法にあったとも言えます。大宝律令が公布された時代には、現在の警察機能としての非違(非法、違法)を検察する天皇の使者として検非違検非違使使が存在し、弾正台という行政官・立法官である太政官の影響を受けないよう独立した監察機関として設置されていた。平安時代には検非違使として、武士の役割となり、それらの武士たちが官僚制度をも身につけていった。戦国時代には、「弾正」を称した戦国大名も出現した。明治時代になって、警察省ができ、弾正台は刑部省と統合して司法省になり、大日本憲法が公布される様になって、司法省が裁判所の人事権を握っていたが、戦後、司法省が法務省に移行することで、裁判所の独立を獲得した。

 時代の流れによって、日本における法律に関する施設は変化してきましたが、古代から日本では、祭事と中国から入ってきた儒教を兼ね備えた官職が存在し、その最高位が天皇陛下であった。基本的な法典は「律」で定められ、「令」は行政法、刑事訴訟法、民法などが担う。律令制が始まる頃、或いはそれ以前には「令」は天皇陛下の「詔」であった。
2019年4月6日

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 世界的に日本人だけが食べる食品と言えば、納豆があげられますね。その原料は大豆で、植物に含まれている栄養素で唯一、タンパク質が含まれている食品です。昔から日本人は、動物性タンパク質を取らなくてもしっかりとからだの血管や筋肉や骨格を作るタンパク質を摂取していたのですね。さらに、遺伝子にも影響を与え、からだの傷んだ細胞もタンパク質が補います。人間の体内には、水分が約60%含まれ、その他がタンパク質で加工された内臓や骨や筋肉が締めています。
 大豆は、『古事記』にも記載されているスサノヲとオオゲツヒメの出会いの場面で、「オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの目から稲、耳から栗、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれた。」とあり、日本には昔から五穀(稲、栗、小豆、麦、大豆)が食取されていたことが窺えます。大豆も稲作ツルマメと共に、中国から渡ってきて、日本でも栽培されるようになった。でも、豆を食べる風習はそれ以前から日本にあり、縄文時代前期の長野県北杜市長坂町の酒呑場遺跡から発掘された土器からツルマメ種子圧跡が発見されています。ツルマメは、ツル状のマメで他の植物に巻き付いて生息するダイズ属。古代より人々が栽培し、さらに品種改良したものが大豆になったといわれています。
あずきの花 小豆は、植物性タンパク質を20%含み、日本からヒマラヤ一帯の照葉樹林帯に生息している野生のヤブツルアズキを栽培種にした。日本では古くから食取されていた食品で、紀元前4,000年頃の滋賀県の粟津湖底遺跡から発見されています。餅米に小豆を入れて蒸した赤飯も日本独自の食材ですね。赤飯は、古代より赤い色には邪気を祓う力があるとされ、凶事に赤飯を炊く風習が少なくとも12世紀の頃には確立していた。江戸時代までは、今では白米が当たり前ですが、米の改良が赤飯進んでいない明治時代前まではインディカ種米(赤米)も含まれていたので、赤飯はその赤米で炊かれていました。現在の赤飯は、米の改良が進んだ明治時代に、赤にご飯を染めるために小豆が使われるようになりました。
 納豆は、平安時代中期に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』の中で「精進物、春、塩辛納豆」と記され、その11世紀半ば頃から一般的に納豆が知られるようになった。しかし、納豆の起源となると弥生時代にまで遡る。弥生時代には納豆「煮豆」をして食べている習慣があり、稲の「藁」も存在していたことから、藁に放置されていた煮豆が炉の温度と湿度によって菌が繁殖し、偶然、糸引き納豆が出来上がった可能性はあります。弥生時代から、いや縄文時代から日本人は動物性タンパク質ではなく、植物でタンパク質を取っていたのですね。動物性タンパク質は海・川・湖で魚を摂っていた。シカやイノシシもあったかもしれませんね。
 食品即ち有機化合物を体内に入れるとリン酸基が結合した物質、ヌクレオシド構造を持つウリジンがリン酸とRNAとDNADNA(デオキシリボ核酸)と結合してRNA(リボ核酸)ができ、そのRNAの中のメッセンジャーとしてのmRNAが体内でアミノ酸に変化し、タンパク質として筋肉の増強など体力を維持するエネルギー源となる。そのアミノ酸がどのように変化するにかは、DNAの指示によるらしいです。生まれた赤ちゃんには、男親のDNAと母親のDNAを持って生まれ、母乳にウリジル酸などの各種ヌクレオチドとDNA・RNAが含まれ、乳児の免疫調節や記憶力の向上として成長していき、タンパク質がDNAの指示によって、目(水晶体)の色や肌(皮膚)の色や髪の色が遺伝として現れていきます。すると、私達の日本人の祖先、縄文人や弥生人は五穀(稲、栗、小豆、麦、大豆)や動物性タンパク質としての魚やイノシシやシカを食取してきたことから、乳製品や肉類を多く食取していた西洋人とは全く違った人種となってきました。大豆や稲や卵を食取してきた中国人とも違った遺伝子を持った人種であったのではないでしょうか。
2019年3月23日

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 中国の秦朝から前漢朝にかけて書かれ、中国の最古の地理書『山海経』に、日本の記事があり、中国の東方に黒歯国があり、その東に扶桑国があると記されている。日本ではこの記事に対していろいろな説を唱える方がおられます。例えば、倭国があり、黒歯国があり、扶桑国も存在していた。と唱える方もおられるでしょう。地理書『山海経』が記載されたのは、紀元前4世紀から紀元前3世紀の頃で、その頃、日本において国家としての国が存在していたか。疑問であり、その当時の日本では集落から小国家へと発展していた頃。『山海経』は古代中国人の伝説的地理認識を示した書で、内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物が記載され、その内黒曜石容に合わせて国名を記載したのではないかと思われます。また、『山海経』には古い中国神話を元に記されているので、その観点から考えると日本の縄文時代から中国の人は、日本の存在を認識していたことになりますね。
 『山海経』に記載されている「黒歯国」とは、私の以前の解釈として、日本人の女性が結婚して歯をお歯黒にする習慣があったことから、黒歯の国と思っていましたが、古くから中国人の認識とし、また『山海経』が鉱物に因んで「黒歯国」実をつけたクワの木と記載していると考えると、石器時代から優れた石器、日本で多く産出する黒曜石のことではないか。また、「扶桑国」においては、扶桑の木を実際のクワのこととみなし、広葉樹のハリグワが日本では石器時代から生息し、クワの実が食料とされていた。考古学的には、明石市の西八木遺跡で約6~5万年前の砂礫層の中からハリグワ製の板状の木製品が発見されている。日本の旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことなりますね。
 秦朝の時代、秦の始皇帝が不老不死の薬を求め、琅邪郡(山東省臨沂市)出身の徐福に日本行きを命令した。この不老不死の薬は結果的には見つからなかったが、ログワの根皮は桑白皮という漢方薬で、利尿、血圧降下、血糖降下作用、解熱、鎮咳などの作用があり、五虎湯、清肺湯などの漢方方剤に使われる。桑白皮には、スクロースや蚕砂マルトースの分解効率が低下し、血糖値の上昇が抑制する効果があるようです。クワを食餌とする蚕のフン、漢方薬の「蚕砂」と同じ効果があるようです。徐福は、中国からある漢方薬の元をハリグワが多く生育している日本に目を付けたのでしょうね。
 石器時代から、中国の人が日本を古くから知っていたのは鋭くよく切れる「黒曜石」存在があったからだと思われますが、クワの存在はいつ頃からなのだろうか。中国の伝説によると5,000年前頃、黄帝の妃の西陵氏が庭で繭を作る昆虫を見つけ、黄帝にねだって飼い始めた、養蚕のはじまりですね。日本で養蚕業が盛んなとき、昭和初期には蚕を育てるのに、クワと蚕クワが必要で桑畑が養蚕業の周りに広がっていた。蚕にはクワが必要なのですね。日本に稲作が入ってきた頃と同じくして、養蚕業も入ってきました。日本にはクワが多く生育していましたから。そのようなことから、秦の時代から日本のことを「扶桑国」と言っていたのですね。
2019年2月17日

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