いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2019

好太王碑 1880年に清国集安の農民によって発見された好太王碑。この碑は、高句麗の第19代好太王の業績が書かれていて、20代長寿王が414年10月28日に建てた。高句麗は百済と新羅の戦いで、倭国が百済に参戦して新羅を攻めたため新羅は高句麗に応援を求め、百済・倭国の連合軍と高句麗軍が戦って、連合軍が大敗したという話が好太王碑に記載されている。好太王碑によると、399年の倭人が百済と内通して新羅を攻め、新羅王の要請で高句麗軍が。400年には5万もの大軍を新羅に派遣。404年に倭国が帯方地方まで侵入してきたので、高句麗軍が打って出て倭軍を大敗させた。その頃、日本では中国の南朝、刀晋と交渉を開始している。仁徳天皇の時代ですね。日本では「記紀」に記載されている神功皇后の三韓征伐の記事と好太王碑との関わり合いはどうなのか。仲哀天皇と神功皇后との子が応神天皇であり、孫が仁徳天皇となる。神功皇后の三韓征伐は、年代の格差があり、明治時代からいろいろな論争が学者の間で戦われてきた。でも、「記紀」自体が飛鳥時代から奈良時代初期に書かれたもので、現在では、好太王碑文の歴史的事実は証明されています。
七支刀 「記紀」に書かれている神功皇后の三韓征伐の記事が全くの作り話であるとも言えない。「記紀」によると仲哀天皇の死後、神功皇后が201年から269年まで政を担った。この辺りが「記紀」の誤魔化しではないだろうか。神功皇后は、百済と同盟関係を結ぶため、『日本書紀』によると神功皇后摂政52年条に百済が「七子鏡」一枚と「七支刀」を献上している。七支刀は、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上した際に、何本か持ち込まれていて、奈良の天理にある石上神宮に保管されている。中国の東晋時代(317年~420年)に製造され、その七支刀のレプリカを百済が複製して、百済から日本に渡ってきた。この石上神宮の七支刀に刻まれている「泰■四年」でいろいろな推測があって、年代が定まっていない。神功皇后摂政52年が252年説と372年説があって定まらない。神功皇后の存在すら否定する説や神功皇后が邪馬台国の卑弥呼説まで。
 「記紀」の年代の誤魔化しと言えば、崇神天皇即位9年春の事として国中に疫病が蔓延し、人民失せて尽きんとするに至り天皇はいたく悩まれ、神が夢に現れたと称し大和国の東口にある墨坂神と西口にある大坂神を盾墨坂神社と矛をもって祀った。その翌年、四道将軍を全国に派遣している。この墨坂神とは、現在の墨坂神社のことで、境内に据えられたご由緒には、崇神天皇即位9年を西暦380年となっている。『日本書紀』では、紀元前87年とされている。この380年は、仁徳天皇即位68年に当たるので、十干十二支では庚辰に辺り、60年前の庚辰は、320年。120年前とすると260年。その辺りが妥当かと思います。崇神天皇が崩御されたのが戊寅ですから、318年。その時、崇神天皇即位68年ですから。『日本書紀』では120才まで生きられたことになっていて、『古事記』では168才で崩御されてことに。まぁ、ありえないですね。
七子鏡 「記紀」では、正確な年代がでないので、朝鮮の『三国史記』や『三国遺事』に頼らなければなりません。神功皇后摂政52年は、最近の通説では372年となっています。「倭の五王」の話が出てくる、その当時の中国南朝の宋の歴史書『宋書』。「東晋安帝倭国方物を献ず」とあり、413年に「讃」とされている仁徳天皇の命で南朝の東晋に使いを遣わしている。おおよそ年代が揃ってきます。それと、七支刀は石上神宮に保管されていますが、同時に百済から献上された七子鏡は、1872年に大仙御陵古墳(仁徳御陵)が水害にあい、崩れた際に発見されました。お祖母さんに当たる神功皇后が所持していた鏡です。つじつまが合いますね。現在、アメリカのボストン美術館が所蔵しています。
布都御魂剣 七支刀が石上神宮に保管されている。石上神宮と言えば、物部氏の祖、伊香色雄が創建した神社で、七支刀は物部氏のものになったのだろうか。『古事記』によると神武天皇が熊野から大和に入る途中、大熊が現われてすぐに消え、兵士たちは皆気を失ってしまった。その時に現れたのがタカクラジで、アマテラスとタカミスビから頂いた大刀を振り回したら、兵士たちは意識を回復した。この大刀が布都御魂剣で、神武天皇はニギハヤヒに。伊香色雄が創建した石上神宮に神体として供えた。布都御魂剣は、鹿島神宮にも祀られている日本刀です。どう見ても平安時代に作られた直刀としか見えません。草薙の剣とは全く違う。布都御魂剣は、七支刀では。そのように思うのも、「記紀」が天武・持統天皇の時代に編纂されたから。


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斎王代列 京都三大祭のトップを切って、令和元年5月15日に葵祭が開催されましたね。京都御所から賀茂御祖神社・賀茂別雷神社までの平安絵巻を彷彿させる行列がメインですね。この祭りのメインは、今年斎王代に選ばれた京都の女性が十二単をまとい、四方輿に正座され、内侍に牽かれるシーンですね。斎王とは、伊勢神宮の斎王を現し、今年も平成天皇が伊勢神宮に参られ、神宮親謁の儀をなされた際に斎王を務められたのは黒田清子さまでした。斎王を務められるのは皇室の未婚の内親王、女王となっているそうです。現在、内親王も女王もおられないので、平成天皇のお子様、黒田清子さんが務められた。葵祭の斎王は「斎王代」となっていますので、斎王の代わりですね。賀茂御祖神社・賀茂別雷神社の斎王を設けたのは、葵祭の起源、欽明天皇の時代からではなく、平安初期の嵯峨天皇が810年に伊勢神宮の斎王にならって、賀茂の社に斎王を置いた時から始まっています。しかし、鎌倉幕府と後鳥羽上皇との政変、承久の乱(1221年)で完全に皇室の権威が失われてから、葵祭は続けられても、斎王行列は廃止されました。第二次世界大戦が終わり、昭和28年に葵祭の主役として斎王行列が復活することになりました。斎王代列になったのですね。
葵祭の駆競 結局は、斎王と言うシステムを現在でも採用にしているのは、伊勢神宮だけなのですね。元々、葵祭は欽明天皇の567年に風雨が激しく五穀が実らない年があったのですね。その時に欽明天皇が賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭をかぶって駆競をした。これが葵祭の始まりなのです。日本の祭りの始まりは、この葵祭だと言われています。
斎宮の居室 『日本書紀』によると、崇神天皇の時代に百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった時に、宮中でアマテラスとヤマトノオホクニタマを祀っていることに原因があると判断されて、紀国造の荒河戸畔の娘、遠津年魚眼眼妙媛との間に生まれた皇女、豊鍬入姫命を斎王としてアマテラスを笠縫邑に移させた。そして、垂仁天皇の時代に彦坐王の子である丹波道主王の娘、日葉酢媛との間に生まれた倭姫命が伊勢神宮にアマテラスを創祀した。これが斎王の始まりとされている。豊鍬入姫命と言うと紀国造の主祭神、日前神との関係があり、日前神宮には神体として伊勢神宮の八咫鏡と同等のものが祀られている。豊鍬入姫命がアマテラスの神体、八咫鏡を作ったのでしょうね。また、倭姫命は、伊勢神宮が創建されるまで、アマテラスの神体、八咫鏡を「元伊勢」に遷幸し、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の完成とともにアマテラスを祀る最初の皇女となった。甥のヤマトタケルに草薙の剣を授けたのも倭姫命ですね。斎王が住む斎宮が設けられ、天皇一代に一人の斎王という制度が出来たのは、天武天皇の時代になってから。斎宮の終焉下賀茂神社の古代祭祀場は、後醍醐天皇の南北朝時代に絶えてしまった。
 現在では、葵祭として京都の人に親しまれていますが、この祭りが始められた時は賀茂祭と呼ばれていました。2005年に賀茂御祖神社境内の糺の森の発掘調査を行ったそうです。すると、糺の森に古代の祭祀場が発見された。古くから賀茂族がこの地に住み、祭事を行っていたようです。そして、欽明天皇の時代から京都にある賀茂の社は、飛鳥の地でも二葉葵(賀茂葵)られていたのでしょう。平安京に遷都されてからは、現在の祭りの行事が行われ、見物客もいたようです。その頃は、葵祭とは言わず、賀茂祭と言われていました。徳川家の紋葵祭と言われるようになったのは、江戸時代です。賀茂族の家紋が葉が2枚の葵の紋で、徳川家の紋も葵の紋だったこともあって、葵祭と言われるようになった。
2019年5月19日


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能「鶴亀」 昔からの諺で、「鶴は千年、亀は万年」がありますね。鶴の寿命が千歳で、亀は万歳まで生きる。この諺は、長寿を現しためでたいたとえに使われたりします。野性の鶴の寿命は、およそ20~30年だそうです。最も長く生きた丹頂でも50年以上という記録が。亀は100年位生きているそうです。最長で200年。こんな諺、現在では通用しない話ですね。でも、明治時代位までは、通用していた話なのです。また、能の演目に「鶴亀」があり、あらすじは、「いにしえの中国にて。新年を迎えた皇帝の宮殿でお正月の行事が執り行われます。皇帝に仕える官人が登場し、皇帝が月宮殿にお越しになるので、殿上人は皆参上するように、と触れ回ります。皇帝が不老門に現れて初春の日の輝きをご覧になると、万民が天に響く祝賀の声を上げます。宮殿の庭は金銀珠玉に満ちて美しいことこの上ない様子。こうしたなか、大臣が進み出て例年のように鶴亀に舞をさせ、その後、月宮殿で舞楽をなさいませ、と皇帝に奏上します。鶴と亀が舞って皇帝の長寿を祝うと、皇帝も喜び、みずから立って舞います。さらに殿上人たちが舞って祝賀の場を淮南子盛り上げた後、皇帝は御輿に乗って長生殿へ還ります。」となっています。実はこの諺、日本で作られたのではなく、中国の前漢、武帝の時代(紀元前141年から紀元前87年まで在位)の人で、前漢高祖(劉邦)の孫、淮南王劉安が学者を集めて編纂させた思想書『淮南子』の巻十七 説林訓に書かれています。「鶴歳千歳、亀歳三千歳」と。中国では、古くから鶴や亀を長寿の象徴、縁起のよいものとされていました。
 巻十八 人間訓には、「人間万事塞翁が馬」と書かれていて、「人間」は中国では世間と解釈し、万事世間ではとなり、ここで「塞翁」の塞は鳥のことで、翁は老人のことで、鳥を飼っている老人のこと。この漢文でこの諺のあらすじが添えられています。そのあらすじは、「老人の馬が逃げたところ、その馬が優れた別の馬を連れて帰ってきた。今度は老人の子供がその馬から、落馬して足を折ったが、そのおかげで兵役を逃れて命が助かった。」のたとえ話ですね。「人間万事塞翁が馬」を要約するなら「禍(不幸)や福(幸福)は予測ができないものだ」となり人間万事塞翁が丙午ます。東京都知事をした青島幸男さんが、1981年に『人間万事塞翁が丙午』を書かれ、直木賞を受賞されていますが、このタイトルは、『淮南子』の巻十八 人間訓の「人間万事塞翁が馬」のパロディですね。「不幸が幸いして福となる」という日本人のものの考え方を現した諺ですね。
 『淮南子』は人間の問題を天地の創造からはじめようとしました。巻三 天文訓には開闢説話が書かれており、「天地の未だ形せざるとき」から始まります。『日本書紀』では、「古に天地未だ剖れず」と引用しています。持統天皇の時代の人も中国の『淮南子』を読んでおられたのですね。この他の多くの文句が『日本書紀』の天地開闢の神話に多く引用されています。紀元前2世紀頃の『淮南子』が、日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的になるほど、古くからこの思想史は、日本に根付いていた。
 「鶴は千年、亀は万年」は、中国の不老不死のものの考え方から現れてきた。仙人思想ですね。紀元前3世紀の頃、秦の始皇帝の命で徐福が3,000人もの人を日本に不老不死の薬を探すため渡来している。その人達は、淮南王劉安の『淮南子』を受け入れたのでしょう。前漢の武帝も不老不死に執着していました。紀元前2世紀の頃です。その頃、日本では、北部北九州に小国ができてきたのですね。日本では青銅器の製造が始まったころですが、鉄器はまだ製造されていませんでした。しかし、武帝の時代には鉄器を製造する体制ができ、塩鉄の専売が始まっていました。日本と鉄器の貿易を始めている。青銅板状鉄斧器と鉄器は同じ頃に日本に現れていますからね。貨幣も流通するようになっていたのですね。福岡県糸島市志摩御床松原の貨泉もその当時のものと思います。日本で最初に鉄器を製造したのは、出雲や吉備ではなく、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部のように、中国からの輸入だったのですね。このように、『淮南子』も中国から入ってきていたのでしょうね。この『淮南子』をその当時から読んでいたのは、渡来してきたインテリ達だったと思います。そして、そのようなインテリが『淮南子』のものの考え方を広めていった。それまでの日本人にも受け入れられる思想だったようですね。
2019年5月10日

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 平成天皇が退位にともなって、伊勢神宮内宮の神殿で4月18日の神宮親謁の儀を済まされた。天皇家の祖先、アマテラス様に退位の報告をするため、皇居で保管されている「草薙の剣」(レプリカ)と「八尺瓊勾玉」を持参され、伊勢神宮に供えてある「八咫鏡」、三種の神器を揃えられての退位の報告であった。「草薙の剣」は、平家が持ち出され、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに沈められた。その剣は、「記紀」では、東征を終えたヤマトタケルが熱田で宮簀姫に草薙剣を渡し、宮簀姫は熱田神宮を建ててこの草薙の剣を祀ったとされていまので、安徳天皇の剣は模造品。今回の皇居に保管されている「草薙の剣」も模造品。本物は、愛知県の熱田神社で祀られています。本物は、「八尺瓊勾玉」だけとなるわけですね。国民が箱入りの「八尺瓊勾玉」を拝見できるのは、退位と即位の時だけですね。天皇陛下が「三種の神器」をお持ちになられて、はじめて天皇の位に座られる。

神宮親謁の儀

三雲南小路遺跡から出土した草薙の剣  「草薙の剣」は、天皇の持つ武力の象徴とされるもので、神話ではスサノヲが八岐大蛇を退治されたときの剣、ニニギのミコトが天孫降臨の場面で高千穂の頂上に刺した剣、ヤマトタケルが東征のときに持ち出した剣。景行天皇以来受け継がれてきた剣ですね。
  「八咫鏡」は、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた鏡、アマテラスが天孫降臨の際にニニ平原遺跡から出土した大型内行花文鏡ギのミコトに授けたとなっています。この鏡は、福岡県糸島市の平原遺跡から出土された大型内行花文鏡と同等の鏡だそうです。と考えると奴国がそんざいしていた頃の鏡となり、その鏡が天皇家とどのように関係があるか。天皇家は紀元1世紀当時に北部九州の出身だったのか。謎深い。
 「八尺瓊勾玉」は、赤い大きな勾玉らしいです。翡翠ではなく瑪瑙で作られています。勾玉は当初、剣靈として扱われ、「草薙の剣」とセットであったらしい。二種の神器ですね。勾玉は、天皇が所持する三種の神器と決められた時代、武力の長として剣と一緒に身につけるものであったから。剣靈として扱われた。それにしても赤い勾玉とは。この赤は瑪瑙の勾玉鉄を意味するのだろうか。元々、勾玉は縄文時代早期にはアマゾナイト製、動物の骨でつくられたものですが、弥生時代中期から古墳時代あたりになると、翡翠をはじめとした洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始めた。瑪瑙の岩石は、青森県、石川県、富山県、北海道が産地になっているので、ヤマト王権が弥生時代中期ころには、東北まで勢力を伸ばしていたことがわかる。この「八尺瓊勾玉」も神話では、アマテラスが天孫降臨の際にニニギのミコトに授けたことになっている。
 天皇家は、男性即位が基本で家父長制なのに、なぜ、天皇の祖は女性のアマテラスなのだろうか。漢字が日本に入ってくる前、その当時の人は、天皇の祖先をスメミオヤと言っていた。漢字入ってきて、その言葉に当てたのが、皇祖・皇御祖・皇祖母。皇祖母とは、これは母系家族制を意味しているのではないだろうか。「皇」は、スメラと読み、平安時代にスメラを天皇と規定するまでは、この「皇」だったのです。天皇の子、王子のことを漢字で「皇子」と書いているが、漢字のない時代は「大王(すめらみこと)」の子を神の子、御子と表し、皇子、皇女から平安時代に親王となった。スメミマという言葉もあって、「皇孫」と書き、アマテラスの孫、ニニギのミコトを表しています。「皇」とは神だったのですね。即ち、天皇は神となります。明治時代より前のはなしですが。「皇」が「神」。「神」=アマテラスだった。アマテラスは女性。と言うことは、縄文時代から弥生時代中期まで、祖先信仰は母方の先祖を崇拝していたことになります。現在では考えられないことかも知れませんが、日本人のルーツは母性にあった。言い換えれば、男性は中国や朝鮮半島から渡ってきますが、女性はその地に根付いている。現在の日本人の源は縄文時代の女性にあり。縄文人の血が脈々と流れていることになりますね。
 日本の神話、『古事記』の神話の部分は、どうも崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の時代の話を神話仕立てにしたように思う。
2019年5月6日

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 紀元前900年頃に、北部九州(長崎・佐賀・福岡)で水田式稲作が始まった。その当時、で生活していたのは縄文人。稲を湿地帯に植える自然栽培は行っていたが、灌漑とかの土木の技術は持っていなかった。中国では、春秋時代で戦争が絶えず、呉や越の難民が黒潮に乗って、この北部九州に。そして、水田式稲作を伝える。その人達は、徐々に縄文人と混合して、新しい日本人が誕生し、今までの家族単位で生活していた縄文人は、その地を離れ、新天地を求めて、東へ。或いは朝鮮半島に渡った人も。群がっていた混血の日本人は、中国の文化を吸収しながら、集落を結成していった。そして、集落から大集落になり、稲の収穫の拡大を求めて、田んぼを増やすために土地開拓を進め、小国家としての機能を持つようになった。北部九州に小国家が誕生するのが、紀元前200年頃でした。その700年の間は、土地の奪い合いによる戦いなどはない平和な生活が続いたと思います。その間でも中国からの難民は続いていたようで、その人達による集落の襲撃はあったと思います。
貨泉 中国で春秋・戦国時代が終わり、漢の時代になったころ、大集落の一部は、中国と貿易を始めます。福岡県糸島市志摩御床松原の砂丘地で、長崎県壱岐島の原の辻遺跡や大阪市の瓜破遺跡、大阪府の亀井遺跡からも紀元14年製の中国の王莽貨泉が、これらの弥生時代遺跡から発見されています。この頃になると貿易で富を増した国、或いはその富を狙う国、稲作だけで生計を立てている国との間に貧富の差が出来てくるのですね。紀元100年代には、日本で小国同士の戦争が始まります。中国では面土国、日本では佐賀県新崎町の吉野ヶ里集落の大王、帥升が後漢の光武帝に使者を送り、金印と倭国王の名称を授かりにいった紀元107年の頃、すでに縄文人系集団が押し寄せてきていた可能性があります。そして、『三国志』の「魏志倭人伝」に書かれている倭国大乱が146年~189年の間に起こっています。この大乱は、徐々に縄文人と渡来人の混合した新しい日本人、大きな富を得た集団と貧しさが漂う縄文人系集団との戦いでした。この大乱を治めたのが、近畿にいた渡来集団と連合軍を組んだヤマト王権(垂仁天皇から景行天皇の時代)。ヤマトタケルが九州征伐にいった話だと思われます。北部九州の小国とヤマト王権は渡来集団によって、結ばれていたのかも知れませんね。その北部九州の小国と渡来集団で卑弥呼という飾りの邪馬台国を建てたかも知れませんね。
青谷上寺地遺跡の人骨 この頃の吉野ヶ里遺跡や複数の弥生遺跡から鉄の矢尻が刺さったままの人骨の入った甕棺が発掘されています。この大乱は北部九州だけでなく、山陰・山陽地方にも波及し、鳥取県の青谷上寺地遺跡には、頭蓋骨に矢尻が刺さった跡の人骨と脳みそが2000年5月に出土されています。この時代には、鉄が中国から導入されていたのですね。頭蓋骨に矢尻が貫通していたとなると鉄器しか考えられませんね。ヤマト王権は鉄器によって日本を占領した。
 この鉄器の大本締めが息長氏だった。息長氏は、『古事記』でも『日本書紀』でも皇室扱いになっている。最初に出てくるのが息長水依比売で、第9代開化天皇の子、日子坐王の妃。ここで異母兄弟の崇陣天皇との関係を示し、息長族は皇室入りしている。その日子坐王の曽孫が息長宿禰王、神功皇后(息長帯日売)青谷上寺地遺跡の脳みその父に当たる。この系統は、神功皇后までで、その後は『記紀』に現れてこない。もう一つの系統は、ヤマトタケルの子、息長田別王で、この系統から応神天皇の妃となった息長真若中比売がいます。その二人の子が若沼毛二俣王で4代後の継体天皇となる。いずれにしても、息長氏は皇族扱い。継体天皇以後では、第34代舒明天皇、推古天皇の次の天皇で、蘇我氏の血が入っていない天皇。この天皇にも、息長足日広額天皇となっているから、息長系かも知れない。それにしても、息長氏は、皇室と深い関係にあったことには違いない。

息長氏の家系図
 息長氏の本拠地は、近江で現在の滋賀県米子市と長浜市の一部。播磨とか河内とかの説もあるが、一般的には近江です。この本拠地のすぐそばに伊吹山があります。その伊吹山から良質の鉄鉱石が産出しています。やはり、息長氏は鉄に関わる集団だったのです。この地から出雲の方まで勢力を伸ばすことも可能だし、越後や尾張以東の豪族に睨みを聴かすことも可能。鉄に関係がある和邇氏とも関係が深い。この辺りの新しく日本にやって来た渡来集団とヤマト王権の天皇家が手を結んで、縄文人系集団を押さえ、倭国大乱を終わらせたことになる。

2019年5月5日



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