いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2019

櫛文土器 韓国の人は、日本の始まりが朝鮮半島にあると主張されています。しかし、先史時代の両国の関係とは別に、日本では縄文時代と言って、紀元前14,000年~紀元前1,000年頃までの長い歴史があります。そこで、韓国の先史時代はどうだったのかちょっと調べてみました。土器からすると、日本では最古の土器は、青森の外ヶ浜町の大平山元遺跡から発見された無文土器で、付着した焦げ滓を分析したところ、16,500年前と判定されました。その後、九州や四国から隆起文土器が出土されています。これらの土器で12,500年前ぐらいです。それが韓国では、8,200年前~7,400年前の遼河文明・興隆窪文化の土器、櫛目文土器がソウル市岩寺洞遺跡から発見され、6,000年前とされている。中国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて住まいしていた人達が朝鮮半島に流れてきたのでしょうね。
 縄文時代、縄文人は無文土器から豆粒文と呼ばれる文様を持つ隆起線文
亀ヶ岡式土器土器と変化し、さらに複雑な模様の土器を生み出してきました。縄文時代晩期には、青森のつるが市の亀ヶ岡遺跡から土器が出土した。その亀ヶ岡式土器を橿原遺跡の土器はじめとしてその当時の縄文土器が奈良の橿原遺跡からも出土している。橿原遺跡というと、2019年10月2日に橿原考古学研究所が奈良県立医科大の新キャンパスの考古学調査をして、2,500年前~2,600年前の環濠集落の一部と考えられる環濠を確認したと発表しました。大和でも稲作が始まっていたのですね。その時代の土器は縄文土器だったかも知れませんね。
 韓国の櫛目文土器は、朝鮮南部にも広がり、北部九州を拠点にしていた海人系の部族が日本に持ち込んだ。その土器が熊本の宇土市の曽畑貝塚で出土した轟B式土器です。7,300曽畑式土器年前の鬼界アカホヤ火山噴火以後に、海人系の人達が住み着き、曽畑式土器を生み出した。ウラル系の土器を朝鮮半島南岸から持ち帰った櫛目文土器でした。この韓国を3,500年前まで考古学的には櫛目文土器時代と区分している。次に現れる時代区分が無文土器時代です。3,500年前~2,500年前で、その頃に朝鮮南部で水田による稲作が始まります。これは、揚子江入口から黄海を渡って朝鮮半島南岸にたどり着いた漁民であり、農耕民が水田式稲作を伝えました。その朝鮮南部には中国北部のウラル系の人達と中国南部の海人系の人達が同居し、混血していきます。そして、中国北部のウラル系の朝鮮北部の人達が青銅器を持ち込みます。無文土器時代と同時に朝鮮の青銅器時代が始まります。日本でも無文土器時代の中期には水田式稲作が入ってきたが、青銅器はその当時、入ってきていない。やはり、朝鮮南部の部族の長のシンボルとしての貴重品だったのでしょう。
和順大谷里青銅器 韓国の光州市に隣接する全羅南道の和順郡大谷里にある和順大谷里遺跡から、1971年に韓国式銅剣3点、銅斧1点、銅ヤリガンナ1点、精文鏡2面、八珠鈴2点、双頭鈴2点が出土した。この和順大谷里遺跡には、約10㎞にわたって支石墓群が連なっている。その墓地のところから剣や鏡が出てきた。無文土器時代中期後半、2,700年前~2,500年前に支石墓が多く築かれ、朝鮮南部でも琵琶型銅剣(遼寧式銅剣)を元に細形銅剣が作られるようになった。2,300年前の頃に、北部九州にもその朝鮮南部の文化を継承する部族の遼寧式銅剣集落が現れ、細形銅剣を所持するようになった。それが佐賀の吉野ヶ里遺跡から紀元前1世紀頃の細形銅剣が出土されている。朝鮮南部の部族が日本に移り住んできたとき、2,300年前に鉄器の時代がやって来ます。すなわち、日本には青銅器と鉄器が紀元前2世紀後半から紀元前1世紀前半にほぼ同時に入ってきた。この頃の朝鮮南部と九州北部は、同じ経済圏であり、人々の交流も盛んで、日本からも朝鮮南部に渡ったり、倭人と言われた人達が九州北部から朝鮮南部に渡ったりしていたのではないでしょうか。
吉野ヶ里の細型銅剣
 日本神話に出てくる草薙剣もどうやら細形銅剣と同じ形態だし、天皇陛下の祖先が九州北部か朝鮮南部の出身だと言っても過言ではないかも知れませんね。

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瓢箪の実 日本で「瓢箪から駒が出る」という古い諺がありますね。瓢箪はウリ科のユウガオ属の変形種で、アフリカが原産で世界最古の栽培種の一つ。それが、縄文時代草創期から日本で植えられていた。福井県の若狭湾国定公園の三方胡から流れる支流と高瀬川の合流地点一帯に12,000年前から5,000年前に集落があった鳥浜貝塚から瓢箪の種子が発見されている。縄文人は瓢箪を栽培して、果実を削除して乾燥させ、水やお酒を入れて容器として持ち歩きしていたようです。
 瓢箪(瓠)を持ち歩いた縄文人が紀元前2世紀頃には朝鮮半島南部に現れます。その頃、朝鮮には国家としての形態が存在しなかった。日本と同じ状態だったのです。中国からの侵略は存在し、中国の戦国時代の燕もその一つの国で、朝鮮半島に接していた。その燕国の照王(在位紀元前312年~紀元前279年)の時代に領土を拡大し、朝鮮半島も支配下に置いた。その当時の日本、倭国もその範囲に入っていた。事実的には朝鮮も日本も実行支配ではなく、朝鮮半島の西海岸に港を開いたりして、不老不死の薬があると思われていた日本に商人や技師を送り込む目的で、植民地化していた。その逆もあって、日本からその当時の倭人が燕から送られてくる民と交流するために、朝鮮半島の南部に渡った可能性がある。その当時の朝鮮半島の西海岸には、中国の春秋戦国時代に呉・越から斉と北上した戦火を逃れた民が結集していた。この民が日本に水田式稲作を日本に伝えている。中国が秦の始皇帝によって統一された頃、この港には秦の苦役を逃れてくる秦の亡命者も集まるようになり、朝鮮半島の東南地方が未開の地だったので、秦の亡命者と倭人はその地に永住するようになった。秦の亡命者は、青銅器、鉄器の技術をこの地に持ち込んだ。そして、倭人はその技術を習得することになる。その後、燕国は前漢の武紀元前1世紀頃の漢四郡帝により紀元前108年に滅ぼされ、漢の武帝は朝鮮半島に漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を設置して、そして、実行支配をしようとした。この時点でも、朝鮮半島南部は日本と同じように小国が乱立していた。紀元前82年に漢の昭帝は、真番・臨屯を廃止、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入されている。この時点で真番郡があった朝鮮半島の西南部は前漢の植民地支配から逃れた。そこには、燕の亡命者とも交わっていた。そして、馬韓という小国が集まった稲作と漁業を中心とした民が。秦の亡命者と倭人の辰韓という小国が集まった鉄器集団の民が。倭人が中心の小国が集まった弁韓が、そして日本本土、特に九州北部の小国に高度の稲作と鉄器の技術を。高度の稲作を持ち込んだ倭人は馬韓よりで、青銅器や鉄器を持ち込んだ倭人は辰韓より。前漢が楽浪郡を設置して朝鮮半島の植民地化を進める中、楽浪郡と交渉を持ったのは、後の百済となる馬韓にいた倭人達だったのです。九州北部の倭人達。一方、後の新羅となる辰韓では、出雲から丹波に至る山陰地方の倭人が辰韓に渡り、鉄器技術を学びながら新羅の政権に参画した。これが、紀元前1世紀から倭国大乱が始まるころまでの朝鮮と日本の関係です。
 瓠を持ち歩いた倭人が歴史書に登場するのは、新羅が唐の援助により朝鮮半島を統一し、8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き分裂、そして高麗が統一し、その高麗の17代仁宋の命で編纂された『三国史記』卷一・新羅本紀第一に出てくる。『三国史記』が完成したのは1145年で、朝鮮史では最古の歴史書。3世紀頃の三国時代(新羅・百済・高句麗)から統一新羅末期までを記載されている。その『三国史記』には新羅が紀元前57年に建国したとある。そして、紀元前20年に初代斯蘆(新羅)王の朴赫居世は馬韓との国交結ぼうとして、重臣、瓠公に命じている。この瓠公は、瓢箪を腰に下げて倭国から渡ってきた人物です。中国にしても朝鮮にしても、倭人の特徴を表現するのに瓢箪がでてきます。
 『三国史記』は、日本の『古事記』と同じように新羅の建国について神話から始まります。新羅は、朴氏・昔氏・金氏の順で王権が入れ替わり、それどれに始祖説話を持っています。最初に王位についた朴氏の始祖説話を韓国釜山出身の詩人、金素雲さんの『三韓昔がたり』で紹介すると、「辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬金の卵が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)の大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す朴を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする。」となる。『三国史記』は、韓国の古書なのに倭人が新羅の最初の王位となっていることに驚かされる。この『三韓昔がたり』がいつ頃作られたか。新羅が建国したのは紀元前57年となっているが、建国神話でのことだけどその当時に作られたのか定かでない。その当時、中国では辰国或いは辰韓と呼ばれはしているが、実際には小国の集まりで、その中には倭人の国もあったのでしょう。この昔がたりでは、瓠ほどの大きな卵から初代の王、朴赫居世が生まれている。辰国から斯蘆国(慶州一帯)になった頃、紀元前2世紀から紀元前1世紀頃、斯蘆国では農業が盛んな地域でした。そこには、揚子江付近から流れてきた人達と日本から渡ってきた倭人達が生活をしていました。この話で卵が出てくるのは、辰韓の六村の一つには倭人の村も存在していたと思います。卵から生まれると言う神話は、空を神の住む天界と信じられ、鳥は空から飛んでくるので、天の使い。その鳥の卵は天からの落とし子。そんなイメージだったのでしょう。ヨーロッパではコウノトリが赤ちゃんを運んでくるという話と同じですね。また、この昔がたりに馬が出てきます。この馬はその当時、日本には存在しなかった。その当時から匈奴の人達もこの地に住み着いていたのでしょう。
 第四代王として昔脱解が現れる。その昔氏の始祖説話には、「倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一カササギ人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して昔を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから脱解を名とした。」とある。ここでも卵が出てきます。カササギは日本の古代には生息していなかったが、カラスの一種。カラスは稲作を営む者としては、太陽の使者として扱われていました。太陽の黒点がカラスだと。この建国神話では、日本の丹波地方だと想定されている多婆那国が出てきます。倭人が斯蘆国に渡っていた神話での実証となる個所ですね。これとよく似た話が、『古事記』にも出てきます。応神天皇記の中で、その昔に新羅王子を自称する天之日矛(アメノヒボコ)が渡来したとしとあります。斯蘆国の阿具沼で昼寝をしていた娘いて、日光がにじのように差し込んだときに妊娠し、赤い玉を生んだ。その赤い玉を手に入れたのが新羅の王子、アメノヒボコだった。赤い玉から少女があらわれた。それがアカルヒメで、アメノヒボコから逃げ出して、祖国である難波付近に。アメノヒボコは日本まで追いかけてきて、アカルヒメに出会うことなく、但馬国に留まった。『日本書紀』では、アメノヒボコは垂仁天皇の時代に日本に渡っていると記されている。このアカルヒメが神功皇后だという説もあるので、出身が息長氏ですから鉄器の集団と関係がありそうです。となると、この建国神話は2世紀から3世紀の頃に作られたのかも知れませんね。ヤマト王権が新羅と関係が深かった時代ですね。
 第十三代王として金味鄒が現れる。その金氏の始祖説話には、「昔脱解が首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞こえたので、瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。小箱を開くと中から小さな男の子が現れた。」この男の子が金閼智です。その7代目が金味鄒となります。この金色の小箱は鉄器で作られていたのでしょうか。金氏の祖先は、漢の武帝の部下で、匈奴の休屠王の太子、金日磾だと言われています。そうすると、辰韓に匈奴系の人達が馬や青銅器や鉄器を持ち込んだことになります。
 新羅の実質の建国は、第十七代金奈勿の時代で百済の第十三代近肖古王との間で羅済同盟を結んだ366年の頃。高句麗が南下してきて、新羅と百済の領土に侵入してきた頃です。その頃のヤマト王権は、百済の要請で高句麗と戦うために朝鮮半島に遠征していた頃。神功皇后の三韓征伐の時代ですね。それ以前の新羅は、匈奴系の金氏と倭人による連帯国家だった。新羅には倭人の大王も存在していた。倭人は弁韓も含めて、辰韓にも支配拡大に動いていたようです。しかし、匈奴系の王権も存在していた。中国には「職貢図」が各王朝に存在し、王朝の周辺の諸国からの朝貢を記録した書物があります。2011年に南朝の『梁職貢図』が発見された。南朝の梁だから、500年代前半の記録で、その職貢図には新羅の朝貢は、「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉。」とあります。斯羅国は新羅ことです。「あるいは韓に属し、あるいは倭に属し、国王は(中国に)使者を派遣することができなかった」のところが騒ぎになってるらしい。梁の「普通二年」は西暦521年。「その王の姓は募、名は泰」ということで、法興王ことです。521年に新羅の法興王が百済の先導ではじめて梁に遣使したってことですね、たぶん。言葉は百済の通訳がないと通じなかったということが書かれています。
北魏と宋
 その当時の倭国、即ちヤマト王権について、中国の歴史書や地理書に書かれています。ヤマト王権、いや、中国からの文献から倭王讃・倭王珍・倭王済・倭王興・倭王武という王が倭国に存在していたと『宋書』に書かれています。「倭の五王」のことですね。この当時、ヤマト王権も国内の紛争を解決し、同民族がいる朝鮮の支配に向かっていた。ヤマト王権は、東晋・宋・南済・梁に対して、朝鮮半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を任される安東大将軍と倭王の称号を求め、与えられた。倭の五王が南朝の各王朝に朝貢したの真興王時代の領土拡大は、413年から502年の間で、最後の梁の武帝から征東大将軍の称号を賜った。その間に、新羅に軍を送っていたのですね。梁が滅亡する557年までに仏教の伝来や暦の輸入がありました。しかし、新羅の第24代王、金真興は550年以降勢力を増し、高句麗の南下した領土を取り戻し、百済との羅済同盟を破棄し、百済の領土に侵入。しかも、倭人が長年住み着いた領土、加羅も占領した。その頃、ヤマト王権では欽明天皇の時代で、大伴金村が失脚し、物部尾輿と蘇我稲目が台頭してくる。
張果老 前つばが長くなりましたが、「瓢箪から駒が出る」の諺は、唐の時代の仙人、張果老が白いロバに乗って各地を放浪したそうです。休む時はロバを紙のように折りたたんで巾箱の中にしまい、乗る際には水を吹きかけてもとの姿に戻した。この伝説が日本に入ってきて、巾箱が瓢箪に。瓢箪は、東アジアでは物をしまい込むのに使われた。でも、瓢箪に駒(馬)を詰め込むことは不可能ですね。この諺は、意外な所から意外の物が出ることのたとえ。冗談半分のことが事実と千成瓢箪なってしまう場合などに使われます。鎌倉時代末期から江戸時代初期までに書かれた『御伽草子』に張果老の仙人話が取り上げられ、描かれた大和絵で瓢箪から白いロバが出てくる絵が庶民に広がった。豊臣秀吉も馬印・千成瓢箪を掲げて天下を取った。そして、秀吉は神功皇后の三韓征伐や孝謙天皇のによる新羅国王への入朝命令などと考えて、高麗王国に進撃し、李氏朝鮮と戦った。その馬印も千成瓢箪でした。殷・周王朝から伝わる風水で、瓢箪の中には霊力が宿っているという言い伝えが日本にも伝わった。そこで、仙人と瓢箪なのです。縄文時代から栽培された瓢箪と紀元前2世紀ころに中国から伝わった仙人思想により、瓠を腰にぶら下げていた倭人と神の使いを表す卵から生まれた倭人出身の斯蘆国の王。その子孫が朝鮮を離れ、ヤマト王権に吸収されていった。

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 『後漢書』東夷伝には桓帝・霊帝の時代(146年~189年)に倭国大乱が起こったと記されています。実際にはその時期がいつ頃であったか未だに解明されていません。『三国志』魏志倭人伝では、邪馬台国の卑弥呼によって倭国大乱が治まったとなっています。『三国志』は倭国大乱から100年以上経ってから書かれ、『後漢書』は250年も前の出来事を簡単に書かれています。その当時の日本の状況は、中国の歴史書だけでは判断出来ませんね。『古事記』や『日本書紀』にしても、700年初期に完成し、倭国大乱からは500年以上も前の出来事なので、殆どが作り話のようになってしまっています。
 太平洋戦争前、この倭国大乱は九州の熊襲の反乱を治めるために仲哀天皇が山口の穴門豊浦宮に滞在し、その後にようやく筑紫橿日宮に入り、熊襲と戦ったことだとされていました。その後、神功皇后が活躍し、倭国大乱を治め、ヒーロー的な存在でした。それが、戦後、GHQにより神功皇后の存在を政治的理由から否定してしまった。戦前では、卑弥呼と神功皇后が同一人物だという主張もあったぐらいです。卑弥呼は250年頃の人物だし、神功皇后は400年頃の人物ですから、全くの別人ですね。
青谷上寺地遺跡の人骨 倭国大乱の頃、日本では何が起こっていたのでしょう。1998年に鳥取の青谷上寺地遺跡から大量の人骨が発見され、2001年にその人骨の頭蓋骨から古代の脳ミソが発見された。そして、その人骨のDNAを2018年11月に鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携した研究を発表した。その結果、ちょうど倭国大乱の時代の人骨で、この地に住んでいたのは朝鮮半島や中国大陸からの渡来人系だと判明しました。
青谷上寺地遺跡の人骨記事
 山口県下関市の土井ヶ浜遺跡から発見された人骨も、4世紀の韓国慶尚南道金海の礼安里遺跡の人骨と同じ特徴があり、さらに最近の調査で、中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の中に、土井ヶ浜人ときわめてよく似た形質をもつ人骨が発見されている。福岡平野と佐賀平野の遺跡から発見される人骨も渡来系で、倭国大乱よりかなり古くから日本に住み着いていた。それが佐賀県神崎郡の吉野ヶ里遺跡や長崎県の遺跡から出土される人骨は、縄文人と渡来人の混血となっています。1999年3月に東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団が結成され、江蘇省の墓から出土した60体(28体が新石器時代、17体が春秋戦国時代、15体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査した。その結果、歯のDNA分析から江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。
渡来系弥生人と縄文人の人骨比較
 このように稲作が早期に始まった九州でも縄文人や縄文人と弥生人のハーフや渡来系弥生人が集落ごとに集団生活をしていた。山陰の出雲地方や山陽の周防や吉備でも同じ現象があったと思われる。それが集落から郡(邑)に、さらに小国と勢力範囲が拡大していく中で、異質な民族(集団)との土地争いが始まり、戦争に発展していった。そんな時代が倭国大乱の時代なのです。当然、勝者と敗者が存在し、勝者は敗者に対して種稲を貸し与え、収穫期に収穫量の中から初穂料を徴収する制度、出挙が自然と成立することになった。現在で言う利子付き貸し借りです。そうして、勝者は財源を増やし、鉄器による軍事器具を整えていった。そして、倭国大乱が治まった頃には勝者がヤマト王権となっていく中で、敗者の敗者などは利子付きの種稲を手に入れることが出来ない集落や邑はヤマト王権に没収されることになる。それが屯田(みた)です。荒廃した田畑をそのような敗者の敗者に与え、開墾も行っていたようです。そのような人民を民屯と言います。ヤマト王権は屯田を拡大し、屯倉(みやけ)と発展していきます。この屯倉で生活している人達は、普段は農耕に従事しているが、戦争や治水工事には兵士として、工事作業員として従事させられていました。これが古代の租税制度で、えつき(労役、兵役、絹、綿など税)、税(たちから:穀物による物納)、調(みつぎ:穀物以外の物税)、役(えだち:労役)があった。屯倉は官田ということだけでなく、人民を支配する制度であった。この屯倉制度により、治水工事や古墳築造にそのような人民が租税として労役に従事した。
継体天皇没後の屯倉
 垂仁天皇の時代には、倭屯倉と言い、古代の大和国城下郡三宅郷、現在の奈良県川西町一帯であったが、仁徳天皇の頃には、河内平野の治水工事により、現在の大阪府交野市の茨田三宅や大阪市住吉区我孫子から大阪府松原市の依網屯倉がある。そして、継体天皇の子、安閑天皇、宣化天皇時代には九州から関東まで屯倉が存在していた。孝徳天皇の頃まで、百済や任那にも屯倉があった。それ以後、屯倉から均田制が導入され、屯倉が官田と変化していった。

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 世界の王室の中で、日本ほど長期にわたって続いている皇室はないですね。現在の徳仁陛下で126代目。これは、世界でも自慢できる。初代神武天皇が奈良県橿原宮で即位したのが、紀元前660年だそうですから驚きですね。以前、平成天皇が天皇家の祖先について、「私自身としては、桓武天皇の生母(高野新笠)が百済の第25代武寧王の子孫である」と語られたことがあって、その当時、「天皇家の祖先は朝鮮人」と話題になった。このことは、平安時代初期に菅原真道が編纂した『続日本紀』に書かれていたことを引用されたみたいです。
現在の皇室
武寧王陵 百済の武寧王については、平安時代末期に高麗の第17代仁宗の命で編纂された『三国史記』の百済本紀に512年に宿敵、高句麗を打破して、521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表し、格上の爵号を進められたと記載されている。また、1971年に韓国の忠清南道公州市の宋山里古墳群から武寧王の墓誌が発見され、金環の耳飾り、金箔を施し武寧王陵の木棺(復元、国立公州博物館展示)た枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3,000点近い華麗な遺物が出土され、王妃を合葬した磚室墳には日本にしか自生しないコウヤマキ製のお棺が設置されていた。このことから、武寧王時代の百済では中国の南朝との付き合いがあり、仏教だけでなく暦や漢字も南朝から百済経由で日本に入ってきたことが窺える。
 一方『日本書紀』には、武寧王のことがもっと詳しく書かれていて、「武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。」と。このことは、嶋王として40年もの間、百済と日本を行き行きし、日本にも滞在していたことになる。その嶋王の子に余明と純陀がいた。嶋王が40年間、日本で生活していたとするとふたりも日本で育っている。第一子純陀は早死にしたので、523年に武寧王が死去して余明が第26代百済王、聖王となった。この頃、日本では継体天皇の時代ですね。武寧王の時代に大伴金村による任那4県割譲要請が行われ、聖王の時代に仏教公伝が行われています。また、もう一人の子、純陀も子孫がいて、渡来氏族、和(倭)氏となり、和乙継の娘が奈良時代の第49代光仁天皇の妃になったことにより、和氏は高野姓を朝廷から賜与された。この妃が高野新笠です。
 このことは、百済の一部、特に任那辺りの人と天皇家は遠い親戚関係にあったと思われます。また、崇神天皇から垂仁天皇の時代、応神天皇以前、神功皇后が三韓征伐をする前、4世紀頃までは、新羅にも遠い親戚がいたようで。新羅が斯羅國であった頃、その当時の昔氏王朝があった時代、この政権は日本の天皇家と遠い親戚関係にあり、『古事記』の応神天皇記にはその昔に新羅王子を自称するアメノヒボコが渡来したとあり、その渡来理由が次のように書かれています。「新羅国には阿具奴摩という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾の社の阿加流比売であるという。」結果的に、天之日矛は比売許曽神社妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着き、アカルヒメと逢うことができず、但馬国に移り住み、前津耳の娘のマタノオを娶り、但馬諸助を儲けたとし、これが清日子の祖父。この清日子の子孫が神功皇后となる。難波の比売碁曾の社は、大阪市東成区にある比売許曽神社で、元々は大阪市天王寺区小橋町にあった神社で、主祭神は宗像三女神のタキリビメとオオクニヌシの間に生まれたシタテルヒメ。すなわち、アカルヒメは古くから航海安全の守護神を祀っている宗形氏を頼ったのでしょう。アカルヒメは宗形氏の出だったかも知れませんね。
  天皇家の祖は神武天皇となっていますが、実際のところ実在人物ではなかったと思われます。しかし、天皇家の発祥の地は北部九州、特に佐賀の唐津から福岡の糸島辺りだと思われ、その同じ民族が朝鮮半島南部にも拠点を置いていた。新羅のアメノヒボコ辺りまでは、天皇家の遠い親戚、同じ民族だったと思われます。それが、新羅では金王朝になって、北からの秦の残党と言われている遊牧民族が支配し、新羅にいた天皇家と同じ民族は百済に逃げ込み、そのため、神功皇后の三韓征伐があり、日本で生まれたと言われる武寧王やその子の聖王が百済王になっていることを考えると、弥生時代の渡来人も元を正せば、縄文人、或いは紀元前8世紀から3世紀に渡来した人と縄文人の混血であると私は理解しています。


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本音と建前 人間として、陰と陽の裏表の性格を世界の人類が持ち合わせていると思います。でも、日本人って、この傾向が強いと思いませんか。「本音」と「建前」もそうですし、犯罪を起こしての「白」と「黒」もそうですね。この「本音」と「建前」は、外見上全く別のものに見えますけれど、実は完全に「同じ心の働き」に裏打ちされているのです。それは、「自分と他人は切り離されている」、「自分と他人は別だ」、「自分と他人は独立した完全に別の存在だ」という心の働きです。古代でも、権力闘争のために「あらぬ疑い」をかけれ、没落していった皇族、氏族もたくさんいます。こじつけられた正論を元に。現在でもよくある話ですね。この陰と陽の考え方は、森羅万象とか宇宙のあらゆる物事を陰と陽に分けた陰陽思想からきています。元々は天候を表し、中国の春秋時代の最古の詩集『詩経』にも出てくる考え方で、戦国時代末期に五行思想(木、火、土、金、水の行)と一体になって、陰陽五行思想と発展陰陽思想してきた。「陰陽思想」は古代中国神話に登場する帝王「伏儀」が作り出した思想といわれ、「五行思想」は夏の創設者「禹」が発案したと言われています。政治体制も陰陽思想で判断されるという中国の考え方が、日本に水田式稲作が浸透してきた時代に日本でも定着したと思います。日本の神話もこの陰陽思想に基づいて書かれた中国神話をもとに書かれてよ神仙思想の記事うです。陰陽思想の前身は、老子思想であり、秦の始皇帝が不老不死の仙薬を求めて、徐福を日本に派遣した神仙思想でした。この考え方は、紀元前2世紀頃にはその当時の日本人には存在していたようです。
 日本の縄文時代から、自然を崇め、太陽を崇拝し、天候や樹木の茂みに感謝するヒューマニズムがあった。森羅万象という言葉があるように、自然界の万物すべての生命に対する祈りが存在し、身内の生死を祭る儀式があった。肉体とは別に精神的実体として存在すると言う考え方、霊魂思想ですね。そして、人間だけでなく、動物や植物、鉱物にまで拡大していった。亡くなった人の人格が神になり、人と同じ姿かたちと人と同じ心を持つ神が人格神として、「ミコト(古事記では命、日本書紀では尊)」となった。人格神として偶像化されて、神々の仲間入り。そして、その偶像が信仰の対象になった。崇神天皇以前の皇室は神だったのです。このヒューマン信仰と陰陽思想が合体し、日本の神道が生まれることになります。
 精神的実体として存在する「魂(タマシヒ)」に陰陽思想が入ってきて、荒ぶり禍をもたらす魂(荒御魂)と福をもたらす魂(和御魂)が存在するとした。日本の神道は、神の荒々しい側面の荒魂と神の優しく平和的な側面の和魂が一つの霊の中にあると言う考え方となって、同一神に。この神道を基に天皇家が誕生し、ヤマト王権が誕生した。
 水田式稲作が九州北部で発生・発展し、西から東へ。畿内から中部まで浸透してきた2世紀から3世紀の時代に、田園開発が行われ、その中で内乱が発生し、その内乱に勝利したのがヤマト王権でした。この時に日本の神道が生まれ、皇族がミコトになり、偶像信仰が始まった。崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の時代ですね。この政権は、皇室を核として、事務方から軍事方までの組織が確立されていたようです。事務方では、部民制の元に各地からの物産を中央に徴集する部(物部、後の物部氏や穂積氏など)や皇室の食事を司る部(膳部、後の高橋氏)があり、軍事方では皇居の警備から軍事戦略の部が既に存在していたようです。この軍事方には、海人部(直属、後の尾張氏や海部氏や津守氏など、古墳時代に参入した安曇氏など海人系が参加していた)と来目部や靫負部(後の久米氏や大伴氏で近衛兵的役割)。国軍を総括していたのは後の物部氏。古墳時代の外交を担っていたのは、安曇氏だったようです。古墳時代になって、人格神を祭るようになり、古墳が増築されます。欽明天皇の時代になって、神仙思想に近い仏教が日本に入ってきます。その当時、仏教と共に儒教も入ってきたが、その当時の日本人には仏教の方が受け入れやすかったのでしょう。
 現代社会で、建前を前面にだすのは儒教的なものの考え方ですが、本心はまた正反対のところにあり、建前が陽であれば、本音は陰ですね。でも、建前を表に出しても、その結果が本心に近づくならば、日本人はそれでよしと考えるのです。海外の方には理解できませんね。正しく「日本人論」と称される部分です。このような日本人の性格が完成されたのは、江戸時代に儒教が見直されてからだと思いますが、日本人の根底に流れている考一霊四魂説え方は、古墳時代以前まで遡れるのですね。やはり、日本人の基本は神道。幕末になって、平田篤胤の弟子の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観として、人の魂は天と繋がる一霊「直霊(ナオヒ)」と4つの魂から成り立つという一霊四魂説が唱えられ、荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊がコントロールしている。簡単に言えば、勇は、前に進む力、親は、人と親しく交わる力、愛は、人を愛し育てる力、智は、物事を観察し分析し、悟る力である。この考え方も中国の五行思想に近く、一霊四魂に五行をあてはめると、荒魂は火、和魂は水、幸魂は木、奇魂は金、直霊は土、に相当すると考えられている。


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