韓国の人は、日本の始まりが朝鮮半島にあると主張されています。しかし、先史時代の両国の関係とは別に、日本では縄文時代と言って、紀元前14,000年~紀元前1,000年頃までの長い歴史があります。そこで、韓国の先史時代はどうだったのかちょっと調べてみました。土器からすると、日本では最古の土器は、青森の外ヶ浜町の大平山元遺跡から発見された無文土器で、付着した焦げ滓を分析したところ、16,500年前と判定されました。その後、九州や四国から隆起文土器が出土されています。これらの土器で12,500年前ぐらいです。それが韓国では、8,200年前~7,400年前の遼河文明・興隆窪文化の土器、櫛目文土器がソウル市岩寺洞遺跡から発見され、6,000年前とされている。中国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて住まいしていた人達が朝鮮半島に流れてきたのでしょうね。
縄文時代、縄文人は無文土器から豆粒文と呼ばれる文様を持つ隆起線文
土器と変化し、さらに複雑な模様の土器を生み出してきました。縄文時代晩期には、青森のつるが市の亀ヶ岡遺跡から土器が出土した。その亀ヶ岡式土器をはじめとしてその当時の縄文土器が奈良の橿原遺跡からも出土している。橿原遺跡というと、2019年10月2日に橿原考古学研究所が奈良県立医科大の新キャンパスの考古学調査をして、2,500年前~2,600年前の環濠集落の一部と考えられる環濠を確認したと発表しました。大和でも稲作が始まっていたのですね。その時代の土器は縄文土器だったかも知れませんね。
韓国の櫛目文土器は、朝鮮南部にも広がり、北部九州を拠点にしていた海人系の部族が日本に持ち込んだ。その土器が熊本の宇土市の曽畑貝塚で出土した轟B式土器です。7,300年前の鬼界アカホヤ火山噴火以後に、海人系の人達が住み着き、曽畑式土器を生み出した。ウラル系の土器を朝鮮半島南岸から持ち帰った櫛目文土器でした。この韓国を3,500年前まで考古学的には櫛目文土器時代と区分している。次に現れる時代区分が無文土器時代です。3,500年前~2,500年前で、その頃に朝鮮南部で水田による稲作が始まります。これは、揚子江入口から黄海を渡って朝鮮半島南岸にたどり着いた漁民であり、農耕民が水田式稲作を伝えました。その朝鮮南部には中国北部のウラル系の人達と中国南部の海人系の人達が同居し、混血していきます。そして、中国北部のウラル系の朝鮮北部の人達が青銅器を持ち込みます。無文土器時代と同時に朝鮮の青銅器時代が始まります。日本でも無文土器時代の中期には水田式稲作が入ってきたが、青銅器はその当時、入ってきていない。やはり、朝鮮南部の部族の長のシンボルとしての貴重品だったのでしょう。
韓国の光州市に隣接する全羅南道の和順郡大谷里にある和順大谷里遺跡から、1971年に韓国式銅剣3点、銅斧1点、銅ヤリガンナ1点、精文鏡2面、八珠鈴2点、双頭鈴2点が出土した。この和順大谷里遺跡には、約10㎞にわたって支石墓群が連なっている。その墓地のところから剣や鏡が出てきた。無文土器時代中期後半、2,700年前~2,500年前に支石墓が多く築かれ、朝鮮南部でも琵琶型銅剣(遼寧式銅剣)を元に細形銅剣が作られるようになった。2,300年前の頃に、北部九州にもその朝鮮南部の文化を継承する部族の集落が現れ、細形銅剣を所持するようになった。それが佐賀の吉野ヶ里遺跡から紀元前1世紀頃の細形銅剣が出土されている。朝鮮南部の部族が日本に移り住んできたとき、2,300年前に鉄器の時代がやって来ます。すなわち、日本には青銅器と鉄器が紀元前2世紀後半から紀元前1世紀前半にほぼ同時に入ってきた。この頃の朝鮮南部と九州北部は、同じ経済圏であり、人々の交流も盛んで、日本からも朝鮮南部に渡ったり、倭人と言われた人達が九州北部から朝鮮南部に渡ったりしていたのではないでしょうか。
日本神話に出てくる草薙剣もどうやら細形銅剣と同じ形態だし、天皇陛下の祖先が九州北部か朝鮮南部の出身だと言っても過言ではないかも知れませんね。
原始ブログ集まれ。
隠された古代史を探索する会
縄文時代、縄文人は無文土器から豆粒文と呼ばれる文様を持つ隆起線文
土器と変化し、さらに複雑な模様の土器を生み出してきました。縄文時代晩期には、青森のつるが市の亀ヶ岡遺跡から土器が出土した。その亀ヶ岡式土器をはじめとしてその当時の縄文土器が奈良の橿原遺跡からも出土している。橿原遺跡というと、2019年10月2日に橿原考古学研究所が奈良県立医科大の新キャンパスの考古学調査をして、2,500年前~2,600年前の環濠集落の一部と考えられる環濠を確認したと発表しました。大和でも稲作が始まっていたのですね。その時代の土器は縄文土器だったかも知れませんね。
韓国の櫛目文土器は、朝鮮南部にも広がり、北部九州を拠点にしていた海人系の部族が日本に持ち込んだ。その土器が熊本の宇土市の曽畑貝塚で出土した轟B式土器です。7,300年前の鬼界アカホヤ火山噴火以後に、海人系の人達が住み着き、曽畑式土器を生み出した。ウラル系の土器を朝鮮半島南岸から持ち帰った櫛目文土器でした。この韓国を3,500年前まで考古学的には櫛目文土器時代と区分している。次に現れる時代区分が無文土器時代です。3,500年前~2,500年前で、その頃に朝鮮南部で水田による稲作が始まります。これは、揚子江入口から黄海を渡って朝鮮半島南岸にたどり着いた漁民であり、農耕民が水田式稲作を伝えました。その朝鮮南部には中国北部のウラル系の人達と中国南部の海人系の人達が同居し、混血していきます。そして、中国北部のウラル系の朝鮮北部の人達が青銅器を持ち込みます。無文土器時代と同時に朝鮮の青銅器時代が始まります。日本でも無文土器時代の中期には水田式稲作が入ってきたが、青銅器はその当時、入ってきていない。やはり、朝鮮南部の部族の長のシンボルとしての貴重品だったのでしょう。
韓国の光州市に隣接する全羅南道の和順郡大谷里にある和順大谷里遺跡から、1971年に韓国式銅剣3点、銅斧1点、銅ヤリガンナ1点、精文鏡2面、八珠鈴2点、双頭鈴2点が出土した。この和順大谷里遺跡には、約10㎞にわたって支石墓群が連なっている。その墓地のところから剣や鏡が出てきた。無文土器時代中期後半、2,700年前~2,500年前に支石墓が多く築かれ、朝鮮南部でも琵琶型銅剣(遼寧式銅剣)を元に細形銅剣が作られるようになった。2,300年前の頃に、北部九州にもその朝鮮南部の文化を継承する部族の集落が現れ、細形銅剣を所持するようになった。それが佐賀の吉野ヶ里遺跡から紀元前1世紀頃の細形銅剣が出土されている。朝鮮南部の部族が日本に移り住んできたとき、2,300年前に鉄器の時代がやって来ます。すなわち、日本には青銅器と鉄器が紀元前2世紀後半から紀元前1世紀前半にほぼ同時に入ってきた。この頃の朝鮮南部と九州北部は、同じ経済圏であり、人々の交流も盛んで、日本からも朝鮮南部に渡ったり、倭人と言われた人達が九州北部から朝鮮南部に渡ったりしていたのではないでしょうか。
日本神話に出てくる草薙剣もどうやら細形銅剣と同じ形態だし、天皇陛下の祖先が九州北部か朝鮮南部の出身だと言っても過言ではないかも知れませんね。
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