いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2018

 現在、日本人は各氏名を持ち、先祖代々その地で生活しておられる方や生活基盤のために大都市に移住しています。でも、明治維新前の日本では、武士以外は氏名を持たず、実際には農民、商人、職人は姓名があっても隠されていて、先祖からの言い伝えにより、氏名が存在していました。そんな江戸時代には、姓名がないので、その地名の○○と名乗っていました。明治時代になって、すべての人が氏名を名乗ることができるようになり、先祖からの言い伝えにより、姓名を決めた人、或いは姓名自体が伝わっていなかった人は、地名やその当時住んでいるところの自然環境をもとにして、国民全体が氏名を名乗り、1871年に制定された戸籍法により、壬申戸籍が1872年に施行されました。その戸籍により、日本人の人口は、3,311万人だったそうです。今でも、本籍地を訪ねられることがありますが、この本籍地は、個々の祖先が1872年当時に住んでいた地名になっています。
男女族籍別人口表
 戸籍制度のはじまりは、中国の周王朝時代に遡り、人民と土地を戸籍によって掌握し、租税賦課の対象とする周王朝の井田制ことによって国家の基礎を固めようとした。その当時の井田制のように農民が耕す土地を把握して、その一部を公地にし、そこから年貢を取り立てるために戸籍が必要であった。それと、漢民族が異民族を支配するため。中国で発見された最古の戸籍は、3~4世紀の晋王朝の戸籍『戸口黄籍』で、416年の甘粛省敦煌のものがある。日本では、大々的な戸籍制度は、唐の班田収受法と言われる均田制と戸籍制度を取り入れ、大化の改新以後、天智天皇の時代、670年に『庚午年籍』が制定され、持統天皇の時代、690年に『庚寅年籍』が有名ですが、大化の改新以前にも、欽明天皇の時代に渡来人の協力で、540年に7,053戸の戸籍を編纂していて、崇神天皇の時代に仕官を調達するため、人民の戸籍をつくり、調役を課したとあるので、これが日本で最初の戸籍だと思われます。その時期は、『日本書紀』では崇神天皇12年乙未となっているので、その年表を信じれば紀元前86年になるが、それは疑わしい。『論語』十巻と『千字文』一巻が日本にもたらされたのは、応神天皇の時代ですから、紀元前1世紀頃に現在の日本の氏名や地名が存在していたとは考え難いです。
 ヤマト王権が日本全土を統一する以前、各地の大王や女王などに原始的なカバネ(血筋や家系を意味する語)をヤマト王権が与えていました。人名あるいは氏名の語尾に付けられるカバネで、ヒコ(大王に)、ヒメ(女王に)、ネ(スクネの前身)、ミ(ミミとも、呪術師に)、タマ(呪術的道具を使う男女に)、ヌシ(ある領域の主に)、モリ(海運的首長に)、コリ(専門的職業人に)、トベ(女性首長に)、キ(男性首長に)などがあり、4世紀から6世紀にかけて使用され、3世紀の邪馬台国の時代にはすでに存在していたと思われます。『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々にもこの原始的カバネが使われています。イザナキのキもカバネですし、イザナミのミもカバネ。神武天皇の祖祖父、ニニギのギもキのカバネです。また、オオクニヌシのヌシ、ワタツミやヤマツミのミ、トヨタマやフトダマのタマなども原始的カバネで、どうも神々の名前は各地の首長や巫女ではないか。各地に祀られている神社の神々は、ヤマト王権が日本を統一する前のその地の集団の長ではなかったか。それらの集団がヤマト王権に従属・奉仕の体制ができ、部民制が確立していく。その部(集団)は、職業別の集団から軍事の集団も物部氏や日下部氏や海部氏や刑部氏などが部を名乗り、その集団にいた人達が姓名として、部の名前を名乗った。○○部の○○となった。部が取れて、氏が付く集団も現れました。江戸時代の○○村の○○と似ていますね。ヤマト王権が成熟してくると王権の皇室内から別れた皇族や功績をあげた人達にも天皇から氏名を与えられ、○○氏と名乗る者もいました。平安時代から鎌倉時代のはじめまで、○○の○○と氏名を読んでいるのは、「○○集団の○○ですよ」ということなのでしょう。
大化の改新頃の部民制とカバネ
2018年4月15日

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三角縁神獣鏡 全国各地の古墳から出土される三角縁神獣鏡は、邪馬台国の卑弥呼が楽浪郡に使者を送り、魏の第二代皇帝、明帝(曹叡)から頂戴した100枚の鏡ではないかと言われています。この三角縁神獣鏡は日本では100枚以上発見され、日本で模造されたのでは。三角縁神獣鏡は中国で発見されなかったこともあって、その様な疑いをかけた学者もいました。しかし、2015年に中国の骨董市で三角縁神獣鏡が発見されたことにより、魏の時代に製造され、卑弥呼に贈られた鏡と日本で模造された鏡が存在することになった。現在、古墳時代前期の古墳から540枚が発掘され、その半分が近畿地方から。この点、邪馬台国の畿内説となっている要因のひとつです。権威の象徴であったろう三角縁神獣鏡が大量に発見されたということは。古墳時代前期の古墳から発見された銅鏡は、神獣鏡だけではなく、方格規矩鏡や内行花文鏡などがあり、京都の椿井大塚古墳では1953年に三角縁神獣鏡が32面、内行花文鏡が2面、方格規矩鏡が1面、画文帯神獣鏡が1面など計36面鍍金対置式神獣鏡以上の鏡が出土されています。奈良の桜井茶臼山古墳では、鏡の破片を復修すると81面以上も出てきています。古墳時代には、銅鏡を副葬品としてお棺にいれる風習があったのでしょう。その銅鏡で三角縁神獣鏡の扱いは、ある古墳では埋葬されている方の足下にたくさん配置され、内行花文鏡などは上層部に配置されていたそうです。とすると、三角縁神獣鏡は他の銅鏡に比べて低い価値だったようです。
 多くの三角縁神獣鏡が発掘されている古墳より以前の古墳では、三角縁神獣鏡は発見されずに画文帯神獣鏡(画文帯環状乳神獣鏡、画文帯同向式神獣鏡、画文帯対置式神獣鏡)や方格規矩鏡や内行花文鏡など埋葬されています。ヤマト王権の拠点となったと言われている纒向古墳群にあるホケノ山古墳では、画文帯同向式神獣鏡が1面、画文帯神獣鏡かと考えられる銅鏡の破片2個体分と内行花文鏡の破片が発掘され、ホケノ山古墳は3世紀初頭の古墳ですから、238年に邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝に使者を送った時期より、ヤマト王権の要人が亡くなられ、埋葬されたことになります。そして、画文帯同向式神獣鏡は勿論、中国製なので卑弥呼が生前よりも前にヤマト王権は中国のパイプがあったことになります。画文帯神獣鏡は、2世紀の後漢の時代に湖南省、浙江省などで大量に生産され、3世紀の三国時代に呉で作られていました。その画文帯神獣鏡が日本に渡ってきたのでしょう。
中国の画文帯神獣鏡出土棒グラフ
画文帯神獣鏡の分布

三国時代 ヤマト王権が呉と交流があったのではなく、卑弥呼のように楽浪郡との交渉が限界だったように思われます。朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした漢朝が紀元前108年に設置した楽浪郡は、その当時、後漢末期の混乱期になると、玄菟郡出身で遼東地方から台頭した公孫氏が楽浪郡を支配下に収めた。卑弥呼が楽浪郡を通じて魏の明帝と交渉をしようとした228年頃、楽浪郡を支配していた公孫淵は、遼東太守の座につき、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられ、魏と親密を装い、222年に孫権が建国した呉からも233年に呉の臣下に下賜され、燕王に任じられていた。公孫淵は、呉との交流をもとに画文帯神獣鏡の製作者も受け入れたのでしょう。また、それ以前にも、日本では倭の大乱の時代の184年に中国では黄巾の乱が起こり、後漢が滅亡し三国時代(魏、呉、蜀)に入り、呉(湖南省、浙江省)の画文帯神獣鏡を生産していた人達は、魏の曹操を頼って北上、遼東地方に移住し、公孫淵の配下にいた人もいました。そして、楽浪郡や帯方郡から日本に渡って来た人達もいました。このような人達とヤマト王権は結ばれていたのです。
2018年4月2日

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 諏訪湖周辺の遺跡で最も古いのは、今から2万年から3万年前の八ヶ岳連峰中の冷山山ろくに位置し、茅野市奥蓼科渋川温泉東方に展開する先土器時代の渋川遺跡と、諏訪市湯ノ脇にある、温泉寺高島藩主廟所の上の丘陵から谷筋にかけて残された旧石器時代の遺跡、上ノ平遺跡や茶臼山遺跡・北踊場遺跡などがあります。3万年前ですから、その頃、日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きで、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地、日本海と東シナ海をつなぐ対馬海峡もきわめて浅くなり、対馬暖流の流入が止まったと言われている。この影響もあり日本列島は、気温が現在よりも5℃から10℃低い寒冷で、冬季の降雪量が少なかったが、淡水が凍り付く感じの寒さでした。これらの遺跡には、ナイフ形石器・尖頭器などの他に石核や剥片が多量に出土し、この地が石器では最高級の良質の黒曜石の産出地シカと樹皮だった。その当時の人達は、狩猟生活をしていて、鋭い石器が必要だったのですね。それと、現在よりも10℃も低ければ、これらの遺跡地域の近くに温泉が湧き出ているとなれば、生活をする上でその当時としてはいい環境にあったのでしょう。その当時、寒冷な日本の狩猟はシカやイノシイが主で、シカは草食動物で餌となる葉が少ないときは、木の皮(樹皮)をかじりとって食べる。諏訪湖周辺には、マツやスギなどの裸子植物球果植物門の樹木、針葉樹が生育していました。ジャコッパラ遺跡群では、シカ道や黒曜石槍が発見され、黒耀石の搬出跡も見つかっています。その当時の石器時代の人達、狩人たちは、八ヶ岳の黒耀石原産地を発見し、原石採取の方法も黒耀石と石器づくりも黒耀石を運ぶ道も作り、黒耀石の直接採取と交換も行われていたようです。
カシとドングリ 最終氷河期が終り、徐々に温暖化と寒冷化が交互に起こり、その気候が落ち着いてきた縄文時代前期には、温帯から亜熱帯にまで広く分布しているクリの実を付けるシイやドングリの実を付けるカシの木、常緑広葉樹が日本列島を北上してきます。諏訪湖周辺にも縄文時代早期(10,000年前~8,000年前)には、針葉樹が少なくなりシカもそれに伴って少なくなってきました。そして、常緑広葉樹が増えて来たのですね。そして、その当時の縄文人は採取狩猟生活を始めま顔面付釣手土器す。採取とは、ドングリやクリの採取です。そして、シイやカシを植えて、クリやドングリの栽培を始めます。また、黒耀石と交換されて日本海側からヒスイ、太平洋側からコハクが諏訪地域にはたくさんもたらされた。それらとともに北陸、関東・東海地方の縄文土器も持ち込まれ、海岸地方からは塩や海の幸も黒曜石との交換で入って来て、ドングリなどの樫果実との煮炊き物も増え、大きな煮炊き用の縄文土器、前尾根遺跡から発見された顔面付釣手土器も生産されるようになりました。丁度その頃の縄文中期に制作された縄文のビーナスも八ヶ岳山麓の茅野市米沢の棚畑遺跡から発見されています。
阿久遺跡のストーンサークル
 諏訪湖周辺の集落遺跡の最古のものとして、縄文時代前期の諏訪郡原村の阿久遺跡があり、この遺跡の墓縄文時代別・地域別に見た遺跡数の増減地であろう配石墓(ストーンサークル)が発掘されています。青森の三内丸山遺跡の南にある、ストーンサークルが発見された小牧野遺跡でも縄文時代中期後半でありますから。縄文時代中期には、諏訪湖周辺の集落遺跡の数は全国でも群を抜いています。明治大学文学部卒業。文化財保存全国協議会常任委員である勅使河原彰先生がまとめられた「縄文時代別・地域別に見た遺跡数の増減」から見ても長野県の遺跡数は、縄文時代中期では各地を抜いています。縄文時代において、諏訪湖周辺の集落及び縄文人の数は全国1位で、日本では縄文時代をリードした地域だったようです。
2018年3月10日

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 日本人の男性Y染色体には、一橋大学名誉教授、野中郁次郎先生の2007年の統計では、D1b(38.8%)、O1b2(34.3%)、O2(16.7%)、C(5.3%)、O1a(3.4%)、N(0.8%)、D1a(0.4%)、Q(0.4%)となっています。D系列とC系列は約6万年前にDEとCFから別れたので古く、孤島となった日本列島に残っている系列です。後期旧石器時代(約3万年前)から受け継がれている系列で、縄文人にもこの2つの系列は受け継がれていました。O系列とN系列は、約4万年前に中国大陸で別れた系列。Q系列は、約3万年前にイラン付近で発生した。D・C系列は、日本列島が陸続きの時代、新石器時代から縄文時代早期に、日本にやって来たと思われます。青森や秋田の人の中には若干ながらN系列が見られるのは、遼河文明の興隆窪文化(紀元前6,200年~紀元前5,700年)を起こしたN系列が東北地方に。このN系列が青森の三内丸山文化を起こしたと言われています。長江文明の河姆渡文化(紀元前5,000年~4,000年)のO系列のO1b2が長期にわたって僅かながら北部九州に。その頃の北部九州では、鬼界カルデラの大噴火(紀元前5,300年)の火山灰と16,000年前から7,000年前まで続いていた縄文海進。この影響で、西日本と東日本とを比べると西日本の方が平野部も少なく、集落の遺跡数少ないこともあって、ある一定の人口を想定している縄文時代の人口は、261,300人の内、西日本は9,500人しかいない。北部九州ではもっと少なかったのでしょう。また、現代の九州の地形ではかなり内陸部になっていますが、北部九州の縄文時代の貝塚の遺跡が発見され、その当時、中国から渡ってきたO系列のO1b2と従来住んでいた縄文人とが同化していったのでしょうね。この北部九州の地形は、弥生時代に栄えた吉野ヶ里集落でも、少し歩けば海岸線になる所でその当時の人は生活していました。
Y染色体O1b2の移動経路
縄文時代の人口密度東西比率
 中国でのO系列のO1b2の人達の経路は、紀元前4,000年から紀元前1,000年の間に長江文明の河姆渡文化が栄えた地域に留まり、紀元前1,046年頃に殷王朝を滅ぼした周王朝の配下になった「句呉」の住民に。春秋時代となった中国では「呉」となり、その頃に「呉」或いは「越」の住民が、丁度、紀元前600年頃に。日本で最古の水田跡のある佐賀県の菜畑遺跡辺りに稲作が中国のO系列のO1b2の人達によって伝えられていると思います。また、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神武天皇の逸話もその頃を想定して作られたと思います。そして、「呉」が紀元前473年に「越」によって滅亡し、「越」も紀元前334年に「楚」に滅ぼされた。この50年の間に北部九州では人口が増え、有明海の奥地であった吉野ヶ里や佐賀・唐津に村(のちの末羅国)を形成していった。
吉野ヶ遺跡の位置
 この頃に日本に渡って来た中国のO系列のO1b2の人達は、稲作と漁業に闌けた人達であったと思われますが、中国に残った人達もいました。紀元前600年頃の「呉」では、大量の木材を使用する製鉄技術が開発されています。鉄器が現れる前、東南アジア(百越)や四川省(春秋時代の蜀)辺りから青銅技術が伝わり、その技術を元に鉄器が生産されていたようです。その頃の鉄器は、まだまだ未熟で農機具として使用されていましたが、武器としてはまだまだだった。そんな鉄器製造に従事していたのが中国に残ったO1b2の人達だった。中国が「呉」「越」が滅び、戦国時代に入ると鉄器製造技術をもったO1b2の人達は、武器の製造に重宝されるようになり、「楚」、山東省を中心にした戦国時代の大国「斉」に移り、遼東省を中心にした「燕」に。紀元前220年頃、それらの国が「秦」に滅ぼされると鉄器製造技術をもったO1b2の人達は朝鮮半島に。その後、紀元前600年頃から日本に永住していたO1b2の人達が抽選半島南部にも進出。そして、鉄器精製していたO1b2の人達と接触。そして、弥生時代の中期から後期に渡って、その人達も日本に。この頃に、日本に青銅器と鉄器が同時に入ってきているのですね。
 鉄精製において、出雲のたたら製鉄が日本では有名ですが、この出雲の鉄器製造技術は中国で鉄器精製していたO1b2の人達とは別で、長江文明の河姆渡文化が終りを告げた頃、O1b2の中で早い時期に北上した人達が、紀元前1,000年頃にロシアのハバロフスク地方まで進出しています。この地域には、元々青森や秋田の人のN系列が起こした遼河文明の紅山文化の継続のシニ・ガイ文化で紀元前3,000年から紀元前1,000年頃まで発展していました。シニ・ガイ文化には、紅山文化から伝わった青銅器精製技術があり、ロシアのハバロフスク地方に来たO1b2の人達が鉄器製造技術にまで発展させ、そのO1b2の人達が日本の中国地方に移動してきた。紀元前1,000年頃から九州北部に住み着いていたO1b2の人達のヤマト王権が九州から近畿圏に移動する中で、朝鮮半島から渡って来たO1b2の人達やロシアのハバロフスク地方から渡って来たO1b2の人達と戦ってきて、奈良の樫原や桜井に政権基盤を固め、それらのO1b2の人達をと着込んでいった。元々、縄文時代から受け継いできたD1bの人達と長くに渡って同化し、現在の日本人となった。
2018年3月5日

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 日本文化は、一体何処から来たのでしょうか。世界で一番平和な国。そんな国になってきた日本ではありますが、それには長い歴史があり、一概には言えない。現在の日本の国民性や文化は、江戸時代に築かれたと言われる方もおられるでしょう。日本の食文化の基本は稲作ですし、宗教観にしても基本は仏教。文字も漢字。これすべてが中国から渡ってきたものばかり。現在でこそ、日本文化の独自性が強調されていますけれど、実際はすべて中国からと言っても間違いではないかと思われます。日本の国民性、例えば、話し言葉、仕事ぶり、平和主義等々は、中国からこれらの異質な文化が入ってきたときに受け入れられてきた。そんな先史時代からの人間性は少しも変わっていないかも知れませんね。
 一般的に言われるのは、朝鮮半島から渡ってきたと。その当時の百済ですね。でも、高句麗、新羅、百済の時代のはっきりした歴史は究明されておらず、不毛地帯と言っていいほど。中国文化の通り道に過ぎなかった。このようなことを言うと韓国の人達から避難されるかも知れませんがね。稲作は、朝鮮半島から入ってくる前から揚子江辺りから入って来ています。漢字にしても、300年頃(中国では、司馬炎が魏・蜀・呉の三国時代を終わらせ、西晋を建国した時代)、応神天皇の時代に百済から中国の学者、王仁(和邇吉師)が千字文を伝えたとありますが、これはヤマト王権での話でそれまでの邪馬台国など北九州の小国ではすでに漢字が使われていた。奴国・伊都国・末羅国など。朝鮮半島の任那地域でも小国に漢字が使われています。また、現在、日本での最古の稲作遺跡として、末羅国(佐賀県唐津市松浦)が小国になる以前の菜畑遺跡があり、中国の春秋時代の呉・越の人達が日本に渡って来て稲作を始めたのでしょう。
呉越の難民移動経路
 千字文を伝えた『日本書紀』に出てくる王仁という謎の人物ですが、313年に高句麗に滅ぼされた楽浪郡の役人だと言われて、王仁は秦の始皇帝の部下の王離の末柄の琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)を本拠地としていた琅邪王氏の出身か、殷王朝の子孫という流れの人物でした。楽浪郡が高句麗に滅ぼされた頃、司馬炎(武帝)が建国した西晋も異民族による反乱、永嘉の乱(五胡十六国時代の始まり)で司馬炎の孫の司馬鄴で滅び、司馬炎の従甥であり琅邪王であった司馬睿と琅邪王氏の王導が司馬氏の本拠地、河内郡温県(河南省焦作市)で東晋を建国した。
南北朝時代
 日本での倭の五王時代の始まりは、この東晋に朝貢するため使者を413年に建康(現在の南京)に派遣しています。この健康が首都になった三国時代の呉、東晋、宋、斉、梁、陳では老荘思想が盛行し、清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、仏教の経典や寺院が建立され、百済は384年に東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、その当時の百済の王が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。百済は東晋と関係が深かったのですね。日本でも継体天皇の時代、522年にたぶん梁の健康の人だと思われますが、司馬達等(仏師、鞍部止利の祖父)が奈良県高市市に仏像を設置しています。百済がヤマト王権(欽明天皇の時代と言われています)に仏教を伝えたのは、538年とか552年とか言われていますが、百済としては南朝の梁・武帝に新羅の侵略の援軍を依頼する代わりに、東方伝播のため、日本に仏教公伝を行ったと思われます。581年に隋が中国を統一すると、南朝の梁の律令制を採用し、仏教治国策(公共事業としての仏教施設建立や、農民への宗教政策など、国家全体の政策)を展開し、仏教の中心が健康から西安(唐の長安)に移っていった。そんな律令制や公共事業など国家全体の政策を進めるため、蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)は、仏教を積極的に取り入れるため、遣隋使を派遣した。
仏教公伝の碑
 稲作にしても漢字、仏教が日本に渡って来た経緯や経路は幾らかあると思います。しかし、ヤマト王権が政権をとった人達や北九州に小国を作った人達は、琅邪郡があった現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域や河内郡があった河南省から渡ってきた人達のように思えます。鉄器を持ち込んだ人達は、この地域ではないと思いますが、日本文化の観点から考えると。
2018年2月12日

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