現在、日本人は各氏名を持ち、先祖代々その地で生活しておられる方や生活基盤のために大都市に移住しています。でも、明治維新前の日本では、武士以外は氏名を持たず、実際には農民、商人、職人は姓名があっても隠されていて、先祖からの言い伝えにより、氏名が存在していました。そんな江戸時代には、姓名がないので、その地名の○○と名乗っていました。明治時代になって、すべての人が氏名を名乗ることができるようになり、先祖からの言い伝えにより、姓名を決めた人、或いは姓名自体が伝わっていなかった人は、地名やその当時住んでいるところの自然環境をもとにして、国民全体が氏名を名乗り、1871年に制定された戸籍法により、壬申戸籍が1872年に施行されました。その戸籍により、日本人の人口は、3,311万人だったそうです。今でも、本籍地を訪ねられることがありますが、この本籍地は、個々の祖先が1872年当時に住んでいた地名になっています。
戸籍制度のはじまりは、中国の周王朝時代に遡り、人民と土地を戸籍によって掌握し、租税賦課の対象とすることによって国家の基礎を固めようとした。その当時の井田制のように農民が耕す土地を把握して、その一部を公地にし、そこから年貢を取り立てるために戸籍が必要であった。それと、漢民族が異民族を支配するため。中国で発見された最古の戸籍は、3~4世紀の晋王朝の戸籍『戸口黄籍』で、416年の甘粛省敦煌のものがある。日本では、大々的な戸籍制度は、唐の班田収受法と言われる均田制と戸籍制度を取り入れ、大化の改新以後、天智天皇の時代、670年に『庚午年籍』が制定され、持統天皇の時代、690年に『庚寅年籍』が有名ですが、大化の改新以前にも、欽明天皇の時代に渡来人の協力で、540年に7,053戸の戸籍を編纂していて、崇神天皇の時代に仕官を調達するため、人民の戸籍をつくり、調役を課したとあるので、これが日本で最初の戸籍だと思われます。その時期は、『日本書紀』では崇神天皇12年乙未となっているので、その年表を信じれば紀元前86年になるが、それは疑わしい。『論語』十巻と『千字文』一巻が日本にもたらされたのは、応神天皇の時代ですから、紀元前1世紀頃に現在の日本の氏名や地名が存在していたとは考え難いです。
ヤマト王権が日本全土を統一する以前、各地の大王や女王などに原始的なカバネ(血筋や家系を意味する語)をヤマト王権が与えていました。人名あるいは氏名の語尾に付けられるカバネで、ヒコ(大王に)、ヒメ(女王に)、ネ(スクネの前身)、ミ(ミミとも、呪術師に)、タマ(呪術的道具を使う男女に)、ヌシ(ある領域の主に)、モリ(海運的首長に)、コリ(専門的職業人に)、トベ(女性首長に)、キ(男性首長に)などがあり、4世紀から6世紀にかけて使用され、3世紀の邪馬台国の時代にはすでに存在していたと思われます。『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々にもこの原始的カバネが使われています。イザナキのキもカバネですし、イザナミのミもカバネ。神武天皇の祖祖父、ニニギのギもキのカバネです。また、オオクニヌシのヌシ、ワタツミやヤマツミのミ、トヨタマやフトダマのタマなども原始的カバネで、どうも神々の名前は各地の首長や巫女ではないか。各地に祀られている神社の神々は、ヤマト王権が日本を統一する前のその地の集団の長ではなかったか。それらの集団がヤマト王権に従属・奉仕の体制ができ、部民制が確立していく。その部(集団)は、職業別の集団から軍事の集団も物部氏や日下部氏や海部氏や刑部氏などが部を名乗り、その集団にいた人達が姓名として、部の名前を名乗った。○○部の○○となった。部が取れて、氏が付く集団も現れました。江戸時代の○○村の○○と似ていますね。ヤマト王権が成熟してくると王権の皇室内から別れた皇族や功績をあげた人達にも天皇から氏名を与えられ、○○氏と名乗る者もいました。平安時代から鎌倉時代のはじめまで、○○の○○と氏名を読んでいるのは、「○○集団の○○ですよ」ということなのでしょう。
2018年4月15日
原始ブログ集まれ。
隠された古代史を探索する会
戸籍制度のはじまりは、中国の周王朝時代に遡り、人民と土地を戸籍によって掌握し、租税賦課の対象とすることによって国家の基礎を固めようとした。その当時の井田制のように農民が耕す土地を把握して、その一部を公地にし、そこから年貢を取り立てるために戸籍が必要であった。それと、漢民族が異民族を支配するため。中国で発見された最古の戸籍は、3~4世紀の晋王朝の戸籍『戸口黄籍』で、416年の甘粛省敦煌のものがある。日本では、大々的な戸籍制度は、唐の班田収受法と言われる均田制と戸籍制度を取り入れ、大化の改新以後、天智天皇の時代、670年に『庚午年籍』が制定され、持統天皇の時代、690年に『庚寅年籍』が有名ですが、大化の改新以前にも、欽明天皇の時代に渡来人の協力で、540年に7,053戸の戸籍を編纂していて、崇神天皇の時代に仕官を調達するため、人民の戸籍をつくり、調役を課したとあるので、これが日本で最初の戸籍だと思われます。その時期は、『日本書紀』では崇神天皇12年乙未となっているので、その年表を信じれば紀元前86年になるが、それは疑わしい。『論語』十巻と『千字文』一巻が日本にもたらされたのは、応神天皇の時代ですから、紀元前1世紀頃に現在の日本の氏名や地名が存在していたとは考え難いです。
ヤマト王権が日本全土を統一する以前、各地の大王や女王などに原始的なカバネ(血筋や家系を意味する語)をヤマト王権が与えていました。人名あるいは氏名の語尾に付けられるカバネで、ヒコ(大王に)、ヒメ(女王に)、ネ(スクネの前身)、ミ(ミミとも、呪術師に)、タマ(呪術的道具を使う男女に)、ヌシ(ある領域の主に)、モリ(海運的首長に)、コリ(専門的職業人に)、トベ(女性首長に)、キ(男性首長に)などがあり、4世紀から6世紀にかけて使用され、3世紀の邪馬台国の時代にはすでに存在していたと思われます。『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々にもこの原始的カバネが使われています。イザナキのキもカバネですし、イザナミのミもカバネ。神武天皇の祖祖父、ニニギのギもキのカバネです。また、オオクニヌシのヌシ、ワタツミやヤマツミのミ、トヨタマやフトダマのタマなども原始的カバネで、どうも神々の名前は各地の首長や巫女ではないか。各地に祀られている神社の神々は、ヤマト王権が日本を統一する前のその地の集団の長ではなかったか。それらの集団がヤマト王権に従属・奉仕の体制ができ、部民制が確立していく。その部(集団)は、職業別の集団から軍事の集団も物部氏や日下部氏や海部氏や刑部氏などが部を名乗り、その集団にいた人達が姓名として、部の名前を名乗った。○○部の○○となった。部が取れて、氏が付く集団も現れました。江戸時代の○○村の○○と似ていますね。ヤマト王権が成熟してくると王権の皇室内から別れた皇族や功績をあげた人達にも天皇から氏名を与えられ、○○氏と名乗る者もいました。平安時代から鎌倉時代のはじめまで、○○の○○と氏名を読んでいるのは、「○○集団の○○ですよ」ということなのでしょう。
2018年4月15日
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