いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2018

倭文織 「倭文」は、倭国の文章ではありません。「しず」または「しとり」と読み、古代から生息している植物、クワ科の落葉低木、楮(こうぞ)が原料になっています。この楮を釜に入れ、楮を蒸し、楮の皮をはぐ。そして、皮を灰汁で煮て、皮をモミガラにまぶしながら踏み表皮をとる。後は、木槌で軽く打ち、皮をやわらかくし、皮を川にさらし、皮を干して皮を細かくさき糸にする。この糸を織ったのが「倭文」という布、「木綿(ゆう)」のことです。ヤマト王権が成立する前から、この手法で生産され、北九州を起点に朝鮮半島の南部や中国まで進出していた海人族がこの衣服を着ていたのではないでしょうか。邪馬台国の卑弥呼が魏の斉王にこの倭文も贈られたのではないでしょうか。末ら国、伊都国、奴国、邪馬台国の人達の衣服は倭文織だったようです。また、1996年2月に発掘の結果、4世紀前半で木棺とともに鉄製品が発見された下池山古墳(天理市)の竪穴式石室の東側にある小石室から大型内行花文鏡も発見され、この大型内行花文鏡の周囲に付着していた縞模様に染められた織物がわが国特有の織物であり、実在の資料がなかった「倭文織」だと考えられる。北九州の海人が大和国の地にも進出していたことになります。そして、倭文織を生産していた工人の集団が倭文部といい、物部の配下にありました。物部は、朝鮮半島の工人集団を仕切っていたようです。例えば、海人が必要な舟を製作する工人や鉄を生産する工人の集団も。また、いざ、戦になった場合、日下部という屯田兵を各地に配置していました。断定は出来ませんが、下池山古墳の主は物部氏の重要人物。そして、下末ら、伊都、奴国池山古墳で発見された大型内行花文鏡は、伊都国の平原遺跡や三雲・井原遺跡で発見された銅鏡と同じもの。そのことは、物部氏が末ら国や伊都国の出身であることが推測されます。
 淡路島が神話で、イザナギとイザナミが海をかき混ぜ、最初にできた国となっています。国生み神話ですね。この淡路島にイザナギとイザナミの総本山と言える伊弉諾神宮が、淡路市多賀740にあり、北部九州からヤマト王権よりも前に近畿圏に現れた海人は、淡路島に倭文神社集結したのでしょう。イザナギとイザナミは海人族の神さまですからね。その海人とともに、倭文織を生産していた工人の集団もこの淡路に住むようになりました。その証しが、現在の南あわじ市倭文村に庄田八幡神社に合祀せられているため、祠だけの倭文神社ですが確かに存在します。1,900年~1,800年前の鉄器づくりを行っていた鍛冶工房、五斗長垣内遺跡も淡路市黒谷1395-3にあります。物部氏を中心にした海人族が淡路島に集結していたのでしょう。その後、物部氏が河内国や大和国に移住するとともに倭文織を生産していた工人の集団も奈良県葛城市加倭文郷守1045にある葛木倭文坐天羽雷命神社を創建して、大和国葛下郡を本拠地とした。
 倭文部は、飛鳥時代に倭文氏と名乗るようになった。そして、「倭文」が織物に関係があり、「しとり」から「はっとり」と変化し、服に関係していることから服部氏と名乗るようになったそうです。倭文氏の出所として興味深いのは、茨城県那珂市静に静神社があり、この神社も倭文部葛木倭文座天羽雷命神社の神、建葉槌命を主祭神としている。この「静」は、「しず」と読みますように、倭文の「しず」です。そして、この静神社は806年に創建された。倭文氏が常陸国まで同系の藤原氏とともに進出していったのでしょうね。その所在地が茨城県に流れている那珂川の川縁にあり、この那珂川の名は福岡にもあります。奴国に流れていた川ですね。その様に考えると物部氏が関東に進出して、常陸の国に出身地の那珂川と言う名を付けたと考えても間違いではないのでしょうか。
2018年5月27日

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十干十二支 日本に西暦(太陽暦・グレゴリオ暦)が入って来て、正式に使用されるようになったのが明治6年のことでした。それまでの皇室や武家を除いての人々は、十干十二支を使用し、60年で一周する軌道になっていました。甲乙丙・・の十干と子丑寅・・の組み合わせによってその年を表現していました。この十干十二支は、中国の殷王朝の時代に発明され、甲骨文にも使用されていたようです。日本に十干十二支が入って来たのは、第33代推古天皇の時代でかなり後になります。
辛酉の年 戦前、紀元節という祝日がありました。現在で言うと建国記念日です。神武天皇が即位された日を記念しての祝日。それは、『日本書紀』では「辛酉の春」となっています。辛酉は、十干十二支の58番目にあたります。前漢から後漢に流行った儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物『緯書』があり、その当時、この辛酉は、陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされる陰陽五行論をもとに、天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年となっています。この辛酉革命説が『緯書』に書かれています。未来を予想する讖緯思想という考え方があり、春秋戦国時代の天文占などに由来し、讖とは未来を予言することを意味し、緯とは儒教の経典を表わす。日本において辛酉の年に改元する習慣が、平安時代の昌泰4年(901年)の辛酉の年から実践されました。政治的変革が起るのを防ぐ目的で。『日本書紀』に神武天皇が即位された年が、この『緯書』に基づいて決められたと思います。というのは、明治時代の歴史学者、那珂通世が、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。神武天皇が実在していて、言い伝えでその年が決められた訳ではないのですね。
 日本においては、この天文、暦本、陰陽道も推古天皇の時代に百済の僧侶、観勒が602年に日本に伝えた。そして、暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、方術は山背日立を学ばせ、604年に厩戸皇子(聖徳太子)によって暦本が採用された。神武天皇の即位直前の紀元前667年まで推定することができたのは、江戸前期の暦学者、渋川春海で、『日本長暦』を発表し、2350年余の元号・毎月朔日の干支・月の大小・閏月の有無などを計算した。これによって、紀元前660年がどのくらい昔であったかがわかるようになった。明治6年にその当時の明治政府が神武天皇の即位を正式に西暦に当てはめて、紀元前660年2月11日として紀元節に制定しました。
天皇編年表 『日本書紀』での神武天皇の即位「辛酉の春」の記載は、何処から来たのか。それは推古天皇の時代に暦本が入って来て、天皇の歴史を年代別に列記しようという気運が高まったと思われます。神武天皇以下継体天皇までの架空の天皇が存在していたかも知れませんね。東大寺の正倉院に保管されている正倉院文書の中に『帝紀日本書』や『日本帝紀』があり、奈良時代の光明皇后が写経所を設けて書写したもので、第29代欽明天皇時代の『帝王本紀』が原本。欽明天皇時代に百済から仏像と経文が伝来もあって、天皇の歴史を『古事記』のような文章が書かれていたのでしょうね。でも、その当時には日時を表わす暦はなく、推古天皇の時代に暦本が入って来たことにより、『帝紀』をもとに天皇の歴史書『天皇記』と地理書『国記』が厩戸皇子と蘇我馬子によって620年に編纂された。その原本は、蘇我蝦夷の自宅に保存されていたようですが、645年に起こった「乙巳の変」で蘇我入鹿が暗殺され、自宅も焼き討ちされたので、『天皇記』や『国記』は消滅してしまった。そして、天武天皇が第34代舒明天皇の『帝紀』と『旧辞』をもとに編纂するように命じ、『古事記』が712年に、『日本書紀』が720年に完成した。
 天皇の歴史は、欽明天皇時代にある程度完成されていた。その時の最高権力者が大連を務め、大伴金村を失脚させた物部尾輿で、百済から仏教が入って来たときに中臣鎌子と共に排仏を唱え、日本に元々あった神々を尊んだ。そのため、欽明天皇時代の『帝王本紀』は、物部氏の影響を受けていると思われます。『古事記』でいうと上巻(天地開闢、伊邪那岐命と伊邪那美命、天照大神と須佐之男命、大国主神、葦原中国平定、邇邇芸命、火遠理命)の部分。これは、物部氏の神話に近い。それが崇仏派の蘇我稲目は、欽明天皇の妃に娘、堅塩媛を送り込み、用明天皇、推古天皇を生み、弟の蘇我馬子がイメージ 4巨大な権力を保持していた。そして、推古天皇の時代に、『古事記』でいうと中巻の神武天皇の段の神武東征、熊野より大和へなどが追加された。これは、蘇我氏がヤマト王権での地位を確立し、蘇我氏が辿ってきた大和への経路であり、中巻の神武天皇の段以降の天皇の列記は、天皇の権威を高めるためと思っています。その中には、物部氏や中臣氏や大伴氏などの旧体制勢力に対して、それ以外の渡来人勢力が天皇と親戚関係にあると言う仕組みを加えたことにより対抗しようとしたのが受け止められます。
2018年5月20日



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仏教の伝来(538) 仏教公伝は、百済の聖明王から第29代欽明天皇の時代とされています。その時に天皇の側近であったのが、大臣の蘇我稲目でした。蘇我稲目は、第27代継体天皇の大臣、巨勢男人から大臣職を引き継ぎ、536年に第28代宣化天皇から務めていた。その当時の大連は、物部尾興で、ヤマト王権内で大臣と大連の権力争いがなされていました。
 大臣も大連も古くからのカバネで。大臣は、『先代旧事本紀』によると第4代懿徳天皇の時代に申食国政大夫であった物部氏の祖、出雲醜が就任してから、第12代景行天皇まで物部氏の一族が大臣職を続けてきた。その間に物部氏の一族は、天皇に后を送り込み、皇室との関係を強くしていったので、第11代垂仁天皇の時代に五大夫(武渟川別、阿倍臣祖・彦国葺、和珥臣祖・大鹿島、中臣連祖・武日、大伴連祖)の1人の十市根命に対して「物部連公」の賜姓があり、さらに大連に任じられた。継体天皇以前は、皇室と婚姻関係にあった阿部氏、和珥氏、中臣氏、大伴氏などが物部氏を中心に大連職を務め、皇室を支えていた。神功皇后が三韓征伐を行った時代に、朝鮮に派遣された荒田別・巫別豪族の分布(鹿我別)は上毛野君の祖で、元々は中臣氏の流れ。また、蘇我氏の同族の葛城襲津彦も派遣されている。葛城襲津彦は、景行天皇の時代から仕えた伝説上の人物、武内宿禰系の氏族、葛城氏で蘇我氏もその氏族、他に波多氏、平群氏、巨勢氏、紀氏が一大勢力として存在していました。これらの一族の姓名は、ほとんど奈良の地名からの由来で、葛城氏は大倭国葛城県長柄里に居住したところから名付けられ、蘇我氏は大和国高市郡蘇我邑・葛城県蘇我里、波多氏は大和国高市郡波多郷、平群氏は大和国平群郡平群郷、巨勢氏は大和国高市郡巨勢郷、紀氏は大和国平群県紀里となり、現在の奈良県高市郡、生駒郡、御所市、葛城市にちらばっています。継体天皇以後の皇室が橿原市を拠点にしていますから、それを囲む感じですね。ここで、これら飛鳥時代の地名の勢力を仮に新体制勢力(崇仏派)とします。
 一方、物部氏などの大連では、物部氏は大和国山辺郡・河内国渋川郡、同族の穂積氏は大和国山辺郡穂積邑・十市郡保津邑、阿倍氏は大和国十市郡阿倍、和珥(和邇・丸邇)氏は大和国添上郡和邇、中臣氏は山代国山科郡中臣、大伴氏は摂津国・河内国の沿岸地方を本拠地にしていた。昔の大阪湾周辺から纏向遺跡の一帯に勢力分布していた。河内王朝と言われた第26代武烈天皇以前の皇室の周辺だったようです。これらの物部氏をはじめとした旧体制勢力(排仏派)と仮定します。
 蘇我氏がヤマト王権で表舞台に登場し、勢力を伸ばし始めるのが欽明天皇の時代で、新体制勢力の神功皇后以来勢力を伸ばしてきた葛城氏や平群氏が没落し、継体天皇が死去してから蘇我稲目が大臣に就任し、この新体制勢力の代表となった。そして、欽明天皇の后として、蘇我稲目の娘、藍塩媛、小姉君を送り込んで、婚姻関係を持つようになった。藍塩媛と欽明天皇との間に、用明天皇・推古天皇を産むことになります。蘇我馬子と藍塩媛とは兄妹の関係で、推古天皇と蘇我馬子とは姪と伯父の関係であった。欽明天皇が崩御されて、皇太子であった敏達天皇が572年に即位。敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の大連、物部守屋と中臣勝海らが勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子と対立するという構図になった。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇に物部守屋と中臣磐余が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の585年9月に敏達天皇は病が重くなり崩御。後継を狙っていた弟で小姉君が母の穴穂部皇子と大連、物部守屋が組、方や藍塩媛を母とする大兄皇子(用明天皇)と大臣、蘇我馬子が対立。その結果、蘇我馬子側の用明天皇が585年10月に即位した。しかし、用明天皇は病弱で、仏教を崇拝し、家臣に仏教を奨励した。すると、物部守屋が猛反発。587年7月に蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定。河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。 大和国から河内国へ入った蘇我陣営の軍は餌香川の河原で物部軍と交戦した「丁未の乱」がおこり、守屋の軍は敗北して離散した。
神武東征の経路 日本史では、蘇我馬子と物部守屋が登場すると仏教の崇拝と廃止の問題だけが強調されます。しかし、その対立には新体制勢力と旧体制勢力の権力争いがあったと思います。旧体制勢力とは、物部氏を代表するように天皇が橿原に政権を設置するまでに、摂津や河内や大和の山辺郡や十市郡に地盤を築いていた勢力。新体制勢力とは、神武東征の逸話があるように、九州を出て瀬戸内海を通り、和歌山の紀の川から南下して新宮に、そ徐福の経路こから熊野古道を北上して、大和国の橿原辺りに政権の基盤を置いた勢力。この新体制勢力はいつ頃、このような経路を通って、大和国に到着するか。はっきりとした文献や遺跡が発見されていないので何とも言えないですが、この経路を考えると秦の始皇帝が徐福に東方の不老不死の薬を探さすために、3,000という人が日本にやってきて、最終到着点が熊野・南紀であったとのこと。その通過点に徐福伝説があることから考えて、蘇我氏をはじめとする新体制勢力は、中国の江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮の徐阜辺りから日本に渡って来た人達ではないだろうか。
 仏教公伝の観点から考えると、欽明天皇が百済から仏教を受け入れるわけですが、その当時、中国では南北朝時代で、徐福がいた江蘇省連雲港市辺りは南朝の梁国に位置し、梁の武帝が仏教拡大に熱心な皇帝で、周辺諸国への普及も加速させていた。蘇我氏がもし、徐福達の末柄であったとしたら、母国の梁の武帝が推進する大乗仏教の三論宗・成実宗などの経学が朝鮮の百済経由で、日本に渡って来たとしても不思議ではない。
2018年5月14日

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 「北朝鮮と韓国とが平和的に統一」という現在の話題に合わせて、済州島と日本との繋がりを探ってみたい。
 戦中から「建国同盟」を結成していた親日派の呂運亨が終戦の1945年8月15日にその当時の朝鮮総督府の遠藤柳作から朝鮮の政府樹立を目的にして、「朝鮮建国準備委員会」を託され立ち上げた。その中には親米派で全州李氏出身の李承晩もソ連の傀儡政権としての朝鮮労働党の金日成も参加していた。9月8日に朝鮮半島に上陸したアメリカ軍はその「朝鮮建国準備委員会」による政府を認めずアメリカ軍政庁を。信託統治に反対する右派は「非常国民会議」を結成。李承晩は朝鮮の統一と独立をかけての運動家で、「大韓独立促進国民会」を済州島1946年2月に結成。一方で朝鮮人民党と朝鮮共産党の左派は1946年2月に「民主主義民族戦線」を結成。太平洋戦争が終結し、朝鮮半島はアメリカとソ連によって北緯38°線で北と南とに分割されていきます。今でこそ、日本の手軽な観光地でもある済州島ですが、済州島にも1985年9月10日に「朝鮮建国準備委員会」支部ができ、間もなく解散。しかし、その支部を土台にして「済州島人民委員会」ができ、済州島独自で南北統一の自主独立国家樹立の活動をはじめ、1947年3月1日に集会とデモを施行。そして、当時の警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。その後の3月10日に、この事件が発端で全島挙げてのゼネストを決行。困り果てたアメリカ軍政庁は、警察官や北部から逃げてきた右翼集団「西北青年団」を済州島に送り込み鎮圧に。それがエスカレートされて、島民の反乱組織の壊滅を図ろうとした警察と、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党が、1947年4月3日に壮烈な銃撃戦となった。この事件が「済州島四・三事件」と呼ばれ、警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。この事件が発端になり、李承晩大統領の命で、韓国本土から鎮圧軍として南朝鮮国防警備隊を派遣、政府の方針に反抗した部隊との戦闘状態が韓国本土(全羅道)にも生じた。これが麗水・順天事件で1948年10月27日に終結した。この一連の事件で、反乱部隊に加えて、非武装の民間人8,000名が殺害された。その騒動で、親日派だった人達は日本に逃れ、大阪にたどり着き、在日朝鮮人となっていった。戦時中の済州島は、日本軍に占領され、アメリカとの沖縄戦では済州島が前線基地にされた。だから、親日派もいたが独立意識の強い左派もいました。
 済州島は元々が独立した島で、鎌倉時代、蒙古と高麗の連合軍が日本まで押し寄せてきた文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)以前は耽羅国でした。それが、蒙古の属国化した高麗が済州島を支配してしまいまし三姓穴た。その後、済州島は高麗王朝と朝鮮王朝の間、流人の島という扱いを受けたのです。ですから、朝鮮半島では珍しく「三姓神話」が残っています。「瀛州と呼ばれ、未だ人の住まない太古の済州に、良乙那、高乙那、夫乙那の3つの姓のある三人の神人が、漢拏山の北山麓の地の、三姓穴に現れ、これが済州人の先祖である。ある日、漢拏山を展望していた彼らは、北の海の方から流れてくる木の箱を発見した。開けてみると、箱の中には東国の碧浪国から来たという使者と美しい三人の姫、家畜や五穀の種が入っていた。三人の神人は、彼女達を妻として迎え、産業と五穀の栽培を始めて、集落をつくった。」(『高麗史』57卷-志11-地理2-033からの引用)とあるように、良乙那、高乙那、夫乙那が現代では観光化されている「三姓穴」から出てきたと。日本で神話が作られた大化の改新の頃、済州島に良(梁)氏と高氏と夫氏の勢力があったようです。この梁、高、夫も元々は中国姓。中国の浙江省や江蘇省や山東省から渡ってきたのでしょうね。「東国の碧浪国から来たという・・・三人の姫」とある碧浪国は日本のことで、高麗王の仁宗が1145年に発行した『三国史記』の中に、660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって滅亡。唐軍の侵攻を恐れる耽羅は、665年8月に日本へ使者を送って来朝し、その後、何度か。その中で、669年3月に王子の久麻伎らが来朝したときには、日本から耽羅王に五穀の種を授け、その上で耽羅の王子らは帰国したとある。たぶん、この頃の話を架空の碧浪国として仕立てたのでしょう。
CIS-AB血液型分布 少し余談になりますが、世界的に珍しい「CIS-AB」という血液型あって、その血液型は同じ染色体一つにA型とB型が含まれている非定型のAB型なのに、一般的な常識を破り、この血液型「CIS-AB」とO型との間からAB型またはO型の子供が生まれる。本当にめずらしい血液型なのですが、朝鮮半島の全羅道(済州島も含む)と北部北九州に多いそうです。こんな余談で、このCIS-AB型の人達のルーツは同じではないかと考えてしまいます。
2018年4月30日

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 私達の国名表記には、全くたくさんありますね。国内では、日本という漢字で統一されていますが、読み方としては「ニッポン」と「ニホン」とがあり、国際大会のスポーツで応援するときは、海外の人にアピールするために「ニッポン」と言い、正式な記述、たとえば憲法では「ニホンコクケンポウ」と発音しています。海外から日本を表記する場合、「JAPAN」とされ、略されて「JAP」とされたりします。この略語「JAP」と言う言葉が差別用語のため、日本では海外向けに「NIPPON」を使用したりしています。
 日本国内で国名表記を必要としなかった推古天皇以前では、「秋津島」「豊葦原」「大八島」「浦安国」とか言っていたのでしょうね。海外と呼ばれるには、朝鮮と中国しかなく、その当時のヤマト王権には海外に対する意識が薄かったようです。でも、中国は日本を意識していました。古代中国人の伝説的地理認識を示す地理書『山海経』(紀元前4世紀~紀元前3世紀頃に編纂)に日本の国を「黒歯国」とか「扶桑国」と記され、倭人が住んでいると記載されています。後漢の時代に編纂された『漢書』には、周王朝時代から日本に倭人がいたと記載され、日本のことを倭国と表現しています。後漢の時代(25年~220年)の頃、日本では朝鮮半島や中国から渡って来た人達が日本に住み着き、九州を中心に小国を建国していた。中国の政権からは倭国と一括して表現していますが、実際はその当時に倭国という国家は存在していませんでした。小国の権力者が中国の政権と交渉する中で、便宜上、倭国と言っていたかも知れませんが。
古代東アジア地図 倭国大乱(2世紀後半)が治まった頃、卑弥呼が邪馬台国の女王に付いた頃、卑弥呼は日本を統一したとして、中国と国交樹立のために倭国の代表として、「倭国」を使用しています。実際に日本を統一したのはヤマト王権で、古墳時代に入って、「倭の五王」として中国の南北朝時代の南朝(東晋、宋、南斉、梁)から認められ、ヤマト王権は、「倭国」として名乗っていた。413年から502年の間に使者を送っています。それ以後、北朝の隋が589年に中国を統一するまで、南朝と交渉していたヤマト王権は中国との国交がなかった。591年に推古天皇が即位し、摂政に厩戸皇子(聖徳太子)が隋との交渉を積極的に進める。そこで、遣隋使を600年から618年まで派遣させた。607年の第二回遣隋使派遣にあたって、隋の煬帝に厩戸皇子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」の文章を簡単に訳すと「太陽はわが国から日の出して、あなたの国に沈みます」という内容となり、この国書がもとになって「日の本」即ち「日本」に。663年に新羅・唐連合軍に朝鮮半島で敗退した白村江の戦い以後、ヤマト王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定して、唐と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せた。天智天皇の時代ですね。
大航海時代の地図 15世紀後半から17世紀前半までの大航海時代に影響を与えた『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロは、1271年から24年間かけてアジアを見聞しながら旅行した。日本には立ち寄らなかったけれども北京までは行ったようです。そして、日本の情報を中国で集めています。日本では、鎌倉幕府が苦悩していた蒙古帝国襲来という元寇の時代ですね。その当時でも、銀鉱は各地に存在していましたが、金鉱はそんなになかったのに。「ジパング(ZIPANG)は東海の一島で、大陸から約1,500マイルのところにある。・・・・住民は皮膚の色が美しく、姿はよく、礼儀も正しい。・・・・国内には黄金が非常に多く尽きることがないほどあるがマルコ・ポーロの東方見聞録の経路王が輸出を許さないので訪れる商人は極めて少ない。王宮の屋根はすべて黄金の板で葺いてある。・・・窓にも黄金の飾りがついている。」と『東方見聞録』に書かれている。この「ジパング」がヨーロッパに広まり、オランダでは「JAPAN」となり、英語表記も。マルコ・ポーロが中国で日本の話を聞いたときに、北京で聴いた日本に対する発音が、「Jih-pŭn」で、南方の中国人が日本のことを古いという意味で「ズーベン(ziben)」となり、マルコ・ポーロは東南アジアにも行き、マレーシアでの「Jăpung」と変化。そして、ジパングとなった。

漆器 マルコ・ポーロは、1295年にヴェネツィアに戻り、中国の陶磁器や日本の漆器を持ち帰った。それがヨーロッパで趣向品となり、英語表記で中国の陶磁器のことを「Chinese ceramics」となって、短に「China」、日本の漆器のことを「Japaneselacquerware」で「Japan」と呼ばれるようになった。「チャイナ」は中国のこと、「ジャパン」は日本のことですね。
2018年4月22日



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