日本列島は活火山が多く、地下断層やプレートの変化やシベリア高気圧と太平洋高気圧の境界線上にあり、低気圧が発生しやすく、大量の雨量も発生します。火山災害、地震災害、台風などによる洪水災害など天変地変による自然災害の多い国に私達は生活しています。戦後、昭和20年以降、平成23年までの主な災害でも54件もあり、最大の被害はやはり、東日本大震災だったようです。
このような災害の多さは現在だけでなく、太古の時代から変わっていない。日本には気候の変化により四季があり、農作物を育てるには適した国土ではありますが、忘れた頃、天災を受ける風土は、今も昔も変わりません。現在でこそ、科学や情報の発展で自然災害を最小限に防ぐことが出来るかも知れませんが、古代の人達はどのように自然災害に対処していたのでしょうか。また、災害が起きると疫病が発生する。水害が起きると大腸菌などの細菌が発生して、不潔な状況になり、口から感染菌が侵入して病気になる。現在では、薬や殺菌剤の配布などで伝染病を防ぐことは出来ますが、古代の人は、災害から起きる二次災害で死亡者が多く出たでしょうね。
弥生時代に中国から稲作を伝えた人達は、日本の四季のある気候と山から流れてくる山水や地下水の恵みに感動し、水田による稲作を進めていきました。しかし、日本には自然災害が多いのも気が付いたと思います。中国でも、揚子江や黄河の洪水を経験していたか、或いは伝説で言い聞かされていたと思います。天災や疫病を防ぐ対策などその当時の人にはある訳がありません。それで、各地に神社を創建するのですね。その神社で祈祷をおこなったり、豊作を祝ったりしたわけで、その地区のコミュニティーの場でした。それが江戸時代まで続きます。明治時代以降、日本は農業国から工業国に移っていきますから、神社でのコミュニティーは薄れていきました。江戸時代までは、それほど人口移動はなかったですから、その土地の守り神としてその地の神社の主神を崇め、祀ってきた。平安時代初期に嵯峨天皇の命で『新撰姓氏録』が編纂されています。京および畿内に住む1,182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名の由来、分岐の様子などを記述しています。8世紀頃にこのような調査を行えたのもその地を基盤にしていた神社の存在が大きかったようです。『新撰姓氏録』の内容が正しかったかと言えば疑問な点もあるかも知れませんね。その当時、奈良時代中期の聖武天皇の時代に、荘園発生の基礎となった法令「墾田永年私財法」が743年6月に制定され、開拓した土地は永久に開墾した人のものになる法律だったのです。その法律が公布されてから、各地に氏族が散らばっていきます。そこで、その氏族の守り神を主神とした神社が建立され、各地に散らばっていく氏族の祖先の調査を行ったのが、『新撰姓氏録』として纏められました。
奈良時代や平安時代初期に皇室に関係のある皇別と天津神・国津神を祖先に持つ神別と三韓征伐以降に朝鮮半島から渡来した諸蕃を分けたのも、中国や朝鮮から日本に渡って来た時期が違うことがわかり、守り神も違って、やって来たところからもまちまちだった。イザナミ・イザナキもアマテラスもスサノヲもオオクニヌシも、縄文時代から崇拝されていた神ではなく、中国からの渡来人によって稲や青銅器や鉄器を持ち込んだ人達の神々だったように思われます。その人達は神社の祠を建築する能力も持っていたのでしょう。そんな神が日本に馴染んだ頃、百済から仏教の伝来するのですね。552年に仏教が公伝した当初には仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。元々、高天原の神々も蕃神だったわけですから。神社と寺院が対立することはなかったようです。神社の境内に神宮寺などを建立することもあり、天智天皇や天武天皇の母、斉明天皇の時代に建立された京都の八坂神社のように、元々はスサノヲを主神としていたが、神仏習合により、牛頭天王を習合神とされ、日本ではスサノヲと同神とした。牛頭天王は、釈迦の生誕地に因む祇園精舎を守護する神。そんな仏教の仏を一緒にしてしまったのです。明治時代になって、神仏分離政策により八坂神社の主神はスサノヲに戻った。また、平安時代に天災からだと思うが、疫病がはやり、疫病が異国からの伝染と考え、異国由来の疫病神として八坂神社に牛頭天王を祀る由来となって、平安京の祇園社に。そして、牛頭天王は行疫神として崇め信じられるようになった。
平安時代末期に、政争や戦乱の頻発した古代期を通して、失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊が天災や疫病をおこすという御霊信仰が広まり、怨霊はその相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災いをもたらすとした。怨霊を鎮めるために祭が八坂神社で行われるようになり、疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。このまつりが現在でも続いている祇園祭なのです。
2018年7月16日
原始ブログ集まれ。
隠された古代史を探索する会
このような災害の多さは現在だけでなく、太古の時代から変わっていない。日本には気候の変化により四季があり、農作物を育てるには適した国土ではありますが、忘れた頃、天災を受ける風土は、今も昔も変わりません。現在でこそ、科学や情報の発展で自然災害を最小限に防ぐことが出来るかも知れませんが、古代の人達はどのように自然災害に対処していたのでしょうか。また、災害が起きると疫病が発生する。水害が起きると大腸菌などの細菌が発生して、不潔な状況になり、口から感染菌が侵入して病気になる。現在では、薬や殺菌剤の配布などで伝染病を防ぐことは出来ますが、古代の人は、災害から起きる二次災害で死亡者が多く出たでしょうね。
弥生時代に中国から稲作を伝えた人達は、日本の四季のある気候と山から流れてくる山水や地下水の恵みに感動し、水田による稲作を進めていきました。しかし、日本には自然災害が多いのも気が付いたと思います。中国でも、揚子江や黄河の洪水を経験していたか、或いは伝説で言い聞かされていたと思います。天災や疫病を防ぐ対策などその当時の人にはある訳がありません。それで、各地に神社を創建するのですね。その神社で祈祷をおこなったり、豊作を祝ったりしたわけで、その地区のコミュニティーの場でした。それが江戸時代まで続きます。明治時代以降、日本は農業国から工業国に移っていきますから、神社でのコミュニティーは薄れていきました。江戸時代までは、それほど人口移動はなかったですから、その土地の守り神としてその地の神社の主神を崇め、祀ってきた。平安時代初期に嵯峨天皇の命で『新撰姓氏録』が編纂されています。京および畿内に住む1,182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名の由来、分岐の様子などを記述しています。8世紀頃にこのような調査を行えたのもその地を基盤にしていた神社の存在が大きかったようです。『新撰姓氏録』の内容が正しかったかと言えば疑問な点もあるかも知れませんね。その当時、奈良時代中期の聖武天皇の時代に、荘園発生の基礎となった法令「墾田永年私財法」が743年6月に制定され、開拓した土地は永久に開墾した人のものになる法律だったのです。その法律が公布されてから、各地に氏族が散らばっていきます。そこで、その氏族の守り神を主神とした神社が建立され、各地に散らばっていく氏族の祖先の調査を行ったのが、『新撰姓氏録』として纏められました。
奈良時代や平安時代初期に皇室に関係のある皇別と天津神・国津神を祖先に持つ神別と三韓征伐以降に朝鮮半島から渡来した諸蕃を分けたのも、中国や朝鮮から日本に渡って来た時期が違うことがわかり、守り神も違って、やって来たところからもまちまちだった。イザナミ・イザナキもアマテラスもスサノヲもオオクニヌシも、縄文時代から崇拝されていた神ではなく、中国からの渡来人によって稲や青銅器や鉄器を持ち込んだ人達の神々だったように思われます。その人達は神社の祠を建築する能力も持っていたのでしょう。そんな神が日本に馴染んだ頃、百済から仏教の伝来するのですね。552年に仏教が公伝した当初には仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。元々、高天原の神々も蕃神だったわけですから。神社と寺院が対立することはなかったようです。神社の境内に神宮寺などを建立することもあり、天智天皇や天武天皇の母、斉明天皇の時代に建立された京都の八坂神社のように、元々はスサノヲを主神としていたが、神仏習合により、牛頭天王を習合神とされ、日本ではスサノヲと同神とした。牛頭天王は、釈迦の生誕地に因む祇園精舎を守護する神。そんな仏教の仏を一緒にしてしまったのです。明治時代になって、神仏分離政策により八坂神社の主神はスサノヲに戻った。また、平安時代に天災からだと思うが、疫病がはやり、疫病が異国からの伝染と考え、異国由来の疫病神として八坂神社に牛頭天王を祀る由来となって、平安京の祇園社に。そして、牛頭天王は行疫神として崇め信じられるようになった。
平安時代末期に、政争や戦乱の頻発した古代期を通して、失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊が天災や疫病をおこすという御霊信仰が広まり、怨霊はその相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災いをもたらすとした。怨霊を鎮めるために祭が八坂神社で行われるようになり、疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。このまつりが現在でも続いている祇園祭なのです。
2018年7月16日
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