いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2018

 日本列島は活火山が多く、地下断層やプレートの変化やシベリア高気圧と太平洋高気圧の境界線上にあり、低気圧が発生しやすく、大量の雨量も発生します。火山災害、地震災害、台風などによる洪水災害など天変地変による自然災害の多い国に私達は生活しています。戦後、昭和20年以降、平成23年までの主な災害でも54件もあり、最大の被害はやはり、東日本大震災だったようです。
戦後の自然災害
 このような災害の多さは現在だけでなく、太古の時代から変わっていない。日本には気候の変化により四季があり、農作物を育てるには適した国土ではありますが、忘れた頃、天災を受ける風土は、今も昔も変わりません。現在でこそ、科学や情報の発展で自然災害を最小限に防ぐことが出来るかも知れませんが、古代の人達はどのように自然災害に対処していたのでしょうか。また、災害が起きると疫病が発生する。水害が起きると大腸菌などの細菌が発生して、不潔な状況になり、口から感染菌が侵入して病気になる。現在では、薬や殺菌剤の配布などで伝染病を防ぐことは出来ますが、古代の人は、災害から起きる二次災害で死亡者が多く出たでしょうね。
 弥生時代に中国から稲作を伝えた人達は、日本の四季のある気候と山から流れてくる山水や地下水の恵みに感動し、水田による稲作を進めていきました。しかし、日本には自然災害が多いのも気が付いたと思います。中国でも、揚子江や黄河の洪水を経験していたか、或いは伝説で言い聞かされていたと思います。天災や疫病を防ぐ対策などその当時の人にはある訳がありません。それで、各地に神社を創建するのですね。その神社で祈祷をおこなったり、豊作を祝ったりしたわけで、その地区のコミュニティーの場でした。それが江戸時代まで続きます。明治時代以降、日本は農業国から工業国に移っていきますから、神社でのコミュニティーは薄れていきました。江戸時代までは、それほど人口移動はなかったですから、その土地の守り神としてその地の神社の主新撰姓氏録の内容と渡来系の内訳神を崇め、祀ってきた。平安時代初期に嵯峨天皇の命で『新撰姓氏録』が編纂されています。京および畿内に住む1,182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名の由来、分岐の様子などを記述しています。8世紀頃にこのような調査を行えたのもその地を基盤にしていた神社の存在が大きかったようです。『新撰姓氏録』の内容が正しかったかと言えば疑問な点もあるかも知れませんね。その当時、奈良時代中期の聖武天皇の時代に、荘園発生の基礎となった法令「墾田永年私財法」が743年6月に制定され、開拓した土地は永久に開墾した人のものになる法律だったのです。その法律が公布されてから、各地に氏族が散らばっていきます。そこで、その氏族の守り神を主神とした神社が建立され、各地に散らばっていく氏族の祖先の調査を行ったのが、『新撰姓氏録』として纏められました。
 奈良時代や平安時代初期に皇室に関係のある皇別と天津神・国津神を祖先に持つ神別と三韓征伐以降に朝鮮半島から渡来した諸蕃を分けたのも、中国や朝鮮から日本に渡って来た時期が違うことがわかり、守り神も違って、やって来たところからもまちまちだった。イザナミ・イザナキもアマテラスもスサノヲもオオクニヌシも、縄文時代から崇拝されていた神ではなく、中国からの渡来人によって稲や青銅器や鉄器を持ち込んだ人達の神々だったように思われます。その人達は神社の祠を建築する能力も持っていたのでしょう。そんな神が日本に馴染んだ頃、百済から仏教の伝来するのですね。552年に仏教が公伝した当初には仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。元々、高天原の神々も蕃神だったわけですから。神社と寺院が対立することはなかったようです。神社の境内に神宮寺などを建立することもあり、天智天皇や天武天皇の母、斉明天皇の時代に建立された京都の八坂神社のように、元々はスサノヲを主神としていたが、神仏習合により、牛頭天王を習合神とされ、日本ではスサノヲと同神とした。牛頭天王は、釈迦の生誕地に因む祇園精舎を守護する神。そんな仏教の仏を一緒にしてしまったのです。明治時代になって、神仏分離政策により八坂神社の主神はスサノヲに戻った。また、平安時代に天災からだと思うが、疫病がはやり、疫病が異国からの伝染と考え、異国由来の疫病神として八坂神社に牛頭天王を祀る由来となって、平安京の祇園社に。そして、牛頭天王は行疫神として崇め信じられるようになった。
清涼殿落雷事件
祇園祭 平安時代末期に、政争や戦乱の頻発した古代期を通して、失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊が天災や疫病をおこすという御霊信仰が広まり、怨霊はその相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災いをもたらすとした。怨霊を鎮めるために祭が八坂神社で行われるようになり、疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。このまつりが現在でも続いている祇園祭なのです。
2018年7月16日

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 私達、日本人は何となしに日本語を話しています。イントネーションを上げれば、怒っているように聞こえますし、下げれば自信なさそうにも。話し言葉全体からの強弱がイントネーションだとすると、名詞の単語自体にも強弱を表わすアクセント或いは音調があり、それは、助詞によって判断する。たとえば、「雨と飴」「箸と橋と端」「鼻と花」などたくさんありますね。この単語にしても、近畿の方言と東京の方言ではまたアクセントが違います。その他に、「兄弟」と言う単語にしても近畿では「キョオダイ」と発音しますが、東京では「キョウダイ」と。訛りとして判断し、後の助詞や形容詞で判断する。海外の方が日本語は難しいと言われるのもわかりますね。日本人が英語を喋るのに、このイントネーションやアクセントが邪魔して、変な英語になってしまうのも仕方がないですね。また、西暦、2,000年もの歳月の間にこのイントネーションやアクセントが徐々に変化或いは退化して、現在の日本語になっている訳で、大和言葉を話していた古代の人達の喋くりにも興味があります。
古代の標準語アクセントと現代の方言アクセント
 日本が縄文時代を経て、弥生時代になり、中国や朝鮮半島から渡来人が日本にやって来てどのような言葉を話していたのでしょうか。言語学では東シナ海からオーストロネシア語族が最初に来て、その後、朝鮮半島からツングース語族が。その混合が日本語だというのが通説ですけれど、実際、そうだったのでしょうか。縄文人の話す言葉と弥生人とではかなりの隔たりがあったと思います。異人と話すときに、中世の大航海時代のヨーロッパの商人は、現地人と話すのに異言語間の意思疎通のために互換性のある代替単語を作ったと言われています。ピジン言語ですね。まずは、その売ろうとする品物の共通の意味を探すのですね。そして、その品物の名前を付ける。その話者達の子供達の世代で母国語として話されるようになる。クレオール言語ですね。現在でも外来語や新しい言葉が世代を経過して日本語になった例はたくさんありますね。安土桃山時代に長崎にポルトガカステラル人がやって来て、「カステラ」とか「天ぷら」という言葉を日本語にしました。「カステラ」は、江戸時代になって、長崎の福砂屋がポルトガル人の南蛮菓子をもとに作った和菓子で、ポルトガル語の「城」という言葉を「カステーラ」といい、それで「カステラ」という商標にしたのでしょう。「天ぷら」は、西洋のフリッターをもとに、ポルトガル語の「テンペーラ(油を使用して硬くする)」からきています。
 弥生時代に日本にやって来た人達は、稲作をそれまでに住んでいた人達に稲作を教えていきます。その時に文字もない日本では、その稲作にかかわる道具や工程の意味を手探りで教えたのでしょうね。そして、その仕草に渡来した人達の言葉を付けていったと思います。そのようにして日本の話し言葉が出来上がっていきます。稲作を伝授した人達は、やはり、中国の浙江省や福建省の人達かなぁ。その人達はY染色体ハプログループO1b系列だし、日本にもY染色体ハプログループO1b2の人達が26%~36%をしめている。日本に漢字が伝わった頃、仏教用語の漢字の読み方として呉音を採用していたのは、中国の浙江省や福建省の人達が多くいたからだと思う。漢音を採用したのは、奈良時代後期から平安時代初めの遣隋使・遣唐使が日本に伝えたようです。呉音と漢音の音読みの他に日本では訓読みという漢字の読み方があり、漢字の意味を優しく解説したり言い換えたりする日本独特の読み方があります。台湾にも訓読みの風習があるようですが。
 日本語の文法はツングース語族と同じSOV型で、「主語+目的語+熟語」の形ですので、以前はアルタイ語族に入れられていました。しかし、最近の遺伝子の研究が進み、日本人のY染色体ハプログループO1b2の割合と2分するハプログループD1b2のハプログループD1b 系列は、チベット族もそうですが、SOV型を使っていることがわかりました。弥生人が日本にやって来るまでの約35,000年間に、日本で生活していた人達だったのです。縄文時代の人達ですね。日本語は、縄文人と弥生人の混合言語なのです。
世界の言語分布図

2018年7月6日

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 日本で最古の土器は、1万6,000年前、青森県外ヶ浜町で生活していた縄文人が使用していた土器で、大平山元I遺跡から土器片が1998年に住居建て替え工事の際に発見されました。その土器の内側を放射性炭素年代測定(地球自然の生物圏内では炭素14の存在比率がほぼ一定で、動植物の内部における存在比率も、死ぬまで変わらないが、死後は新しい炭素の補給が止まり、存在比率が下がり始める。この性質と炭素14の半減期が5730年であることからの年代測定。)で検査した結果、1万6,000年前の炭化物が付着していることがわかった。この土器は煮炊き物に使われていたのでしょうね。その当時の炭化物は、約1万年前に地球規模の気候変動で縄文時代の食卓氷期から間氷期に変わり完新世が始まる前、ブナやナラ、クリやクルミなどの落葉広葉樹林が津軽半島には生えてない時期なので、シカやイノシシなどの小動物の肉か、魚介類だったと思われます。その当時の人は、生肉を食べる習慣がなくなり、土器で肉などの臭みやアクを取り去って食べていたのですね。
 約1万年前から温暖化が始まり、クリやクルミやドングリなども生えるようになり、堅い殻を柔らかくするために土器が使われるようになります。そして、殻を取り除いて、狩から獲ってきた肉とキノコや青菜を加えて、鍋料理のようにして食べていたようです。縄文時代で一番温暖化が進んだ約6,000年前の頃には、クリや石皿と磨石クルミなどの木の実が栽培されるようになり、秋に収穫し、貯蔵穴に保管され、冬にシカやイノシイを狩りして、クリやドングリを土器に入れ、水を入れて沸騰させ、アク抜きをし、堅果や球根類のデンプン質を石皿や磨石を用いて粉状に。そして、シカやイノシイを小切りにして、卵と塩と天然酵母を使ってハンバーグのように。それを平らな土器で200℃~250℃ぐらいの温度で焼かれ、クッキー状に。この食べ物を保存縄文クッキー食として食べていたようです。あの「縄文のビーナス」が発見された長野県茅野市米沢の棚畑遺跡の近くの諏訪郡富士見町の曽根遺跡で発見されました。山形県東置賜郡高畠町の押出遺跡からも出土されています。
長野県の縄文遺跡
 日本人の食生活は、稲が日本に上陸してから縄文時代とは違ったものに変化します。それは、稲を持ち込んだ中国からの移民によってもたらされます。長江周辺で独自の文化を築いていた人達(Y染色体ハプログループO2(O2a/O2b)系統に属していた)は、異民族の集合国家だった殷王朝に参画していたのですね。それが紀元なれずし前1,100年~紀元前1,000年頃に周王朝によって滅ぼされ、その人達は南下して百越人になり、ベトナム北部まで南下した人も。それと、北上して山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとされています。このような人達は古代史では海人族と呼ばれ、稲作を持ち込んだだけではなく、大豆から生産される納豆や豆腐も持ち込み、タンパク質の主流は魚になりました。米と魚の「なれ寿司」や「刺身」も海人族が持ち込んだのですね。その他に、乾物として用いられる「干し魚」刺身もそうです。蒸したり、燻製したり、発酵させたりする技術は、そんな海人族が日本に持ち込みました。「刺身」なんかは、日本独自の食べ物のように現在、言われていますが、中国でも唐王朝の時代までは、中国でも「刺身」が存在していました。それが、宋王朝から石炭が普及し、長時間火力を維持することができるようになり、火を使った調理法が一気に発展して、揚げ物や炒め物が主流になり、生ものを食べる習慣が無くなったようです。
 弥生時代から古墳時代ころまでは、縄文時代のようにシカやイノシイなどの動物性タンパク質も生肉で食べていたようですけれど、『日本書紀』によると675年に、天武天皇は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。奈良時代の貴族の古代食また、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された。「肉食禁止令」ですね。このことにより、日本人は主食が「ご飯」で、副食がタンパク質の「魚」とミネラルやビタミンとしての「野菜」が主流になりました。この天武天皇の時代から、米が年貢として徴収され、普通の庶民は米を食べるのは主な行事だけに限られ、粟や稗などの米以外の五穀を主食にしていたみたいです。これが江戸時代まで続きます。江戸時代になって、経済的にも安定してきたようで、庶民に塩・ミソ・酢・砂糖・昆布・鰹節・しょうゆが使われるようになり、一汁一菜米に雑穀を混ぜた主食と一汁一菜と言って、お汁におかず1品が日常の食生活だったようです。そして、明治時代になって文明開化の時代になって、肉料理が解禁されるようになった。
2018年6月24日

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嵐勘十郎の鞍馬天狗 現在でこそ、「天狗の仕業」という言葉は、死語に近くなってきましたが、私が育った戦後間もない頃、明治・大正時代の人達は「原因が分からないもの」「モヤモヤとしてその根拠が希薄なもの」など、悪質な霊力が働いた不可思議な出来事のことを「天狗の仕業」という言葉で表わしました。子供の頃、そんなおじいさん、おばあさんに「天狗って、いるの」と聞いたことがあります。すると「いてるよ」と。確かに、祭りの夜店で天狗の面が売られていましたし、テレビの時代劇でも「鞍馬天狗」が放映されていました。「鞍馬天狗」というと大佛次郎の時代小説で、幕末の勤王志士で新撰組と戦う主人公。あの頃、実際に幕末に「鞍馬天狗」がいたと思っていた。全く、架空の人物でしたが、京都を舞台にし、鞍馬山の天狗という素材をもとに作られたと思う。鞍馬山の奥の谷に住み、その地の僧侶達が平安時代末期から、大天狗と称してきた伝説を基にしていた。この大天狗能「鞍馬天狗」は、源義経が幼少の頃、牛若丸と言っていた頃、鞍馬山で鬼一法眼という架空の僧侶に剣の修行を教わった人物だとされ、室町時代に作成された「宮増」の能のひとつの演目「鞍馬天狗」にも登場します。
 天狗は、平安時代初期に空海が中国から密教を持ち込み、今まであった自然崇拝信仰、特に山岳地に霊的な力があると信じられ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出された山岳信仰と融合して作られた。その頃の天狗は、僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。そして、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かったとされる。今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び山伏天狗悪巧みをするといった天狗のイメージは、やはり鎌倉・室町時代に作られたようです。
 鼻が高いというイメージだけでいきますと、推古天皇の時代に百済人味摩之によって中国南部の江南から伝えられたという伎楽で使用された面も、そのように鼻が高い。奈良時代の大仏開眼供養で披露された伎楽の面が正倉院に保管されています。この面を見ると西洋人の鼻の高さに似ています。伎楽が最初に日本に伝わったのは、欽明天皇の時代で、呉国の国王の血をひく和薬使主が仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述が『日本書紀』にあります。この伎楽のルーツは、中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説があり、鼻の高い伎楽の面を見ますと西洋の雰囲気が漂っていますね。
 日本における天狗という言葉の初出は、舒明天皇の時代で。都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。こ東大寺の伎楽面(酔胡従)れは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」と『日本書紀』記されています。その当時の人にとっては、流れ星は予期せぬことだったのでしょう。「天狗の仕業」ですね。このように、中国では元々天狗という語は、凶事を知らせる流星を意味するものだったようです。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が記載されています。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられたようです。その天狗という言葉が舒明天皇の時代に伝えられましたが、それから結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして、舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになるのです。でも、天狗という本来の意味は、「天狗の仕業」で現在まで残っているのも不思議ですね。
2018年6月11日

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 地球上に人類らしき生物が誕生したのは、ルーシーという名前で有名なアウストラロピテクスの女性の一個体と言われています。猿人ですね。400万年前~300万年前のアウストラロピテクスが中東アフリカで見つかりました。その頃の地球の地質は、パナマ地峡が形成され、ヒマラヤ山脈の上層が激しくなってきた新第三紀の鮮新世にあたり、岩石の浸食を招き、これによって大量のカルシウム塩が海に流入し、カルシウム塩が二酸化炭素を吸収し石灰岩化していったため大気中の二酸化炭素量は激減していき、寒冷化の進行を促した。北半球の殆どが氷河で包まれていました。そこに、高い山だけが陸地だったようです。そんな時代に日本に人類がいる訳ありませんね。そんな時代、日本列島も現在の姿とはかなり違っていました。
500万年前から現在の日本列島の経緯
600万年前〜40万年前の琵琶湖形成図 現在ある琵琶湖の形もその当時、見受けられませんでした。400万年前~300万年前の琵琶湖は、現在よりも南にあり、大山田湖と名付けられていました。そして、北上していき、阿山湖(約300~270万年前)、甲賀湖(約270~250万年前)、蒲生湖(約250~180万年前)、現在の琵琶湖の南端が現れるのが堅田湖(約100~40万年前)と移り、これらの湖を総じて「古琵琶湖」と言われています。1,650万年前~500万年前は、現在の奈良盆地は、「奈良湖」と言って、湖だったのです。
 日本一大きな湖、琵琶湖は、世界的にもバルカン湖と同じように古湖です。今から40万年前に現在の姿になった。その頃は、中国で北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された北京原1_650万年前〜500万年前の古琵琶湖人が存在し、石器や火を起こし、狩をして生活していたようですが、ホモ・エレクトス・ペキネンシスが日本にもいたかというと何ともいえない。その当時、日本列島に人類がいたことは肯定も否定もできません。その頃、中期更新世にあたり、気候はギュンツ氷期で地球が冷え込んだ氷河期。琵琶湖周辺で生活していたのは、ナウマン象やオオツノシカ。当然、その時期には琵琶湖周辺に人が住んでいるはずがありません。琵琶湖周辺に縄文人が住みだしたのは、滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡で、13,000年前の竪穴式住居5棟と土偶が発見されています。旧石器時代、22,000年前の竪穴式住居がプロ相谷土偶野球の楽天の梨田監督の商業施設ビル建設予定地から発見されたはさみ山遺跡梨田地点から9,000年もあとなのですね。その後、徐々に寒冷期に向かい、8,200年前頃が一番寒かった。7,000年前頃から徐々に温暖化となり、5,000年前~4,000年前頃、縄文時代の繁栄期を迎えます。長野県茅野市の棚畑遺跡から発見された「縄文のビーナス」が縄文時代の繁栄期と言っていいでしょう。4,500年前ですから、日本の土偶の原型が琵琶湖の周辺の相谷熊原遺跡にあると言っても間違いないでしょう。縄文人は、やはり近畿圏から諏訪湖の信州へ、そして青森県の三内丸山まで北上したのですね。
 気候的温暖化の最盛期、4,000年前~3,500年前に琵琶湖の縄文人は、棚畑や三内相谷・正楽寺遺跡地図丸山よりももっと大きな集落を相谷熊原遺跡近辺の滋賀県東近江市能登川に。西日本でその当時、一番の集落と言っていいだろう。それは、正楽寺遺跡で竪穴式住居跡、掘立柱建物群、祭り広場など、縄文の人々の生活の跡や、生活に使われた櫛、土で作られたお面(土面)、石器、鏃、石斧など多くの遺品が見つかりました。掘立柱建物が14棟もあり、ドングリ貯蔵穴が130基以上、サヌカイトを用いた石器製作場、環状木柱列など。竪穴式住居は数え切れないほどあったようです。その後、紀元前後まで、冷涼化・湿潤化し,降水量も増加した。そ正楽寺遺跡の土面の間、縄文人は近畿圏から南下し、九州辺りに移動。紀元前後になって、気候も温暖化になり、水田に適した琵琶湖に、渡来人が集結するようになった。そして、正楽寺遺跡でも弥生人を中心にした大きな集落が。古墳時代、飛鳥時代と琵琶湖周辺では、稲作の収穫が日本一となっていった。天智天皇が都を近江京に移すぐらいでしたから、栄えていたのでしょう。
 琵琶湖は、天智天皇以後、これと言った発展はなかったが、琵琶湖から流れる宇治川の恵みを受けて、平安時代初期から貴族の別荘として宇治が栄え、藤原頼通が平等院を建立。鎌倉時代の初めに、臨済宗の開祖、栄西が日本人にとってお茶の習慣が崩れかかっていたのを嘆き、中国の宋から茶種を。そして、華厳宗で栂尾宇治抹茶の地に高山寺を建立した明恵に贈った。明恵は、高山寺の裏山、栂尾山に植えた。その後、宇治の地にも播植した。後嵯峨天皇が小松茶園、木幡に西浦茶園を開き、この地で本格的な茶の栽培が始まった。素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、茶道が室町時代に始まり、お茶を嗜む上で器が必要になってきた。その当時、京都や奈良に近かった滋賀県甲賀市信楽で、「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてき信楽焼のタヌキた信楽焼が生産しはじめます。この信楽焼は、その信楽地方の粘土が良質であったために、茶道の広がりとともに全国的に広まった。江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、信楽焼の店頭には何故か、たぬきの置物が飾られるようになった。この信楽焼の原料、粘土は300万年前~250万年前の阿山湖や甲賀湖の当時の地層から堀ざされたものとされています。 
2018年6月7日

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