いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2018

 今上天皇陛下が2019年5月に退位されて、新しい年号に変わりますね。そして、崩御後、平成天皇となられます。今上天皇陛下が在位していた時代の年号を天皇陛下の諡にされる。これも明治時代になって、明治政府は中国の明・清王朝で実施されていた一世一元制を採用して、慶長4年を明治元年とし、一世一元の詔(太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。)を発令してからです。それ以前は、災難や疫病がはやった時に、年号を替えって、平穏安堵を願った。現在天皇陛下を今上と言う漢字を使用して、過去の天皇と区別していますが、この今上という言い方は大和言葉の「いまのうへ」から漢字として使用されたようです。また、今上という言い方も江戸時代の国学者、賀茂真淵・本居宣長等が唱えてからのことだと思います。現代では、今上天皇のことを「陛下」とか、ただの「天皇」とかで呼んでいますが、この言い方も明治時代以降。それまでは、「帝」とか「天子さま」と呼んでいたそうです。
年号一覧
十干十二支_1 年号は、私達の雲の上の人、天皇に関わってきたのですね。日本で最初の年号は「大化」ですから、飛鳥時代に中国の漢王朝の武帝が始めた年号を日本でも見習ったようです。女帝の皇極天皇から使われました。専制君主制を敷いていた大和朝廷の事務的な処理から始まった。それまでは、十干十二支で年数を数え、年齢等を表示していました。十干十二支が日本に入ってきたのは定かではないですが、古墳時代の初期から中期に中国から百済経由で日本に入ってきたと思われます。埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵金錯銘鉄剣_1(わかたける)大王」は雄略天皇だとすると、5世紀の中程には十干十二支が存在していたことになります。また、白鳳時代に編纂された『古事記』にしても『日本書紀』でもその当時の天皇の即位は、十干十二支で記載されています。古くから使われていた十干十二支ではありますが、一般庶民はこの十干十二支を江戸時代まで使用しました。皇極天皇以前の年号表記はなく、60年周期で回っている十干十二支で計算されていた。大和朝廷の事務的な問題で暦が必要になってきた。ヤマト王権の朝鮮半島の拠点、任那が新羅によって滅亡した頃(562年)。欽明天皇の頃に任那の残党が百済から帰国して、太陽太陰暦を持ち込んだ。この暦は、山東省出身で南北朝時代の宋に仕えた天文学者、何承天が考案した元嘉暦で、中国では445年から509年まで使用された。その暦を百済から554年に伝えた。仏教公伝と時期的に近い。任那と百済の交流は深く、欽明天皇以後、ヤマト王権と百済の同盟関係が続き、百済から仏教や暦など、現在の日本文化の礎を成した。
 欽明天皇以後、太陽太陰暦は元嘉暦から始まり、飛鳥時代から奈良時代まで、儀鳳暦を使用した後、遣唐使が持ち込んだ唐の暦、大衍暦、五紀暦、宣明暦を。その後、遣唐使が廃止されたことによって、平安時代前期の清和天皇より、宣明暦を使用してから江戸時代の将軍、徳川綱吉まで823年間という長期にわたって旧暦表示で、西暦との関係はユリウス暦で表示されていた。平安時代から西洋の西暦が日本でも認識されていたことになりますね。江戸時代になって、オランダから西洋文化が入ってきて、今まで使用していたユリウス暦とその当貞享暦時主流になっていたグレゴリオ暦(現在の西暦)とのずれが生じ、その当時の天文暦学者の渋川春海によって、貞享暦が発案され、和暦の日付は旧暦(十干十二支)、西暦の日付はグレゴリオ暦となった。それ以後、宝暦暦、寛政暦、天保暦を経て、明治時代になって、新暦、グレゴリオ暦が採用されるようになった。明治政府は、年号一元制とともに西暦を奨励したのですね。でも、旧暦(十干十二支)は一般庶民にはまだまだ親しまれ、明治、大正、戦前の昭和時代まで使われていたようです。現在では、年号と西暦の併用が普通ですけれどね。
2018年12月29日

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三ツ塚古墳出土_修羅 クリスマスの時期になると雪景色の中、トナカイに引かれたソリに乗ってサンタクロースがやって来ます。現在では、スポーツカーに乗ったサンタクロースの演出もありますね。ソリは、雪国で運搬用として使われているものだと思っていました。それが古墳時代にも存在した。
トラック 1978年に藤井寺市の三ッ塚古墳の周濠底から大小2つの木製のソリが発見されました。大型のソリは全長が8.8メートルもあり、小型のソリは全長2.9メートル。先端に主綱を通す横穴があったり、大型には2本の足の側縁に各6ヶ所に斜め穴をあけ、荷綱を通したり、引き綱をとめる施設に使われていたようです。また、テコ棒も発見されています。現在の大型トラックと同じぐらいの大きさですね。
仁徳天皇御陵古墳の埴輪調査 昔、この地域を河内と言われ、倭の五王の時代、4世紀末期から5世紀の頃に大型の前方後円墳が造営されました。2011年には、大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市の知事と3市長をトップとした「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」が設立され、ユネスコ世界遺産センターに世界文化遺産登録の早期実現をめざして運動を展開している地域です。その運動の一環として、宮内庁は堺市とタイアップして大仙御陵(仁徳天皇御陵古墳)の埴輪調査を2018年10月下旬から11月にかけて行われました。そして、2018年11月22日に調査結果が発表され、埴輪は5世紀前半~中頃の特徴を持った円筒埴輪だったようです。埴輪の底には石が敷かれ、直径約35センチの大きな円筒埴輪を発見したそうです。墳丘を囲む堀の堤の距離が約2.6㎞にこの円筒埴輪が7,000本も眠っているそうです。
円筒埴輪  これらの埴輪は円筒埴輪数本に対して朝顔型埴輪が1本の割合で配置され、お供え物の土器を置くようになっていて、収穫された米で作った酒や新米で作った粥を壺に入れ、さまざまな形の器台に収穫物を載せ、神を招き、神の前で、ともに飲食し、神に収穫の感謝や願いごとをした祭典の道具が円筒埴輪に変化した。この特殊器台は、3世紀後半に吉備地方で発生したようです。4世紀後半になって吉備の須恵器の職人が河内地方に集結します。藤井寺市の誉田御廟山古墳(応神天皇御陵)付近の菅原道真が建立した道明寺辺り、現在「土師の里」と言われているところに集結して、土師部という土器を生産する部ができ、須恵器や祭典に使用する土師器を生産した。この土師の里遺跡から土器を焼くための焼成抗も発見されています。ここで、百舌鳥古墳群と古市古墳群の埴輪を生産したのですね。埴輪の底に敷かれた石は、この土師の里から東方に二上山があり、そこから採取されたようです。
百舌鳥・古市古墳群地図
 古墳の祭典に使用する埴輪と石を運ぶ必要が出てきます。それで、土師部の人たちは海人系の人たちだった古代のソリので、舟を作る技術も持っていたので、堅い樫の木から舟のようなソリを作ったのです。そして、収穫した稲の藁で縄を組み、そのソリに縄を括り付け、テコ棒を使って、大勢で引っ張った。現在の綱引きの原型ですね。綱引きはその当時から神事として扱われていました。最初に神事にしたのは、仁徳天皇の時代に疫病がはやり、その祈祷をするために創建されたと言われている大阪市浪速区の難波八坂神社だとされています。石材職人でもあった土師部の人たちは、大きな石棺もこのソリで運んだのでしょう。また、綱の弾き手も現在のお相撲さんクラスの人がいたのですね。生産した埴輪や石を土師の里から、10数㎞離れた仁徳天皇御陵古墳まで運ぶのですから。
綱引き神事 この土師部の人たちが平安時代までこの地に永住し、土師氏をなのることになった。この土師氏から分家したのが菅原氏で、平安時代の菅原道真もこの地の出身です。この地の道明寺(土師寺)に隣接して道明寺天満宮もありますから。また、飛鳥時代になって、土師部が土師氏と名乗るようになり、『古事記』や『日本書紀』の編纂にあたって、土師氏の祖先をアメノホヒ(アマテラ道明寺天満宮スの子として出雲に最初に降り立った神)とし、その末裔で相撲の祖と言われ、垂仁天皇記に出てくる野見宿禰とされています。二上山の麓を領地にしていた当麻蹴速と相撲を取り、打ち破った。そして、当麻蹴速の領地である土師の里の領地を奪いとった。記紀ではこのようになっていますが、神話の世界での話なので、実際はどうだかわからない。土師部の人たちは、大きな岩を運ぶのにソリを使い、力持ちがソリを引っ張る。そんな力持ちを祖先に持っているのだと言うことで、野見宿禰の話が出てきたと思われます。
 現在、土師部が使用していたソリを修羅と漢字で表していますが、仁徳天皇の時代からこの漢字が使われていたのではなく、日本に仏教が入ってきてからで、大石をタイシャクと読み、それを帝釈天に引っ掛け、帝釈天を動かせるものは阿修羅すなわち修羅であると語呂合わせからきたものとされている。帝釈天が日本に伝わったのが、飛鳥時代で帝釈天が普及したのが奈良時代から平安時代前期だとすると、ソリを修羅と書かれるようになったのは平安時代以降ではないかと思われます。また、ソリという音声は、やはり中国の上海を中心とした呉語からきているようです。すなわち、土師部の人たちも中国の浙江省あたりから朝鮮半島経由で日本にやってきた渡来人だと思われます。
2018年12月10日

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 日本人の主食は、昔から米ですね。この米はジャポニカ米と言われ、この紀元は15,000年程前、氷河時代の末期、日本がまだ陸続きの頃に今の東南アジアにあったスンダランドに生育していた熱帯ジャポニカ米です。スンダランドは、紀元前12,000年から紀元前4,000年の間に沈没し、現在のタイランド湾から南シナ海に渡る大陸棚に相当する。スンダランドが存在していた頃、黒潮海流は沖縄諸島より東側を流れていました。スンダランドから北で中国大陸と沖縄諸島の間で北側は日本の九州辺りの海域が優良の漁業場だったようです。
縄文文化前の人類の移動
 湿地帯の多いスンダランドでは、紀元前12,000年前までに熱帯ジャポニカ米が栽培されていた可能性があります。現在、最古の熱帯ジャポニカ米は、紀元前8,000年前の浙江省の上山遺跡とされています。その熱帯ジャポニカ米が海を渡って北上します。日本にも岡山県の朝寝鼻遺跡から紀元前4,400年の稲のプラントオパ-ル湿地帯でのイネ科が発見されていますが、非公式では、鹿児島県の遺跡で紀元前10,000年前の稲のプラントオパ-ルが薩摩火山灰の下から発見されています。縄文時代初期のジャポニカ米はそのスンダランドから来たものだと思われます。スンダランドが沈没し、この熱帯ジャポニカ米をもって船に乗り、北上。そして、山から流れてくる砂が川によって運ばれ、海岸付近には湿地帯が多かったのでしょう。九州の海岸線に自然にできた水田で稲を植えた。鹿児島県で稲のプラントオパ-ルが発見されても不思議ではありませんね。
 スンダランドから持ち込まれた熱帯ジャポニカ米は、中国江南地方で改良されて温帯ジャポニカ米が完成しました。そして、揚子江周辺に広がり、中国の浙江省の河姆渡文化(紀元前5,000年~紀元前4,500年)や中国の江蘇省の馬家浜文化(紀元前5,000年~紀元前4,000年)で構築された稲作の文化が紀元前縄文後期(紀元前2,000年頃~紀元前1,000年頃)に始まる地球の寒冷化によって、これらの文化を持っていた農耕漁狩民は、日本の九州に移住し温帯ジャポニカ米を伝えた。その頃日本では、バルカン湖周辺にいた人達が南下して東北の三内丸山を拠点に集落を持っていた縄文人もその寒さによって、食料を求めて近畿地方まで南下してきた。そして、以前からあった熱帯ジャポニカ米を栽培していくわけですが、そこに中国江南地方の農耕漁狩民がもたらした温帯ジャポニカ米を取り入れ改良していく。そして、北から来た縄文人と中国江南地方の農耕漁狩民とが交わっていった。紀元前400年頃には、北から来た縄文人と中国江南地方の農耕漁狩民が同化し、近畿地方では大きな村落ができていた。現在日本人の祖先ですね。
下之郷遺跡の大環濠 その頃の大きな村落の例として。1980年に下水道工事のときに縄文時代の遺跡から弥生前期・中期・後期の遺跡が野洲川流域で発見され、それらの遺跡の中で、滋賀県守山市下之郷町の下之郷遺跡には、環濠や井戸の深いところには、当時の動植物遺体がたくさん埋もれ、稲籾や籾殻が見つかっています。環濠や井戸跡を発掘すると稲籾や籾殻がみつかりました。井戸の中に堆積した土を水洗、黄色いままの籾殻、黒くなった稲籾があったほか、真っ黒になった米粒が固まった状態のものが発見されました。米粒の一部をDNA鑑定行ったとこ炭化していない籾ろ、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあり、しかもそれらは複数の品種があったことがわかりました。これまで稲作は、温帯ジャポニカが中国~朝鮮経由で伝わったと考えられていました。炭化していない籾が発見されたことにより、DNA鑑定が可能となり、東南アジアから海を渡って熱帯ジャポニカが伝わってくるルートがあったと考えられます。
 下之郷遺跡の集落は、3重の環濠があり、さらにその外周に数条の大濠が巡らされています。3重の環濠に囲まれる集落の規模は、東西330m、南北260m、面積はおよそ7haにおよびます。集落の西側で発見された3条の環濠は、いずれも幅5m、深さ1.5mほどで、当時は水をたたえていたことでしょう。環濠のふちには柱の並ぶ場所があり、これらは、集落内に外敵が容易に侵入できないように 設けられた柵の痕跡。第1環濠では、一度掘った環濠に、幅3mほどの土を埋めて出入口(陸橋)が見つかり、この出入り口周辺からは、打製や磨製の石鏃、焼け焦げた弓、石剣、折れた銅剣など、戦いに使われた武器がたくさん発見された。集落というよりは全くの国ですね。
下之郷遺跡の集落跡
2018年12月2日

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 現在の明仁天皇陛下は2019年4月30日で退位されて、諡号が平成天皇となられ、天皇家としては第125代の天皇となられます。世界でも、国の王として125代も続いている国は日本だけですね。初代神武天皇は、『古事記』や『日本書紀』によると辛酉年1月1日に橿原宮で即位してとなっています。明治時代の学者、那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、推古天皇9年(601年)から遡って1,260年前、紀元前660年と唱え、戦前まで紀元2600年記念式典の政府は、神武天皇即位紀元の元年と制定し、皇紀を採用した。現在の西暦2018年は皇紀2678年に当たります。1940年11月11日には、橿原神宮で紀元2600年記念式典が行われたりしました。この式典の前、1938年に末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見。その橿の巨木をアメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から橿原神宮2,600年前のものであることが判明。それを根拠に神武天皇が紀元前660年に即位したとした。この根拠は、現在の研究からもあり得ない年代ですね。天皇という諡号も、大宝律令で法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とされ、神武天皇から奈良時代の元正天皇までの名称は、大友皇子の曽孫、淡海三船が名付けた。それまでの天皇は、「すめらみこと」と呼ばれていた。この「すめらみこと」は、明治天皇以前まで天皇のことをこのように呼ばれていた。「すめら」の言語は、古代の訓読み言語で天武・持統天皇時代に漢字として「天皇」とし、「すめらみこと」と読んでいました。その当時、一般的には天皇のことを「オオキミ」と言い、天皇が政権を失った鎌倉時代頃からは「ミカド」と呼んでいたのでしょう。
 神武天皇からの天皇家は、父系家族制で紀元前660年から永遠と続いていたのでしょうか。丁度その頃、日本の佐賀県の唐津地方・吉野ヶ里丘陵や福岡県の博多・早良地域に水田式稲作が中国から入って来た時代。その稲作集落の家族制度は、集落で田んぼを所有している主は、働き手として男性を必要とし、その男性を確保するために、娘の婚姻を望んだ。招婿婚ですね。現在では一夫一婦制ですが、その当時は多夫多婦制のようなところがあって、「ヨバヒ」ですね。夜になると働き手として男性が田んぼを所有している主の娘のところに侵入して、セックスをし、女が許せばその場で結婚が成立。娘が拒否し、また違う男性と交わる。そして、生まれた子は、娘が認めた男性を父とした。場合によれば、田んぼを所有している主が田んぼの跡継ぎと定める場合もあったらしい。女系社会だったのです。そんな母系家族制の時代に天皇家は父系家族制であるわけがありませんね。招婿婚は、早くても古墳時代まで続きます。平安時代の紫式部の『源氏物語』でもそんなシーンがあるように、藤原氏が摂政を行うためにミカドに娘を差し出し、政権を維持したのも招婿婚のなごりだと思います。
 古墳時代までは祭政一致が行われ、政治を行うことを「まつりごと」と言った。元々は「祭り」から、「政」となった。「祭り」は女性が巫女として祈祷することですから、女系社会では集落の運営において、女性が巫女になって決めていた。『日本書紀』巻第五崇神天皇紀によると、「国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占うと、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという」とあ太占り、占いは亀卜で日本では亀の代わりに牡鹿の肩甲骨を使った太占で。倭迹迹日百襲姫命は、第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛との間に生まれた皇女で、大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったと言われ、箸墓古墳に埋葬されているという。また、倭迹迹日百襲姫命は邪馬台国の卑弥呼ではないかとも言われている巫女です。
 邪馬台国の卑弥呼が巫女として「まつりごと」をしていたように、推古天皇の時代に母方の蘇我氏が実権をもっていたように、ヤマト王権も母系家族制が残っていたのではないでしょうか。神武天皇から崇神天皇の間の天皇が欠史八代と言われ、『古事記』や『日本書紀』でも、豪族の娘が妃で皇子が生まれ、豪族の祖にあたるとかだけ書かれ、何をしたとかが書かれていない。欠史八代と言われてもしかたがないですね。崇神天皇以前、或いは仁徳天皇までもそうかと思いますが、この時代は母系家族制だったと。そして、神武天皇以来、天皇家が父系家族制ではなく、継体天皇までは政権交代が頻繁にあったのではないでしょうか。
2018年9月17日

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千本鳥居 最近、海外観光客の最多のスポットが京都の伏見稲荷大社だそうです。鳥居が約1万基もある千本鳥居があり、伏見駅のごく近くから赤い鳥居が続き、それが如何にも日本的と思われています。この赤い鳥居は、江戸時代になって町人や商人の信仰が盛んになったころから、商いの成功を祈願することから赤い鳥居を奉納する習慣が現れ、赤い鳥居が建てられるようになった。また、現在ではあまり見られなくなったが、商売をされている屋上に稲荷神社が祀られていたのをよく見掛けたものです。屋敷神を祀られているわけで、祖先神を祀られ、その中に稲荷神も多く祀屋上の稲荷神社られています。この習慣は江戸時代に確立したのでしょうね。全国の神社総数が8万社あるのに対して約3万社が稲荷神社であり、江戸時代以降、稲荷信仰が普及し、屋敷神として稲荷神が祀られるようになり、その屋敷神で稲荷神を祀っているのは関西より関東の方が多いというデータもあります。
伏見稲荷大社 伏見稲荷大社の多くの鳥居をくぐっていくというところに、日本を感じる海外観光客がいるのでしょうね。この千本鳥居をくぐり終えると伏見稲荷大社の楼門があり、その両サイドに稲荷神「狐」の阿吽が祀られています。阿吽は、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされ、法隆寺の中門金剛力士やよく見られる神社の狛犬も阿吽にあたる。沖縄の屋根に祀られているシーサーも阿吽にあたりますね。伏見稲荷大社は、この沖縄シーサー阿吽が狐で、稲荷と狐がイコールということなのですね。なお、阿吽の狛犬を神社に据えるようになったのは、仏教の影響で、奈良時代から平安時代に行われた神仏習合の考え方からだと思います。伏見稲荷大社の創建は、藤原京から平城京に遍都された翌年の711年で、元明天皇の時代、その翌年の712年には太安万侶が古事記を完成し、撰上している。その時代に、太秦の秦都理の弟、秦伊侶俱が伏見稲荷大社を建立するのですが、『山城国風土記』に「伊侶俱が裕福で食べ物の餅を弓矢の的にして遊んでいたところ、餅に命中した瞬間、白い鳥に化けて飛んで行った。そこに、新しい稲が生えた。」という説話があり、その場所に五穀をつかさどる農耕神、食物の持つ生命力や稲霊を持つ神、ウカノミタマ(倉稲魂神)を祀った。それが伏見稲荷大社で、「稲生(いななり)」から「稲荷」となって、名付けられた。その当時から稲作が重要視されていたことがよくわかりますね。
 ウカノミタマは伊勢神宮の外宮に祀られているトヨウケビメと同一神として扱われ、鎌倉時代に編纂された伊勢神宮の『神道五部書』に内宮と外宮の神々について書かれた「御鎮座伝記」があって、内宮について、「御倉神(みくらのかみ)の三座は、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。また、専女とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記される。ここに狐という文字が出てきますね。ウカノミタマは稲を収納する倉庫の神だったようです。稲を収納する倉庫が鎌倉時代から存在していたようで、その倉庫にある外敵がネズミだったようです。現在では、ネズミの天敵は猫で、ネズミ退治に猫を飼う習慣が戦前までありましたが、猫は奈良時代に輸入され、平安時代や鎌倉時代には高貴な方でないと飼われていなかった。その猫に代わってネズミを退治してくれるのが、キツネだったわけです。キツネはネズミを好物にしていましたからね。平安時代からキツネは穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、キツネが稲荷神の使いに位置付けられたようです。
いなり寿司 キツネの好物が油揚げと言われていますが、この油揚げはネズミの油揚げで、平安時代の頃、稲の倉庫にキツネを呼びつけるのにネズミを油で揚げたのをネズミの巣の近くに置いておいたそうです。それが仏教の影響で生き物を油で揚げる殺生があまりにも残酷なので、鎌倉時代末期ごろには庶民も豆腐を食べるようになり、その豆腐を油で揚げた油揚げがネズミの油揚げに変えられたようです。その頃から、キツネのことを「稲荷」と言われるようになった。稲荷神社に油揚げを供えるようになったのもその頃からだと思います。また、現在でも食べきつねうどんられている油揚げの料理、きつねそば(関東でそのように言われ、関西ではたぬきそば)やきつねうどんやいなり寿司は、江戸時代末期から明治時代初期に東京や大阪で考案された料理で、狐と稲荷をうまく使ったメイニングでした。
2018年9月3日

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