いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2017

貝塚 吉備、岡山県には縄文時代からの遺跡がたくさんあり、稲作についても焼畑という方法であったかも知れませんが、古くから生活していました。岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6,000年前)の地層から、また岡山市津島東3丁目の朝寝鼻貝塚でも、岡山県真庭市美甘森谷の姫笹原遺跡の縄文中期(約4,500年前)の地層からイネのプラントオパールが発見されています。世界では、長江中流域の仙人洞遺跡や吊桶環遺跡などのタワーカルストの洞穴遺跡から、約14,000年前のプラントオパールが。これらの遺跡の周辺で水田による稲作が行われていたとは言えませんが、吉備ではかなり前からヒエや粟などの雑穀とあわせて米を食べていた縄文人がいたことは確かです。笠岡市西大島字津雲の津雲貝塚では、縄文時代後期から晩期に掛けての地層から、現在までに合計170体近い縄文人骨が発見されています。水田式稲作としては、集落に隣接した水田跡のある弥生時代前期の岡山市いずみ町,学南町,絵図町などにまたがる津島遺跡が岡山県最古の水田跡であり、佐賀県唐津市の縄文時代晩期末の菜畑遺跡には及ばないですが、吉備ではかなり古くから水田の稲作が行われていたようです。そして、百間川遺跡、東高月遺跡が津島遺跡に続きます。弥生時代中期には備中の足守川流域が中心となり、足守川河床遺跡(岡山市加茂、倉敷市矢部)、上東遺跡(倉敷市上東)、宮山遺跡(総社市三輪)などの大集落が作られるようになりました。この辺りの大集落には水田は殆どなく、瀬戸内海経由で朝鮮半島の百済や新羅との交易の場となり、吉備王国の土台となった地域です。
温羅 この辺りの北部、鬼城山(岡山県総社市)に昔話の桃太郎の舞台になった鬼ノ城があり、663年の白村江の戦いで敗れたヤマト王権は、この鬼城山に城を築く。これが鬼ノ城なのですが、桃太郎が鬼退治を行ったのも鬼ノ城で、この鬼は製鉄技術を吉備地域へもたらした百済から渡来したとされる温羅の集団のこと。桃太郎のモデルとなったのが、『日本書紀』に書かれている孝霊天皇の子で、崇神天皇が吉備に派遣した四道将軍のひとり、吉備津彦命とされていますが、実際には弥生時代から古墳時代に移る、倭国の大乱以降の吉備では、縄文時代から弥生時代まで住み続けていた人達と朝鮮半島や出雲から流れて来た製鉄技術をもたらした渡来人によって、国家が築かれていたと思います。その国家を束ねていた大王を総じて、温羅や吉備津彦命と。ヤマト王権の前身であると思われる纏向遺跡にも日本最古の前方後円墳で、3世紀後半に築かれた箸墓古墳があるように、吉備にも3世紀末期から4世紀初頭に築かれた中山茶臼山古墳(岡山市北区吉備津)や浦間茶臼山古墳(岡山市東区浦間)があり、この地に吉備王朝が存在したことが。これら前方後円墳は、邪馬台国の卑弥呼の死後間もなく築造され、邪馬台国が大和や吉備に存特殊器台・特殊壺_(複製)在していたとの説が出るほど、邪馬台国以外にも日本に大国が存在していたと考えられます。中山茶臼山古墳は宮内庁の指定では四道将軍の吉備津彦命の墓とされ、浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の2分の1で形態が酷似している。この両古墳は、ヤマト王権に関わりがあるとされています。また、吉備地方で生まれ、華麗な文様を施し、丹(鉄成分)で赤く塗るなどの装飾性に富んだ大きな筒型・壺型の土器で、首長の埋葬祭祀に使用され、これらの特殊土器類が発達し変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係したと言われる特殊器台・特殊壺が3世紀後半の吉備最古の古墳、矢藤治山古墳(岡山市北区西花尻・東花尻)の竪穴式石室から発見されています。その他にも4世紀末期の尾上車山古墳(岡山市北区尾上)があり、中山茶臼山古墳に隣接し、現在、古墳南側に広がる水田地帯はその当時、海であり、臨海型の古墳として海上交通を見守るために築造されたと思われます。
 このような吉備での歴史観点からすると、『三国志』魏書東夷傳の倭人之条の段で、266年に邪馬台国の女王を継いだ壹與が西晋の武帝、司馬炎に使者を送った記事から倭国が413年に東晋の安帝に使者を送った記事までの約150年間の「失われた4世紀」と言われる時代に日本では何が起こっていたか。『古事記』や『日本書紀』に書かれている崇神天皇から応神天皇までの時代が「失われた4世紀」にあたります。記紀に書かれている吉備とヤマト王権との関係、ヤマト王権の吉備津彦命が吉備を征圧して政権内に組み入れたという話を鵜呑みにしたらいいのでしょうか。吉備津彦命は元々が吉備の大王の総称で、吉備には従来から生活している縄文人の末柄と新たに鉄文化を伝えた渡来人の巨大国家が存在し、ヤマト王権と対等な政権があったのではないでしょうか。
2017年9月3日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 中国の文献によると三国時代(186年~280年)の三国志『魏志倭人伝』の邪馬台国の卑弥呼と壹與の話が266年で終わっていて、次に日本のことを記載しているのは、南北朝時代(439年~589年)の夷蛮伝 倭国の条『宋書倭国伝』で、421年に宋の武帝に使者を送り、倭の五王の「讃」と称された記事までの約150年余りが、日本歴史上、空白の時代と言われています。「讃」が応神天皇とか仁徳天皇とか履中天皇とかの説がありますが、この421年頃には、ヤマト王権が日本を代表する政権であったことは確かです。
 飛鳥時代に編纂された『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇が東征してヤマト王権を設立したとなっていますが、これはその飛鳥時代の政権、天武・持統政権がヤマト王権の正当性を訴えるため、紀元前660年に即位したとなっています。全くの作り事と思います。ヤマト王権が九州から近畿の大和に東征したのは事実だと思いますが、それが神武天皇であったことについては疑問に思います。神武天皇が東征する過程で、『古事記』では安芸の国に7年も滞在していたのも疑問に思いますし、安芸の国で吉備王朝と戦い、7年後に吉備王朝とヤマト王権が手を結んだと考えるのが妥当だと思います。また、大和に東征した後、奈良県桜井市にある纒向に本拠地を置き、その吉備王朝の吉備津彦命と崇神天皇とは手を結び、勢力を伸ばし、奈良県桜井市にある纒向遺跡でも判るようにかなりの勢力のある集団が存在したことが考古学でも証明されています。そして、景行天皇はその纒向に纒向日代宮という宮殿を持っていた。その様なことを考えていると、応神天皇や仁徳天皇までのヤマト王権は、連合政権だったのではないでしょうか。記紀にしても飛鳥時代に編纂されたものであり、過去の事実を曲げてまでも、政権の正当性を主張することは有り得ることですから。
 この空白の150年あまりの時代に、吉備のように地方でも大王を中心にした王朝があったと思われます。その地方の王朝の大王の墓、権威の象徴として前方後円墳が築かれた。それが、応神天皇の時代。250年以降のことで、大型の前方後円墳、箸墓古墳が最古の古墳で、纒向遺跡の範囲内にあることは、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇が築いたヤマト王権の象徴だったのでしょう。箸墓古墳は、『魏志倭人伝』が伝える倭国の女王、卑弥呼の墓と囁かれていることは、私にしてはどうでもいいこと。ただ、奈良の桜井市あたりの纒向にヤマト王権が存在していたことを信じたい。箸墓古墳を宮内庁では第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓だと設定しているが、これも疑わしい。孝霊天皇自体が存在していたかも疑わしいところです。私の試案で妄想かもし渋谷向山古墳れないが、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇が生存していたとすると彼らの誰かの墓だと思う。宮内庁では、奈良県天理市の渋谷向山古墳が景行天皇の陵だとしていますけれどね。神武天皇と崇神天皇の称号が「イワレヒコ」となっているように、景行天皇の称号は「タラシヒコ」で成務天皇や仲哀天皇と全く一緒なので、成務天・仲哀天皇は存在していなかった。景行天皇の後が応神天皇。そのように仮定します。日本武尊もいなかった。日本武尊の話は作り話。それに変わる英雄、或いはヤマト王権と手を結んだ地方の大王かも知れないと、一人ではないと思います。400年代の初頭の墓として、誉田御廟山古墳があり、応神天皇の墓だ前方後円形墳(長鼓墳)の分布と宮内庁は設定しています。すると350年頃には応神天皇が実権を持っていた。邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのは、248年ころで、その頃から応神天皇までの100年間を崇神・垂仁・景行天皇がヤマト王権の権力を握っていたと私は解釈しています。
 250年頃から、朝鮮に兵を送った三韓征伐の主役は、神功皇后となっています。神功皇后が卑弥呼だという説もありますが、これも疑わしくて崇神・垂仁・景行天皇配下の豪族、例えば葛城氏あたりが朝鮮を攻撃し、一部の豪族が朝鮮半島の南側に勢力を持ち、応神天皇の誉田御廟山古墳を構築した後の450年頃に、5世紀頃の中国(宋)韓国の全羅南道・全羅北道に前方後円墳(長鼓墳)を構築した。その当時の400年頃、中国の南朝、宋を意識して朝鮮半島の南西側の海岸線に沿って前方後円墳を構築し、ヤマト王権の威厳を示し、413年~478年の間に少なくとも9回は宋朝などに使者を送っています。倭の五王の時代です。結局、前方後円墳は、その当時の権威の象徴として構築されたもので、500年頃になるとヤマト王権が全国を統一し、政権の権威を表わすことなどしなくてもよくなったので古墳が構築されないようになった。600年頃までは、地方の豪族の古墳は存在しましたけれどね。
2017年8月7日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

角隠し 女性の方が高齢になって、その方々を卑下する言葉に「鬼婆」という言葉があります。また、若き乙女が日本式結婚式を挙げられるときに、文金高島田と言って白無垢の衣装に日本的な高い髷を結った髪の上に、頭を覆う形で角隠しをします。この婚礼の形式は、江戸時代後期から明治初期になって広まったとされています。嫁入りをするに当たって、女性の怒り(嫉妬)、角を隠すことで従順な妻となることを示した呪いなのでしょう。「鬼婆」に対して、若い女性の場合は「鬼女」と言い、『源氏物語』が書かれた平安時代から、女性の嫉妬や恨みを表わす言葉として使用され、能や狂言で使われている「般若の面」も女性を表わし、角が付いています。能の演目に「山姥」があり、山の中に夜中行く当てもなくさまよう旅人に宿を提供し、はじめはきれいな婦人の格好を取り食事を与えるなどする般若の面が、夜寝た後取って食うと言う話。平安時代から戦前まで、女性と鬼とは関係が深かったのですね。最近では、男女同権の時代ですから、あまりそんなことを言わなくなりましたが。
 「山姥」の原型は、山間を生活の場とする人達であるとも言われ、山の神に使える巫女が妖怪化したものと考えられ、出産のために女性が入山する習俗や、村落の祭にあたって選ばれた女性が山にこもるという山岳信仰の名残と思われます。飛鳥時代に『古事記』や『日本書紀』が編纂され、日本神話が確立し、その神話にもオホゲツヒメは、鼻、口、尻から食物を出し、自らの死体から蚕や稲、粟など作物を生じさせ、イザナミも、火の神を産んだ後死ぬ。イザナギが黄泉の国でイザナミの姿を見てしまい、追いかけられて逃げ帰るという神話のように、母性を持った産霊神的な性格を持つ霊は冷遇され、『古事記』に書かれている神話は色々な勢力の伝承神話を融合したものであり、反発しあう勢力の神が一つの神話にまとめられる。こんな時代でも女性の「性」が描かれています。
 まだ、ヤマト王権が設立していない時代、日本では多くの小国或いは集落単位で生活をしていた時代、弥生時代には、中国や朝鮮から渡ってきた人達と、従来日本に住んでいた人達、縄文人や渡来人と縄文人との混血の人達との勢力争いがあり、住んでいた人達から見て野蛮人だったその他の人々を「鬼」と表現していました。「鬼」の語源は、上代日本語では「おぬ」と言い、本来姿の見えないもの、この世には存在しないもの、と言う意味で「隠」が転じた言葉だと言われています。集団で生活している人達を正当化し、その他の者は、不審者と扱って「鬼」と表現したのでしょうね。このような弥生時代に「鬼」と表現された部族の長が女性だった。その頃の時代は、母性家族の集団が多かったことを物語って、「鬼」と女性が結び付いた。地獄の閻魔大王を普通は「鬼」としますが、その考え方は、仏教や儒教が日本に入ってきてからの話で、陰陽思想や浄土思想が日本に定着しスガラムルディの魔女た平安時代のことですね。西洋でも「魔女」の存在があり、超自然的な力で人畜に害を及ぼすとされた人間、妖術を使う女性のことを言います。日本上代では「巫女」にあたり、そんな女性が集団を支配していた時代があったのでしょう。「鬼」の概念は時代によって変化しましたが、「鬼婆」や「鬼女」という言葉は現在でも使用していることに何故か、不思議に思います。
2017年8月6日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

九州北部豪雨災害 最近、日本で起きた九州北部豪雨災害をテレビの映像で見ていますと日本という国は、古代から天候の異変によって災害が多発してきた国なのだと思います。台風、地震、火山災害と各地で起こり、それに対処している日本人の英知は海外の人々に称賛されています。この事は、古代日本人から永遠と受け継がれてきた国民性。現在では、その国民性を「絆」という言葉で簡単に表現していますが、その歴史的背景には深い意味が含まれていることを知らなければなりません。
 日本に水田式稲作が紀元前500年頃から中国から入って来て、田んぼを耕し、田植えをし、秋に稲の収穫を。その行為が永遠と続いてきて、日本人の食生活の基本となって来ました。そんな大切な農耕生活において、古代より九州北部豪雨のような災害は計り知れない多さであったと思われます。このような災害に文化的な考え方が芽生えたのは、『古事記』や『日本書紀』が編纂された飛鳥時代で、災害が起きた原因が不浄に相当する観念「穢れ」という言葉で表わされた。集団(共同体)の中で、伝染病による疫病や変死のいかがわしい出来事(災害によって起こりうる病気)もその「穢れ」のひとつ。スサノヲが高天原で、全て農耕を妨害する人為的な行為も。平安時代に編纂された『延喜式』の天津罪の考え方に集約され、近親相姦も「穢れ」のひとつとなった。そして、この「穢れ」や災厄などの不浄を心身から取り除くために神事でお祓いをする「祓」という言葉も飛鳥時代に生まれている。大祓「穢れ」という概念は、欽明天皇に百済の聖明王から伝えられた仏教の教えが神事に変化したと考えられ、「祓」は仏教が入ってくる前から祭場で行われていたと思われ、現在でも大祓詞を唱え、あらゆる人々の心身の穢れや、無意識のうちに犯した罪や過ちを祓い浄めて、災厄を避けることを目的で宮中や伊勢神宮などで行われています。災害が起こらないよう「穢れ」を避けるために「祓」を行うのですが、個人的な病気や罪の償いや「清浄」ま禊たは「神聖」を求めて「禊」という言葉があります。飛鳥時代に編纂された記紀に登場する「穢れ」「祓」「禊」という言は、イザナギが黄泉の国から帰って来て、黄泉の穢れを祓うため、禊をしてたくさんの神を生み出したとか、神武天皇がシオツツノオジと出合い、伊都国の糸島半島の芥屋の大門で体を海水で清め、「禊」をして東征するのを決意したという話もあります。
 「穢れ」「祓」「禊」という概念は、記紀の編纂にあたった飛鳥時代の人に定着し、平安時代に天津罪・国津罪が確立していた。天津罪は、畔放(田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害すること)、溝埋(田に水を引くために設けた溝を埋めることで水を引けないようにする灌漑妨害すること)、樋放(田に水を引くために設けた管を壊すことで水を引けないようにする灌漑妨害すること)、頻播(他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること、串刺(収穫時に他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てて横領すること)、生剥(馬の皮を生きながら剥ぐこと)、逆剥(馬の皮を尻の方から剥ぐこと)、糞戸(神事に際して祭場を糞などの汚物で汚すこと)が罪として決められていて、ヤマト王権が設立する前から共同体社会の犯罪として決められていたようです。国津罪は、生膚断(生きている人の肌に傷をつけること)、死膚断(直接的解釈では、死んだ人の肌に傷をつけること)、白人(肌の色が白くなる病気で、「白癩」とも呼ばれる)、胡久美(背中に大きな瘤ができること)、己が母犯せる罪(実母との相姦、近親相姦)、己が子犯せる罪(実子との相姦)、母と子と犯せる罪(ある女と性交し、その後その娘と相姦すること)、子と母と犯せる罪(ある女と性交し、その後その母と相姦すること)、畜犯せる罪(獣姦のこと)、昆虫の災(地面を這う昆虫による災難)、高つ神の災(落雷などの天災)、高つ鳥の災(ワシ、タカなどによる家屋損傷などの災難)、畜仆し、蠱物する罪(家畜を殺し、その屍体で他人を呪うこと)とされ、病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴があるが、一説に天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象で、その人物の体から穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるとされた。
 現在でも、自然の恐ろしさは計り知れないものですが、古代の人にとっても天災は人間が天津罪・国津罪を犯しているから起こると考えていたようです。今回の九州北部豪雨災害も地球の二酸化炭素の増加による温暖化が原因だと言われていますが、古代の人はこのような罪によると考えていたのですね。また、このような罪を犯さないように国民性を高めていったと考えられます。現在、災難が起きたときによく言われる「絆」という言葉、元々、古代の人にも備わっていたようにも思われます。
2017年7月20日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

お田植え祭 去年栽培した籾を水に漬け発芽したら、米苗代を作り、種まきして苗ができて、梅雨の季節に、田んぼに農業水路から水を流し、その米苗を植える。これがお田植えですね。この作業は、日本に稲作が入って来たころから永遠を続いています。田んぼに水が入ると水路のような水辺で生育していたカエルが1月から3月頃に繁殖して、カエルの卵はオタマジャクシになり、水田に流れ込みます。その水田にいるオタマジャクシを食べるためにカラスや白鷺などの野鳥が集り、イネを荒らします。そこで、古代から案山子を田んぼに立てて野鳥を白鷺追い払う。このような風景が梅雨の時期から初夏まで、日本各地で見られますね。古代から稲作をするには、山から流れてくる水と平地の耕された農地と水路が必要でした。現在でこそ、日本の田園風景はいいな。とか、簡単に思っていますけれどね。
 水田式稲作が日本にもたらされたのは、中国や朝鮮半島からやって来た渡来人が広めていったのですが、そかかしこには史実には現れない出来事がたくさんあったと思われます。たとえば、クルミやイノシイなどを主食にし、山で生活していた縄文人が春になると山里に降りてきて、田を耕し田植えをはじめ、秋の収穫が終われば山に戻る。そんな生活をしていた人達もいたかも知れませんね。日本神話には、山の神と言って、イザナギとともに国産み・神産みを行ったイザナミもそのひとりで、火の神、カグツチを産んだときに陰部にやけどをして亡くなってしまい、出雲と伯耆の境の比婆山に葬られました。イザナミの出身は、鉱山でしたからね。ニニキが高千穂に天孫降臨したときに出合ったコノハナノサクヤビメの父もオオヤマツミで、林業や鉱山の神と崇拝され、山から下りてきて恵みをもたらすともされることから里山農業の神としても祀られています。スサノヲが高天原で暴れて、アマテラスが岩戸に隠れたときに八尺鏡を作ったイシコリトメも。岩を削って、石を掘って、鏡の型を作って青銅を流し込んで鏡を作るのですから山の神なのでしょう。そのような神が縄文人であったかは定かではない。でも、可能性はありますね。オオヤマツミは男神ですが、イザナミもイシコリトメも女神で、女性首長或いは巫女だったのでしょう。イシコリトメという名称は、「イシ」が石、木コリのように「コリ」が職業を表わし、4世紀以前の女性首長の名称に使われた「トベ」と同じで「トメ」が女性を意味しています。
 山の神と関係が深いと言われている田の神も女神で、スサノヲが高天原を追放され、空腹であったときにあらわれ、食料をあたえたオゲツヒメや伊勢神宮外宮に祀られているトヨウケビメ、伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されているウカノミタマなどがいます。神の名の「ウケ」とか「ウカ」は、食べ物を表わしています。伏見稲荷大社には、ウカノミタマの他にトヨウケビメ、オゲツヒメ、ウケモチ、ワカウカメ、ミケツなどの穀物・食物の神を主な祭神としています。最近では、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになりましたが、元々は706年に秦氏血筋を継ぐ荷田氏によって創建され、当初は伊奈利神社として。それが、淳和天皇の時代、827年に「稲荷」と言われるようになりました。応神天皇の時代、283年に新羅の台頭により、百済から百二十県の民を率いての帰化を希望していた弓月君が日本に帰化し、その集団が養蚕や織物を伝えた秦氏と総括していますが、秦氏も稲作民でもあったのですね。
お田植え祭 稲作の歴史始まって以来、田の神をまつる田植行事は日本の全国各地で行われていますが、その中でも神功皇后が創建したと言われる大阪の住吉大社では、毎年6月14日に行われる御田植祭は、母なる大地に植えられたイネの苗に強力な穀霊が宿り、田植えに際して音楽を奏で歌を歌い踊りや舞を演じることで、水田や植えられる苗に宿る穀物の力を増すためのものと考えられ、穀物が豊かに育ち稲穂が十分に実る秋を迎えるための儀式として、おごそかに執り行われている。住吉大社のご神体は、ソコツツノオノミコト、ナカツツノオノミコト、ウハツツノオノミコトであり、安曇氏などの「海人の民」の神であり、その民も稲作民だったことがわかります。
2017年6月15日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ