いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2017

多鈕細文鏡 鏡として注目されているのは、邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝から頂戴したという三角縁神獣鏡ですけれど、それ以前の時代にも銅鏡が存在していました。福岡の早良平野の中心部、貫流する室見川の中流左岸に立地し、西には飯盛山が。この地に旧石器時代から中世にいたる吉武遺跡群あり、その遺跡群の中の吉武高木遺跡の特定集団墓の3号木棺から銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95と多鈕細文鏡が発見されています。この墓は、日本最初の王の墓と言われ、紀元前2世紀頃の墓。それまでの墓は土器の甕棺でした。この木棺は、古墳に埋葬されている割竹形木棺でした。高貴な方の墓なので割竹形木棺しょう。この福岡市西区吉武の地区は、邪馬台国の出現する前の北九州において、伊都国と奴国の境界にあり、日本で最初に国とした形態を整えた佐賀県唐津市の末羅国と同じ頃にこの早良の地に早良国ができたのでしょう。早良国が実際に存在したという方もおられます。また、末羅国が存在した宇木汲田遺跡でも多鈕細文鏡が発見されていることから。
 多鈕細文鏡は、化粧をするための鏡、三角縁神獣鏡が鏡背に神獣(神像と霊獣)が鋳出されているのに対して、細線の幾何学模様。そして、甕棺鏡の裏面に紐を通す鈕が普通の銅鏡でしたら1つなのに、2個から3個付いています。また、表面は、三角縁神獣鏡のような銅鏡であれば少し凸型になっていますが、多鈕細文鏡は凹凸があり、どうも太陽の光を集めて火をとる採火器に使用されていたようです。太陽信仰にも関係があったのでしょうか。縄文時代にはこのような青銅器の鏡は存在していないから、朝鮮半島から渡ってきたのは確かで、扶余合松里遺跡など朝鮮半島に29個が、日本では9個が発見されてい多鈕細文鏡が発見された遺跡る。その他に中国とロシアの国境に居住するツングース系の狩猟民族、オロチョン族では、神と人間の交信の仲立ちをする司祭者が鏡を衣服に括り付けて踊る祭事行事があるそうですので、中国の東北地方や遼東半島の一部でも発見されています。
 多鈕細文鏡は日本では9点発見されていますが、北九州に4点、山口県に1点、それから大阪に1点、奈良に1吉野ヶ里の福田形銅鐸点、さらに東の長野に1点発見され、多鈕細文鏡流行期より50~100年後の中国鏡が大量にもたらされた弥生時代中期後半になると姿を消しています。この多鈕細文鏡と銅鐸との因果関係が1998年に佐賀県の吉野ヶ里遺跡から「福田型銅鐸」が発見されたことにより、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域という銅鐸文化圏と銅矛文化圏という考え方が崩れ、1891年に広島県福田(木ノ宗山)で発見されたことから「福田型銅鐸」が吉野ヶ里の銅鐸と同じもので、どうも北九州から広島、出雲、そして近畿圏に伝わった。その経過から考えると日本の多鈕細文鏡と銅鐸の起源は同じ佐賀周辺にあったことが分かります。
 福岡県大野城市と糸島市を結ぶ福岡県道49号大野城二丈線があり、その通過点に福岡市早良区から西区を通過して糸島市に入る境界に日向峠があります。現在では「ひなた」と読んでいますが、これを「ひゅうが」と読めないですか。そう、神武天皇が生まれた「日向」です。佐賀県唐津市の宇木汲田(多鈕細文鏡)、福岡県糸島市を経て、存在したかも知れない早良国の吉武高木(多鈕細文鏡)、山口県下関市の梶栗浜(多鈕細文鏡)から広島県福田の木ノ宗山(銅鐸)、そして大阪府柏原市大県(多鈕細文鏡)を経て、奈良県御所市名柄(多鈕細文鏡)の経路は、何か神武東征の経路に似ていませんか。
2017年12月17日

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 現在、水田跡の最古のものとしては、縄文時代晩期の佐賀県唐津市にある菜畑遺跡でおおよそ3,000年ほど前とされています。その当時の日本各地の人口は、小山修三先生によると日本全体で161,000人、九州では10,000人、もっとも多いのは関東の52,100人、その次が東北の43,800人、のちにヤマト王権があった近畿ではわずか4,400人だったそうです。縄文時代の主流の日本人は、東日本であったことがわかります。縄文時代中期の東北の繁栄を如実に表わしているのが、狩猟採取生活をおくっていた青森の三内丸山遺跡にも現れていますね。西日本では、約7,300年前の鬼界アカホヤ火山の大噴火とトチ、ナラ、クルミ、クリ、カシなどの堅果類の栽培に適していない気候でしたから、縄文時代中期の日本の人口が262,500人の内、九州では5,300人、中国では1,200人、四国は僅か200人、近畿でも2,800人しかいませんでした。中部で71,900人、関東は最高の北朝鮮の漁船漂流事件96,600人ですからね。この縄文時代中期の人口増加は、現在問題になっている北朝鮮の漁船漂流事件と同じように日本海の荒波に流され、朝鮮半島北部から北陸や東北の日本海沿岸に渡来人がやってきた。その文化は、遼河文明で、その当時の話し言葉はツングース語だったと思われます。その当時の日本の森林では、堅果類ができるブナやナラ系の落葉広葉樹が東日本にみられた。しかし、縄文時代晩期になって、西日本では偏西風の影響で、カシ・シイ・クスなどの常緑広葉樹が増え、温帯低気圧の発生などにより、夏の時期に雨がよく降る気候になり、水田による稲作に適するようになった。そこに、中国の揚子江付近から偏西風によって熊本や長崎や佐賀や福岡に上陸し、縄文時代晩期に水田の稲作を持ち込んだ。島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡から縄文時代草創期の地層(アカホヤ火山灰層の上下)で稲のプラント・オパールが、また岡山市津島東の縄文時代の朝寝鼻(あさねばな)貝塚で、約6000年前の縄文前期の土壌から、栽培されたとみられる稲の細胞に含まれるプラント・オパールが発見されていることから、縄文人はすでに米の存在はしっていた。ただ、主食として採用していなかったようで、アワやあずきやキビなどと一緒に畑で栽培していたようです。菜畑遺跡でも水田の他に、アワやあずきやキビなどの畑も発見されています。水田様式は、やはり中国から。その時に農具や水路などの農業のノウハウが入ってきていると思われます。熊本や長崎や佐賀や福岡に水田の稲作が日本では最初で、渡来人だけの集団だけではなく、従来その地にいた縄文人に中国から渡って来た長江文明の人達が加わった形だと思われます。
稲作の開始年代・地域と稲作の伝播ルート
 北九州から始まった水田様式は、弥生時代には西日本に普及し、約2400年前~2300年前の東日本最古の稲作跡、青森県弘前市の砂沢遺跡にまでハイペースで浸透していった。それは、弥生時代の人口にも表れ、その当時の総人口が601,500人で、一番多いのが近畿で108,400人、その後が九州で106,300人、関東でも日本語の起源・形成のプロセス100,000人となっています。日本では、その弥生時代には、口頭か絵で表現することしか出来なかった。中国からの渡来人が水田様式を伝えるのに母国の言葉では縄文人に通じず、母国の文字を縄文人に教えることなど全くなかったと思います。そして、農機具の名称や意味を考えた縄文人は、自分たちの言葉で後世の弥生人に伝えていった。それが、水田様式が全国に浸透するにつれて、各地でその日本語が共通語になっていったと考えています。
 日本語の起源という問題が話題になり、インドのタミル語に近いとか、現代死語になっている高句麗語や扶余諸語からきているなどいろいろな説がありますが、私は縄文時代に関東や東北で使っていたアルタイ系言語のツングース語の言葉に縄文時代晩期から全国に広まっていった水田とともにその用語や話し言葉、発音体系が比較的単純で開音節であるなど日本語と似ているオーストロネシア系言語の混合だと思います。
2017年12月3日

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菜畑遺跡の水田跡 先史時代の日本、特に漢字が応神天皇の時代に王仁(和邇吉師)が百済から漢字と論語を伝えるまでの縄文時代と弥生時代までは日本に文字が存在しなかった。石器時代から石や岩に刻まれた絵文字は存在していたかも知れませんが。人に何かを伝えようとする行為は、話し言葉での言い伝えもあったでしょうし、絵文字を使った古代の人もいたでしょう。この行為は、人間が生きていく上で、子孫に伝えるための生活の知恵。たとえば、佐賀県唐津市にある菜畑遺跡では、紀元前930年頃の水田跡が発見され、この水田跡は、畦畔や矢板列によって区画されて、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて数期にわたる変遷(へんせん)が明らかになりました。最下層の水田跡からは、炭化した米や木製農具とともに縄文時代晩期後半の土器が出土している。この頃、古代人が食生活をする上で稲作を子孫に伝えていくために水田を耕す方法などを言葉で伝えていったのでしょう。そして、日本での集団村落、国の芽生えもこの地から始められ、『魏志倭人伝』でも邪馬台国に至るまでの国、末蘆国になっていった。
 この邪馬台国の時代でも日本には、正式な文字はなく、国を治める行政で使用する御触も口頭で行われていたと思われます。『日本書紀』によると、応神天皇の時代、298年に百済王は阿直岐(阿知使主・阿智王)を遣わしたとあり、『新日本紀』では、阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきた。この阿智王とは、漢氏(東漢氏)の祖と言われ、平安時代の征夷大将軍になった坂上田村麻呂もその子孫。その阿直岐が連れてきた学者に王仁がいます。でも、この応神天皇や仁筑前国嶋郡川辺里戸籍の木簡徳天皇の時代に『千字文』で書かれた木簡や『論語』の写しなどの複製木簡は見つかっておらず、敏達天皇の時代の572年に高句麗から上表文、(カラスの羽に書かれていた)を解読するものがおらず、唯一解読できたのが王辰爾(王智仁)が湯気で湿らせて布に写し取るという方法で解読。ヤマト王権の上層部では、漢文で書かれた文章を読む能力は備わっていたと思われますが、このようなからくりには対応できなかったのでしょう。この王辰爾が王仁の逸話を創作したとも言われています。王辰爾が『論語』を日本に普及したとも言われていますから。漢文を読んだり書いたり出来るようになったのは、欽明天皇の時代の552年の『日本書紀』に記されている仏教公伝からのようです。現在で一番古い木簡は、やはり仏教に関係があり、東京国立博物館に存在し、1878年に皇室に献納された「法隆寺献納宝物」の木簡。東京国立博物館と奈良文化財研究所による共同調査によって、館蔵資料から献納宝物の一部と考えられる木簡 8 点が確認され、書かれた文字の書風や内容から 7 世紀に遡る可能性の高いことが判明されています。『日本書紀』に記載されている聖徳太子の「十七条憲法」も木簡で書かれていたかも知れませんね。また、『日本書紀』によると、欽明天皇の時代の540年に「秦人・漢人等、諸蕃より投化せる者を召し集へて、国郡に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾を以て、秦伴造となす」とあるように一部の戸籍調査が行われ、その戸籍にも木簡に記載されていたと思われます。戸籍を記載された木簡の一部が現在でも残っていて、福岡県太宰府市の国分松本遺跡で発見された現在最古の戸籍の木簡で、持統天皇の時代の飛鳥浄御原令で690年に全国的な戸籍の庚寅年籍が作成された頃、律令国家体制が整う大宝律令の施行、701年のために統治の基本となる戸籍調査が行われ、東大寺の正倉院に伝わった「筑前国嶋郡川辺里戸籍」の地域の保管されていた木簡です。
 応神天皇時代に『千字文』が日本にもたらされた話は別として、欽明天皇の頃にはヤマト王権の上層部では、『千字文』は普及されていたようです。天智天皇が大化の改新により政権を手に入れ、668年の律令制度を決め越前和紙た近江令の施行から、地方の役人にも公文書のような政府の文章の作成が盛んになり、各世帯の情報を木簡に書き、その情報を和紙に写す作業が定着していたと思われます。和紙の起源は『日本書紀』によると、履中天皇の時代の403年で現在生存していないですが、日本初の国史の編纂にあたった経緯から初めて紙が使用された。この紙は輸入物であったか、国産品であったかは定かではありません。540年の欽明天皇の渡来人の戸籍の時には、秦氏が製造したようです。製紙技術の歴史は、後漢時代の蔡倫の改良から始まると言われ、中国から日本への製紙技術は、推古天皇の時代の610年に高句麗を経由して伝わったと言われています。
 日本の縄文時代・弥生時代には、物事を伝える手段として話し木製のタグ言葉で済ましていたのですが、集落から国にそして、国家の誕生とともに記録として文字が必要になり、中国から百済経由で『千字文』が入って来て、国史の編纂や戸籍調査などの書類的業務が発生し、木簡や和紙が製造されるようになりました。現在で言う情報公開ですね。和紙が全国的に普及することにより、木簡の盛期は8世紀末まで徐々に減少しますが、通行証や荷札(タグ)や絵馬は現在でも見受けられます。
2017年11月19日

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 ヤマト王権が考古学的に存在したのは、卑弥呼が邪馬台国の女王になっていた頃、3世紀の前半で、ヤマト王権の拠点となった纒向遺跡で3世紀初頭の纒向石塚古墳(奈良県桜井市太田字石塚)が存在し、前方後円墳の朱塗の鶏形木製品最古の古墳とされています。その古墳には、埴輪は存在しないのですが、周濠より吉備系の祭祀用遺物の弧紋円盤や朱塗の鶏形木製品や土師器が発見されています。これは何を意味しているのでしょうか。この頃からヤマト王権と吉備王朝には何かの関係があった。纒向遺跡の井戸跡から3世紀前半の平面の木製仮面も見つかっており、木製品の素材の年輪を調べるとそれらが製造された年月が判明され、朱塗の鶏形木製品の素材は、170年頃の年輪を示し、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたとされ、3世紀初期には纒向にヤマト王権が存在していたことが証明されます。また、朱塗されていたことは、その当時、鉄の生産が行われていたことになり、その生産に当たった職人が吉備の人達であったようです。
纒向古墳群
 吉備王朝とヤマト王権との関係がいつ頃からあったのかは定かではありませんが、『古事記』や『日本書紀』に記載されている神武天皇の東征では、神武天皇は九州の日向から出発し、北九州の筑紫から吉備へ。『古事記』では吉備の高島宮(岡山市南区宮浦)に8年も滞在とあり、『日本書紀』では3年となっている。この辺りで吉備王朝とヤマト王権との結びつきがあったようです。その3年後に、三輪山の麓の橿原神宮辺りで大和朝廷を発足し、初代天皇になる訳です。記紀では、紀元前660年だとされていますが、実際は中国の『後漢書』卷85東夷列傳第75に記載されている「桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。」の倭国大乱があった2世紀の頃ではないかと思われます。神武という名称は、奈良時代後期に大友皇子の曽孫であった公家、淡海三船が名付けたもので、持統天皇以後に先帝の崩御後に行われる葬送儀礼の一つとして贈った和風諡号(国風諡号)は、「かんやまといわれひこのすめらみこと」であり、この「いわれ」は地名(現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部の一帯)を表わしています。『古事記』、『日本書紀』にしても持統天皇の頃に編纂されたもので、和風諡号もその頃となると神武天皇の存在が疑わしいことになりますね。
 もしヤマト王権が纒向に拠点を置いていたとすると、3世紀以降に存在する纒向には吉備出身の人達も共に生志貴御縣坐神社活したことになり、鉄の機器や土師器のような土器も吉備の人達が製造していたことになります。また、崇神天皇の宮、磯城瑞籬宮(奈良県桜井市金屋・志貴御縣坐神社)も纒向に存在し、『古事記』では崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので、これを信用して318年(または258年)没と推測され、崇神天皇の時代かそれ以前のヤマト王権の君主が纒向にやって来たことが十分に考えられます。まさに、神武天皇は作られた人物となり、『日本書紀』によると、崇神天皇から任命された四道将軍のひとり、吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子となっていますが、これも天武・持統天皇時代に作られた家系図となるわけで、吉備津彦命自身は存在せず、纒向にいた吉備の人達の代表となり、吉備王朝の大王の総称となると思います。ここで、邪馬台国と纒向にあった連合国家、ヤマト王権との関係になりますが、邪馬台国の卑弥呼が生存していた頃と同時期に、すでに纒向を拠点にしたヤマト王権が存在していたとなると、邪馬台国の近畿説は否定され、箸墓古墳も卑弥呼の墓ではないということになります。
2017年9月17日

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古墳時代の主な勢力 ヤマト王権と思われる纒向遺跡に箸墓古墳が存在し、日本最古の古墳だとされていますが、3世紀後半には福岡の那珂八幡古墳、石塚古墳、大分の赤塚古墳、徳島の宮谷古墳、兵庫の吉島古墳、西求女塚古墳、静岡の新豊院山2号墳、神奈川の真土大塚山古墳から三角縁神獣鏡が発掘されています。ヤマト王権の勢力範囲では、天理の黒塚古墳から。箸墓古墳からは三角縁神獣鏡は発見されていません。この三角縁神獣鏡は、邪馬台国の卑弥呼が239年に魏に遣使して、魏の明皇帝から100枚もの銅鏡を贈られた鏡ですね。それが全国の古墳群から発見され、古墳の造築時期を設定する基準のひとつとなっています。現在発見されている三角縁神獣鏡は、奈良の100枚が群を抜いており、京都の66枚、次いで福岡、兵庫の40枚以上、大阪が38枚、岡山で28枚以上とその他にも。卑弥呼が明皇帝から頂いた100枚以上の枚数で、日本で偽造されたようです。福岡の一貴山銚子塚古墳(4世紀後半の前方後円墳)には日本製の三角縁神獣鏡が8枚発見されていますから。邪馬台国の卑弥呼の死後、248年以降に三角縁神獣鏡は全国に散らばったわけですが、その経過がはっきりしない。邪馬台国が没落し、その配下にあった者が吉備や播磨などの大王にその三角縁神獣鏡を贈呈して、我が身の安全を図ったのか。或いは、新興勢力のヤマト王権が権威の象徴として、邪馬台国にあった三角縁神獣鏡や偽造の鏡を全国にばらまいたのかが分からない。ただ、4世紀になると備前車塚古墳(岡山市中央区)には出土した三角縁神獣鏡11面のうち9面は、京都の椿井大塚山古墳と同じ鋳型で作られた同笵鏡であるとされ、この古墳は『古事記』に記された「吉備上道臣之祖」大吉備津彦命が埋葬されているのではないかと言われています。また、この備前車塚古墳には埴輪が発見されていないことから、吉備の大王ではなくヤマト王権の重臣だったようです。
かわらけ投げの皿 3世紀後半の吉備の矢藤治山古墳では、三角縁神獣鏡以前の方格規矩鏡が発見され、円筒埴輪の原型とされる特殊土器も。中山茶臼山古墳には、三角縁神獣鏡が発見されていないが最古の埴輪が発見され、埴輪の製造にあたっては土師器の様式が使われている。土師器は、弥生土器の流れを汲み、日本全国に普及した土器で、現在でも一部で、厄除けや酒席の座興として「かわらけ投げ」がおこなわれるあの皿。土師器を生産する集団を「土師職」としていたが、仁徳天皇が土師氏と定めた。吉備にも明治時代よりもっと古い時代に吉井川中下流東岸から播磨国境と沖合の島嶼までを郡域として備前国邑久郡に土師郷があった。土師器の発祥地とも言われています。「邑久」は、おくと読みますが、古くは「邑久」の他に「大伯」あるいは「太伯」等と書き、「おおく」「おおはく」「おおあく」などと呼ばれていた。土師氏の出所は、やはり中国の戦国時代の呉の子孫なのだろうか。土師氏の祖は、『日本書紀』によると、出雲の勇士として扱われ、勇名をはせたヤマト王権の当麻蹴速と角力(相撲)を取らせて勝利したアメノホヒの末裔、野見宿禰です。野見宿禰は、その後垂仁天皇に従え、皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風新宮宮内遺跡習に代わる埴輪の制を案出した。それから、野見宿禰は現在の兵庫県たつの市(播磨国立野)で死去しています。そのたつの市には弥生時代中期を盛期した大規模集落の新宮宮内遺跡(たつの市新宮町新宮・宮内)があり、その遺跡に三角縁神獣鏡が発見された播磨の最古の古墳、吉島古墳(たつの市新宮町吉島)があります。でも、この吉島古墳には、埴輪が発見されていません。たつの市御津町にある3世紀後半の権現山51号憤には埴輪が発見され、あの箸墓古墳も埴輪が。埴輪の起源は、吉備の都月坂1号墳とされ、矢藤治山古墳や中山茶臼山古墳であり、殉死の代わりに埴輪を使用する傾向は、早急に吉備から播磨へ、そしてヤマト王権の纒向に普及していった。埴輪が前方後円墳に存在したことは、その地に大王の存在があり、配下に部下がいた国家としての形態が整っていたと考えられます。もう一つ不思議なことには、たつの市御津町の権現山51号墳を除いて、最古の埴輪である都月形円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていて、この辺りをどのように考えるか。ヤマト王権が邪馬台国を滅ぼし、三角縁神獣鏡を奪い取り、各地の大王を征圧して、配下においたために、三角縁神獣鏡を与えたとも考えられ、そのヤマト王権の配下にあった地方国家では、埴輪を製作する必要がなくなったのか。或いは、ヤマト王権から派遣された重臣の古墳であるために、三角縁神獣鏡は発見されても埴輪がない。そんなことが推測されます。
都月形円筒埴輪
2017年9月10日

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