楽浪郡は、中国が前漢の時代に朝鮮半島を支配していた衛氏朝鮮を紀元前108年に滅ぼして、現在の北朝鮮の平壌辺りに中国の出先機関として設置し、植民地支配を行った。その当時の日本は、稲作も西日本では行われていたし、紀元前200年代の中程には秦の始皇帝の依頼を受け、徐福が不老不死の霊薬を求め、3,000人ほどを山東半島から船で日本に渡ってきていた。その時に日本に稲作技術だけではなく、多くの技術者も含まれていたので結構な先進国だったと思われます。また、徐福が日本にやって来る前からも浙江省や河北省辺りからも日本にやって来ていました。そして、玄界灘を挟んで北九州と南朝鮮を行き行きし、一つの文化圏を築いていました。それが中国から見た倭国です。実際には、楽浪郡が設置された頃には、北九州にもいくつかの小国が存在し、南朝鮮にもその当時の日本人(倭人)の小国がたくさんありました。元々、東シナ海を渡ってきた海人族ですから、中国の事情や朝鮮の状況も把握していたでしょうし、日本と朝鮮の交流も盛んだったと思われます。そして、楽浪郡を通して漢国との交渉もできたと思います。奴国が楽浪郡に使者を送り、紀元57年に後漢の光武帝から「漢委奴国王印」の金印を奴国の王に与えられたのも察しが付きます。その当時には、たぶんヤマト朝廷は存在していなかったと思われます。ヤマト朝廷は、紀元100年代の後半の50年間におこった倭国大乱の後、地方で勢力の統合政権ですからね。
楽浪郡は、後漢が滅亡した後も三国時代の魏が引き継ぎ、邪馬台国の卑弥呼が238年に帯方郡に難升米と都市牛利を派遣したこともあったが、魏が265年に滅び、河内郡(現在の河南省)出身の司馬炎が晋を建国し、楽浪郡を引き取ることになった。しかし、その晋の内部で司馬炎が死去した290年に八王の乱がおこり、晋が衰退する。その機会に高句麗が313年に楽浪郡を崩壊してしまった。その当時の楽浪郡は、河南省など出身の官僚や学者がたくさんいて、高句麗の攻撃を避けて南下し、百済に助けを求めて第11代比流王が引き取っている。その頃の日本は、第14代仲哀天皇の時代で、三韓征伐で新羅攻めをしていた。神功皇后が活躍した時代ですね。この新羅攻めは、昔から住んでいる倭人の救済のため、またそれらの倭人とも交流があった百済を応援するための戦いでした。
第15代応神天皇の時代になって、百済の第13代近肖古王も新羅とは同盟関係を結びつつ、高句麗との抗争を続け、東晋、百済、倭とのラインで対抗しようとしていました。そして、第13代近肖古王は、物部氏の石上神宮に保管されている七支刀を倭国に贈っている。また、その頃まだ文字がなかった百済に河北省出身の高興が百済に帰化し、文字を伝えた。その直後の404年に近肖古王は、阿直岐(阿知吉師)を倭国に送り、応神天皇に馬1つがいと『論語』『千字文』を献上し、王仁(和邇吉師)と近仇首王の孫の辰孫王を日本に遣わした。この阿知吉師は、後世の東漢氏で蘇我氏の軍事武官として存在し、蘇我馬子の命により第32代崇峻天皇を殺害した東漢駒が。また、平安時代に第50代桓武天皇の命で征夷大将軍になって蝦夷征圧をおこなった坂上田村麻呂がいます。和邇吉師が日本で最初に文字を伝えた人で、楽浪郡から流れてきた王氏。辰孫王の子孫の王辰爾は、第30代敏達天皇の時代に誰も読むことのできなかった高句麗の上表文を解読したことにより敏達天皇と蘇我馬子から賞賛された。船氏や菅野氏の祖です。
2016年7月16日
原始ブログ集まれ。
隠された古代史を探索する会
楽浪郡は、後漢が滅亡した後も三国時代の魏が引き継ぎ、邪馬台国の卑弥呼が238年に帯方郡に難升米と都市牛利を派遣したこともあったが、魏が265年に滅び、河内郡(現在の河南省)出身の司馬炎が晋を建国し、楽浪郡を引き取ることになった。しかし、その晋の内部で司馬炎が死去した290年に八王の乱がおこり、晋が衰退する。その機会に高句麗が313年に楽浪郡を崩壊してしまった。その当時の楽浪郡は、河南省など出身の官僚や学者がたくさんいて、高句麗の攻撃を避けて南下し、百済に助けを求めて第11代比流王が引き取っている。その頃の日本は、第14代仲哀天皇の時代で、三韓征伐で新羅攻めをしていた。神功皇后が活躍した時代ですね。この新羅攻めは、昔から住んでいる倭人の救済のため、またそれらの倭人とも交流があった百済を応援するための戦いでした。
第15代応神天皇の時代になって、百済の第13代近肖古王も新羅とは同盟関係を結びつつ、高句麗との抗争を続け、東晋、百済、倭とのラインで対抗しようとしていました。そして、第13代近肖古王は、物部氏の石上神宮に保管されている七支刀を倭国に贈っている。また、その頃まだ文字がなかった百済に河北省出身の高興が百済に帰化し、文字を伝えた。その直後の404年に近肖古王は、阿直岐(阿知吉師)を倭国に送り、応神天皇に馬1つがいと『論語』『千字文』を献上し、王仁(和邇吉師)と近仇首王の孫の辰孫王を日本に遣わした。この阿知吉師は、後世の東漢氏で蘇我氏の軍事武官として存在し、蘇我馬子の命により第32代崇峻天皇を殺害した東漢駒が。また、平安時代に第50代桓武天皇の命で征夷大将軍になって蝦夷征圧をおこなった坂上田村麻呂がいます。和邇吉師が日本で最初に文字を伝えた人で、楽浪郡から流れてきた王氏。辰孫王の子孫の王辰爾は、第30代敏達天皇の時代に誰も読むことのできなかった高句麗の上表文を解読したことにより敏達天皇と蘇我馬子から賞賛された。船氏や菅野氏の祖です。
2016年7月16日
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