いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2016

楽浪郡 楽浪郡は、中国が前漢の時代に朝鮮半島を支配していた衛氏朝鮮を紀元前108年に滅ぼして、現在の北朝鮮の平壌辺りに中国の出先機関として設置し、植民地支配を行った。その当時の日本は、稲作も西日本では行われていたし、紀元前200年代の中程には秦の始皇帝の依頼を受け、徐福が不老不死の霊薬を求め、3,000人ほどを山東半島から船で日本に渡ってきていた。その時に日本に稲作技術だけではなく、多くの技術者も含まれていたので結構な先進国だったと思われます。また、徐福が日本にやって来る前からも浙江省や河北省辺りからも日本にやって来ていました。そして、玄界灘を挟んで北九州と南朝鮮を行き行きし、一つの文化圏を築いていました。それが中国から見た倭国です。実際には、楽浪郡が設置された頃には、北九州にもいくつかの小国が存在し、南朝鮮にもその当時の日本人(倭人)の小国がたくさんありました。元々、東シナ海を渡ってきた海人族ですから、中国の事情や朝鮮の状況も把握していたでしょうし、日本と朝鮮の交流も盛んだったと思われます。そして、楽浪郡を通して漢国との交渉もできたと思います。奴国が楽浪郡に使者を送り、紀元57年に後漢の光武帝から「漢委奴国王印」の金印を奴国の王に与えられたのも察しが付きます。その当時には、たぶ七支刀んヤマト朝廷は存在していなかったと思われます。ヤマト朝廷は、紀元100年代の後半の50年間におこった倭国大乱の後、地方で勢力の統合政権ですからね。
 楽浪郡は、後漢が滅亡した後も三国時代の魏が引き継ぎ、邪馬台国の卑弥呼が238年に帯方郡に難升米と都市牛利を派遣したこともあったが、魏が265年に滅び、河内郡(現在の河南省)出身の司馬炎が晋を建国し、楽浪郡を引き取ることになった。しかし、その晋の内部で司馬炎が死去した290年に八王の乱がおこり、晋が衰退する。その機会に高句麗が313年に楽浪郡を崩壊してしまった。その当時の楽浪郡は、河南省など出身の官僚や学者がたくさんいて、高句麗の攻撃を避けて南下し、百済に助けを求めて第11代比流王が引き取っている。その頃の日本は、第14代仲哀天皇の時代で、三韓征伐で新羅攻めをしていた。神功皇后が活躍した時代ですね。この新羅攻めは、昔から住んでいる倭人の救済のため、またそれらの倭人とも交流があった百済を応援するための戦いでした。
 第15代応神天皇の時代になって、百済の第13代近肖古王も新羅とは同盟関千字文係を結びつつ、高句麗との抗争を続け、東晋、百済、倭とのラインで対抗しようとしていました。そして、第13代近肖古王は、物部氏の石上神宮に保管されている七支刀を倭国に贈っている。また、その頃まだ文字がなかった百済に河北省出身の高興が百済に帰化し、文字を伝えた。その直後の404年に近肖古王は、阿直岐(阿知吉師)を倭国に送り、応神天皇に馬1つがいと『論語』『千字文』を献上し、王仁(和邇吉師)と近仇首王の孫の辰孫王を日本に遣わした。この阿知吉師は、後世の東漢氏で蘇我氏の軍事武官として存在し、蘇我馬子の命により第32代崇峻天皇を殺害した東漢駒が。また、平安時代に第50代桓武天皇の命で征夷大将軍になって蝦夷征圧をおこなった坂上田村麻呂がいます。和邇吉師が日本で最初に文字を伝えた人で、楽浪郡から流れてきた王氏。辰孫王の子孫の王辰爾は、第30代敏達天皇の時代に誰も読むことのできなかった高句麗の上表文を解読したことにより敏達天皇と蘇我馬子から賞賛された。船氏や菅野氏の祖です。
2016年7月16日

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菖蒲 端午の節句は、新暦では5月5日でこどもの日ですが、旧暦では午の月の最初の午の日と定めていました。新暦に直すと丁度菖蒲の咲く頃で、菖蒲の節句とも言われます。6月の最初の午の日ですね。日本では、梅雨に入るころで田植えをする前に家で女性たちが穢れを祓い、身を清める儀式でした。この風習はすでに奈良時代からあったようで、平安時代には、宮中の大内裏の馬場や宴の松原にある武徳殿で、菖蒲を髪飾りにした人々が天皇から薬玉を賜ったという行事が宮中で行われていました。武家の世になった鎌倉時代から菖蒲が端午の節句と関わりがあることだけが残り、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになり、兜や鎧や刀がこの端午の節句の頃に飾られるように。その時もまだ旧暦の5月5日ですね。鯉のぼりは、江戸時代から関東の風習として現れ、その当時の上方にはまだ鯉のぼりは庭に揚げられていなかった。この鯉のぼりを揚げる風習は、平安時代の平将門の頃にも揚げられていました。それも中国の『後漢書』に「鯉の滝登り」という話があり、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切った話。そして、龍になることができたことにちなんで立身出世の象徴という話から、江戸時代の武士の庭に鯉のぼりが揚げられるようちまきと柏餅になった。また、端午の節句には、ちまきや柏餅が和菓子として。この柏餅も江戸時代の徳川九代将軍家重の時代に生まれた和菓子で、カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」ということから用いられるようになりました。ちまきは、平安時代から餅米、藁灰や木灰を水に浸した上で上澄みをすくった液、灰汁で煮込み、できたちまきを菖蒲の葉で包んで作られていました。このちまきは日本独自のものではなく、中国から平安時代に伝わった。
 端午の節句は、おそらく『日本書記』にあるように第33代推古天皇の時代に百済から学僧、観勒が中国南北朝時代の南朝の宋の天文学者、何承天が編纂した暦法、元嘉暦を日本に伝えたのが始まりだと思います。中国の南北朝時代の南朝の梁の昭明太子が編纂した『文選』に掲載されている中国の戦国時代の楚の屈原が、主君である懐王とその子である頃襄王の対外政策に異を唱えたため宮廷を追われ、長江より南の汨羅江河畔の玉笥山に流され、紀元前278年に楚の都、郢(現在の湖北省江陵県県内)が秦軍に攻め落とされると、屈原は国を救う望みがなくなったことを感じ、旧暦5月5日の端午節に『懐沙』を書き、汨羅江に身投げした。この出来事が、端午の節句の中国の起源とされています。この時、入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した。この船がドラゴンボート(龍船)です。このドラゴンボードは現在でも、この地方で旧暦の端午の節句に伝統的な競漕行事が行われ、国際レベルでの近代スポーツとして湖北省宜昌近辺で100kmに亘って揚子江で行われる「三峡ダムラリー」や、50kmのオーストラリアのオード川相生のペーロン祭マラソンなどの耐久レースも行われている。弥生時代に日本に渡って来た渡来人は、このようなドラゴンボートを使用して、東シナ海を艪で漕いでやって来たのでしょうね。日本でも端午の節句にドラゴンボードを漕いで競技をするお祭りが、1400年頃に沖縄の南山王の弟汪応祖が中国の南京に留学し、帰国後豊見城の城主となり、中国で見た龍舟を造って5月の始めに城下の江で競渡をしたのが始まった爬竜(ハーリー)祭があり、1655年に数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにドラゴンボードの競漕を港内で行いました長崎や1925年に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられた兵庫県相生市のペーロン(白竜)祭がありますね。
2016年6月26日

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タケミカヅチとタケミナカタ 日本神話でタケミカヅチが最初に出てくるのは、イザナミが火の神カグツチを出産した際に出産時に陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナキがカグツチを十拳剣(天之尾羽張或いは、伊都之尾羽張という)で殺害し、その血からタケミカヅチが生まれる。神産みの話ですね。その後、国譲りの話でタケミカヅチが登場します。アマテラスが葦原中国(出雲)を平定するため、高天原からアメノホヒ、アメワカヒコを派遣するも上手くいかず、オモイカネに相談する、そしてアメノオハバリは自分の子であるタケミカヅチを推薦し、葦原中国に派遣される。そして、オオクニヌシと交渉して、オオクニヌシは、子供のコトシロヌシとタケミナカタが同意したら葦原中国を譲るということになった。そして、コロシロヌシは承諾し、タケミナカタはタケミカヅチに力比べをもちかけ、タケミカヅチの腕をつかんで投げようとした。これが相撲の起源となっている。そして、タケミカヅチが剣を手にしたので、タケミナカタは投げられずに諏訪まで逃げた。タケミカヅチが諏訪までタケミナカタを追いかけ、諏訪で捉えたので殺害しようとしたが、タケミナカタは諏訪から出ないと訴えたので、タケミカヅチは了承し、オオクニヌシのもとに戻って、出雲の国(葦原中国)を譲り受け、その代わりに出雲に天まで届くような宮殿を建築した。これが出雲大社の原型になります。
 このような神話が『古事記』に記載されています。実際はヤマト朝廷が出雲を侵略し、出雲を政権化に取り入れた話で、第10代崇神天皇の時代から或いは、第29代欽明天皇の時代から伝わる話を神話として処理し、第40代天武天皇の意向で藤原不比等が中心になって作り上げた。ここで、タケミカヅ金錯銘鉄剣チは元々、神武天皇の子、神八井耳命の子が多氏の祖となり、五世孫の健磐龍命が崇神天皇から阿蘇国造の職を与えられ、阿蘇氏となった。また、健磐龍命の第二子の健稲背命が科野国に、そして、第13代成務天皇の時代に健稲背命の子孫、五百建命が科野国造の職に就いています。崇神天皇以前の系図では、多氏は皇族の系列になっていますが、大化の改新以前の官職、国造はヤマト朝廷を支持する地方の豪族に与えられたもので、関東一圓に九州の多氏とは別の大きな集団が存在していたと思われます。その関東の多氏が最初は、茨城県鹿島市の鹿島神宮でタケミカヅチを氏神として祀っていた。また、『日本書記』にタケミカヅチが諏訪までタケミナカタを追いかけるのに同行した神としてフツヌシがいます。このフツヌシを祀っているのが鹿島神宮の近くの千葉県香取市の香取神宮で、この神宮も元々は多氏が所有していた神社でした。1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)は、多氏が第21代雄略天皇から頂戴した刀です。稲荷山古墳も多氏の大王の墓なのでしょう。そして、欽明天皇の時代になって、健磐龍命の七世後の金弓君が欽明天皇から金刺舎人の姓を賜り、子孫はそれぞれ諏訪大神大祝、諏訪評督、伊那郡主帳などを世襲し、諏訪氏になっていきます。
 諏訪大社に祀られているタケミナカタは、元々、縄文時代よりこの諏訪湖周辺に生活していた縄文人の土着神の要素も含め、弥生時代にこの諏訪の土地で鉄の生産をはじめた新諏訪人が持ち込んだ神で、その諏訪地方を多氏が治めるようになった。関東に勢力を持っていた多氏が諏訪湖周辺に結集することになり、常陸国のタケミカヅチを祀っている鹿島大社や香取神宮は、中臣氏が関東にも勢力を広め、多氏から奪い取ることになったのでは。『古事記』は、出雲のオオクニヌシの子のタケミナカタがタケミカヅチの国譲りに反対して、諏訪湖に逃げ込んだという話を盛り込んでいますが、『日本書記』や『出雲国風土記』にはこの話が削除されています。これは、多氏出身の太安万侶が『古事記』を編纂したので、関東の多氏が関わった諏訪に伝わる神話を盛り込んだのではないかと思われる。また、その当時、藤原不比等もこの『古事記』の編纂に関わっていたので、藤原氏の氏神として常陸国の鹿島神宮にタケミカヅチが祀られていたこともあって、タケミナカタとタケミカヅチの話を『古事記』に掲載したのではないだろうか。
2016年6月19日

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縄文時代の人口密度 戦後71年を経過して、大地震(マグニチュード6.8以上)と言われたのが南海道地震(1945年12月)、福井地震(1948年6月)、新潟地震(1964年6月)、十勝沖地震(1968年5月)、日本海中部地震(1983年5月)、阪神・淡路大震災(1997年1月)、東日本大震災(2011年3月)、熊本地震(2016年4月)などの地震が36カ所も起こっています。地震は、地球の表層の岩盤(プレート)が移動することによって起きます。そのプレートの移動は、地下にあるマグマが上昇して。火山も同じで地下のマグマの活動が活発になり、地上にマグマが吹き出してくる状態になり、噴火しますと粘性の低い玄武岩や高い流紋岩(花崗岩)が、或いは玄武岩と流紋岩の中間の安山岩が流れ出してきます。この流紋岩の種類のひとつがガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面で、ナイフや鏃、槍の穂先などの石器、黒曜石も含まれています。
 日本では、火山国ですのでこの黒曜石がたくさん産出した。また、日本の旧石器時代では、120,000年前の出雲の砂原遺跡や90,000年前から80,000年前の岩手県の金取遺跡など、北海道から九州にかけて5,000カ所を超える遺跡から石器が発掘されています。その頃には旧人、ネアンデルター人が日本にはいたのでしょうね。長野県飯田市の竹佐中原遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。この石器は、50,000年前~30,000年前のものとされていて、後期旧石器時代(40,000年前~10,000年前)には新人、クロマニョン人が日本にもいたのでしょうね。このように日本には30,000年も前から人類が日本各地で生活していました。この当時は、日本も東シナ海が陸続きで、松や杉などが西日本でも繁殖し、旧石器人は洞窟で、狩などをして生活していたと思われます。しかし、日本は火山国です。29,000年前~26,000年前に九州、鹿児島の姶良大噴火(鹿児島湾と桜島)が起こり、最初は桜島付近で大噴火が発生し、軽石(大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。続いて数回にわたって火砕流(妻屋火砕流、垂水火砕流)が姶良カルデラ発生し、カルデラ周辺に粒の細かい火山灰が降り積もった。ここで一旦、数ヶ月程度活動が中断した後、破局的な巨大噴火が発生。それにより、最後にカルデラ北東部の若尊付近から大量の軽石や火山灰が一度に噴出した。噴出物は巨大な火砕流(入戸火砕流)となって地表を走り九州南部に広がっていった。一方、空中に吹き上げられた火山灰は、偏西風に流されて北東へ広がり、日本列島各地に降り積もった。関東地方で10cmの厚さの降灰があったとされている。このことにより、旧石器人が大量になくなった。
 20,000年前頃から、世界的な寒冷化(ヴュルム氷期)が徐々に緩んできて、亜熱帯地域から日本に偏西風が吹くようになり、温帯の広葉樹が九州から西に生えるようになり、サクラをはじめとした葉が落ちてそこに果実がみのる、食料となるクルミやドングリが生殖するようになって、狩猟採取の縄文時代が16,000年前位から始まる。縄文時代前期(6,000年前)の岡山県の彦崎貝塚の土器胎土内からプラント・オパールが発見されていることから、稲も日本に広葉樹とともにやって来てかも知れませんね。縄文時代早期や前期には九州や四国・中国鬼界アカホヤ地方にも縄文人がたくさん生活していました。しかし、約7,300年前に起きた鬼界カルデラの大噴火により、上空に噴き上げられてから地上に降下した鬼界アカホヤ火山灰は、偏西風にのって東北地方まで到達し、九州南部において地下の比較的浅い場所に厚さ約1mの層をなし、四国、中国地方西南部および紀伊半島の層として確認することができ、種子島では、20~40cm、琵琶湖では3~5cmの厚さがあった。そのため、その当時に居住していた西日本の縄文人は、生活に大打撃を受け、影響の少なかった東日本に移動。そして、青森の三内丸山遺跡のような繁栄を築いた。縄文時代早期から前期にかけて気候がまだまだ安定せず、7,000年前から5,000年前にヒプシサーマル(気候最適期)と呼ばれる時期になって、東北地方でも気候が安定し、暖かくなったので、三内丸山遺跡のような文化が花を開いた。その当時、西日本では鬼界アカホヤ火山灰の影響がまだまだ残酷に残っていた。
2016年6月4日

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纒向遺跡出土の木製仮面 現在では、仮面は仮装パーティーなどでかぶって、他の人に顔を隠し、誰だかわからないようにしている。このような用途で使用される仮面は、覆面のようそが多いですね。古代の仮面はそのような要素ではなく、宗教的要素が含まれ、仮面には神とか精霊とかの意味合いが含まれていたようです。現在でも、アフリカに行くとそれぞれの地域に住む部族が、祭祀のために、それぞれ独特の仮面を作ってダンスをしている様子が見掛けられます。日本にも古くは、土偶という形で縄文時代後期前半の約4,000年前に長野県茅野市の中ッ原遺跡から「仮面の女神」が発見されています。その当時の縄文人が祭礼のためにこのような土偶を製作したのでしょう。また、2007年に奈良県桜井市の纏向遺跡から出土したヤマト朝廷が始まった3世紀前半の木製の仮面もありますね。
青銅縦目仮面 日本で「仮面の女神」が作られている頃、中国四川省辺りで独特の青銅器で作られるようになり、四川省広漢市の三星堆遺跡の「青銅縦目仮面」は、大きな耳と、奇妙に突き出し眼を具えたいかにも神の顔と言わんばかりの仮面です。この仮面は、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つで、3,200年前頃に製作された。三星堆文化は、約5,000年前から約3,000年前頃に栄えた古蜀文化とも言われ、この青銅縦目仮面が製作された頃、中国では殷王朝が弱体し、周王朝に移行する頃で、四川省一帯は、古蜀王国が栄えていました。古蜀王国は、東の巴、南の越、北の秦、西の峨眉山に接し、東から苗族によって稲作が入り、北から遊牧民の侵入と共に青銅器の技術が入り、南から揚子江も含めた漁業の技術が入り瀘沽湖で、西には峨眉山という霊山が。その西には羌・氐の民族が存在した。古蜀王国の人達は、養蚕・農業・漁業で生計を立てていたと言われます。そして、2,800年前に古蜀王国は秦によって滅ぼされてしまいます。
 宗教的要素を含んだ仮面を付けて舞を踊るようになるには、仏教の伝来をまたねばなりません。三星堆遺跡の「青銅縦目仮面」の様相を見てもわかるようにアーリア人種系の顔をしていますね。西域から伝わった大乗仏教の仏像もアーリア人種系。この大乗仏教が、四川省から南はベトナム北部、揚子江沿岸の浙江省、江蘇省に、そして、河南省、河北省、山東省と広がっていった。この仏教の伝道とともに仏像も同じ経路で広がり、仏師が仮面を作るようになった。この仏像を作る技術は、四川省の「青銅縦目仮面」の技術の応用ではないかと思っています。
酔胡王 仏教の伝道に伴って、仮面をかぶって踊る寺院楽も発達してきました。その中には、笛、三鼓、銅拍子の演奏だけで舞う伎楽が行われるようになり、日本にも第29代欽明天皇の時代、550年頃に中国の三国時代(184年~280年)の呉国王の血統を引く和薬使主が伎楽の調度一式を日本へもたらした。そして、第33代推古天皇の時代の612年に百済の味摩之が帰化して、中国の南部に呉楽(伎楽)を習得に行き、大和の桜井に少年らを集めて伎楽の舞を教えたとあります。それ以前からも散楽や雅楽も伝わっていますが、736年にはベトナムの僧、仏哲が736年に唐の僧道璿等とともに来日し、大宰府を経て都に入り、聖武天皇の信頼篤く、752年の奈良東大寺大仏完成時の法要で舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった舞や林邑楽(インド系雅楽の楽種の一つ)を伝えた。この東大寺盧舎那仏像開眼供養会には、散楽や伎楽も奉納されていま獅子面す。その時の伎楽の仮面が奈良の正倉院に保管されていて、泥酔した胡(古代ペルシャ)の王という設定で、高い冠をかぶっている酔胡王や現在の獅子舞の頭(かしら)によく似ている師子も保管されています。
 奈良時代後期から平安時代には、神事や宮廷での舞踊劇は雅楽が主流となり、散楽は宴席で余興的に行われるようになり、散楽戸の廃止で朝廷の保護を外れたことにより、散楽は寺社や街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れるようになっていった。そして、猿楽や田楽などに吸収され、江戸時代に諸国を旅していた旅芸人、傀儡(人形)師に変化していく。能や歌舞伎や人形浄瑠璃などですね。伎楽は、正倉院に保管されている師子のように大宝律令に定められ
岡山県の宮原獅子舞た雅楽寮に伎楽師として雅楽とともに保護されたが、伎楽は散楽との関係も深く、伎楽の崑崙の「マラフリ」や、波羅門の「ムツキアラヒ(褌を洗う所作)」は猿楽に受け継がれ、伎楽の伴奏の多くは雅楽のレパートリーに取り入れられ、伎楽そのものは鎌倉時代には衰退していくが、各地の獅子舞は伎楽の流れをくんでいるといってよいでしょう。
2016年5月3日

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