いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2016

青森県大平山元遺跡の土器の破片 土器が世界中で発見されている中で、2009年に青森県大平山元遺跡から発見された土器の破片を放射性炭素年代から推定すると、16,500年前と言われ、その当時、世界の最古の土器と言われました。しかし、その後、中国の江西省の洞窟遺跡から20,000年前~19,500年前の土器が発見され、現在のところ、この土器が最古の土器となっています。
 土器は、乾燥させた粘土を加熱すると、残った水分が蒸発した後、カオリナイトが還元され、573℃で石英の結晶が変形して全体が膨張する。更にカオリナイト以外のケイ酸塩の還元が進ん河西省の洞窟遺跡の土器の破片だ後、冷却することで石英の収縮によって全体がしまって、強度が高められて、焼結が完了する。このように粘土を加熱すれば土器ができることを新石器時代や縄文時代の人々は知っていました。そのような人が土器を使用していたのか。それは、狩猟してきたシカやイノシシの肉、タンパク質を生肉として食べるのではなく、採取してきたクリやドングリなどの果実ら山菜や根菜など植物性食用、炭水化物を土器の中に入れて煮て食べていたのですね。現在でも私達が土鍋で鍋物を食べているのと同じことをその当時のひとが行っていた。
 人類は、300万年前から250万年前にアウストラロピテクス・アフリカヌスという類人猿が2足歩行をするようになり、火をおこして氷河期を洞窟などで体を温め、夜猟もおこなったりすることが出来るようになったのが、南アフリカ、スワルシクランス洞窟の150万年前や東アフリカのケニア、チェソワンジャ遺跡の140万年前のホモ・エレクトスの時代だと言われています。この150万年前のホモ・エレクトスの脳のサイズは、900ccで、250万年前のアウストラロピテクス・アフリカヌスが400ccでしたから2倍以上増えています。脳のサイズを増やすには、大量のカロリーが必要で、肉食中心のタンパク質を大量に摂取したからと言って増えるものではありません。植物系の炭水化物が必要でした。根菜類やクリ、ドングリと言った植物は、そのままでは食べることができません。そこで、煮ることができる土器が必要だったのです。ネアンデルタール人の時代になると脳のサイズは、1500ccにまで増えて現在のホモ・サピエンスとほぼ同量まで成長しています。人類が最初に火を発見したのは、野原で草木などが燃える火事が起こり、その後でドングリなどがその火事で実が柔らかくなって食べることができるようになったことを知ったからだと思われ、火を起こすことを発見した。この火を起こしていたと言う遺跡がチェソワンジャ遺跡で、142万年前の赤粘土製の土器のようなものも見つかっている。ホモ・エレクトスが火や土器を使っていた証拠になっています。イスラエル北部ゲシャー・ベノット・ヤーコブ遺跡で、ホモ・エレクトスかホモ・エルガステルが79万年前に焼けた火打ち石で火をおこして、焼け焦げた石器の炉で、オリーブ、大麦、ブドウの種などの焼けカスが発見されていることから、火を使って肉や植物の食生活していたのでしょうね。
縄文時代の鍋料理 土器の発明が、現在私達が食べている鍋料理のはじまりですね。縄文時代の人々も家族を囲んで、また、ある集団を結成して集落の起源かも知れないですが、狩猟と植物の採取を役割分担して、火を炉で起こし、土器に硬い食材や生肉を入れて、海水で塩を作り、貝を海辺で採取し、煮て食べていた。昔も今も、鍋料理は消化吸収をよくし、貝から出た、または、肉から出た汁に溶け出した栄養素ももれなくいただく。人間のすばらしい知恵ですね。それが、16,500年前の青森県の人達が行っていたことは驚きです。
2016年10月23日

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 三内丸山遺跡では土偶や新潟の糸魚川の翡翠が発見され、5,500年前~4,000年前の冷寒期まで東北の青森でその当時の縄文人が栄えていた。この縄文人は、クリなどを栽培し、イノシイやシカを狩猟し、タイ、スズキ、タラや遠海魚のマグロ、カツオなども漁労していたと思われます。また、その当時は青銅器も鉄器もない時代でしたから、刃物は石器に頼らなければならない時代で、丸太舟に乗って、太平洋の伊豆諸島の神津島や恩馳島まで、日本海では、島根県の隠岐島まで足を伸ばして、黒曜石を採取していたようです。
花山文化圏
 この三内丸山の繁栄した頃、中国の北京の近くの遼寧省で遼東文明の紅山文化が花を開いていました。この玉製の猪龍(耳飾り)紅山文化は、6,700年前~4,900年前に存在した文化で、その中心的存在が牛河梁遺跡で、その遺跡は5,500年前~5,000年前に遼寧省のLaoha川とYingjin川の中・上流に沿って存在していました。この地域は、春秋時代に殷王朝の支族である墨胎氏が狐竹国を支配していた。そして、狐竹国は戦国時代に燕に滅ぼされた。この三内丸山遺跡と牛河梁遺跡が存在していた年代が同じ頃という共通点だけでなく、同じようにクリが栽培されたナラ林文化圏ですし、緯度も同じぐらいです。そして、紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省にかけての興隆窪文化(8,200年前~7,400年前)の沿線上にあり、龍が出現する文化であり、翡翠などの玉製品も受け継いでいます。牛河梁遺跡で出土した玉製の猪龍(耳飾り)もそのひとつです。また、原始的宗教の祭典に使ったのだろうか、女神頭像には、緑色の円をギラ女神頭像ギラした目を細工してあり、その目玉には翡翠が使用されています。ということは、牛河梁遺跡の人達はモンゴロイドのモンゴル系民族だけではなく、コーカソイド系も混じっていたことになります。Y染色体からするとモンゴル民族やツングース系の民族にパブログループC2の人やパブログループNOから分かれた北ヨーロッパからシベリアのユーラシア大陸の北部の民族が所有しているパブログループNや長江付近の民族やオーストロネシアの民族に含まれているパブログループOが牛河梁遺跡の人達に含まれ、特に、パブログループN1が60%も。シベリア大陸から南下してきた人達の血がながれているのですね。日本人全体では、このパブログループN1は1~2%の微量ですが、三内丸山遺跡がある青森では、7.7%も占めているのです。
河姆渡遺跡の__床住居 このように考えると、縄文時代にも渡来人が日本にやって来ていることになりますね。牛河梁の人達は、ロシアの西サヤン山脈や中国の新疆ウイグル自治区から産出される翡翠を知っていたのですね。そして、遼寧省のLaoha川とYingjin川から渤海に出て、朝鮮半島の南端から対馬海流で北に流され、そして、糸魚川の翡翠を発見し、また、対馬海流に流され、青森の三内丸山に着いた。そこで、1,500年の間に500人もの集落を作り出した。三内丸山遺跡にある掘立柱建物も彼らが築いたのでしょう。遼寧省の興隆窪文化が、揚子江周辺の浙江省に河姆渡文化(7,000年前~6,500年前)に影響を与え、その遺跡には干欄式建築(髙床式住居)が発見されている。この髙床式住居も牛河梁で作り出された紅山文化のもととなった興隆窪文化が南下して、揚子江周辺に伝わった。そう考えると三内丸山遺跡の髙床式住居もその当時の遼寧省の人達が青森に上陸して、三内丸山の縄文文化築いたのではないだろうか。
2016年9月22日

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骨で作られた石器時代の釣り針 日本は周囲が海に囲まれていますので、貝殻、獣や魚の骨とか石器や土器の破片などが捨てられていた貝塚の遺跡が各地に残されています。縄文時代の貝塚は、日本全国で2,500カ所もあり、その四分の一が東京湾の東沿岸一帯に。その他に太平洋沿岸の大阪湾と仙台湾にも残されています。日本列島はイメージ 1酸性の土壌なので、人骨や獣骨や魚骨などの有機物が残りにくい。しかし、貝殻は炭酸カルシウムが多く含まれているため、その地の土壌が中和され、土壌がアルカリ性を保っています。1915年には岡山県の縄文時代晩期の貝塚、津雲貝塚から170体もの縄文人の人骨が発見されたこともあります。貝塚で最も古いのは、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、紀元前7,500年の縄文時代早期・初期で、夏島貝塚の第一階層には、貝類だけでなくクロダイ、ススキ、ボラ、コチ、ハモなどの骨が見つかり、その魚を釣り上げる釣り道具としてモリやヤスの突き漁、小型の骨製U字型釣り針や網も発見されています。また、マグロやカツオのような骨も見つかっていることから、縄文人は丸太舟で捕漁をしていたのでしょうね。さらに、夏島貝塚の貝層下(ローム層)からは、ドングリやクルミを砕くための石器やすり潰したりする石皿や磨石などの石器が発掘され、中にはシカやイノシシの骨や骨角器の釣り針も発見されました。縄文時代より前の新石器時代にはすでに骨角器を使った釣り針で魚を捕っていたのですね。世界的に人類が釣りをはじめたのは、約40,000年前からと言われています。
木彫太公望 中国の故事に太公望の逸話が残され、日本でも釣り好きの方を太公望と呼んだりしていますね。中国の殷王朝が周王朝に移行した時代に、当初は殷の重臣で兵法に優れた呂尚という人物がいました。その呂尚は、中国の兵法書の武経七書の一つ『六韜』の著者で、殷の最後の皇帝、帝辛(紂王)に仕え、東方の部族の鎮圧に兵を挙げて戦っていた。そんな時、帝辛は、神への祭祀をおろそかにし、重税をかけて天下の宝物を自らの物にし、愛妾の妲己に溺れ、日夜宴会を開いて乱交にふけっていた。箕子朝鮮を建国した帝辛の甥であった箕子もそのことに嫌気をさして、檀氏朝鮮を滅ぼした。呂尚も帝辛から離れ、陝西省宝鶏で余勢を釣りなどして過ごしていた。そこに、後の周王朝の始祖であり、その当時はまだ帝辛に仕え、儒教の基本書籍である五経の一つ『周易』の著者、文王が黄河の支流、渭水で釣りをしていた呂尚の前に現れて、「私の太公(周の創設者の古公亶父のこと。或いは三男の季歴で文王に父)が待ち望んだ人物だ」と訴えた。そして、呂尚に仕えるようになる。そのような逸話から、釣り好きな呂尚を太公望と呼ばれるようになった。そして、呂尚は文王の子、周王朝の創設者武王と殷を滅ぼし、武王から営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地を与えられる。営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防ぎ、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にした。また、この地は農業に適していないので、漁業と製塩によって斉は国力を増した。
斉の刀幣 斉は、周から春秋時代を経て、領土を拡大し、塩の生産だけでなく、鉄の生産地でもあったため栄え、刀の形状を模した青銅の紙幣、刀銭も斉を中心に燕や越でも使用された。戦国時代には紀元前672年に陳から亡命してきた田完(陳氏=田氏)の血筋の田和(太公)が呂尚から続いた王権を奪ったが、秦の始皇帝に滅ぼされるまで田斉として生き残った。
 日本でも、陳さんや田さんという苗字がありますね。この人達の祖先は、たぶん斉の国、山東省から日本にやって来た渡来人なのでしょうね。日本で何故、釣り好きの人を太公望と呼んでいるのは、この呂尚の説話が原点となって。では、どうして日本に太公望という名称が伝わったのでしょうか。遠い昔、中国の山東半島から日本に漁業の技術や製塩技術や青銅器・鉄器の技術を伝えた人達が、斉の国の渡来人だったかも知れませんね。
2016年9月17日

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 お酒の起源は、人類が誕生した200万年前よりもさらに古く、ワインの原料であるブドウは、6,000万年前の化石から発見され、その頃の地球に存在していた微生物と結合して原始ワインが地球上にあったと思われます。人がそんなお酒があることを発見したのは、地球の氷河期が終り、温暖化してきた14,000年前の狩猟時代にクマに荒せれていたミツバチの巣に雨水が溜まって、その水を飲んだのが最古のお酒だと言われています。ワインよりも古い蜜蜂酒ですね。人為的に作られた果実酒としては、紀元前7,000年頃の中国の賈湖遺跡から発掘された陶器の破片から米、果実、蜜蜂などで作られた醸造酒の成分が発見されています。日本でも、紀元前1,000年頃の縄文式竪穴から、クワやキイチゴなどの果実の断片や発酵されたものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギが一緒に発見されています。縄文人も果実酒を飲んでいたのでしょう。
どぶろく 日本酒の起源は様々な説がありますが、やはり、稲作技術が中国、特に揚子江周辺から日本にもたらされてからでしょう。最初の日本のお酒は、米と酵母菌(米こうじ)とを混ぜて寝かせ、発酵させた後に絞って作る「どぶろく」でした。清酒が日本に現れるのは、平安時代以降です。現在の日本では、法律上、「どぶろく」の自家醸造は禁止されていますね。平安時代以前にも日本人がお酒を飲んでいたことは、あの邪馬台国の記事が載っている『三国志』の魏志倭人伝では「人性嗜酒」と書いてあり、倭人は酒をたしなみ、「歌舞飲酒」の風習があると記述されている。米を収穫し、豊作を祝って巫女が「どぶろく」を造り、歌って踊って、神に「どぶろく」を供え、みんなで飲んでいたのでしょうね。
 日本神話でお酒の神様としては、酒造の守り神、酒解神(サケトケノカミ)を祀っている京都の梅宮神社があります。この酒解神はオオヤマツミのことで、ニニキが高千穂に天孫降臨したときに現れるコノハナノサクヤビメの父親となる。またもう一人の娘、イワナガヒメは、ニニキが嫌って出戻りになり、その後、出雲に関係があるスサノヲの子、ヤシマジヌミに嫁いでいる。スサノヲもヤマタノオロチを退治するときに八塩折之酒を造らせています。スサノヲの妻のクチナダヒメの両親は、アシナヅチ・テナヅチはオオヤマツミとなっている。オオヤマツミは、また、もう一人の娘、コノハナノチルヒメ(イワナガヒメ)とヤシマジヌミの子、フハノモヂクヌスヌの子孫はオオクニヌシとなっている。このことは、ヤマト朝廷が成立するまでに、オオヤマツミ、スサノヲ、オオクニヌシと言ったもう一つの大きな勢力が存在したことを物語っていると思います。この大きな勢力とヤマト朝廷とが合体したのが、神武東征の際に神武天皇が奈良の纏向一帯に勢力を持った先住豪族が祀っていた大神神社(三輪神社)のオオモノヌシの娘、ヒメタタライスズヒメと神武天皇との婚礼。この大神神社の神、三輪山に供える酒という意味の「神酒」は現代読みでは「ミキ」ですが、昔は「ミワ」と呼ばれていたことからも、この三輪山という地がいかに酒と密接な関係があるかうかがい知ることができますね。
松尾神社に奉納された清酒 オオヤマツミは、全国にある三島神社や大山祇神社で祀られていますが、お酒に関わる梅宮神社のほかに秦の始皇帝の末柄、弓月君の子孫だと言われている秦氏の奉斎社として京都の松尾大社にも祀られています。この松尾大社もお酒の神様として信仰されています。それは、オオヤマツミをお奉りしていることもありますが、第21代雄略天皇の時代に秦酒公という人物が現れ、また、秦氏が酒造技術に優れていたという理由で、松尾大社が酒神と崇められた。この松尾大社には、オオヤマツミのほかにナカツシマヒメ(宗像三女神のイチキシマヒメ)も祀られています。山の神様、オオヤマツミと海の神様、イチキシマヒメとどのような関係にあるのか。そこに、秦氏が絡んで。ますます古代の謎が深まるかぎりです。私は、このオオヤマツミも日本に最初に稲作を伝えた揚子江周辺の民で、日本で勢力を持った集団の象徴だと。秦氏も元々は中国の四川省辺りで秦の支配下にあった民で、揚子江周辺から朝鮮半島経由で日本に渡って来た人達。宗像氏のように朝鮮半島と日本を行ったり来たりしていた海の民の集合体が出雲にも勢力を伸ばし、或いは奈良の纏向一帯に勢力を伸ばしたヤマト朝廷と対比していた集団だと思います。
2016年9月10日

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 日本の神話で、ニニギが天孫降臨して、オオヤマツミの娘のコノハナノサクヤビメと結ばれ、ホデリ(海幸彦)とホヲリ(山幸彦)を産みます。そして、ホデリの釣り針を海でなくしたホヲリが困っているところに現れるのがシホツチノヲヂ(塩椎神)で、ホヲリを竹で編んだ籠の船に乗せ、ワタツミの宮に行かす。そこで、ワタツミの娘のトヨタマヒメと知り合う。また、神武東征の話で、イハレビコ(神武天皇)に東によい土地があると勧めたのもシホツチノヲヂで、多氏や物部氏や中臣氏が東国に進出する時もこの神が先導している。このシホツチノヲヂが塩を伝えたと言われていますが、ヤマト朝廷が東国に進出していくにあたって、稲作の推進とともに塩の製造方法も大きな役割を持っていたことが伺えます。
岩塩 塩は、日本では海から産出すると思われていますが、世界的には岩塩が主流で、ヨーロッパや北アメリカでは岩塩を水で煮込んで塩にしています。岩塩は、地球が寒冷化と温暖化を10万年周期で繰り返し、氷河期に起きた地殻変動などで海水が凍ったまま地上に残され、砂漠の塩湖で水分が蒸発し、塩分が濃縮して結晶かした。地球の温暖化の時期、20万年前頃に出現した人類は、広葉樹の果実で炭水化物、哺乳類の肉、ミルク、魚等でたんぱく質やナトリウムやカルシウムなどのミネラルを摂取できるので、狩を中心に生活を営んでいた。それが、地球の寒冷化が始まり、今まで海であったところが海水の湖になり、海水は水分がなくなり、海水の塩分は岩塩と変化していった。人類は広葉樹の果実を求めて移動を始め、この岩塩を発見したのでしょう。人類が生命を維持するには、水とナトリウムやカルシウムなどのミネラルが必要ですから。約10万年前~5万年前に最後の氷河期が終わってから、食糧を求め、水やナトリウムを求め、大陸内部での生活から海辺での生活をするものもあった。古代中国での塩の産地としては、内陸部では山西省運城市の解州の「塩池」の塩湖や青海省・新疆ウイグル自治区・内モンゴル自治区などの「塩池」や自貢市を中心とする四川省や雲南省には、濃い塩分を含む地下水をくみ上げる「塩井」があり、海岸部では河北省の長蘆塩、山東省の山東塩、江蘇省(長江以北)の両 淮塩、江蘇省(長江以南)・浙江省の両浙塩、福建省の福建塩、広東省の両広塩があります。

 10万年前~5万年前の人類は、狩を中心に生活していたのですが、次第に家畜を飼うようになり、遊牧生活に移っていった。そして、各地の湖や山岳地帯の地下水辺りから塩を発見し、生命の維持のため水と一緒に摂取していたと思います。そして、紀元前12,000年程前から焼畑による陸稲栽培が始まり、紀元前2,500年程前から水田による稲作が始まった。人類は広葉樹の果実から炭水化物を摂取していたが、稲作の発展により米から炭水化物を摂取するようになり、野菜の栽培も始めました。すると、野菜を食べるのに塩が必要になってきます。海岸線で生活しているのであれば、土器に海水を入れ、煮詰めれば塩ができますが、海辺でもなければ、塩池や塩井もない場所に移住している人は塩を求めるようになります。そして、塩の物々交換が始まりました。
盛り塩 前漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)が匈奴との度重なる争いから、国家財政が悪化し、均輸法(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送してその地域の市場に払い下げる)と平準法(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)を唱えた桑弘羊らの意見を取り入れて、塩、鉄、酒を専売制にして財政を立て直した。このように、塩は人が生活する上での必需品であったことがわかります。
 日本では、岩塩や塩湖は存在せず、縄文時代より海水を煮込んで生産する「採鹹」や「煎熬」を繰り返して塩を生産していた。日本は海に囲まれているので、塩の生産は簡単であるように思われるが、不純物も多く含まれるので食用には限られ、瀬戸内海近辺や能登半島付近の海水でしかよい塩、食用塩が取れなかった。それだけ塩は貴重な品物だった。日本では、昔から穢れを祓うのに盛り塩が使われているのもわからなくもないですね。
薄塩焼 縄文時代晩期から弥生時代、古墳時代までの製塩方法は、万葉集などにも歌われています薄塩焼で、藻(ヒジキやアカモクなどのホンダワラ)を焼き、その灰を海水で固め灰塩を作る。そして、灰塩に海水を注ぎ、かん水を採る。藻を積み重ね、上から海水を注ぎ、かん水を得て、これを煮つめる。このような手間のかかるやり方で古代の人は、塩を生産していたのですね。
2016年9月6日



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