いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2016

クリスマス 日本では、クリスマスがイエス・キリストの誕生日であると誤解されています。実際に、イエス・キリストの誕生はいろいろな説がありますが、新約聖書にはイエス・キリストの誕生日に対する記事はありません。また、西暦1年がイエス・キリストが生まれた年。これも事実ではないようです。共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前45年1月1日から使用している太陽暦、ユリウス暦によって西暦1年が設定された。共和政ローマからアウグストゥスが皇帝になりローマ帝国を紀元前27年に建国し、その後ローマ帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂し、284年に東ローマ帝国の皇帝に就いたディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害したこともあったが、テオドシウス1世が392年に東西のローマ帝国の皇帝に就任して、古くからの神々を廃し、キリスト教を国教とした。キリスト教ではユリウス暦を採用していたが、このディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害した年をキリスト教での紀元1年としていた。そして、キリスト教の教義が確立されていく中で、キリスト論や三位一体論の解釈においてさまざまな立場が現れたために、キリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議、第1回ニカイア公会議が325年に小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれた。そこで、イエス・キリストが十字架に架けられ死亡して、3日目に復活する日に復活祭を開催する事も決定され、キリスト教として復活祭にあわせての暦、復活祭暦を採用するようになった。その後、復活祭暦表を改訂するに当たり、525年にスキタイの二十四節気修道僧共同体の一員であったディオニシウス・エクシグウスは、迫害者の名を未来に残すことを嫌い、イエス・キリストの誕生年を西暦の紀元1年にした。キリスト教の暦としてその頃から使用されていましたが、世界的にはまだまだ普及されませんでした。西暦が普及したのは、閏年の問題で1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して、1年を365日にして4年に1回、1年を366日にする閏年を設けたグレゴリオ暦からです。勿論、このグレゴリオ暦もキリスト教の西暦の考え方を継承しましたから、西暦1年はイエス・キリストの誕生日にしていました。
サートゥルヌス グレゴリオ暦で12月25日をクリスマスとして、イエス・キリストの誕生日としたのは疑問で、聖書の中にイエス・キリストが誕生した時に、羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻ったとあり、イギリスの天文学者D・ヒューズが天文現象から考えて、羊飼いの見張りが必要なのは、羊を放牧するのは4月から9月の間で、12月25日では羊は小屋の中で羊飼いの見張りがいらない時期だと主張し、イエスの誕生日は紀元前7年9月15日とする説を発表している。古代エジプトの人達が灌漑による農耕をするに当たって、ナイル川の氾濫の時期を知るために、夜の星、太陽の次に明るい恒星、オリオン座のシリウスの日出直前の出現を観察してエジプト暦(シリウス暦)を作成します。また、古代の人は月が太陽と重なる新月を1日とし、満月になり、また新月になるまでを一ヶ月をして、潮が引き潮と満ち潮が1日に2回繰り返すことから月日を計算し、太陽の日の出と日没の時間から季節を感じていました。そして、一年のうちで一番日の長いのはいつか、一番日の短いのはいつかといっサートゥルナーリア祭た事を、長い年代をかけて見出していった。中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区イメージ 4分手法、二十四節気が考案され、一番日の長い日を夏至、一番日の短い日を冬至とするわけですね。一番日の短い冬至を古代の人は、1年の終りであり、新しい年の始めとしたのです。この冬至の時期がクリスマスと重なります。ローマ神話に出てくる農耕が時を刈り取るという意味も持つサートゥルヌス農耕神を祭るサートゥルナーリア祭(奴隷とその主人がこの期間だけ表面上役割を入れ替えて振舞った)がこの冬至の時期に催された。このサートゥルナーリア祭がクリスマスの起源と言われています。
2016年12月18日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ウルシ 冬が近づく晩秋になれば、紅葉が始まり、落葉が街のあちこちで見掛けます。この落葉をもたらす落葉樹林で、この落葉樹林の林床に生えているのが、落葉高木と言って、春先に花を咲かせ、夏までの間に光のエネルギーで地下の栄養貯蔵器官や種子に栄養素を蓄え、10月頃に果実を実らせ、葉は紅葉し、晩秋に落葉に、その後は春まで地中の地下茎や球根の姿で過ごす。温暖で水分に不足しない環境にある日本には、落葉高木の種類がたくさん生えています。その中にウルシも含まれていて、縄文時代から現代まで生殖している植物。山歩きをしていて、アレルギー症の方は、ウルシの葉に触れたり、近くを通るだけで皮膚がかぶれたりする植物ですね。そのようなウルシですが、このウルシの樹液を摂取して天然素材の塗料として昔から使われているのが漆です。漆製品は縄文早期から出土し、縄文時代を通じて出土事例が見られ、2,000年に北海道函館市で実施された垣ノ島B遺跡の調査で、出土した漆塗りの副葬品が約9,000年前に作られたものが発見されています。漆は熱や湿気、酸、アルカリにも強く、腐敗防止、防虫の効果もあるため、食器や家具に適していた。日本神話で漆の起源とされているのは、『以呂波字類抄』にヤマトタケルが宇陀の阿貴山で猟をしていたとき大猪を射たが、仕留めることができなかった。漆の木を折ってその汁を矢先に塗って再び射ると、とどめを刺すことができた。そのとき汁で皇子の手が黒く染まった。部下に木の汁を集めさせ、持っていた物に塗ると美しく染まった。という説話も残っています。
 日本では縄文時代から漆を生活に役立ててきたのは確かですが、工芸品としてはやはり中国で、長江文明の河姆渡文化(紀元前5,000年~紀元前4,500年)の浙江省の河姆渡遺跡から漆塗りされた紀元前7,500年~紀元前7,400年の木製の弓が発見され、現在中国の最古の漆工芸品とされています。しかし、日本では約12,600年前の漆の枝が福井県の鳥浜貝塚から発見され、更なる調査で技術的に高度な漆工芸品である「赤色漆の櫛」も出土、この他に、木製品、丸木船、縄、編物、その加工に用いられた工具なども相次いで出土しており、漆工芸品も含めた木材加工の関連品が発見されて、世界中で最古の漆工芸品となっています。北海道函館市の垣ノ島A遺跡の住居址では、縄文後期(約3,200年前)に作られた朱漆色の朱色注口土器が完全な状態で出土したことからも、「漆器は、弥生時代に中国からもたらされた。」と以前言われていたことが覆された。また、1998年に京都府舞鶴市の浦入遺跡から丸木船が発見され、鳥浜遺跡の丸木船よりも古く、当然のようにその丸木船には漆が塗られていたのでしょう。
会津漆器 漆染めには伝統的な色として黒と朱があり、黒は酸化鉄粉をウルシの樹液と混ぜ、朱は酸化第二鉄を含む弁柄(赤の顔料などにも使用)や硫化水銀からなる鉱物の辰砂とウルシの樹液を混ぜたものです。黒の漆はお正月のお重箱などに使われ、朱の漆はお稲荷さんの鳥居やお寺の構造物によく使われていますね。日本神話では、神功皇后が三韓征伐に行くときに兵庫県の西宮辺りで船を朱塗りにした話がありますが、これは漆に辰砂を混ぜたものと思われます。弥伏見稲荷神社生時代に鉄製造技術が中国から伝わり、渡来人である秦氏はお稲荷さんを氏神にしていた関係で、鳥居が朱に塗られた。仏教の伝来も中国から。このように漆は鉄からできる顔料と混ぜる必要性があったため、弥生時代に鉄とともに中国から渡って来たと言われてきましたが、実際には縄文時代草創期から存在していたことが最近わかってきました。
2016年12月11日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

黒点 太陽には、表面を観測した時に黒い点のように見える部分、黒点が存在し、周囲よりも弱い光なので黒く見える。この黒点が暗いのは、その温度が約4,000°Cと普通の太陽表面温度(約6,000°C)に比べて低いためで、太陽の黒点が多い時は地球では寒冷化が進み、少ないと温暖化になる。黒点は数の少ない、黒点極小期には南北の緯度30度付近に現れ、次第に数を増しながらやがて黒点極大期の緯度15度付近に多数出現する。黒点は太陽の磁界に影響するのですね。地球が氷河期を終えた時期は、まだまだ、地球が寒冷化にあり、大陸の山々には雪の塊の氷が溶けないでいました。それが紀元前5,000年~紀元前3,000年頃、地球は、北極付近では4℃以上上昇した完新世の気候最温暖期になり、山々の氷が溶け出した。そして、中国の黄河や揚子江には頻繁に洪水が発生します。また、海面も3~5m高くなり、平野部は深くまで海が入り込んでいました。また、この温暖化の時期に中国の内モンゴル自治区や河北省や遼寧省でも暖かく、日本の東北地方でもサクラ、ケヤキ、ブナなどの広葉樹が森林に満ちあふれ、落葉広葉樹のブナからはドングリやクリなどの果実が食べられるようになった。中国の文化で言いますと遼河文明の紅山文化に辺り、日本では、三内丸山の縄文文化に当たります。
太陽黒点の過去11000年の活動。
 中国神話の最初に登場する人物は伏義と女媧で、紀元前3,300年~紀元前3,000年頃の人物だとされています。この伏義と女媧の説話は、揚子江の上流の雲南省でよく出てくる洪水神話の主人公。この当時、地球では温暖化が進み、洪水が多発していたのでしょうね。中国の文化では、長江文明の良渚文化に当てはまります。また、雲南省では水田による稲作が行われていたので、川の氾濫や洪水には困ったと思います。日本でも地球の温暖化が進み、三内丸山の縄文人達はドングリやクリを主食にして、狩や漁を行い、狩猟採取の食生活を送っていた。洪水やドングリの摂取は、気候の変化で探ることができ、その基準が太陽の黒点でした。
八卦爻と太極 この伏義は、天地の理(ことわり)を理解して易における8つの基本図像である八卦を生み出した人としても知られています。八卦は、長い横棒(─)と真ん中が途切れた2つの短い横棒(--)の2種類の爻(こう)があり、長い横棒を剛或いは陽、真ん中が途切れた2つの短い横棒を柔或いは陰とします。その爻を3本組み合わせると三爻ができ、この三爻を組み合わせると八卦爻になり、真ん中に陰陽思想と結合した宇宙の根源を表わした太極を据えている。この易が発展し、八爻を2組上下(爻が6本)に置き、それらの組み合わせが六十四爻。この六十四爻で占うのが周易です。太極図が宇宙を表わし、丸い形が太陽を表わし、円形の中の黒い方が陰、白い方が陽を表わしています。混沌(中国神話の怪物)の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この中の形に類似しているのが勾玉ですね。数字も奇数が陽、偶数が陰で、男女の区別は、男が陽、女が陰となっています。太陽からきている陰と陽が地球の万物に当てはめた考え方が陰陽思想で、後の道教や儒教に受け継がれることになります。
2016年12月4日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

『日本略史 素戔嗚尊』に描かれたヤマタノオロチ 現在では、人身御供(ひとみごくう)のようなことはなくなりましたね。人身御供は、日本でも古代から、災害の気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる行為や王の死の葬儀に伴う生き埋めの行為が整然と行われていました。『古事記』によれば、スサノオが母、イザナミの国(根の国)に行きたいとイザナキに訴えて、高天原から追放され、出雲の国の鳥髪山(現在の船通山)に降り立つ。そして、箸が流れてきた川を上ると、美しい娘(クシナダヒメ)とオオヤマツミの子、アシナヅチとテナヅチの老夫婦に出合う。その老夫婦の曰くには、「ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を人身御供として食われてしまい、最後の末娘のクシナダヒメだけが残った。今年は、この娘の番。」と嘆いていたので、スサノオは、ヤマタノオロチを退治に向かいます。このヤマタノオロチは、高志(越)の国から攻めてきた部族という説もありますが、船通山を源流にし、出雲平野から宍道湖に流れる斐伊川をヤマタノオロチ(龍)にたとえ、洪水を恐れた出雲の人達は、斐伊川に人身御供として、人身をお供え物として差し出した。この人身御供は出雲の話ですが、日本の各地に人柱の伝説がいろいろありますね。
亀の甲羅に書かれた甲骨文 この人身御供は、日本独自のものではなく、中国から渡ってきた風習で、今から4,000年程前から3,000年前に掛けて、地球が寒冷化と温暖化をたえず繰り返していた時期に、中国の黄河が氾濫して、たえず洪水に見舞われた。その対策として人身御供が。それが風習になり、殷王朝では異民族の人達を捉え、甲骨文字の占いで、神の意思を確認したらしく、盛んに生贄を行っていた。また、異民族だけでなく、殷代の墓から45人分の殉死者が生きたまま埋められた例もあります。秦の時代になって、始皇帝の墓地には兵馬俑と形が変わってきますが、以前、人身御供は中国では続いていました。この人身御供がなくなったのは、3世紀の中国三国時代の蜀の宰相・諸葛亮が、南征の帰途に、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという。これが、中国の饅頭の起源です。
 日本に饅頭が中国から伝わったのは、平清盛が中国の宋と貿易を盛んになってからのことで、源頼朝が鎌倉に武士の世の中を作り、仏教も武士から禅宗の僧になる人が増え、その当時新興宗教の鎌倉仏教が芽生えた時代。鎌倉幕府は、平家が盛んに行った日宋貿易には消極てきでしたが、南宋との仏教の交流紅白饅頭だけは継続していました。南宋から新興の仏教を持ち帰るのと同時に饅頭が日本に伝わった。南宋から持ち帰った饅頭は、現在の肉まんのように小麦粉の皮の中に肉や野菜が入っていました。でも、禅宗の僧侶は、殺生した動物の肉を食べることはできません。そこで、今の精進料理に出てくる点心が、日本の饅頭の原点です。饅頭が日本に伝わる少し前に禅宗の臨済宗を起こした栄西が南宋からお茶の木を博多で最初に植え、また宇治の明恵上人が宇治茶の源となるお茶の木を宇治に植えた。そして、武士の間でお茶を飲む習慣ができ、日本人がお茶を嗜む習慣ができました。それから長い間、一般庶民には饅頭は食べられなかったのですが、茶道が武士の間で普及する過程で、お茶にそえるお菓子も。そこで、小麦粉の皮の中に野菜を入れていた饅頭ではあったが、野菜の代わりに小豆を入れ、これが日本式饅頭として茶道の和菓子として。江戸時代になってからは、南蛮菓子や中国菓子の製法として焼き菓子の製造技術が日本に伝播されたこともあって、庶民に和菓子の饅頭が普及し、紅白饅頭、酒饅頭などは祝事や黄白饅頭、おぼろ饅頭などは弔事に使われるようになりました。
2016年11月20日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2万年前の日本列島 今から20,000年前から13,000年前頃は、世界的にも氷河期の最後の寒冷期で、日本列島は大陸と繫がっていました。その頃、モンゴル系の北方古モンゴロイドがシベリアのバルカン湖から日本に食料を求めて樺太から北海道に入り、津軽海峡を渡って東北に移動します。東北からさらに信濃辺りまで南下しないとチョウセンゴヨウ、クルミ、ハシバミなどの植物性食料が得られませんでした。このモンゴロイドが、人類のY染色体ハプログループD1b(D-M64.1)と考えられ、現在の日本人のY染色体で約32%を占めています。このモンゴル系の北方古モンゴロイドは中国大陸でも内蒙古自治区からさらに河北省あたりまで南下し、そこで南部モンゴロイドと混血し、朝鮮半島から対馬を渡り、九州に。また、河北省から山東半島あたりから沖縄や八重島などに舟で上陸し、東に移動した。この人達が13,000年前以降の縄文人達になります。そのことは、考古学の遺跡で青森県外ヶ浜町の太平山元I遺跡から16,500年前の土器が。また、宮崎県都城市高城町の軍人原遺蹟から15,000年前の土器が発見されています。これらの遺跡は、縄文時代の草創期ですね。では、日本列島に北方古モンゴロイドが現れる前には、人類が存在していなかったかと言うと、出雲市の砂原遺跡から120,000前の旧石器時代の石器が。岩手県遠野町の金取遺跡から80,000年前の石器が発見されていることから、日本にもネアンデルタール人がいたのでしょう。13,000年前から10,000年前の気候は、寒冷期と温暖期が入れ替り、その入れ替わりが激しく、この頃に中国大陸と繫がっていた日本列島が、現在の姿になった。モンゴル系の北方古モンゴロイドの人達は、北に南にクルミなどの植物性食料を求めて移動していたのでしょう。
スンダランド 東南アジアに16,000年前まで存在したスンダランドは、13,000年前から10,000年前の寒冷期と温暖期の繰り返しのため海底に沈みだし、6,000年前には現在の姿になった。その頃にその地にいた南方古モンゴロイドが中国の浙江省辺りまで北上します。その人達やスンダラランドから直接、黒潮に乗って舟で日本列島にたどり着きます。その人類がオーストロネシア系の南方モンゴロイドで、Y染色体ハプログループO2(O-M122)と考えられます。日本人のY染色体で約17%を占めています。9,000年前には、気候の変化が落ち着き、温暖期を迎えたことにより、Y染色体ハプログループD1bとY染色体ハプログループO2の人々が混血するようになり、縄文時代の早期が始まり、その人達が縄文文化を築いていきます。
 さて、中国の四大文明は、まず私が作成した一覧表(http://goo.gl/WQkFKZ)をご覧ください。揚子江周辺に芽生えた長江文明の彭頭山文化は、スンダラランドから北上したオーストロネシア系の南方モンゴロイドが気候の寒冷化によってシベリアから南下していきた新モンゴロイドと混血して、Y染色体ハプログループOb1(O-M95)の人達が9,500年前頃から築いた。その文化の彭頭山遺跡には、米のもみ殻などが発見され、中国最古の栽培種の稲が存在していた。この地方では、クルミなどの種子植物を食料にしなくても植物性食料を摂取していました。それから遅れること、9,000年前頃から、黄河文明の裴李崗文化が発生し、Y染色体ハプログループD・N系の北方古モンゴロイドと新モンゴロイドが混血して、粟の栽培はしていたが、稲作はこの地域ではまだ浸透せず、クルミなどの種子植物を主食とし、家畜をおこなっていた。この人達は、竹で古代の笛を作り、占いなどで使う甲骨文字の前身である賈湖契刻文字を持つ文化水準を保っていた。内蒙古自治区から遼寧省の人達(Y染色体ハプログループD1b)は、8,200年前に遼河文明の興隆窪文化を築き、弥生時代に朝鮮半島経由で弥生文化を伝えたと思われ、この興隆窪遺跡からは翡翠などの玉製品の出土や龍の出現など、後の青銅器をもとに栄えた紅山文化が日本の文化に影響を与えている。
 日本に稲作をもたらしたのは、長江文明を支えてきたY染色体ハプログループOb1の人達で、青銅器や鉄器をもたらしたのは、遼河文明の河北省や遼寧省、山東省のY染色体ハプログループD1bの人達だと思われます。
2016年11月7日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ