いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2015

 2002年の日韓共同開催のサッカーワールドカップを前に、今上天皇陛下のお誕生日の会見で、「韓国とのゆかり」発言をされました。この発言は、日本ではあまり報道されずに話題にならなかたですけれど、陛下のお言葉の趣旨に反して、韓国では大きな反響を呼び、「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」などと報道されました。陛下は、平安時代初期に編纂された『続日本紀』を基に述べられていて、第50代桓武天皇の母が高野新笠という女性で、百済の第25代武寧王の血を引いていることから述べられた。天皇家が百済、朝鮮からやって来たわけでもないし、百済の民族は中国からの亡命者達で、現在の韓国人にも少しはその遺伝子が残っているかも知れないが、ほとんど関係のない血筋なのです。それよりも、陛下は韓国の人々とともに仲良くサッカーワールドカップを成功させようとおっしゃりたかったのでしょう。
 武寧王は、462年に誕生となっていまして、『日本書記』では第21代雄略天皇の時代に百済の第21代蓋鹵王が弟の軍君伎君を倭国に人質として送りよしみを通じた。昆伎君が倭国に向かう際に伴った婦人が筑紫の各羅嶋まで来たときに昆伎君の子が生まれたので、蓋鹵王がその婦人が妊娠していたので、もし途中で子が生まれたのなら帰国するように命じていたので、百済に送り返された。その生まれた子が武寧王とされている。この武足羽山の継体天皇像寧王の時代は、日本では第26代継体天皇の時代で大伴金村が512年に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済の武寧王からの任那4県割譲要請があり、金村はこれを承認し、代わりに517年に五経博士を渡来させた。また、武寧王の子、純陁太子も渡来している。このことで、大伴金村は失脚。523年に武寧王が死去し、子の第26代聖王が就任。それ以後、百済とは任那4県割譲で揉めたために、百済から541年に任那復興会議の要求があるまで、交流がなかった。そして、第29代欽明天皇が547年に新羅に対抗するための援軍の派遣を決定した。また、聖王は、梁に朝貢して毛詩博士、涅槃経の教義、工匠・絵師などを下賜されるなど、中国文物の受容に努め、国内では仏教を保護して大通寺を建立した。そして、日本に梁との交易によって手に入れた扶南国(カンボジア)の文物を552年に正式に仏教を伝えた。仏教公伝です。
 武寧王の子、純陁太子は日本に滞在して、和氏(やまとし)を名乗る。その後、天平の時代になって、武寧王の子孫の和乙継の娘、新笠が白壁王(第49代光仁天皇)に使えるようになって、新笠は白壁王の后に。そして、光仁天皇の即位により、天皇から高野朝臣姓を賜与された。その光仁天皇と高野新笠の子が平安京を開いた桓武天皇なのです。
 これからは私の推理になるのですが、推古天皇の時代に記紀よりも古い『上宮記』と言う歴史書があって、鎌倉時代後期に散逸し、『上宮記』を注釈した鎌倉時代末期に編纂された『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の記事があり、その中には継息長氏体天皇の系図がしめされていて、凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)となっている。この意富富等王の子孫には古代近江国坂田郡に本拠地をもつ息長氏がいます。この息長氏は、新羅征伐に立ち上がった神功皇后の父、息長宿禰王とも関係があります。そして、乎富等大公王(継体天皇)も近江出身で、汙斯王が早くなくなったために越前で勢力を持っていた。応神天皇から武烈天皇の時代、まだまだ国内が統一されておらず、近江から越、美濃の国にかけて別の勢力があったと過程すると息長氏の民族ではなかったかと思われます。また、滋賀県大津市真野町に和邇氏の神田神社があることから、和邇氏と息長氏とも関係が深い。天皇家に以外に百済から渡ってきた渡来人で近江国を支配してきたかもしれない。そして、その勢力がヤマト朝廷に従うようになって、百済と関係が深くなった。
2015年9月27日

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 安保法案が成立して、日本国憲法第九条が問題にされています。70年前に日本が連合国に負けてアメリカによって作られた憲法ですが、70年の歳月を経て日本に定着してきた平和憲法。この憲法で、今問題になっている第九条の他に日本の国の特徴が一番現れているのは、第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」にあると思われます。この天皇制が良きに付け、悪きに付け、日本の国を表わしているように思われます。私自身は国粋主義ではないですが、明治維新のときに天皇を中心にして、江戸幕府を倒し、日本が近代国家になったのも大義名文があったから。また、戦前の日中戦争勃発においても天皇を中心に日本国民が一致団結して戦争に向かったのもこの天皇制があったからです。戦前の大日本帝国憲法では、第一条に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。
 このような天皇制を中心にした国作りは、古代飛鳥時代にまで遡り、天智天皇が百済の復興支援のために行った663年の白村江の戦いに敗れ、朝鮮半島から日本軍が撤退した。そして、672年に壬申の乱に勝利した天武天皇が、国際社会から阻害されないように日本の国家を盤石にするために律令国家を構築した。その中心が天皇制で、そのために国家の歴史の編纂に着手し、「古事記」「日本書紀」が生まれた。この記紀には、日本の神話から歴代の天皇の事までが書かれ、天武天皇以前から天皇を中心に日本国が運営されてきたことが記載されている。ある意味では、日本における天皇制による国家の誕生はこの天武天皇の時代に築かれたと言っていいでしょう。
 では、天武天皇が考えた国家の誕生を考えてみますと、記紀に書かれた神話からの話になります。初代天皇が神武天皇で、紀元前660年に即位したことになっています。この歴史的根拠は全くありません。それ以前の日本国の起源というと、記紀に書かれている神話を基にすると、神武天皇の祖祖父、ニニギノミコトが高天原のアマテラスの命により日本の高千穂に降り立った天孫降臨http://www.shinwahaku.jp/kojiki/shinwa/6-1/の話とニニギノミコトの結婚http://www.shinwahaku.jp/kojiki/shinwa/6-2/の話。この話も実際にあった話とは思われません。しかし、先史時代の資料が乏しいために実証することはできないので、これからは私の推理となります。
細石神社
 ニニギノミコトが高天原から降り立った。この高天原とは、中国或いは朝鮮と考えられ、天孫降臨の地、高千穂は北九州。コノハナサクヤビメを出会いは、伊都国と思われます。伊都国(現在の福岡県糸島市、福岡市西区の一部)に細石神社があり、この神社には、コノハナサクヤビメとその姉でニニギノミコトが親元のオオヤマツミに醜かったことから送り返したイワナガヒメが祀られています。この細石神社は、三雲南小路遺跡の裏手にあり、ニニギノミコトとコノハナサクヤビメの墓の拝殿と言われています。また、三雲南小路遺跡の東側には高祖山があり、その山の西の麓に高祖神社があり、ニニギノミコトとコノハナサクヤビメの子、神武天皇の祖父、海幸山幸の説話に出てくるホオリノミコとが祀られています。三雲南小路遺跡は、弥生時代中期の中頃のものとされ、その当時に朝鮮半島から渡来した人達の遺跡。この遺跡の西側の曽根段丘上に存在する弥生時代後期から大型内行花文鏡終末期の平原遺跡は、大型内行花文鏡やガラス勾玉や素環頭大刀などが発見され、その渡来人によって作られた伊都国の遺跡だと言われています。伊都国は、紀元100年頃に建国された国と思われます。すると、コノハナサクヤビメはこの伊都国の女性となり、ニニギノミコトが高天原から天孫降臨して、コノハナサクヤビメと結婚したということは、ニニギノミコトも中国或いは朝鮮からの渡来人となります。この時期は、定かではないですが紀元前200年頃ではないかと思われます。この頃、中国では、戦国時代が終わり秦の始皇帝が中国を統一、劉邦が前漢を建国した時代。中国から戦乱を逃れてきた人達が平和な日本に住み着いた。そして、北九州に平和国家を築いた。遅れて、天皇家の祖先が日本にやって来て、日向に国を建国。中国のように家臣が皇位を狙う時代を見てきた人達が、そのような世界に嫌気がさしていたので、皇族を中心にした国家を築いた。日本は、元々縄文人が生活していたが、弥生時代になって中国や朝鮮半島からやって来た人達によって築かれた国であることは明白です。
2015年9月21日

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 朝鮮半島で歴史上、最初に国家として成立したのは高句麗で、紀元前37年に扶余国の皇族の朱豪(東明聖王)が建国したとされています。この頃、漢の出先機関の楽浪郡が平壌にありました。楽浪郡は、春秋・戦国時代の燕が秦に滅ぼされて、その亡命者が朝鮮半島の北部に移動して、箕氏朝鮮(殷の残党)を滅ぼし建国した衛氏朝鮮を倒して、前漢がこの朝鮮半島の北部に政府機関として設けていた。その頃の楽浪郡は、前漢の勢力が弱まり、王莽が新を建国する直前でしたので、朝鮮半島の北部には、箕氏朝鮮の末柄や衛氏朝鮮の残党、その他に北の扶余国から濊族や貊族が南下してきていた。その濊族や貊族の中に朱豪がいた。また、その頃の高句麗は、現在の遼寧省本渓市桓仁満洲族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に勢力を持っていたのに過ぎなかった。正式に高句麗が朝鮮半島に国家として存在するようになったのは、楽浪郡を滅ぼした313年のことになります。
ヤマトと新羅の関係
 百済は、高麗時代の1,143年に編纂された『三国史記』の百済本紀では紀元前18年に高句麗の始祖・朱蒙の三子温祚が百済を建国したことになっています。この頃、百済という国家はなく、日本にも関わりのある春秋・戦国時代の越、呉、楚、斉の亡命者がこの馬韓地方に小国を作っていた。そこに、衛氏朝鮮に滅ぼされた箕氏朝鮮の難民や亡命者もこの地に。この人達の中には、日本にも渡ってきて、日本で小国を作り、馬韓地方と日本を行ったり来たりしていた。日本にも正当な国家はなく、馬韓と日本とは、その人達にすれば同じ国土のように思っていたのでしょう。また、秦の始皇帝の時代に不老不死の薬を求めて、徐福が3,000人もの人達が日本にやって来ています。その人達の中にも日本から馬韓に渡った人もいたかも知れません。そうこうしている間に劉邦が秦を滅ぼし、漢を建国。そして、秦の亡命者が馬韓に。馬韓の人々は、その秦の亡命者に馬韓の東側の未開の地を与えた。それが辰韓(秦韓)と呼ばれるようになった。
3世紀ころの日本と朝鮮
 日本と馬韓、秦韓との人の交流があったので、2世紀後半に起こった倭国大乱の頃の気候が寒冷期にあたり、日本で農作物が不作に見舞われ、『三国史記』の新羅本紀では193年に日本から朝鮮半島へ1,000余人が渡ったとされる。馬韓では、その頃民族のルツボ状態にあったと思われます。そこに、百済の建国神話になりますが温祚が建国したことになっていますので、高句麗は南下して百済郡を設け、その生き残りが伯濟国として馬韓に住み着き、馬韓で勢力を増して百済となった。正式に歴史上では、百済は第13代の百済王、近肖古王が即位した346年とされる。そして、近肖古王は、新羅と羅済同盟を結び、倭国に七支刀を送るなどして、倭国から援軍を頼んで、高句麗と戦い、平壌辺りまで勢力を伸ばした。
 新羅の神話によると、初代の新羅王は朴氏の赫居世居西干で、紀元前57年に新羅の前身、斯蘆国の王として13才で就いた。この赫居世居西干の重臣に日本から腰に瓢箪をぶら下げて渡って来た倭人の瓠公がおり、瓠公と赫居世居西干は同一人物ではないかとも言われている。また、日本の神話に出てくる新羅王子、アメノヒボコは赫居世居西干の弟とされている。このことを素直に解釈するとその当時の日本人が朝鮮に渡り、辰韓の地に斯蘆国を建国したようにも受け取れる。また、朴氏王朝が3代続いて、その後に2代目の南解次次雄の娘を妻にした脱解尼師今が4代目の斯蘆国の王になる。この脱解尼師今は、『三国史記』の新羅本紀によると昔氏の祖となる。また、新羅の神話では、脱解尼師今は倭国東北一千里のところにある多婆那国(丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などの説がある)の王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍び、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。その箱が辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。その男の子が脱解尼師今であると伝えている。このように、新羅と倭国とは親密な関係にあったようです。脱解尼師今の孫にあたる9代目の伐休尼師今の時代、196年に日本の気候が寒冷化して、作物が不作になり、収穫のよい地域の奪い合い、倭国大乱が起きたころ、倭国から新羅に1,000人もの人を受け入れています。その後の時代になると新羅は百済との争いを続けるようになり、倭人からの侵略もあって、249年に新羅の要人、昔于老が倭人に殺される事件があって、しだいに倭国との関係が悪化していった。神功皇后の三韓征伐、応神天皇時代の新羅征伐とヤマト朝廷は、新羅と戦うようになった。
 紀元前1世紀から4世紀の後半までの日本と朝鮮半島南部での出来事で、倭人(従来、日本人と考えられていた人達)が朝鮮半島に侵入して、百済と同盟を結び、高句麗や新羅と戦ったようになっています。しかし、私はこの倭人が従来から日本に住み着いている人達だったのか?そんな疑問を抱かせるのです。紀元前後に朝鮮半島から日本にやって来て、たぶん、馬韓や辰韓からの渡来人が日本に住み着き、ヤマト朝廷をはじめとして、日本に小国を建国して、日本内部の内乱を収め、以前いた朝鮮半島南部の人達(弁韓の人達)と提携を結んだ。そして、朝鮮半島を収めるために新羅(場合によれば、以前の仲間)や高句麗と戦った。倭人が日本人であるという考え方をやめて、ヤマト朝廷を築いた人達も朝鮮半島の南部にいた人達も中国から流れて来た漢人や扶余人或いは秦の亡命者等々と考えた方が、その当時の状況を理解しやすいと思います。
2015年9月13日

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 現在日本では、あまり話題にならなくなった王仁ですが、戦前の古代史には王仁が日本に帰化し天皇家に仕えた博士で、中国の文化を日本に伝えたとしていた。現在の韓国は、そのことを強調して、王仁は日本に文化を伝えた韓国人として扱われており、民族史観を信奉する運動家の金昌洙は王仁を「日本に植え付けた韓国魂」として賞賛している。また、民族史観によって「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と教え、洪潤基は王仁が万葉仮名を作り、その子孫が平仮名を作ったと韓国起源説を主張している。
 346年9月に百済の王についた近肖古王は、新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続け、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。神功皇后は、369年3月に将軍荒田別及び鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪と沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を破った。その頃の「日本書記」や「古事記」の記事では、応神天皇が荒田別(上毛野氏の祖)と鹿我別(上毛野氏の祖)を百済に派遣し、近仇首王の孫で辰斯王の息子の辰孫王(菅野氏、葛井氏の祖)、阿直岐(東漢氏の祖)、王仁を日本に招き、『論語』10篇と『千字文』を伝えたと記されている。高麗に時代の1,145年に完成した『三国史記』百済本紀によると、第13代近肖古王時代(346年~375年)に百済に文字がなかったが、百済の歴史を編纂した学者、中国系の高興が漢字を広めたとあります。また、『千字文』は中国の南北朝時代の南朝の梁の武帝(在位502年~549年)が、文官の周興嗣に初学者むけの漢字習得用・習字用のテキストとして作らせた。そのような海外の情報が正しいとしたら、『千字文』が4世紀後半に伝わっていないとしても、その当時のヤマト朝廷が新羅よりも百済と親交を深めていたことは事実です。
伝王仁墓
 王仁という人が実在の人物であったかどうかは、今のところはっきりとわからない。しかし、江戸時代に立てられた大阪の枚方市藤阪に王仁の墓があり、この大阪の枚方の地には、百済最後の王である義慈王の子である善光の子孫である百済王氏の百済寺跡や百済王神社があります。大阪市北区には一本松稲荷大明神(八坂神社)があり、王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。ある説ですが王仁の出身は、斉(中国山東省)の出自といわれ、紀元前170年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植した楽浪王氏だと言われています。前漢が紀元前108年に朝鮮半島に置いた楽浪郡の官吏として王氏が多く、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命した。その亡命した人達の中に王仁もいたのではないかと思われます。これからは私の推測になりますが、王仁を「わに」と読むと、5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族、和邇氏とも考えられ、「古事記」の天皇表記で第5代孝昭天皇の子、天足彦国押人命が和邇氏の祖となっています。しかし、これは天武天皇の時代に編纂されたときに加筆されたと思われ、王仁は、百済からきた楽浪王氏の末裔だと思います。百済寺・百済王神社は後に奈良の興福寺の支配下に入り、再興が図られた。現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したもの。王仁は、藤原氏とも関係があると思われます。
百済王神社
2015年9月7日

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 紀元前2世紀頃、南朝鮮半島には中国の春秋・戦国時代に浙江省、江蘇省、山東省、河南省、河北省辺りから流れて来た人達がここに小国を作り、生活をしていた。その中には、衛氏朝鮮に滅ぼされた中国の殷王朝の流れをくむ箕氏朝鮮の亡命者もいた。北朝鮮半島では、前漢の劉邦(高祖)に滅ぼされた遼寧省辺りの燕国の亡命者が衛氏朝鮮を建国していた。歴史では、この南朝鮮半島の小国の集まりを辰国と言っています。秦の始皇帝が紀元前210年に死去し、楚の項羽が秦を滅ぼし、項羽も劉邦に楚漢戦争で敗れて、中国に前漢が訪れた。その頃、楚の項羽に近かった南朝鮮半島の人達は、秦の亡命者を受け入れ、南朝鮮半島の東側の地域を与えた。そこに、新羅の前身の斯盧国を含む12カ国が誕生し、辰韓或いは秦韓とよばれる小国の集まった地域ができた。さらに、秦の亡命者(秦王朝に関係が深い人達だけでなく、現在の陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区に住んでいた人達)は朝鮮半島の南の端に弁樂奴国、弁辰狗邪国などの12カ国を作り、その後、弁韓の代表的な国のひとつが日本と関係が深い金海市付近の駕洛国(金官伽耶)が生まれた。元々いた南朝鮮半島にいた人達は西側に移り、馬韓として伯濟国(後の百済)をはじめとする54カ国の小国があった。馬韓、辰韓、弁韓に中国からの亡命者がいた事は間違いない事実ですが、それ以外にも元々住んでいた粛慎、挹婁、靺鞨、沃沮、濊、濊貊等、各諸民族もいました。そして、南朝鮮半島が混在地域になり、混血が進んだ。また、濊の系統で、紀元前200年頃には、中国の満州に扶余国があり、その扶余国からも高句麗からの侵略をさけて、百済に流れて来た人達もいた。その人達が百済の前身伯濟国を建国した。このような歴史背景から、辰韓と弁韓にいた人達が紀元前後に日本にやって来ています。そして、その人達を中心にヤマト朝廷が作られた。
 また、新羅が斯盧国と言っていたころ、百済は、伯濟国。その第2代多婁王は、即位当初から東北辺の粛慎、挹婁との戦いが続いた。30年ころは、粛慎、挹婁を殺害、捕虜にしたが、治世の中ごろには攻め込まれるばかりとなり、56年には牛谷城を築いて備えることとした。一方、東方では63年には領域を娘子谷城(忠清北道清原郡)まで広げ、斯盧国に対して会盟を申し入れたが、受け容れられなかった。そこで64年、軍を派遣して斯盧国の蛙山城(忠清北道報恩郡)を攻撃したが勝つことができず、南の方へ戦場を移し、狗壌城(忠清北道沃川郡)で斯盧国の兵を敗走させた。これ以後、蛙山城は斯盧国との係争地となり、互いに奪回を繰り返した。最終的には蛙山城を新羅に奪回されたまま、多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。その頃、斯盧国では第4代脱解尼師今時代で、家臣に倭人の瓠公がいて、その屋敷を謀略で奪って、後の月城(歴代新羅王の王城)となったと言う話もあるし、斯盧国の初代赫居世居西干の時代、紀元前20年に、倭人の瓠公が王命に従って馬韓を訪問し国交を開こうとした。このとき清州韓氏中央宗親会族の馬韓王からは馬韓の属国である辰韓諸国の一国に過ぎない斯盧国が貢物を送らないことを責めたが、瓠公は逆に斯盧国に聖王(赫居世と閼英)が現れたことを主張して馬韓王の失礼を咎めた。馬韓王は怒って瓠公を殺そうとしたが、馬韓の重臣が王を諌めたため、許されて斯盧国に帰国した。
任那・加羅、百済、新羅 このように、当初の新羅とヤマト朝廷は関係が深かった。また、弁韓の駕洛国とは一番深い関係があった。それで、神功皇后の時代に新羅が駕洛国を中心にした加羅の支配、百済の南下を防ぐために三韓征伐を行った。この三韓征伐は、ヤマト朝廷(渡来人の政権)が国内を平定するような感覚で戦ったと思われます。また、応神天皇の時代に加羅の弓月君が百済から来訪して、応神天皇に加羅の民を日本に帰化させたいと訴えてきたので、葛城襲津彦を派遣した。しかし、葛城襲津彦は3年経っても帰って来なかったので、新たに平群木菟宿禰と的戸田宿禰の精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に。『日本書記』によれば百二十県の民を率いてから帰化したとあります。一県の民が1,000人としても120,000人という凄く多くの人が日本にやって来たことになります。徐福が紀元前3世紀頃に3,000人を引き連れて来た数とは比べものにならない人数です。この弓月君は、『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔と言われていますが、実際は秦の亡命者だったと思います。この百二十県の民が日本に古墳を沢山造営し、神社を各地に作った人達だと思われます。そして、雄略天皇に秦の姓を頂いて、波多氏、秦氏と名乗るようになった。
徐福と弓月の君
2015年9月3日

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