いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2015

 平安時代初期に日本で最初に書かれたSF小説が『竹取物語』ですね。竹から生まれた昔話「かぐや姫」(https://youtu.be/A_sN5yMNdbs)として、昔から聞かされているおはなしです。この竹取物語の原案になったのがおそらく、桓武天皇の命により菅野真道らが797年に完成させた『続日本紀』巻第十二 聖武天皇 天平八年に書かれている「八月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代ら、唐の人三人、波斯一人を率ゐて拝朝す。」(736年8月23日、遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代らが、唐人三人・ペルシア人一人を率いて、帰国の挨拶のため天皇に拝謁した。)に基づくものと思われます。日本では、推古天皇の時代から、海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的として遣隋使(600年~618年にわたって5回)や遣唐使(630年~894年にわたって20回程)を中国に派遣しています。その遣唐使がペルシア人を連れて帰国したとしても不思議ではない話です。『続日本紀』に記載されている以外にも、『日本書紀』に「孝徳白雉五年夏四月に、吐火羅国の男二人・女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たれり。」とあり、中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺した「乙巳の変」(645年)から9年経った654年に、吐火羅国(中国では大夏の国を表わし、西洋ではグレコ・バクトリア王国を滅ぼした遊牧民、バクトリア地域に住むトハラ人の国)と舎衛(中国ではインドを表わす)が宮崎に漂流してきて、その人達をその当時の孝徳天皇に面会させた、そんな記事が『日本書紀』に記載されています。
竹取物語
 バクトリアという地域は、紀元前328年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王がこの地を征服するまでは、クルド人のメディア王国の一部で、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の時代に征服され、ペルシア帝国の一部となった。そして、アレクサンドロス大王がこの地を征服し、紀元前256年にサトラップ(総督)の地位にいたギリシア人のディオドトスが反乱を起こし、独立してバクトラ(アフガニスタン北部、バルフ)を都とするグレコ・バクトリア王国を建国した。この王国を滅ぼしたのが、紀元前140年~紀元前130年の間に北の遊牧騎馬民族であるアシオイ、パシアノイ、トカロイ,サカラウロイの4種族。バクトリアは、このトカロイ(トハラ人)が住み着くようになり、3世紀の半ば頃にはサーサーン朝(ペルシア帝国)の圧力に屈してその附庸国のような状態になった。日本の聖徳太子時代にこの地方は、マホメットが預言者となったイスラム教を母体にしたイスラム帝国がサーサーン朝を滅ぼし、バクトリアという地域に住んでいたトハラ人はその当時の唐に助けを求めて中国にやって来た。或いは、ヘルシアから舟で日本に辿り付いたかも知れない。
バクトリアの位置
 天武天皇が大友皇子を自殺に追い込んだ壬申の乱(672年)で勝利し、新しい日本国を築いていく中で、既に海外の情勢を把握し、ペルシア人などの異人が世界にいることがわかっていたと思われます。また、それは日向の国にインドの女性が漂流から助けられ、宮中に現れた654年には大海人皇子も驚いき、天皇になった時に天皇専制による官制改革、封戸の導入、最初の貨幣とされる富本銭の鋳造、官人武装政策、史記の編纂を次々に進めたのですね。
2015年11月16日

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 現在の浦島太郎のおとぎ話(https://youtu.be/2rIFSVsVMao)が完成したのは、室町時代に編纂された短編物語『御伽草子』で、丹後の浦島太郎の話を取り上げ、玉手箱や乙姫や竜宮城が記載されています。ただ、乙姫が住む竜宮城に浦島太郎は女人と舟に乗り辿り付いた。そして、玉手箱を開けたとき鶴になって、蓬莱山に飛び立ったと書かれている。現在話されている浦島太郎のおとぎ話では竜宮城が海の中となっているのは、『御伽草子』以降になってから付け替えられたと考えられ、竜宮城が海の中あったと言う話はたぶん昔からあった地方の話と入れ替えられたと思います。この浦島太郎のおとぎ話のメインは、竜宮城から帰ってきた浦島太郎が乙姫から開けてはいけないといわれた玉手箱を開けてしまって白老のお爺さんになる処だと思います。これは、不老不死の中国の道教の考え方なのです。
御伽草子の浦島太郎
 日本神話に「常世の国」という海の彼方にあると言われる理想郷が出て来てきます。永久不変、不老不死、若返りが実現される理想郷ですね。『史記』の「秦始皇帝本紀」では、秦の始皇帝が不老不死を求めて、山東省にいた徐福に不老不死の薬を求めた。その時、徐福は、東方の三神山にあると言いました。日本では仙人が住むという蓬莱山の「蓬莱」、神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島「方丈」、日本を指す名前となる「瀛州」の東方の三神山です。それで、徐福が3,000人もの人をつれて日本にやって来た。日本神話も渡来人によって作られたものだと思われます。すなわち、「常世の国」は日本になります。
 竜宮城は『御伽草子』では蓬莱山になっていますが、海の中にあるというおとぎ話はどこから来たのでしょう。これも日本神話の「山幸彦と海幸彦」の話に何らかの回答があるように思います。この神話(https://youtu.be/V_-GflfSfaY)は、宮崎県に集中して伝えられている民話で、山幸彦が海幸彦の釣り針を海でなくしてしまって困っている時に塩椎神(シオツチノカミ。潮流の神)が現れ、綿津見神(ワタツミ。海神)の宮殿へ行くように言った。その宮殿に現れた姫が豊玉毘売命(トヨタマヒメ)。山幸彦(ホオリ)と豊玉毘売命が結ばれて、ウガヤフキアエズ(神武天皇の父)を産む。この宮殿が後世になって竜宮城となったとされています。宮殿から帰ってきた山幸彦は裕福になり、海幸彦は没落していきます。そして、山幸彦を攻めたが最終的には海幸彦椎根津彦は家来になり、山幸彦を支えた。また、山幸彦に助言した塩椎神は、神武天皇の東征を促した神としても登場している。神武天皇の東征にあたって、明石海峡の速吸門で出会った国つ神で、船路を先導した椎根津彦(シイネツヒコ)は亀の甲羅の上に乗って現れ、この椎根津彦が浦島太郎の原型とされている。
 浦島太郎の伝記では、横浜市神奈川区には、浦島町・浦島丘・亀住町など浦島太郎にちなんだ名称があり、香川県三豊市荘内地区は、かつて「浦島」と呼ばれていたことがあり、町内に浦島太郎に由来する地名がいくつか存在する。これらは、神話から発生したものではなく、室町時代以降に庶民に浦島太郎の話が広まって、出来た伝記だと思われます。
 徐福が中国から3,000人もの人達を日本に送り、その人達が不老不死の郷として竜宮城の話を伝えたと思われ、「山幸彦と海幸彦」の話を推理すると、山幸彦は朝鮮半島から渡ってきて、日向の国に住み着いた弥生人で、海幸彦はそれ以前に日本にやって来た、或いは縄文時代に日向に渡って来た隼人や熊襲の人だったかも知れない。
2015年11月8日

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 神武天皇の子としては、大和の地に東遷して媛蹈鞴五十鈴媛命(大和征服後、出身氏族が製鉄と深い関係がある在地の豪族の娘)と結ばれ、日子八井命と神八井耳命と神渟名川耳尊を産み、また、神武天皇が日向にいた頃結ばれた吾平津姫(阿多小椅の妹で、隼人に関係がある豪族の娘)との間に手研耳命と岐須美美命がいました。神武天皇が崩去した後、この手研耳命が即位しようとして、日子八井命と神八井耳命と神渟名川耳尊を迫害しようとした「タジキミミの乱」をお越し、結果的に神渟名川耳尊が手研耳命を殺害した。そして、日子八井命と神八井耳命に推薦されて、神渟名川耳尊が第2代綏靖天皇になる。綏靖天皇の兄にあたる神八井耳命を祖としているのが多氏(太、意富、飯富、於保と記載されていることもある)で、子孫には多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した系統、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造など九州を中心に繁栄した系統、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など東国に繁栄した系統があり、国造になっている例も多い。
 『古事記』の中巻の神武天皇の項や『日本書紀』にこのようなことが記されていますが、記紀は飛鳥時代に日本国が形成され、海外(中国)政策の一環として編纂されたので、実際にはその記述を実証する事はできません。ただ、多氏がヤマト朝廷で重要な位置にあり、各地で活躍していたことは、1968年に埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の表裏に記された金象嵌(シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わった技法で、表面を専用の鏨で布目模様の溝を彫り、薄く延ばし型取りした純金や青金、純銀の板・線をそのくぼみに金槌を使いながら埋め込む。そして、表面の微細な段差をなくし、滑らかに加工するために、漆を塗り、焼きをいれた後に研ぐ。)の115字の銘文からも知ることができます。
金錯銘鉄剣表面の銘文
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
「辛亥の年 7月に記す私はヲワケの臣 いちばんの祖先の名はオホヒコ その子はタカリノスクネ その子の名はテヨカリワケ その子の名はタカヒシワケ その子の名はタサキワケ その子の名はハテヒ」
裏面の銘文
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
「その子の名はカサヒヨ その子の名はヲワケの臣 先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として大王に仕え今に至っている ワカタケル大王(雄略天皇)の役所がシキの宮にある時 私は大王が天下を治めるのを補佐した この何回も鍛えたよく切れる刀を作らせ 私が大王に仕えてきた由来をしるしておくものである」
辛亥年を西暦にすると定説では471年になり、ヲワケの臣とは多氏のことで、オホヒコは『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人で北陸に派遣された大彦命のこと。その子孫が雄略天皇に従えたことになる。多氏の中で、関東で活躍した人達はその後、大彦命を祖とする阿倍氏になっていって、「蝦夷征伐」の征夷大将軍や「白村江の戦い」の征新羅将軍の阿倍比羅夫もその一人かも知れない。
金象嵌 金錯銘鉄剣を所持していた人物は不明ですが、雄略天皇は存在していた人物で400年後半に生存していた人物で稲荷山古墳の埋没者なのでしょう。その人物の6代前が大彦命で、おおよそ300年前に大彦命や第10代崇神天皇が生存していたとしたら、紀元1世紀のころが崇神天皇の時代となりますね。大彦命は、第8代孝元天皇の子と記紀にはなっていて、同じように意富の臣を名乗ったとしたら、記紀に書かれている神八井耳命の子孫も意富の臣でしたから矛盾していますね。多氏も弥生時代に朝鮮半島から渡って来て、鉄器に関わりがあった人達だと思います。
2015年11月3日

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 日本の神話は、『古事記』『日本書紀』『風土記』などに記載されている内容がもとになっています。この記紀は、飛鳥時代の天武・持統天皇時代に昔から言い継がれていた説話を編纂したもので、その当時に実権があった氏族の言い伝えや天皇制の正当性を趣旨に記載されました。これに関連して、地方では日本のおとぎ話として昔から言い伝えてきました。そこで、桃太郎(https://youtu.be/vqwqE25pBEI)と日本神話に関わりのある日本のおとぎ話を上げてみます。
吉備津神社 この「桃太郎」のおとぎ話は、桃太郎がお婆さんから黍団子を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。この話のゆかりの地と言われている岡山の話で、吉備津神社に伝わるおとぎ話と言われています。第7代孝霊天皇の時代に吉備の国には、製鉄技術を吉備地域へもたらし、岡山県総社市の鬼城山に鬼ノ城という城を天智天皇が築いた、その辺りにいた渡来人で渡来地域が複数存在しており、出雲渡来説・九州渡来説・百済の王子説・任那・伽耶渡来説・新羅渡来説など複温羅数の説がある温羅を鬼とした話。その温羅を第10代崇神天皇の配下に治めるために、第7代孝霊天皇と倭国香媛の子、吉備津彦命と絙某弟から生まれた異母兄弟の弟、稚武彦命を吉備に送って、家来に犬飼武命(犬養氏の祖)、楽々森彦命、留玉臣命が従った。その3氏が桃太郎のおとぎ話では、犬、猿、キジとなっています。そして、現在の吉備津神社の地に本陣を置き、温羅と戦ったとされている。
 吉備岡山に造山古墳(全国5位の大きさ)と作山古墳があり、前方後円墳を築いた吉備の王国の領主の墓だといわれ、吉備津彦命や稚武彦命の墓ではないかと言われています。この前方後円墳は、紀元400年代前期に造築されたと言われていますから、吉備津彦命や稚武彦命が実際存在していたとしたら、紀元300年後半から400年の前半の人物となります。また、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓、楯築遺跡があり、円丘の両側に方形の突出部を持った双方中円墳(紀元100年後半から紀元200年前半)がある。もし、吉備に王国があってヤマト朝廷と敵対していたとしたら、記紀で書かれている崇神天皇が身内を四道将軍として全国に派遣して、征服したとあるのは、身内ではなく地方の豪族を取り込んで、後生の系図を作成する時に身内にしてしまったと考えられます。吉備にいた豪族も渡来人の可能性が大きく、出雲にしても吉備にしても鉄器の原料が取れる地区なので、早くから鉄器製造者が朝鮮半島から渡ってきていると思います。吉備王朝を築いた渡来人の前にすでにこの地で生活していた人達、すなわち、鬼とされている温羅を代表する渡来人がいたと思われます。
 吉備と言いますと国産みと神産みの神話で、イザナミが火の神を産んだときに女陰が焼け、病気になってイザナミが死。イザナギはイザナミを出雲の国と伯伎(伯耆)の国の境にある比婆の山(現在の島根県安来市)に葬ったとある。この比婆山から南に行くと吉備の国です。ヤマト朝廷が神話である記紀を編纂するにあたって、イザナギとイザナミは国産みで日本を作ったように書いていますが、実際は大陸から日本に流れて来た人達の神がイザナギとイザナミであり、その渡来した人達はイザナギとイザナミの子として描いているアマテラスが政権を担当する勢力の神として崇めた。出雲や因幡の国に関係あるスサノヲやオオクニヌシの神達を崇拝していた渡来人もいたが、飛鳥時代のころにはアマテラス(太陽信仰)を中心にした政権になった。ニニキが天孫降臨して、これは日本にやって来てということで、地元(縄文人の流れをくむ)のコノハナノサクヤビメと結ばれ、日本書紀では子としているアメノホアカリを産む。古事記ではアメノホアカリはニニキの弟となっている。このアメノホアカリは、物部氏や穂積氏の祖神、ニギハヤヒであり、尾張氏、津守氏、海部氏なども祖神としている。このように日本の体制を作ってきたのは弥生人であり、この弥生人は大陸から来た渡来人であった。
2015年10月24日

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 日本の古代史の資料として「古事記」や「日本書記」があり、その記紀に基づいて日本の古代史を学んできていますが、この記紀は飛鳥時代に編纂された書籍で内容的にはその当時の政権の正当性のために書かれ、歴史的事実としては甘い見方をしても記紀が編纂された700年前半から遡る300年程前、400年代の日本の政治的な出来事をその記紀から探ることができない。それ以前は、日本の神話の世界や飛鳥時代に政権を握っていた渡来系の人達の思惑でしかない。紀元前200年頃から300年頃までに朝鮮半島から日本に渡って来た大陸系の人々によって築かれた政権が、はっきりと日本の過去を表示できることはできないので、その人達の大陸の祖先の言い伝えを神話に。また、大陸系といってもいろいろな所からやってきているので、時代の過程で入り組んでいて、とても歴史とは言えないのが現状です。このような時代を日本歴史では、弥生時代としています。
 弥生時代に朝鮮半島から日本に渡って来た人達が、今の日本文化を築いたと言うことも出来ます。しかし、分子人類学からみると、国内最古の人骨(約20,000年~10,000年前)とされた沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された旧石器時代の人骨に、日本人の根底に流れているミトコンドリアDNA(母系)の南方系で日本固有種のハプログループM7aが発見されています。また、父系をたどるY染色体では、60,000年前にアフリカのエチオピアやスーダンから紅海を渡ってイランに、そしてチベットから北上して、30,000年~20,000年前にバルカン湖に。或いは、チベットからスンダランドを経て、その人達がハプログループD1を持ち、その人達が15,000年前に大陸と陸続きだった日本にやって来た。そして、日本では縄文時代になる紀元前9,000年前~紀元前1,000年前の間にハプログループD1は、縄文時代に日本人だけしか持っていないハプログループD1bに変化し、現在日本人のY染色体の割合で2割~3割の方がこのハプログループD1bを持っています。沖縄の人が5割、アイヌの人が8割となっています。参考までに、6,300年前に中国中南部で誕生したハプログループO2bは、現在日本人のY染色体の割合で3割の方が持っています。即ち、弥生時代でも古墳時代でも飛鳥時代でも縄文人の染色体は受け継がれていたことになります。
 バルカン湖から南下してきた人達は、最終氷期の最寒冷期(18,000年前)に獲物を求めて日本にやって来ています。そして、獲物が少なくなると狩猟採集生活をはじめ、クリなどの堅果類や芋などの根茎類の栽培や海辺での魚介類の採取もするようになった。そして、縄文時代前・中期の紀元前3,500年~紀元前2,000年頃に青森の三内丸山遺跡のように東北、北海道で縄文人による文化が栄えた。縄文時代早期から丸太舟を作り、手かきで親潮寒流に乗って関東の方まで来ていた縄文人もいて、神津島の黒曜石採取跡のせんき遺跡や伊豆大島に轟B式土器はオオツタノハガイの貝塚がある下高洞遺跡などがある。この辺りで、黒潮暖流に乗ってやって来た南方系の縄文人との交流もあったかも知れない。また、新潟県糸魚川の長者ヶ原遺跡の翡翠の工房から対馬海流にのってヒスイ製勾玉が青森の三内丸山集落や北海道の集落に届けられたりするようになった。この時代、縄文時代前期前半には西日本の縄文人は、対馬海流に乗って九州南部の島々から九州北部、中国地方の西部、山陰地方、朝鮮半島の南岸まで航海をしていた。それを実証するのは、縄文式土器の種類の中で器面の内外にバイガイなどのアルカ櫛文土器属系二枚貝で条痕調整され、外面の上部に細い粘土の紐を数本貼り付けてある轟B式土器が発見されている。また、九州や沖縄から見つかっている曽畑式土器は、遼河文明・興隆窪文化(紀元前6,200年頃-紀元前5,400年頃)の遺跡から発見された櫛歯状の施文具で幾何学的文様を施した櫛目文土器を模作した土器と言われている。縄文時代には、大陸から渡って来た人達がほとんどいない時代ですから、西日本の縄文人が朝鮮半島に渡って、大陸の文化を吸収していたとしか考えられない。また、ヒスイ製勾玉にしても、翡翠は朝鮮半島では採取できないのになぜ、糸魚川産のヒスイ製勾玉が朝鮮半島や大陸でも見つかっているでしょう。
2015年10月7日

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