いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2015

 日本神話でニニギが高千穂に天孫降臨のときに、アメノオシヒとアマツクメが背に強固な靫を負い、腰に頭椎の太刀を下げ、手に天のはじ弓を持ち、天の真鹿児矢をたばさんで、天孫の先導をした。この時のアメノオシヒの子孫が大伴氏で、第12代景行天皇の時代か第13代成務天皇の時代に、4世紀中期に大伴武日が現れ、大伴の姓を名乗った。その武日の子、武以が第14代仲哀天皇の時代に、大連に就任している。朝廷の直属の伴部を総括し、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていた宮廷を警護する皇居警察や近衛兵の役割を担った。そして、第21代雄略天皇の時代、5世紀後半に大伴室屋が大連になり、ヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に変わって大伴氏が台頭した。そして、第24代仁賢天皇で大臣を務めていた平群真鳥を小泊瀬稚鷦鷯尊(後の第25代武烈天皇)の命(物部麁鹿火の娘を后にしていたが、その娘が平群真鳥の子、平群鮪と通じていたので)により討ち、武烈天皇の時代に大伴金村が大連に就きます。
 この大伴金村は、武烈天皇の崩御で跡継ぎのないので、仁徳天皇の子孫として継体天皇を即位させた。また、百済が512年に高句麗との戦い(新羅がその当時ヤマト朝廷と同盟を結んで、高句麗の駐留軍を全滅させたために、高句麗の長寿王が南下)で北部の領土を失うと南部の任那(ヤマト朝廷と関係があった狗邪韓国、駕洛国などの諸国)の4県割譲要請をしてきた。そこで、大伴金村は、百済の請求が新羅の助勢にあるのでその旨を受け入れた。その時、大伴金村は、その見返りに百済に五経(儒教の経典:詩・書・礼・易・春秋)博士の派遣を依頼している。そして、百済から五経を習得した官僚たちが渡来した。この頃に日本の漢字文化が出来上がったと思われます。
 その後、新羅が任那の南加羅・喙己呑を奪い、大伴金村は奪い返すために近江毛野を新羅に派遣。しかし、新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった筑紫国造磐井に賄賂を贈り、阻止しようとした。そこで、528年に大伴金村は、大連であった物部麁鹿火を北九州に派遣して、磐井を討った。磐井の乱です。529年に近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行った。539年に第29代欽明天皇が即位し、血縁関係を結んだ蘇我稲目が大臣に就任する。大伴金村は、540年に新羅が任那の併合問題で交渉するが失敗におわり、物部尾輿らから外交政策の失政や百済からの賄賂などを追求され失脚した。
 大伴金村が政界から隠居した後、欽明天皇のもとで物部尾輿と蘇我稲目の政権争いに発展していきます。仏教公伝で、廃仏派と崇仏派に分かれて争われることになります。541年に百済の聖明王と任那の復興について協議。しかし、新羅との戦況は百済側に不利で、552年には平壌と漢城を放棄。この頃ですね。聖明王が新羅に対抗するため、さかんにヤマト朝廷に対して援軍を求めた。その見返りに先進の大陸の文化を日本に伝えた。その中に仏教公伝もあります。また、日本最初の暦も、553年に欽明天皇が百済に暦博士の来朝を要請し、このときに伝来した暦が元嘉暦ではないかと言われています。結果的には、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年には任那は滅んでしまいます。
 ヤマト朝廷として、任那が朝鮮半島の基点であったのにその地を失ったことで、日本国の確立に動き出すのですね。それまでに、大陸の文化を百済から摂取していた。その辺りがその当時の政権の賢さですかね。そして、百済も660年に新羅によって滅ぼされます。ヤマト朝廷も最後の抵抗はしますが、朝鮮半島から完全に撤退し、独自の国作りをしていく。そして、第40代天武天皇の時代に日本国が正式に誕生するのです。
2015年12月31日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ヒスイ 日本神話で天孫降臨の時に、ニニキがアマテラスから授けられたという鏡・玉・剣の三種の神器のひとつにヒスイの勾玉があります。このヒスイの勾玉は、縄文時代前期中程から中期末(約5,500年前~約4,000年前)の青森県の三内丸山遺跡からも発見されています。縄文人が5,000年も前からヒスイを扱っていた。それもヒスイの産出地は新潟の糸魚川辺り。そのヒスイが青森で。新潟県の長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっています。ヒスイはヒスイ輝石が原石で、純粋なものは白色ですがそこに鉄やクロムが混じって薄い緑色になります。元々は火成岩の変成岩で、プレートの下部にあるマントルのかんらん岩に水が加わって蛇紋岩化され、糸魚川市の姫川から流れ、日本海の荒れ波に揉まれている間にヒスイ輝石となります。海岸で縄文人が拾って首飾りとして勾玉を作った。
出雲大社の勾玉 一度は平家と源氏の壇ノ浦の戦いで海に沈められた三種の神器ではあるが、勾玉だけは天皇家に無事に戻ってきて、八尺瓊勾玉が今も皇居にあります。誰も見ることはできませんが、出雲大社に保管されている立派な勾玉と変わりがないと思われます。出雲もある勾玉ですが、日本神話でオオクニヌシが高志の国(越の国)からヌナカワヒメを娶っていてこのヌナカワヒメは、糸魚川市にある天津神社の社内に奴奈川神社があり、そこに祀られている。ヌナカワヒメは、ヒスイに関係ある姫でオオクニヌシとの間にタケミナカタを産んでいる。このタケミナカタは、アマテラスが葦原中国の平定させるために高天原から降臨させたタケミカヅチと相撲をして敗れ、母の国、高志の国に帰り、タケミカヅチに追い詰められて諏訪まで逃げた神です。そして、諏訪大社に祀られるようになりました。神話から判断して、この諏訪を含めた新潟、富山付近には縄文人の血を受け継いだ勢力がいたと言ってもいいかも知れない。
 縄文時代から弥生時代に以降していく中で、出雲や北九州に鉄器の文化が入ってきて、その鉄器を手に入れるためにヒスイが利用された。この事実は、日本でもヒスイの生産が新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町など限られ、朝鮮半島や中国には存在しない宝石です。だから、秦の始皇帝などは、中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区から採取される軟玉のヒスイを勾玉として使っていた。ヒスイの値うちは、中国の人も朝鮮の人も知っていた。日本のヒスイは、その人達にとって重宝がられていたことになります。古墳時代に入り、朝鮮半島南部に古墳が出現し、特に新羅側の慶州の古墳に多くの糸魚川姫川から採れたヒスイの勾玉が発見されています。これは何を意味しているのでしょうか。日本国内でも古墳がたくさんあり、弥生時代に朝鮮半島から渡ってきた人達が造築したものと考えられます。しかし、古墳自体が朝鮮からもたらされたのではないということは、古墳の中に埋蔵されていた日本製のヒスイの勾玉が発見されたことにより、さらに明白になりました。縄文時代の末期から弥生時代の前期にかけて、縄文人が朝鮮半島に渡っていたことが土器などからも明らかにされつつあります。神功皇后の時代に新羅と戦ったのか。朝鮮半島南部には、縄文人の血を受け継いでいた同胞がいたからです。また、大伴金持が任那4県の割譲で百済に譲渡したとき蘇我氏が反対し、大伴氏に変わってヤマト朝廷の実権を握っていく。これは、ひょっとして、蘇我氏がヒスイと鉄器の売買の中心氏族であったからという話もあります。実権を握るには財力が必要でしたから。また、今の天皇の最初の血筋とされている第26代継体天皇は、大伴金村が任那4県の割譲で百済に譲渡した裏目から、越前国高向から応神天皇の5代後の末裔とされていますが、ひょっとしてヒスイを財力にしていた縄文人の血を引く豪族ではなかったか。これらは、私の推理ですので学術的な根拠はありません。
勾玉の朝鮮半島南部の分布
2015年12月23日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 旧石器時代前期(400万~20万年前)、日本に住み着いた人類(ネアンデルタール人)は、約125,000人と推測され、打製石器を用いて狩猟生活を送っていたと思われます。出雲市の砂原遺跡から旧石器時代中期(20万~4万年前)に日本最古の打製石器が発見されています。その頃の人口は、約1000,000人から1200,000人だったそうです。旧石器時代後期(4万~1万3千年前)にアフリカで発生した現人類(クロマニョン人)が日本にもやって来て、精密な石器を伝えた。その頃の人口が約2200,000人から3000,000人。この人達(港川人など)が日本人の祖先と思われます。日本は、火山地帯であり、高度の石器を製作するのに適していた花崗岩や玄武岩や安山岩が採れましたから。その中でも精密な打製石器を製作するのに最も優れた黒曜石が日本各地にたくさんありました。朝鮮半島や中国にはほとんど採取できない宝石のような石です。従来住んでいたネアンデルタール人とクロマニョン人とが混合して、島国になった日本列島で縄文時代(1万5,000年前~3,000年前)まで大陸からの渡来人がほとんどこない時代を縄文人は過ごします。
 最後の氷河期を過ぎた縄文時代には、今まで日本に生息していたマツやスギなどの針葉樹の他に大陸から穏やかな気候と共にサクラやブナ、ケヤキなどの広葉樹が西日本を中心に生育するようになっていた。温暖化により海水が上昇してスンダランドが沈没し、その当の人々が丸太舟に乗り、海流に流されて日本にやって来たクロマニョン人もいたと思われます。また、北から狩猟生活を続けていた人達は、日本列島と大陸が陸続きになっていた時に優れた石器を或いは、ナムマン像などを求めてやって来たクロマニョン人もいたと思われます。その縄文人達は、海に囲まれた日本列島で木材を鋭い黒曜石で作った斧で裁断して、石包丁で木を削り、舟を作って海に出て魚を捕り、広葉樹からなる果実を食べて生活するようになった。風媒花としての野性のイネも縄文時代に繁殖するようになったのでしょう。そして、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6,000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかったこともあり、縄文人は陸稲で栽培していた。
 魏志倭人伝に出てくる末盧国の遺跡と言われている佐賀県唐津市の菜畑遺跡では、縄文時代晩期後半、谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった跡が発見され、縄文時代晩期終末(紀元前930年頃)に入ると雑草の種子は大半が水田雑草で占められる。これは何を意味しているか。これは、従来の説では弥生人が水田式稲作を伝えたとなっていますが、縄文人も既に水田式稲作をしていたことになります。弥生人は、朝鮮半島経由で日本にやって来ていますから、縄文人が水田式稲作を朝鮮半島より伝授したことになり、縄文人は朝鮮南部に進出して直に水田式稲作を見て、北九州の地で3,000年程前から水田式稲作をしていたことになります。そして、稲を刈るときに使用されたと思われる石包丁も発見され、この形が韓国の慶尚南道の泗川の石包丁とよく似ています。
石包丁
 菜畑遺跡で水田跡が発見される前に、最古と言われた福岡市博多区の板付遺跡では、旧石器時代の石器も発見され、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の押型文土器が出土しています。この土器は、鉛筆のような丸い棒状の軸に文様を刻んで土器の表面を転がして器面の広い範囲同じ繰り返し文様で中には、米粒で楕円形を表わす文様もあります。このような土器の技法や作り方も朝鮮の櫛目文土器を真似て、縄文土器を製作し、押型文土器に発展してきたかも知れません。縄文人が朝鮮に渡る意味があったのでしょうか。それは、朝鮮半島には優れた石器を作る材料、黒曜石がないからです。縄文人は朝鮮に渡り、朝鮮にない黒曜石や糸魚川から採れるヒスイを持って行き、朝鮮から色々な文化を取り入れていたのではないでしょうか。良い物を取り入板付式壺形土器れるという日本人の性格は、既に縄文時代から受け継がれているのではないでしょうか。一旦、いいとなると日本では凄いスピードで広がり、ダメなものはすぐに廃ります。この傾向も縄文時代から弥生時代に移るとき、弥生人が縄文人を征圧して勝ち取ったのではなく、縄文人が素早く取り入れたと思います。この事実、北部九州に伝播した水田稲作は2~3世代、ほぼ半世紀で西日本一帯に広まっています。たとえば、水田式稲作の農具(石包丁、太形蛤刃石斧、抉入柱状片刃石斧、扁平片刃石斧などの大陸系磨製石器類)と共に、板付式壺形土器を代表とする遠賀川式土器が西日本まで広がり、遠賀川式土器は東北の青森にまで普及した。この現象は、縄文人が朝鮮半島から渡ってきた弥生人を受け入れ、各地に弥生人を呼び寄せ、待遇をよくしていたからに違いない。それと、その当時、大量に渡ってくる弥生人に土地を与えていた縄文人がいたということも言える。
遠賀川式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図
2015年12月18日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 出雲市多伎町砂原の砂原遺跡から、2009年8月に12万年前の古地層中から1点の小石片が発見された。この小石片が日本で最古の石を打ち砕いてつくられた打製石器です。また、岩手県遠野市宮守町にある金取遺跡からも、8~9万年前と見られる地層から打製石器が発見されています。すでに、日本でも人類が12万年前から住んでいたことになります。ただ、この砂原遺跡にしても金取遺跡にしても人骨は発見されていません。残念ながら、日本は更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く人骨が発見されないのです。
 この打製石器の材質に適していると言われる黒曜石も花崗岩で、日本は太古の時代から火山活動が盛んな土地柄ですから、世界でも有数の産出国だったのです。3万5,000年前の高原山黒曜石原産地遺跡群もあり、群馬県みどり市の岩宿遺跡でも1946年に赤城山南東の関東ローム層から黒曜石の打製石器が発見されてい旧石器時代の人びとの狩猟の様子ます。ナウマン象とヤベオオツノジカも日本にいた。その遺跡も野尻湖から1948年に発見されています。そのナウマン象の骨は、3万年~5万年前のものだったらしい。最古の住居の遺跡としては大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で、3万年~1万3,000年前の竪穴式住居が1986年に発見されています。高原山黒曜石原産地遺跡群、岩宿遺跡や野尻湖遺跡やはさみ山遺跡で発見された遺産には、その当時の人々の影が見えます。現在の日本人のY染色体のハプログループD1b(D-M64.1)は約35%にみられ、アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー博士は、「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生した」とする説を唱えておられます。とすると。高原山黒曜石原産地遺跡群、岩宿遺跡や野尻湖遺跡やはさみ山遺跡で生活していた人達は、ハプログループD1b(D-M64.1)をもった縄文人の祖先となりますね。また、ミトコンドリアDNAハプログループで日本人に多いのはハプログループM7aで、約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループ「M」型から分岐したM7より分岐したグループで、約2万5,000年前に「スンダランド」で誕生し北上して日本列島に到達した系統、あるいは、シベリア南部~極東あたりで発生した系統があります。
 では、砂原遺跡や金取遺跡で生活していた人達はどのような人類だったのでしょうか。Y染色体で人類の移動を説明している学者の人達は、ハプログループDの親グループのハプログループDEが約6万年前にホモ・サピエンスとしては初めて紅海を渡って、アフリカ大陸を脱出した。アラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進みイラン付近に至ったと主張しています。では、12万年にいた日本人はホモ・サピエンスではないのでしょうか。ホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてアフリカで現生人類に進化し、約6万年前にアジアにやって来ネアンデルタール人た。とすると12万年にいた日本人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布しており、旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していたネアンデルタール人だったのか。ネアンデルタール人は、約20万年前から生存し、ホモ・サピエンスが新人として世界に散らばった2万年前には絶滅していた。とすると、やはり12万年前にいた日本人は北京原人やジャワ原人のホモ・エレクトスではなく、ネアンデルタール人だと思う。その日本にいたネアンデルタール人とY染色体のハプログループDのホモ・サピエンスが約3万年前に混血して、現在の日本人がもつハプログループD1b(D-M64.1)と変わっていき、日本人だけがもつハプログループを形成されたのではないでしょうか。そのハプログループD1b(D-M64.1)が縄文人に受け継がれた。
 1880年に創刊され、現在アメリカ科学振興協会 (AAAS)によって発行されている学術雑誌『サイエンス』の2010年5月7日に発刊された記事によると、ホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているとの説を発表している。
2015年12月12日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 日本神話と言うと『古事記』や『日本書記』に書かれている神代の物語がもとになっています。このような物語を掲載しようとした第40代天武天皇は、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、673年に即位した。その天武天皇の意志を継いだ持統天皇の妹、第43代元明天皇の命により太安万侶が編纂にかかり、稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録し、その当時の氏族の言い伝えなどを集めて、1年をかけて711年に元明天皇に献上した史記が『古事記』です。稗田阿礼は、岩戸隠れでアマテラスが天岩戸に隠れて世界が暗闇になったときに踊り子として現れた巫女、アメノウズメを祖としている氏族で伊勢の国を治めていた。この稗田阿礼も天武天皇から『帝紀』『旧辞』を誦習するようにと命じられている。『帝紀』も681年に天武天皇の命により、天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が編纂し、皇室の系譜の伝承を記した。この『帝紀』の内容は、『古事記』の中・下巻に記されています。『旧辞』は、記紀の説話・伝承的な部分の元になったもので、各氏族伝来の歴史書だと考えられています。それも、第25代武烈天皇まで、第24代継体天皇からは系図のみとなっています。『古事記』の上巻は、『旧辞』から記載されているのですね。日本神話は、ほとんどが『古事記』の上巻が基になっています。
 日本神話には時代背景が存在しないのだろうか。オオヤマツミやオオワタツミの場合はどうなのだろうか。最初に出てくるオオヤマツミとオオワタツミは、イザナキとイザナミの神産みの神話です。イザナキとイザナミは、大八洲国やその他の小さな島々を産んだ後、家を守る神を産み、そして自然界の神を産みました。その中にオオヤマツミが山の神として出て来ます。最後にイザナミは、火の神、カグツチを産みその出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまい、イザナミは黄泉の国に行ってしまう。この黄泉の国は、出雲と伯耆の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)にイザナミが葬られたので、出雲地方という設定になっています。
 イザナギは黄泉の穢れから身を清めるために、竺紫(九州)の日向(宮崎県)の橘の小門の阿波岐原(現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町)で禊を行った。衣を脱ぐと十二神が生まれた。そして、左目を洗うとアマテラス、右目を洗うとツクヨミ、鼻を洗うとスサノヲの神が生まれた。そのスサノヲはイザナキから海原を治めるように言われるが、その申し出を断り、母のいる黄泉の国(根の国)に行く。次にオオヤマツミが出てくる神話がこの根の国でクシナダヒメを助けるためにヤマタノオロチと戦う。このクシナダヒメの両親、アシナヅチとテナヅチはオオヤマツミの子なのです。
 ニニキが天孫降臨の神話の中もオオヤマツミが出て来ます。アマテラスの子孫となっているニニキが笠沙の岬で美しい娘に逢った。その娘がコノハナノサクヤビメで、ニニキと結ばれ、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生む。このコノハナノサクヤビメの父親がオオヤマツミなのです。このコノハナノサクヤビメの姉のイワナガヒメもニニキのもとにやるのですが、親元に返してしまい、オオヤマツミは出雲のスサノヲの子のヤシマジヌミに嫁がせるという神話もあります。また、コノハナノサクヤビメとイワナガヒメは、伊都国の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石神社に祭神として祀ら、その他にも各地の浅間神社に山の神として祀られています。
三島鴨神社 オオヤマツミが祀られているのは、「三島・山祇信仰」に属し全国の三島神社の総本社、伊豆の三嶋神社が有名で、伊予の大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)から勧請したと伝えられています。また、大山祇神社も全国にあり、伊予の大山祇神社が総本社になっています。この神社は、『伊予国風土記』によると、元々オオヤマツミは百済から渡来して摂津国の御嶋に鎮座し、のち伊予国に勧請されたとあり、伊予では山の神の他に海の神としても祀られ、そして三嶋神社も海の神として祀られた経緯があります。では、百済から摂津に鎮座したとは、大阪府高槻市の三島鴨神社のことで第16代仁徳天皇の時代の出来事で、鴨氏の氏神とされるコトシロヌシもオオヤマツミと共に祀られています。葦原中国平定において、タケミカヅチらがオオクニヌシに対し国譲りを迫ると、オオクニヌシは美保ヶ崎で漁をしている息子のコトシロヌシが答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行きコトシロヌシに国譲りを迫ると、コトシロヌシは「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまったというコトシロヌシのことで、鴨氏のこと。鴨氏は、仁徳天皇の時代に百済から渡ってきた人達となる。また、オオヤマツミの子、コノハナノサクヤビメとイワナガヒメが福岡県糸島市三雲の細石神社に祀られていると言うことは、三雲南小路遺跡がある福岡県糸島市にある伊都国は、百済からの渡来人の国であるかも知れない。そこに何らかの鴨氏が関わっていたと考えても不思議ではない。
三雲南小路遺跡
2015年11月29日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ