いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2014

 記紀に書かれている神武天皇が日向の国から東征で大和に着き、新しい后を現在の大阪府高槻市三島あたりからヒメタタライスケヨリヒメを迎えている。このヒメは、この三島に勢力を持っていて、神武天皇が東征で紀伊の山中で道に迷ったときに八咫烏(やたがらす)となって道案内をしたとされるカモタケツネミノミコトとされるミシマミゾクヒの娘、タマクシヒメと出雲に勢力があったオオクニヌシの子のコトシロヌシとの娘、ヒメタタライスケヨリヒメです。この神話と現在に高槻市に存在する神社と古墳について考策してみた。
 高槻市の三島江には三島鴨神社があり、赤大路町には鴨神社があり、茨木市の五十鈴町に溝咋神社があります。
三島鴨神社の主祭神:オオヤマヅミ、コトシロヌシ
鴨神社の主祭神:オオヤマヅミ、イザナギ、イザナミ、カモノミオヤオオカミ
溝咋神社の主祭神:タマクシヒメ、ヒメタタライスケヨリヒメ
溝咋神社相殿神:ミシマミゾクヒ、アメノヒカタクシヒカタ、スサノヲ、アメノコヤネ
 この神々だけでその当時のことを推測するのは難しいですが、神武天皇自体が存在されていたかも疑問です。ただ、この大阪府の高槻市や茨木市に三島一族が勢力を持っていたことは確かで、その時代が紀元前であるのか、高槻市に存在する古墳群の時代であるかは定かではありません。この三島一族の祖先を考えてみると三島鴨神社にオオヤマヅミが祀られているように、オオヤマヅミといいましたら、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが天孫臨降されたときにコノハナノサクヤビメをみそめた話があり、そのヒメの父親がオオヤマヅミなのです。このオオヤマヅミも渡来系の氏族だと思われます。天皇家が日本に渡ってくる以前にいた氏族ということになります。それと、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギがコノハナノサクヤビメの姉、イハナガヒメを嫌って,オオヤマヅミのところに帰らせた話があり、このヒメがスサノヲの子のヤシマジヌミと結婚すると言う話が「古事記」に載っている。すると、オオヤマヅミの氏族は出雲に行き、オオクニヌシの子、コトシロヌシとも関係があることになり、その出雲の氏族がこの高槻地域に移り住んだことになります。三島鴨神社は、元々四国の伊予の大山祇神社(大三島神社)から来ているとされ、当初は三島神社と名乗っていたようです。それが、天皇家に関係がある加茂氏がこの地にやって来て、三島一族と加茂一族が合流するようになって、現在の名前に変えた。加茂一族は、その神社の他に一族のための神社として、鴨神社を創建し、加茂一族の祖、カモノミオヤオオカミと天皇家に関係があるイザナギ、イザナミを祀り、三島一族の祖、オオヤマヅミを祀ったとされている。溝咋神社は、三島一族の美貌が優れている巫女とされるタマクシヒメとその娘が神武天皇の后になるヒメタタライスケヨリヒメが祀られているわけですが、このヒメタタライスケヨリヒメの名の通り、出雲での鉄の製造方法として、タタラと言うのが付いているので、この三島一族も鉄製造に関わりがあった氏族と考えられ、加茂一族も天皇家が抱えていた鉄製造技術者の集団だったなで、三島一族と加茂一族との合流は可能であったかも知れない。
 では、三島一族と加茂一族がいつ頃合流したか。たとえば、天皇家がヤマト朝廷を立てたころを基準にしたいのですが、それがまたいろいろな説があって難しい。鉄器の製造技術が日本に入ってきたころとすると、紀元前後になるわけで、その頃から、三島一族は北九州から出雲、或いは北九州から伊予を経て、高槻地方にやって来たと考えられます。2世紀から3世紀に掛けて、倭の大乱がおこり、制定してからヤマト朝廷が発足したと考えられます。その倭の大乱のころに加茂一族が高槻地方にやって来て勢力を伸ばしたと推測しますと、加茂一族のカモタケツネミノミコトが三島一族のミシマミゾクヒと同一人物である可能性が強くなってきます。
 神武天皇とヒメタタライスケヨリヒメが婚礼されて、ヤマト朝廷が発足するわけですが、その時期がいつ頃かについては全く解りません。そして、今まで述べてきた神話の話がいつ頃であったかも推測できません。でも、大阪府高槻市と茨木市に三島鴨神社と鴨神社と溝咋神社が存在し、継体天皇の古墳だと言われている茨木市太田3丁目にある太田茶臼山古墳や高槻市郡家新町の今城塚古墳が存在し、5世紀後半から6世紀前半に築かれたと言われています。継体天皇というと、応神天皇から5代後の直径ではない越前の国から即位した天皇ですね。この辺りの時代にこれまでの神話の話が成立したのではないかと思われます。
2014年8月31日

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 神話でオオヤマツミは、イザナギとイザナミの子として生まれた山の神となっている。そして、高天の原でスサノヲが機屋の屋根に穴をあけ、馬の皮を落として、機織りをしているアマテラス(オオヒルメ)の妹(ワカルヒメ)にその皮を頭からかぶり、驚いて機織りから転げ落ちて死んでしまう事件があって、アマテラスは岩戸に隠れられた。そのスサノヲは、その罪で高天の原から追いやられて出雲の国に行き、ヤマタノオロチと戦うことになるくだりで、そこにオオヤマツミの子、アシナヅチがいて、その娘のクシナダヒメと夫婦になり、ヤシマジヌミを生み、その神がオオヤマツミの娘のコノハナノチルヒメ(イワナガヒメ)と。また、高天の原でアマテラスとタカミムスヒと相談して、豊葦原の瑞穂の国が平定され落ち着いたとして、アマテラスの子孫のアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギに天孫降臨の命が出て下界し、ある日に笠沙の岬でオオヤマツミの娘のコノハナノサクヤビメと出会い、夫婦になる。オオヤマツミは姉のイワナガヒメ(コノハナノチルヒメ)も一緒に付けて嫁がせるが、醜いヒメのため、オオヤマツミのところに帰らせる。そして、このイワナガヒメがスサノヲの子、ヤシマヌミに嫁ぐ。
 オオヤマツミを祀っている神社は、『三島・山祇信仰』の愛媛県今治市大三島にある総本社の大山祇神社をはじめとして全国に存在し、その他に静岡県三島市にある総本社の三嶋神社があり、山神社もある。『伊予国風土記』によると推古天皇の時代に現在の今治市大三島に大山祇神社を創建し、オオヤマツミを鎮座され、その御霊の御魂を静岡県三島市の三嶋神社に移されたとあり、推古天皇以前にはすでに「津の国の御島」に、さらにそれより前には百済からオオヤマツミの御霊を持ち寄ったとある。「津の国の御島」とは、大山祇神社関係で最も古いと言われている大阪府高槻市にある三島鴨神社で、鴨氏の名前が付いているように、鴨氏に関係が深い神社となる。この神社には、オオヤマツミの他に鴨氏の氏神であるコトシロヌシも祀られています。鴨氏の祖先は、神武天皇の軍が和歌山の熊野から大和に北上するとき、八咫烏に化けて道案内したカモタケツヌミノミコトであり、山城(高槻市三島郡辺り)の鴨(加茂)氏の始祖でもある。
 このような神話は、古事記や日本書紀に書かれていることで日本の史記ではないですが、このような話の背景には日本の先史時代の状況が隠されています。オオヤマツミと鴨氏の関係、鴨氏は神武天皇がヤマト朝廷を制定した頃、山城の国から京都に入り、さらに天智天皇のころには、琵琶湖の近江で鉄の生産をしていたという史記は残されています。鴨氏はこれらの神話から、元々、百済から来た天孫系の民族なのだということが分かります。 
 弥生時代の遺跡で、伊都国であっただろうと言われている福岡県糸島市の三雲南小路遺跡の近所に細石神社には、オオヤマツミの娘、イワナガヒメとコノハナノサクヤビメが祀られ、三雲南小路遺跡では1号甕棺(王墓)と2号甕棺(王妃墓)が発見されており、一部の説では、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギとコノハナノサクヤビメの墓ではないかと言われています。
 また、福岡県糸島市の遺跡に平原遺跡があり、南北約10.5メートルの長方形の方形周溝墓の1号墓と隅丸方形の墓の2号墓が発掘調査されており、その1号墓の副葬品の中から、「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」が発見され、その「文様」と「大きさ」から「八咫の鏡」とよく似ており、伊勢神宮の八咫鏡も元は同型の鏡であったのではないかと言われていることから、この1号墓はオオヒルメ(アマテラス)の墓ではと、ある一部には神武天皇を生んだタマヨリヒメではないかという説もある。このタマヨリヒメは、ワタツミ(海の神)の娘となっているが、加茂伝説ではカモタケツヌミノミコトの娘となっており、別人ではないかとも言われる。しかし、天皇家と鴨氏との関係で興味深い。
 このように考察していると、紀元前後の日本では、オオヒルメから流れている稲作を中心した民族、後の天皇家と朝鮮半島から流れて来た鉄器を製造する民族、後の鴨氏との関係、関わりがうっすらと見えてくる。
2014年5月11日

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 縄文時代晩期(紀元前900年頃)に日本に住んでいた人々の人口は、小山修三さんによると西日本では10,900人(九州にはその内の6,300人)で、東日本には64,900人(東北にはその内の39,500人)とされている。その当時から水田による稲作が中国からの渡来人によってもたらされた初期の頃です。その頃の中国は、紀元前1,000年頃に周王朝が殷を滅ぼして政権を握った頃で、中国には殷王朝の残党が新天地を求めて、山東半島辺りから九州にやって来た。そして、稲作を伝え、日本に定住。そして、紀元前770年に周の幽王が犬戒に殺されてから、周が東周と西の晋に分裂し、さらに西の晋もさらに紀元前403年に韓、魏、趙に分かれ、東周も実権のない王朝になり、斉、宋、越、呉などの国が戦争に明け暮れた春秋戦国時代が秦の始皇帝が中国を統一する紀元前221年まで、中国の戦乱が続いた。その間に呉や越が滅びたりして、戦乱を逃れて日本に新天地を求めてやって来た渡来人が日本に海航技術や漁業技術を伝え、青銅器なども徐々に伝授された。
 埴原和郎さんによると紀元150年頃には、西日本では292,600人(その内、渡来人が175,600人を占める)で、東日本では302,300人(その内、渡来人が241,800人を占める)となった。縄文人の直系が日本全体では177,500人で、10倍位に人口増加しているが、縄文人と渡来人との混血も増えてきたと考えられる。また、渡来人の合計は417,400人となっている。この結果からも分かるように如何に、中国からの渡来人が多かったかを知ることができる。紀元前206年に秦が滅んでから、秦の残党も日本にやって来て、紀元前100年頃から、中国の北東部にいたワイ人などが前漢の締め付けや鮮卑の侵略から逃れるため朝鮮半島を南下し、その一部が北九州にやって来て住み着いた。
 当然、日本では、縄文人の直系と殷王朝の残党、呉越の残党が住み着いていたところに新たに秦の残党、紅山文化の流れをくむワイ人などの新渡来人も入り乱れて領土問題が発生しても不思議ではない。この辺りが魏志倭人伝で伝えられている倭国大乱になるのでしょう。
 古事記は、天武天皇の時代に『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を稗田阿礼が「誦習」して、太安万侶が書き記し、編纂したもの。天皇家で言い伝えされてきた物語を記載されているので、実際のこともあれば、着色されたり、風化したりで本当のこととは疑い深いですが、言い伝えだけで1,000年以上前のカムヤマトイハレビコが初代天皇になった事実を伝えているとは考え難いし、言い伝えが続いたとしても500年もとなると。古事記で崇神天皇の時代に国の乱れが収まったとある。この国の乱れが紀元前200年頃の倭国大乱ではなかったのではないか。『先代旧辞』や『帝紀』などは推古天皇の時代に厩戸王子によってまとめられた『国記』や『天皇記』と同時期のもので、紀元600年頃に編纂されていると思われます。すると、後漢書によると倭国大乱は桓帝と霊帝の間とされているので、紀元146年から189年頃となると約400年となり、400年という歳月であれば言い伝えも微かに存在するかも知れない。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼と古事記に出てくる崇神天皇とが同時代の人であったかというとそれも疑問である。
2014年2月23日

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 不老不死思想は、中国の伝統的な生命観ですが、司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝が「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と聞き、不老不死の薬を求めて東方に3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を送った。この東方が蓬莱・方丈・瀛州のことで、ここには仙人が住むという蓬莱山があり、この地方に徐福がいて、秦の始皇帝の命で日本に1,000人ほど送り込んできた。 
 西洋でも、紀元前2,000年頃のメソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』の中に不老不死の話が出てきます。シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王ギルガメシュが、後に伝説化して物語の主人公にされた。その話は、ギルガメシュが永遠の命を求める旅に出て、さまざまな冒険を繰り広げ、多くの冒険の最後に、神が起こした大洪水から箱舟を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナピシュティムに会う。大洪水に関する長い説話ののちに、ウトナピシュティムから不死の薬草のありかを聞きだし、手に入れるが、蛇に食べられてしまう。その他にも、ギリシア神話やローマ神話に出てくるティーターンで、ウーラノスとガイアの間に生まれた12柱の神々の兄弟姉妹を指す(ティーターン十二神)の話で、ウーラノス(天)の王権を簒奪したクロノスを初め、オリュンポスの神々に先行する古の神々が作り出した不老不死の話。
 インドの古代インドの聖典で紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書、ヴェーダのひとつの『リグ・ヴェーダ』が紀元前1,100年頃には編集して完成されています。この聖典は、中央アジアにいたインド・アーリア人が紀元前1,700年頃にインドにもたらしたもので、紀元前500年頃、釈迦が仏教を説いた基となっているバラモン教の経典です。
 思想の成立はこのようなのですが、不老不死のマジックは西洋の「elixir of life」(エリクサー)という錬金術の霊薬。「生命のエリクシール」は人体を永遠不滅に変えて不老不死を得ることができるとされ、この場合は霊薬、エリクサーとも呼ばれる。それ故、錬金術は神が世界を創造した過程を再現する大いなる作業であるとされ、錬金術で黒は富や財産を表し、白は不老不死の永遠、赤は神との合一を意味する。中国では、『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれ、厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術です。
 不死不老思想には、神とか仙人とかが関わり合い、ヒューマン信仰に関係があったのですね。だから、紀元前200年頃、中国から徐福率いる冶金術を持った人々が日本にやって来て、辰砂などを探し、鉄文化を伝えた。そして、徐福伝説が生まれ、仙人という長寿の話が今でも日本に残っているのですね。
2014年1月2日

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