いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2013

 中国の三大文明の一つに遼河文明があり、紀元前6,200年ごろから満州南部、中国東北の遼河流域で起こった。この文明の中には、興隆窪文化(紀元前6,200年頃~紀元前5,400年頃)、新楽文化(紀元前5,200年頃-紀元前4,800年頃)、趙宝溝文化(紀元前5,400年頃-紀元前4,500年頃)、紅山文化(紀元前4,700年頃~紀元前2,900年頃)、夏家店下層文化(紀元前2,000年頃~紀元前1,500年頃)、夏家店上層文化(紀元前1,100年頃~紀元前500年頃)があります。1,908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したこともあって、紅山文化が遼河文明の中心と考えられます。
 紅山文化の特徴は、墳墓から翡翠や石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土し、紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形もたくさん見つかっています。1,983年に遼寧省凌源市から建平県にかけて発見された牛河梁遺跡からは、石の床と彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、目が翡翠でできた陶製の女性頭像が発見されたりもしています。翡翠や龍の話は、興隆窪文化から脈々続いてきたのでしょう。興隆窪文化の遺跡からは、中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されているくらいですから。興隆窪文化の以前の遼河地方はどのようだったかは、学問的には語られていません。たぶん翡翠の原産地がロシアの西サヤン山脈やカザフスタン、中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区となる訳で、その地域から遼河地方に流れてきたと考えられます。また、龍においても元々は、ワニではないかという説もあり、ロシアやベラルーシ、ウクライナでは、ドラゴンは悪の存在であり、四本の足を持つ獣とされている。そう高くはないが知性を持ち、しばしば小さな町や村を襲い、金や食物を奪う。頭の数は1〜7つ、もしくはそれ以上であるが、3〜7の頭を持つのがもっとも一般的とされている。この龍の話も中央アジアの遊牧民族の侵攻を度々受けており残っているのでしょう。原始宗教や地母神信仰における自然や不死の象徴として崇められる蛇が神格化された存在になったと思われます。
 この文化の流れが韓国の歴史学者達は、満州にあった扶余が高句麗や百済などを建国したという伝承に紅山文化を関係があると言っているが、果たしてそうでしょうか。「古朝鮮」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている。しかし、紅山文化の後を継いだ夏家店下層文化では、少数の金、鉛、漆器、翡翠、銅器、青銅器も見つかっていて、陶器は三足型、銅器・青銅器は耳輪型が多い。骨を使った卜占も行われた。土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ており、殷文化に属する人々が北東へ移住し、または遼河の文化に属する人々が気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したようです。遼河文明が中国に流れ込んだ感じで、この地域はその後、乾燥化と寒冷化が進み生産様式の異なる牧畜を主とする夏家店上層文化が広まった。この夏家店上層文化では、主に牧畜を行い、農耕や陶器の製作に関する技術は大きく後退して直筒型の形状をした陶器が増え、剣、槍、戈、鏃などの青銅器の出土が増え、装飾が見られないか乏しくなっている。地域的には、内蒙古自治区赤峰市の夏家店遺跡を中心にして、北東の草原から丘陵地帯に居たのちの東胡となる牧畜民が南下した区域で、黒竜江省大慶市肇源県の白金宝遺跡に代表される白金宝文化などと密接な関連があるみたいです。韓国の歴史学者達が「古朝鮮」文明と言っているのは、夏家店上層文化のことを言っているのでしょう。
 日本において、紅山文化がもたらした翡翠や龍の伝説を考えると中国に夏王朝(紀元前2,070年頃~紀元前1,600年頃)の河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡には、トルコ石で表現された龍、銅爵、宮殿区、龍の文様の入った玉璋が発掘されており、二里頭文化も遼河流域の興隆窪文化、紅山文化の影響を受けたと考えられます。そして、夏王朝が殷王朝(紀元前1,600年頃~紀元前1,046年)滅ぼされて、その末裔が日本に渡り、或いは殷王朝が周王朝に滅ぼされて、その殷王朝の末裔が日本に渡って、翡翠や龍の伝説を伝えたと。「古朝鮮」文明が日本に翡翠の勾玉やヤマタノオロチの神話を伝えたとは考えにくい。
2013年12月8日

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 縄文時代の始まりは、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当し、紀元前14,500年頃からと言われています。日本の縄文時代草創期には、鹿児島市にある加栗山遺跡や掃除山遺跡、鹿児島県霧島市にある上野原遺跡があり、縄文時代早期前半には、関東地方の東京都府中市の武蔵台遺跡等があり、縄文時代早期中頃には、北海道函館市の中野B遺跡や静岡県富士宮市の若宮遺跡等があります。縄文時代草創期には、北海道と樺太は陸続きで、冬には津軽海峡と北海道もつながり、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬はひとつの陸地でした。その頃の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現した。そして、その豊富な雪解け水によって日本海側にブナなどの森林が生育して、中国大陸からやって来たかも知れない縄文時代の人々が日本に住み着いた。
 紀元前11,000年頃から紀元前9,000年頃に、ほぼ日本は完全に大陸から離れて、現在の姿と環境を整えた事になったのですが、縄文時代の草創期から早期の遺跡群からみると日本に大陸から土偶や翡翠、龍の逸話をもたらした。土偶の日本の最古のものは、三重県松阪市飯南町粥見井尻遺跡で見つかった紀元前10,000年頃〜紀元前9,000年頃の土偶2点が見つかっています。縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡、青森市の三内丸山遺跡には、土偶だけでなく日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。
 土偶は櫛目文土器を象徴する製品で、ルーマニア北東部、モルドバ、ウクライナ南西部、黒海北東部からカスピ海北部、コーカサス山脈の北側に栄えたククテニ文化(紀元前5,500年~紀元前2,750年)とか、新石器時代のヨーロッパ北東部、現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった櫛目文土器文化(紀元前4,200年~紀元前2,000年)にも土偶の文化が存在し、またこの地方では琥珀が大量に取れる土地でもあります。ククテニ文化以前では、紀元前8,500年頃にレバント(エリコ、パレスチナ)に現れるナトゥーフ文化で、野生の穀物を開拓し、農耕を始めた人々が北に進み、ウクライナ南西部などのククテニ文化を築き、西に進んでヨーロッパ北部などの櫛目文土器文化を。さらに東部に進んで、ウクライナ南西部からバクトリア地方から中国の北東部で遼河文明が発生した興隆窪文化(紀元前6,200年~紀元前5,400年)を築いた。日本の粥見井尻遺跡で土偶が紀元前10,000年頃〜紀元前9,000年頃には発見されているということは、ナトゥーフ文化を築いた人達の祖先がすでに野生の穀物を持って、ククテニ文化や興隆窪文化が発展してきた経路をつたって、まだ陸続きの日本にやって来たことに。
 アレクサンドロス3世が、インドの手前まで攻め込んできて、シルクロードの道が開いたと言われているが、紀元前9,000年頃からメソポタミア地方と中国とは農耕技術や銅器、青銅器でつながっていたと考えられる。また、翡翠も中国のタクラマカン砂漠の北側(中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区が産地)に翡翠が取れるところがあります。そこは、バクトリアからウイグル地区に入るところでメソポタミアから流れてくる文化もこの地を通ったと思われます。翡翠で作られた玉龍ですが、龍の崇拝も中国だけのものと考えがちですが、インドの蛇神であり水神でもあるナーガもアーリア人が伝えた龍ですし、ギリシャ神話やキリスト教にもドラゴンがでてきます。日本の翡翠も龍の逸話も基を正せば、紀元前11,000年頃から紀元前9,000年頃にメソポタミア地方から流れてきた文化と一緒に日本にやって来た。ただし、メソポタミアの民族が日本にやって来たというと飛躍になります。各地でメソポタミアの文化が浸透し、それぞれの民族が少しずつ移動し、入れ替わって日本に農耕や土偶や翡翠の文化を伝えた。長い年月を掛けて、人々が移り住んできたのでしょう。
2013年8月13日

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sansyu_shinki 日本神話では、天津日高彦瓊瓊杵尊が高千穂に天孫降臨する時に、天照大御神が高天原で授けたのが三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)であると古事記や日本書記に記載されている。天津日高彦瓊瓊杵尊は、神武天皇の曾祖父にあたり、神武天皇が即位されたのが紀元前660年とされている。この頃の日本には、まだ青銅器が伝わっていないので、神武天皇の存在や即位された年代の設定が間違っているのでしょう。
 中国の紀元前660年頃は、春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)で、周の幽王が紀元前771年に殺さから、東は斉(周建国の大功臣・太公望を始祖とする)、西は秦(西の戎と戦って勝利し、百里奚などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた)、南は楚(周から封建された国ではなく、実力により湖北・湖南を押さえて立国した)、北は晋(武公・献公の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張した)、その他に宋(殷の遺民たちの国)、鄭(周の宣王の同母弟、姫友の国)、呉(周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯と次弟の虞仲の国、句呉)、越(長江流域の百越に属する民族の国)などに分かれた時代です。ここで、三種の神器に関係している国は、秦、晋(戦国時代の魏、韓、趙)、斉だと思います。
 魏志倭人伝によると邪馬台国女王の臺與が魏へ勾玉を進呈しているが、その勾玉は翡翠であったとされることから、三種の神器のひとつ、八尺瓊勾玉の素材は翡翠であったと推測される。この翡翠を装飾品として扱っていたのが、河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4,700年頃から紀元前2,900年頃に存在した紅山文化で、墳墓からは、動物の形をした翡翠(中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区が産地)の装飾品が多く出土し、特に龍の形で円形になっている玉龍が発見され、中国の龍の崇拝は、この紅山文化から来ている。また、紅山文化の末期には青銅の環も発見されている。
dragon 紅山文化が栄えた西には、タクラマカン砂漠、そしてバクトリア地方がありますから、インドやペルシアの青銅器や龍(ドラゴン)の崇拝の文化が流れて来ても不思議ではない。そして、紀元前2,900年頃から紀元前600年頃までに、紅山文化が栄えた地域には夏家店下層文化(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)が続き、この文化を支えた人々が砂漠地帯を西に向かった。そして、内モンゴル南部のオルドス地方にオルドス青銅器文化(紀元前500年頃~紀元前後の頃)を築いた。その頃には、紀元前900年頃に秦の祖、非子が張家川回族自治県一帯(甘粛省天水市)で勢力を伸ばしていた秦がこのオルドス青銅器文化や、タクラマカン砂漠やチベットから流れてくる文化を取り入れ、秦の始皇帝(紀元前246年~紀元前210年)が中国を統一し、陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある秦の始皇帝陵には、兵馬俑坑が3抗あり、戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8,000体、みんな東を向いている。秦の代々の国王は、主に西戎と抗争しながら領土を広げ、西域の人々や北のオルドス地方の人々を国内に住ませていたようです。秦の陵からそれらの人々の骨も発見されています。
 秦の始皇帝は、不老不死の薬(水銀)を求めて全国を巡回し、斉国の琅邪の出身の徐福に巡り合う。そして、徐福の命により秦の文化を持った人々が日本に渡り、また秦が前漢の武帝に滅ぼされてから、秦の人々は燕の国から朝鮮半島に移住し、朝鮮半島から日本に渡ってきた。この人々が秦氏を名乗り、神社の建立から前方後円墳を築きあげた。日本で採取できる翡翠で勾玉を作り、青銅器で鏡を作り、鉄鉱石から剣を作ったのでしょう。
 日本神話に出てくる天照大御神の話や高天原の話は、秦の北にいた紅山文化の流れを汲む人々の話ではないでしょうか。また、神武天皇が存在していたかどうかは分かりませんが、存在していたとすると秦の人々が日本に渡って来た頃、紀元前1世紀から紀元1世紀位の人物ではないかと思われます。
2013年4月29日

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 中国の神話に三皇五帝の話があります。その神話で登場する人物に三皇の一人、神農(炎帝)がいます。神農は、紀元前2,740年頃の古代中国の王で120歳まで生きたと言われています。この頃、中国では新石器時代の仰韶文化(紀元前5,000年頃~紀元前3,000年頃)が河南省、陝西省および山西省に広がっていました。その後、黄帝((紀元前2,510年~紀元前2,448年)は、長江文明の良渚文化(紀元前3,500年頃~紀元前2,200年頃)の象徴として扱われ、ミャオ族が中心になっていた新石器時代後期の龍山文化(紀元前3,000年頃~紀元前2,000年頃)との争いがあり、黄帝を代表とする長江勢力が北上して、中国の中華思想の中心地、中原を占領する。この勢力が、夏王朝(紀元前2,070年頃~紀元前1,600年頃)を築く。なお、龍山文化は黄河流域の地形に合わせて、中原の河南龍山文化、渭河沿いの陝西龍山文化、黄河最下流の山東龍山文化など地域ごとにさまざまに分化して、特に後期には、渭河沿いが後にシルクロードの交易路の起点となっていく。そして、龍山文化後期には、西域から青銅器文化が流れてくる。
 中国の中華思想には、四方に居住していた異民族に対して四夷と言って、東夷、北狄、西戎、南蛮と表現しています。
 東夷は、周王朝以前では江蘇省や山東省あたりの人々。黄帝(紀元前2,510年~紀元前2,448年)が蚩尤と大戦争になり、涿鹿(河北省張家口市付近)の戦いで勝利を治め、蚩尤に味方したミャオ族の祖、九黎族の人々を東夷と言った。秦以降は中国東北部の夫餘国、高句麗、東沃沮、北沃沮、肅慎氏(挹婁)、濊、韓(三韓)、倭人(倭国)、百済国、加羅国、勿吉国(靺鞨)、失韋国(室韋)、豆莫婁国、地豆于国、庫莫奚国(奚)、契丹国、烏洛侯国、裨離国、養雲国、寇莫汗国、一群国、新羅、琉求国(流求国)、日本国、流鬼を指すようになりました。
 北狄は、周王朝以前ではユーラシア中北部のヴォルガ川、アラル海からシベリア南部のエニセイ川上流域にかけて栄えたカラスク文化(紀元前1,500年~800年頃)の人々。このカラスク文化は、アファナシェヴォ文化、アンドロノヴォ文化と同地域に栄え青銅器時代に属します。また、満州南部、中国東北の遼河流域で起こった遼河文明の興隆窪文化(紀元前6,200年頃~紀元前5,400年頃)から河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部掛けての紅山文化(紀元前4,700年頃~紀元前2,900年頃)の新石器時代の文化の後、中国東北部、北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした夏家店下層文化(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)で青銅器が見つかっています。オルドス青銅器文化(紀元前500年頃~紀元前後の頃)は、そのカラスク文化を支えた人々が南下し、またその地方に根付いていた夏家店下層文化をもとに、内モンゴル南部のオルドス地方など、陰山山脈と万里の長城にはさまれた地域に栄えた。春秋・戦国時代の中国で北狄と言われたのが、オルドス青銅器文化の人々のことです。この地域に青銅器が取り入れられたのは、遊牧民族の特性を生かしてアンドロノヴォ文化の地域やサカ人(塞族)が支配するバクトリア地方にまで移動していたのでしょう。そして、秦の時代から漢の時代に掛けて、オルドス地方にもスキタイと関係がある匈奴がこの地域を支配するようになって、匈奴が北狄と言われるようになりました。また、内モンゴルを支配していた匈奴の北には、内モンゴル東部から満州西部に住んでいた遊牧民族、東胡がいました。この東胡は、殷王朝晩期に遼西で栄えた夏家店下層文化を征服して断続的に入れ替わった遊牧生活を営んでいた集団のうち、故地に残留した部族が東胡の祖と言われています。東胡には、紅山文化から夏家店下層文化の継承と夏家店下層文化崩壊後に殷王朝からの侵略により、青銅器文化が伝わったと考えられます。
ortos
 西戎は、殷王朝が夏王朝を倒すため、戦車(スポール型車輪のついたチャリオット)を使っていますので、殷王朝にはアンドロノヴォ文化のシンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム文化時代の影響があると思われ、古代ペルシアのゾロアスター教のも影響を受けた人々のことです。チベット族、納西族、羌族の先祖と言われている古羌がタクラマカン砂漠の周辺にいた。その砂漠より西に行くと中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方のソグディアナがあり、イラン系のオアシス灌漑農耕民族、ソグド人やサカ人が住んでいた。周王朝の武王が殷王朝の紂王を滅ぼした時に陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた羌、葷粥、氐族の西戎が協力している。しかし、周王朝の幽王の時代に西戎の犬戎が氾濫を起こして、春秋時代に入り、秦の穆公は、度々戎を討った。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。その西戎の民族がチベット族や彝族とみられている。春秋・戦国時代に掛けて、西戎の人々はタクラマカン砂漠の周辺にいたチベット族、納西族、羌族、彝族、葷粥、氐族でした。その中で、敦煌付近にいた月氏が勢力を広げ、北の匈奴と戦い、漢の孝文帝(在位:前180年~前157年)の時代になって匈奴右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。このように、西戎にはアンドロノヴォ文化を築いた人達の一部が流れ込み、または古代ペルシア文化をもったソグディアナにいたソグド人やサカ人もいた。そして、古代からこの地にいたチベット族や羌族と交じり合って月氏のような人々がタクラマカン砂漠の周辺にいたことになる。そのような環境で青銅器は西域から中国に伝わった。
 最後に、南蛮は、インドでドラヴィダ人によって築かれたインダス文明(紀元前2,600年~紀元前1,800年)によって、メソポタミア地方から青銅器が伝わり、このドラヴィダ人は、紀元前1,200年頃に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり一部が南インドに移住し、さらに東南アジアに移動し、東南アジアの人々と交わった。そして、ドラヴィダ人は海に精通していたので、黄帝と戦った敗北し、南下したミャオ族(苗族)などと交わったのではないかと思われる。殷王朝を滅ぼした周王朝の祖、古公亶父がいました。その子に太伯・虞仲・季歴がいましたが、太伯・虞仲は弟の季歴に周王朝を譲って、南の荊蛮の地に句呉の国を建国した。その地にいた人達が黎族(リー族)です。この黎族は水軍をもつ人々で、ドラヴィダ人と何らかの関係があったようです。東南アジア最古の青銅器文化として知られるドンソン文化(紀元前300頃~紀元100年頃)を発達させキン族もドラヴィダ人と何らかの関係があったと思われます。
xiyu_city
 日本に関係がある中国からの渡来人は、紀元前400年頃から南蛮の呉や越の国からやって来た。そして、紀元前100年頃から朝鮮半島からやって来ます。その渡来人は西域から時代を潜り向け、日本に渡って来たのでしょう。西域の青銅器文化を持って。
2013年4月4日

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 秦の始皇帝(在位:紀元前246年~紀元前210年)の時代、西域には月氏がいて、東北には殷晩期に遼西で栄えた夏家店下層文化(紅山文化から続く、紀元前2,000年から紀元前1,500年頃の現中国東北部、北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした文化)を征服した東胡が、まだ小国ではあるがスキタイの東方起源説だと言われている匈奴が西北にいた。その頃、匈奴の単于頭曼は、太子である冒頓を廃してその弟を太子にしようと、冒頓を月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を急襲してきた。これに怒った月氏は冒頓を殺そうとしたが、あと少しの所で逃げられてしまう。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし、そのまま西へ転じて月氏を敗走させ、次いで南の楼煩、白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築いた。月氏は、その後も依然として敦煌付近にいたが、漢の孝文帝(在位:紀元前180年~紀元前157年)の時代になって匈奴右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。イシク湖周辺に逃れてきた月氏の残党(大月氏)は、もともとそこにいたサカ族の王を駆逐してその地に居座った。しかし、冒頓の子、老上単于(在位:紀元前174年~紀元前161年)の命により、烏孫の昆莫が攻めてきたため、大月氏はまた西へ逃れ、最終的に中央アジアのソグディアナに落ち着いた。
 紀元前141年に漢の武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)は、対匈奴積極策として張騫を西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことが目的で、西域に派遣している。この時、大月氏の占領下で存在した大夏国に立ち寄っている。このトハリスタンは、アム川の南に位置し、ペルシア文明に大きな影響を与えたゾロアスbactriaター教の開祖であるゾロアスターが育ったバクトリア地方なのです。紀元前500年頃のバクトリアでは、支配階級はペルシア人とスキタイ系のサカ人とによって構成されていたものと考えられ、バクトリア地方は、もともとアッシリアが分裂してできた4王国の一つのメディア王国の一部です。その後、紀元前518年頃、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の時代に征服され、ペルシア帝国の一部となった。さらにその後、紀元前328年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王によって征服された。大王の死後はセレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けた。その後、バクトリア地方は、バクトラを中心として建てられたギリシア人王国、グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃~紀元前130年頃)が支配していた。この国を中国の史記では大夏国となるのです。グレコ・バクトリア王国の末期の国王、エウクラティデス1世(紀元前171年~紀元前145年頃)は、インド・グリーク朝のデメトリオス2世を倒し、西北インドをふたたび支配下に置くことに成功する。しかし、インド遠征から帰還する際、王国の共同統治者にしておいた息子のヘリオクレスによって殺され、ヘリオクレスがグレコ・バクトリア王国の君主となった。しかし、ヘリオクレスの治世は長く続かず、紀元前140年~紀元前130年の間に北の遊牧騎馬民族であるアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイの4種族に侵攻され、王国は滅ぼされた。このトカロイとはトハラ人のことで、バクトリアがトハラ人の土地という意味でトハリスタンと呼ばれるようになった地域に住んだ人々を指し、中国や日本の史書では吐火羅人と表記される。またサカラウロイとは、バクトリア地方に以前から住んでいたサカ人のことなのでしょう。
 バクトリア地方の大夏国を大月氏が占領することになるのですが、漢の武帝の同盟を結ぶ要求に対して、大月氏が受け入れなかったのはこのバクトリア地方が、ペルシアからギリシャに至る交易の中心地だったからではないでしょうか。
2013年3月17日

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