いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2012

 青森から鹿児島に至る各地で徐福の伝説があり、徐福のゆかりの地として有名なのが、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などです。では、中国において徐福はどのような人物だったのでしょうか。
 徐福は春秋戦国時代の斉の国の人で、現代の山東省の生まれです。この山東省泰安市に泰山という山があり、不老不死の思想、仙術を使い仙人になる教え、道教の聖地があります。紀元前219年に中国を統一し、老化しても現在の境遇を、死後においても永遠の地位を望むようになっていた秦の始皇帝が第1回目の天下巡遊として、泰山を訪れ、封禅の儀(帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式)を行った後、神仙思想に出会う。そして、不老不死を唱える方士が現れ、始皇帝に面談してきた。泰山を経て、始皇帝の刻石を建てるため琅邪(山東省諸城市)に着いた時、方士の一人、琅邪出身の徐福が始皇帝に面談し、海の東方に三神山(蓬莱、方丈、瀛州)があり、そこには1,000歳の仙人がいて、不老不死の霊薬があると進言し、始皇帝から巨額の金銀を譲り受けた。翌年、始皇帝は第2回目の天下巡遊を行い、琅邪に立ち寄った。そして、徐福に会いその後の状況を問い質したところ、風に邪魔されて航海に失敗した事を告げ、ついに徐福自ら、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、朝鮮半島経由で日本に辿り着いた。日本に不老不死の霊薬など有るわけがなく、徐福はそのまま日本に住み着き、王になった。このようなことが司馬遷の「史記」に記載されている。そして、紀元前210年に始皇帝は第4回目の天下巡遊で、平原津(山東省平原県)で病気になり、沙丘(河北省平郷県)で死去した。病気の原因は、不老の妙薬と言われていた水銀の中毒だった。
 日本の伝説では、徐福が中国の文化を伝えたとなっているが、実際はそうであったかは疑問に思います。徐福は歴史上の人物であることは確かですが、日本に住み着いて、王にまでなったのでしょうか。朝鮮半島にも徐福の伝説はあります。中国で徐福が東方に不老不死の島があることを山東省にいた人々に訴えたのではないでしょうか。秦の始皇帝の凶行政治に耐えられなくなった斉や燕の庶民が、当時の神仙思想に憧れて、朝鮮半島に逃れ、南朝鮮で辰国を建国し、日本に渡ってきた。それと、秦の始皇帝が不老不死の妙薬、水銀を求めて日本にやって来た者もいるかも知れません。
 秦の始皇帝の時代から後漢の光武帝の時代までに、北九州や出雲に青銅器、鉄器、陶器、貨幣等の中国の文化が流れ込み、朝鮮半島の南端で交易が盛んになった。大和朝廷の氏族の中で、秦氏などは秦からの遺民で、三韓時代の辰韓(秦韓)や弁韓の加羅から渡ってきたと言われ、古墳の埴輪を発明した土師氏も出雲や吉備の土着した豪族ですが、元は秦の遺民かも知れない。秦氏にしても、土師氏にしても土木を得意としていた豪族ですから。秦の始皇帝陵や万里の長城や兵馬俑などを作った秦の遺民であれば、日本の古墳など容易なことだったのでしょう。
2012年10月3日

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 最終氷期(70,000年前~紀元前11,000年頃)が終了し、アレレード期、地球が温暖化してきたが、それから直ぐにヤンガードリアス期(紀元前10,900年~紀元前9,500年)がはじまり、数10年ごとに寒冷化の気候変化がおこり、旱魃や乾燥地帯が出現した。その後、亜旧石器時代(紀元前9,500年~紀元前8,000年)には、最終氷期時代に人類は狩猟を中心に生活していたのが、最終氷期が終わり、地球が温暖化したことにより、人類はライムギやヒトツプコムギ、エンメル麦、ヒユ類などの野生植物を採取して生活を。しかし、ヤンガードリアス期による気候の変化により、これらの野生植物は減少し、それらの野生植物を栽培しはじめた。これが農耕の始まりです。その頃、レバトン(シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル)の南部にナトゥーフ文化を築く。
 ナトゥーフ文化が発生したレバトンの南部から北東部に、テル・アブ・フレイラ遺跡があり、人類最古の穀物(ライムギ)の栽培跡(紀元前9,050年頃)が発見されています。このテル・アブ・フレイラーには、100人から200人位の人が住んでいた円形の集落が形成され、木や小枝で住居が作られていたようです。
 以前、NHKスペシャルで、「人類の起源」という番組がありました。そこでアフリカを出た人類が小麦の種を持って、東へ西へと農耕を広めて言ったと放映されました。イメージ的にはよくできた番組だったのですが、実際にはレバトンで芽生えた農耕技術が水源を求めて、新石器時代になって、ハーブル川流域のハフラ文化(紀元前6,000年~紀元前5,300年)そして、チグリス・ユーフラシス川の下流に移り、ウバイド文化(紀元前5,500年~紀元前3,500年)によって、農耕の灌漑が出現し、メソポタミア文明に繋がっていく。NHKスペシャルの「人類の起源」ではないですが、農耕の文化がレバトンのナトゥーフ文化から全世界に広がっていったことは確かです。
 農耕の灌漑技術は、メソポタミアからインド、そして中国、最後に日本に渡ってきた。メソポタミア文明を築いたシュメール人が最後に日本に渡って来た訳ではないのです。中国で発生した稲も、紀元前10,000年前頃には陸稲で栽培されていたし、日本人にしても中国人にしても、最後氷期の初期にアフリカを出て、石器文化を持ってメソポタミアからインド、中央アジアから中国、バルカル湖周辺から日本に渡ってきている。また、中国南部や東南アジア辺りから日本に渡ってきている。
 文化的な流れから、石器文化があり、稲作文化、銅文化、青銅器文化、鉄器文化によって、人類が発展し、人口を増やしてきた。人類が文化を持って移動し、その地で混血、同化し、世界各地の現在の民族分布になっている。
2012年9月17日

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 メソポタミア文明(紀元前3,500年~紀元前330年)は、シュメール人がチグリス川の下流のウルクを拠点にウルク文化(紀元前3,500年~紀元前2,350年)を築いてから、チグリス・ユーフラシス川の上流にいたセム系のアガッド人によるアガッド王朝時代(紀元前2,350年~紀元前2,113年)を経て、最後のシュメール人の王朝、ウル第三王朝時代(紀元前2,113年~紀元前2,006年)、シリアにいた遊牧民のアムル人の諸王国時代(紀元前2,006年~紀元前1,894年)、バビロニア人によるバビロニア王国(紀元前1,894年~紀元前539年)、アレキサンドロス3世がアケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)を滅ぼすまで続いた。そのメソポタミア文明の基礎を作ったのがウバイド人によるウバイド文化(紀元前5,500年~紀元前3,500年)です。
 紀元前10,000年頃に氷河期が終わり、地球が温暖化の始まりが紀元前8,500年頃、人類はレバント(シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル)に生息していた野生の小麦をもとに天水農耕をはじめた。その時期は新石器時代。その後、シリアの北東部のハーブル川流域にハフラ文化(紀元前6,000年~紀元前5,300年)が栄え、ザグロス山脈の北西部に紀元前5,500年頃からウバイド文化がハフラ文化の引継ぎとしてはじまった。農地の拡大を求めて、チグリス・ユーフラシス川の下流の乾燥地帯にウバイド人は移動し、ハフラ文化でトルクメニスタン南部・イラン北部地方の銅を採掘し、銅器が作られていたのを車輪の発明や農具などに利用するようになった。そして、ウバイド文化中期(紀元前4,800年~紀元前4,500年)に灌漑農耕を考案し、大規模な集落ができるようになり、ウバイド文化後期(紀元前4,500年~紀元前4,000年)には都市化が進み、西はシリアの地中海沿岸からザグロス山脈沿いに東方向へ、南はカタールなどのペルシア湾沿岸にまで浸透していった。そして、紀元前3,500年頃にシュメール人によるウルク文化がはじまる。その頃には、銅器も銅とスズを混合した青銅器が生まれ、シュメール人による楔形文字、月と太陽の周期をもとにした太陰太陽暦、金星と太陽の周期からの六十進記数法、のこぎり、ハンマ、船、日干し煉瓦などを発明した。
 シュメール人もどのような人種であったか分らないが、ウバイド人もはっきりは分らない。ウバイド人の社会的集団には、穀物や家畜を扱う農民、家畜を追って生活をする遊牧民、葦の家で暮らす漁労民に分かれていた。シュメール人がメソポタミアで文明を築くようになって、ウバイド人は西へ行き、古代ギリシャの神殿、北へは鉄器を駆使したヒッタイトのアナトリア半島に、東へはインダス文明を築いたドラヴィタ人のインドに移動していった。ウバイド人が日本にまで来たという説もあるが、それは定かでない。ただ、ウバイドをウワイトとした時に倭人となるらしい。
2012年9月8日

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 武器商人が死の商人と言われるようになったのは、今では平和の象徴としてのノーベル賞の発起人、アルフレッド・ノーベルです。爆薬、ニトログリセリンを使って、ダイナマイトを発明した科学者であり、実業家です。ノーベルの身内が死亡した時に、フランスの新聞社がノーベルの死と間違って、「死の商人が死す」と報じたことからだと思います。この報道により、アルフレッド・ノーベルの遺言で、物理学、化学、生理学医学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に遺産を贈るようにした。そして、遺族は、ノーベル財団を設立して、1901年に著名な科学者などにノーベル賞を贈った。
 武器商人が何時ごろから存在していたのだろうか。商人が武器を納入する軍隊は何時ごろから。この軍隊がどのように発生したのか。
 人類が狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるようになったのは、メソポタミア地方では紀元前8,000年頃と言われています。そして、天水農耕から灌漑農耕になったのはハラフ文化(紀元前6,000年~紀元前5,300年)で、ウバイド文化中期(紀元前4,800年~紀元前4,500年)にウバイド人によって、灌漑農耕が確立した。その後、シュメール人がメソポタミアに出現し、シュメール文明(紀元前3,800年~紀元前2,800年)を築き、ウルク期を経て、ジェムデト・ナルス期(紀元前3,100年~紀元前2,900年)には、銅とスズを混ぜた青銅合金の製造法を発見し、青銅器の武器の製造も始まった。ジェムデト・ナルス期末期にメソポタミア全域に大洪水が起こり、シュメール人はキシュに移り住み、その後各地に散らばってしまった。メソポタミアの初期王国時代(紀元前2,900年~紀元前2,350年)には、新興の都市国家がメソポタミアの各地に勃興した。このように、メソポタミアの都市国家は、灌漑農耕の拡大、農耕水路の確保のため、都市国家同士で戦争を始め、青銅器の武器(戦斧・短剣・槍)を使い歩兵を編成した。この歩兵は、古代ギリシャの重装歩兵のファランクス(右手に楕円形の盾、左手に槍を持ち、8列縦隊)を編成した。世界で最初の軍隊と言われている。
mesotoshi
 シュメール人がメソポタミアから各地に移住していった後、アムル人がメソポタミアに侵入し、その後バビロニア人が古代バビロニア(紀元前1,900年頃~紀元前1,600年頃)を建国した。また、ロバを家畜していたメソポタミア北部のセム系のアッシニア人は、古代アッシニア時代(紀元前2,000年頃~紀元前1,400年頃)にアナトリアの銅鉱石、中央アジアのバクトリアのスズ、バビロニアの羊の毛織物と、交易ネットワークを構築して、各地に商いをおこなっていった。このアッシニア人の商人が、メソポタミア、中央アジア、エジプト、アナトリア半島などの青銅器の生産に貢献し、各地に青銅器の武器を交易によって齎したのではないでしょうか。
 死の商人は、古代アッシニア人から始まったと思われますが、中国では殷王朝(紀元前1,600年頃~紀元前1,069年)の殷の商人、紀元前600年頃からの古代ギリシャの都市国家やアケドニアのアレキサンドロス3世(紀元前356年~紀元前323年)の東征では、アケドニア人が死の商人として活躍していたと思われます。
2012年8月26日

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 日本の古墳時代の幕開けは、奈良の桜井市にある箸墓古墳の前方後円墳で築造が3世紀の中期と言われています。その後、奈良に集中していた古墳が4世紀後半には山梨の甲府市の甲斐銚子塚古墳などのように地方に分散されて築造されるようになり、5世紀の前期から中期に掛けて、河内平野に誉田御廟山古墳や大仙陵古墳や上石津ミサンザイ古墳という巨大前方後円墳が築造されました。これらの古墳は、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇の御陵だと言われています。その他にも、岡山の造山古墳や作山古墳が地方豪族によって築造され、7世紀前半に千葉の印施郡栄町の浅間山古墳が前方後円墳としては最後の古墳となり、それ以降、古墳が姿を消していくことになります。
 3世紀頃の日本は2世紀後半の倭国大乱を終え、三国志の魏志倭人伝で邪馬台国や卑弥呼が出てくる時代です。でも、天武天皇や持統天皇時代に編纂された古事記や日本書紀には、邪馬台国や卑弥呼の存在は出てきません。しかし、この3世紀頃には大和朝廷が国家を治めていたことは事実だと思います。その当時、奈良盆地に出現した古墳群をみれば、たぶん大和朝廷だと思われる政権が巨大な古墳を築造して、権勢を振るったのでしょう。
 古事記によると、神武天皇が東征して、奈良の橿原に辿りつき、宮殿を建てたとあります。そして、奈良盆地で田畑を開墾し、水路を構築して稲作を奨励し、奈良盆地に人工が増え、更なる開墾と水路の構築を行なった結果、その土を盛り土にして小山を作り、そこに竪穴式石室を入れて、その当時の権力者の御陵を築造したと考えても不思議ではないですよね。大和朝廷が肥大化するに連れて、各豪族に地方の開墾を奨励し、各地に地方豪族の古墳が出来ていったと考えることもできます。また、4世紀末期から5世紀初頭に掛けて、大和朝廷は各地に奨励した稲作の開墾の財力をもとに百済と手を結び、新羅や高句麗を攻めています。その記録が高句麗の好太王碑文にも記されていますし、日本の独自の古墳である前方後円墳は、韓国の全羅南道に11基、全羅北道に2基が確認されていて、5世紀前半から6世紀初頭のもので、百済・任那地域に存在する。
 韓国の前方後円墳は、朝鮮半島から古墳の文化が日本に流れてきたのではない事の証拠に、それらの古墳からの埋蔵品が日本の古墳から出土されたのとまったく同じであることです。このことは、水田による稲作をするための水路や灌漑、ため池の技術が朝鮮半島から渡ってきたのではなく、紀元前の弥生時代早期に中国大陸から水田による稲作の農耕技術が渡ってきたと思われます。
 中国に日本の前方後円墳があったのかというと、ないのですが、古墳(円墳)自体は紀元前1250年頃の古代ギリシャのミケーネ文明の蜂窩状墳墓、アトレウスの宝庫でも見られますし、紀元前800年頃から紀元前200年頃までのスキタイ文化、現在の西はウクライナから東はロシアのトゥヴァ共和国までにその当時の古墳が存在している。この遊牧民族のスキタイは、古代ギリシャ人やアーリア人や祖スラブ人の混血だと考えてよいと思う。紀元前3世紀頃に西域にいた月氏もこのスキタイの流れを汲んでいるかも知れない。
2012年8月18日

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