いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2012

 青銅器時代は、古代ギリシャ、メソポタミア、エジプト、中央アジア、中国の地域によって、年代が左右します。紀元前4,000年頃に青銅器が誕生し、紀元前3,500年頃からメソポタミア、エジプト、古代ギリシャと青銅器の文化が生まれました。
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 古代ギリシャでは、ミケーネ文化(紀元前1,450年~紀元前1,150年)の時期に青銅器による繁栄を得た。古代ギリシャ人中には、紀元前2,000年頃イオニア人がエーゲ海北部やアナトリア半島から、紀元前1,400年頃からテッサリアからペロポネソス半島に移ってきたアカイア人がクレタ島北部やイタリア半島南部、シチリア島、チュニジアのキュニプス、リビアのキュレネとアポロニア、エジプトのナウクラティス、アナトリア半島北岸を含む黒海沿岸全域に植民市を築いた。そして、イタリア半島のエトルリアから錫を、黒海から穀物を交易して繁栄していた。アナトリア半島では、紀元前1,700年頃までアッシリアの植民地であったが、アナトリア半島に鉄鉱石があることを知ったインド・アーリア人とイラン・アーリア人の混合が住み着き、紀元前1,680年にヒッタイト古王国が建国され鉄器が誕生する。その後、紀元前1,200年頃にアーリア人系のゲルマン人やケント人がバチカン半島に進入し、バチカン半島にいたドーリア人が南下して、ペロポネソス半島に移ってきた。
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 また、イタリア半島のエトルリア人などが海の民となって、エーゲ海の沿岸で大暴れしたため、古代ギリシャのミケーネ文化やヒッタイト帝国は紀元前1,150年頃に崩壊した。ミケーネ文化を築いたアカイア人の一部は黒海の方に向かい、海の民に同化した者もいた。これにより、古代ギリシャの青銅器時代は終結する。
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 中央アジアでは、北西インドにいたインド・アーリア人とカスピ海南部にいたイラン・アーリア人混合がアンドロノヴォ文化(紀元前2,300年頃~紀元前1,000年頃)を築いた後、中央アジアステップ地帯からシベリア南部に残ったアーリア人と土着の民族とが混血して、ヴォルガ川、アラル海からシベリア南部のエニセイ川上流域にカラスク文化(紀元前1,500年~紀元前800年)を築いた。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』によると、紀元前600年以前に、東方のアリマスポイ人はイッセドネス人を西方に押し遣り、そのイッセドネス人はスキタイ人を南西に、スキタイ人が移ったところにマッサゲタイ人がいて、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方(黒海北岸)に、そこにはキンメリア人がいた。スキタイ人は、キンメリア人を黒海北岸から追い出した。それから、キンメリア人を追いかけ南下したが、西アジアにおいて、メディア王のキュアクサレス2世がアッシリアと戦い、ニノスの町を攻囲していた時、スキタイはメディアを強襲し、交戦の末にメディアを破って全アジアを席捲した。スキタイは北の草原地帯からキンメリア人を駆逐し、それを追ってコーカサス山脈の東側からアジアに侵入してきたのであるが、この地ではちょうどアッシリア帝国からの独立運動が盛んで、メディアがアッシリアを攻撃している最中であったため、スキタイはそのすきを狙ってメディアを破り、続いてエジプトを目指して南下した。スキタイがパレスチナ・シリアまで来た時、エジプトの王が自ら出向いて贈り物と泣き落とし戦術でもってスキタイの進軍を思いとどまらせたため、スキタイは後戻りしてアジアを28年間統治することとなった。このスキタイのアジア統治は乱暴で投げやりなものであり、住民の一人一人に課税して取り立て、貢税のほかに各地を回って個人の資財を略奪したので、中央アジアは荒廃に帰してしまった。そのためメディア人の怒りを買い、メディアはスキタイたちを宴席に呼んで殺害し、スキタイの大部分を駆逐することに成功し、メディアは再びアジアを取り戻すことができた。キンメリア人は黒海を南下し、西方のアッシリア地方からアナトリア半島に移り住んだ。紀元前600年頃には、スキタイは黒海北部で、カッリピダイ(ギリシャ系スキタイ)、農耕スキタイ(スキタイ・アロテレス)、農民スキタイ(スキタイ・ゲオルゴイ)、遊牧スキタイ(スキタイ・ノマデス)、王族スイ(スキタイ・バシレイオス)、別種のスキタイ、エナレスに分かれる。その当時、スキタイ以外に中央アジアからシベリア南部にいたのは、オホーツク海にぶちあたる東端からヒュペルボレオイ(極北人)、アリマスポイ、イッセドネス、マッサゲタイ、アルギッパイオイ(禿頭族)、イユルカイ、テュッサゲタイ、ブディノイ、サウロマタイがいた。
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 中央アジアでアンドロノヴォ文化の後、カラスク文化を経て、内モンゴル南部のオルドス地方など、陰山山脈と万里の長城にはさまれた地域に栄えたオルドス青銅器文化(紀元前700年頃~紀元前100年頃)まで青銅器時代が続く。このオルドス青銅器文化は、狄、月氏や、特に匈奴と関係と言われ、スキタイの流れを汲むのではないか。中国では、青銅器を使用し始めたのが、殷王朝(紀元前1,600年頃~紀元前1,046年)。この殷王朝がsaka夏王朝を滅ぼすのに戦車(チャリオット)を使った。この戦車を最初に作ったのがアンドロノヴォ文化のアーリア人ですから、殷王朝とアーリア人には何らかの関係があったのでしょう。戎は周王朝の幽王を殺害し、平王の洛邑遷都の際に平王を襲ったが、秦の襄公によって妨害された。これ以降、秦は周王朝の諸侯のひとつとなり、岐山以西に封じられ、平王が周王朝の首都鎬京を洛邑に遷都して、中国は春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)になった。また、周王朝が洛邑に遷都した頃、オルドス青銅器文化を築いた狄の中で、河北や山西などの長城沿いに居た白狄は南下して、中山と呼ばれる強大な狄人国家を建てた。その後、中山国は趙によって滅ぼされる。紀元前600年の後半に古代ペルシアのアケメネス朝が古代ギリシャを攻撃し、エジプトやアッシリアなどが征服した後、東に向かった。そこにはカサイのスキタイがいて、激しく抵抗したとあります。このカサイの一部が南下して、インドに入り、仏教の開祖、釈尊の釈迦族になったという説もある。そのカサイが周の幽王を殺害した西戒と思われる。中国では西戒のスキタイ系が齎した青銅器文化に影響を受けた。秦の始皇帝稜から、西洋系の人骨が発見されたくらいですから。戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)頃には、西戒が中国に残って、チベット族、彝族、羌族になり、北方に移動して匈奴になる。秦の始皇帝は北方の匈奴の侵略を防ぐため、万里の長城を築くことになる。中国で最初に鉄器を使用したのは、戦国時代の呉・越からですが、本格的に鉄器を使い出したのは前漢の頃からです。だから、日本に青銅器と鉄器が入ってきたのが、紀元前200
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年頃から紀元100年位なので、時代的に変わらなかったし、古代ギリシャでは紀元前1,200年頃には青銅器の替わりに鉄器が使われるようになったのに比べて、1,000年も遅れていることになる。
2012年12月29日

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 日本の古代史と言うと、古墳時代から飛鳥時代のことを指すのだろうか。私は、さらに前の時代を知りたくて、古事記を読み始めました。もう、6年程前になりますが、三浦佑之先生の口語訳 古事記を読破した時、どうしても理解できなかった箇所がありました。それは、人代篇の其の五「ホムダワケとオホササギ――河内王朝の成立」でホムダワケ、すなわち応神天皇の事を記載されているのですが、後半に、つぎの文面がでてきます。
  さて、またここで、ホムダワケの大君が生きておった頃の伝えにもどるのじゃが、昔のことで時は定かでないが、この大君の御世じゃ。新羅の国の国王の子があっての、名は、アメノヒボコと言うた。その人が海を渡って来たのじゃ。その参り渡り来たわけというのは、こうじゃった。
 新羅の国に、一つの沼があったのじゃ。名は、アグヌマとか言うた。この沼のほとりで、一人の賤しい女が昼寝をしておった。すると、日の光が虹のごとくに輝いてかと思うと、その女の陰のあたりを刺したのじゃ。
 また、その沼のほとりには、ほかに一人の賤しい男がおっての、女の陰に日の光が刺すのをみておって、それを怪しいことじゃと思うて、それからいつもその女の振る舞いを見守っておったのじゃ。
 すると、この女は、孕みでもしたか昼寝をした時から腹が大きくなってきての、しばらくすると赤い玉を一つ産んだのじゃ。それで、ずっと女を窺い続けておった賤しい男は、その玉を見て宝の石じゃとでも思うたのかの、うまくだまして奪い取り、いつも布に包んで腰に下げておった。
 この男は、田を山の谷間に持っておった。それで、田で働く者らに飲み物と食べ物を持って行こうとして牛の背に載せての、山の谷間に入って行ったのじゃった。その時に、国王の子のアメノヒボコに逢うたのじゃ。
 するとアメノヒボコは、その男に、
「どうして、なんじは飲み物と食べ物とを牛の背に負わせて、谷に入って行くのだ。なんじは、かならずや、この牛を殺して食おうというのだろう。」と言うて、すぐさまその男を捕らえて、獄囚に入れようとした。それで、その男はあわてて、
「わしは、牛を殺そうとしているのではござらぬ。ただ、田で働く者らに食べ物を届けるところでござる。」と言うた。それでも、ヒボコは許してはくれないのじゃ。そこで、その腰にいつも下げておった赤い玉をはずして、その国王の子に袖の下として贈ったのじゃった。
 差し出された玉を見たヒボコはその賤しい男を許し、その玉を持ち来ての、おのれの床のそばに置いておくと、知らぬ間にうるわしいおとめに変わっておった。それでヒボコは喜んで、そのおとめをすぐさま抱いての、おのれの妻にしたのじゃった。
 おとめは、つねにヒボコによく仕えての、いろいろなうまい物を作って夫に食わせておった。ところが、国王の子はそれに慣れてしもうて心が驕り高ぶっての、妻を罵ったりするので、ついに女が怒って言うた。
「およそ、わたくしは、あなたの妻などになっている女ではありません。わたくしの祖の国にいかせていただきます。」と、そう言うやいなや、密かに小舟に乗って、この国に逃げ渡って来ての、難波に留まり住んだのじゃ。
 これが、難波の比売碁曾の社に坐すアカルヒメという神じゃ。
  アカルヒメがアメノヒボコのいる新羅から逃れて、最初に九州の大分の比売島に到着し、さらに摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)に居を移した。それが、大阪の西淀川区の姫島神社の辺りに移ったらしい。アメノヒボコはアカルヒメを探し求めて、難波まで渡って来たが、逢うことができずに但馬国に着き、そこでタヂマノマタヲの娘のマヘツミを妻にしてタヂマモロスクを生み、その子がタヂマヒネ。その子がタヂマヒナラキ。その子がタヂマモリ(田道間守)とタヂマヒタカとキヨヒコ。キヨヒコの娘がカヅラギノタカヌカヒメ。そのカヅラギノタカヌカヒメの娘がオキナガタラシヒメ。神功皇后です。神功皇后と仲哀天皇の子が応神天皇ですから、古事記に記載されている応神天皇の頃の出来事としては、不適切です。なぜ、このような記事を載せたのでしょう。
 日本書記には、アメノヒボコは垂仁天皇の頃に記載されている。紀元1世紀頃の話であり、新羅の国王の子と古事記ではなっているが、日本書記では弁韓の加耶の国王の子となっている。新羅が建国したのが、紀元356年。でも、新羅の前身は辰韓の斯蘆国。斯蘆国を建国したのが、赫居世居西干(在位:紀元前69年ー紀元4年)で朴氏。それから4代目が脱解尼師今(在位:紀元57年ー紀元80年)の昔氏で、倭人と言われ、昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説がある。神功皇后が三韓征伐を行ったのが紀元200年頃。もし、アメノヒボコが昔脱解と関係があったとしても紀元1世紀の人となり、第7代孝霊天皇の時代という説もある。また、昔脱解は、神武天皇の兄のイナヒではないかという説を唱える人もいます。その他にも、これは論外だとおもいますが、アカルヒメが邪馬台国の卑弥呼だと言う説を唱える人も現れました。
 古事記で応神天皇のご時勢にアメノヒボコの神話が記載されているのは、時代感覚がずれているようです。でも、神功皇后が新羅と関係があり、その関係もあってアメノヒボコの神話を載せたのでしょうか。日本書記のようにアメノヒボコが弁韓の加耶の国の人だとしても、紀元前1世紀から紀元2世紀の間で、倭国、または大和朝廷は弁韓の加耶諸国や辰韓の斯蘆国と深い関係があったことは事実です。
2012年11月25日

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 邪馬台国が記紀に記されてない謎を解く鍵を探るには、中国の古記から引用されてきた古代日本の歴史を検証しなければならない。中国の古記に記されている倭人とは、はたして従来から日本に住みついている原住民なのだろうか。
 中国の古記で最初に倭人が出てくるのは、中国の後漢時代の王充(紀元27年~紀元105年頃)が独学で記載した『論衡』、『後漢書』の巻15の『招致篇』44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。この『論衡』の中に、倭人のことが書かれている。
 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
 成王(在位:紀元前1,022年~紀元前1,002年)の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
 この『論衡』によると、倭人は紀元前1,000年頃から中国で認められていたことになります。成王時代に暢草は酒に浸す薬草と思われ、この草は江南(揚子江の南と言うことで江蘇省辺りを指し、春秋時代の越国に当たる)から南に生えているので、越の国から日本に渡ってきた越人が倭人と言うことになります。また、日本に水田による稲作が中国から持ち込まれたのは、紀元前400年頃となっていますが既に紀元前1,000年頃から普及していたことになり、日本の弥生時代の幕開けもその頃となるわけです。
 中国の戦国時代から秦、前漢に書かれた最古の地理書として、『山海経』があります。その書にも倭人のことが記されています。
 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海経 第十二 海内北經)
 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
 「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝」(山海経 海経第4巻 第9 海外東經)
 下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある。
 「大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰溫源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏」(山海経 海経巻9 第14 大荒東經)
 大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている。
 この倭は燕に属すとは、紀元前300年頃の燕国と関係があり、日本のことを蘆国と言われていたことがわかる。この燕の国と関係があったとすると、中国の山東省や河北省にいた民族、たとえば、燕は周建国の元勲、召公奭が起こした国で、山東省辺りを支配下においていたが、成王時代の禄父の乱の鎮圧後、河北省にいた韓の国が陝西省に移り、河北省を領土にした。しかし、韓の国が陝西省に移行したが、その地に残っていた韓人はたくさんいた。この燕の国と関係があった倭人の中には韓人も含まれていたのではないでしょうか。韓人といえば、朝鮮半島の辰国、或いは馬韓、百済となるわけで、紀元前300年頃から紀元100年の間に、日本は何らかの韓人とつながりがあったように思われます。その当時、日本は桑の木が多く茂り、温泉の谷があり、9の太陽が次から次へと昇り、そこに三本足の烏が生息しているとある。神話に近い話ですが、その当時、日本は憧れの島で扶桑の国と呼ばれていたようです。
 黒歯国については、明治時代末期まで、既婚女性が歯を黒く染めていた風習、お歯黒があったように、黒歯国の人々もそのような風習があったので国名になっています。この風習は、日本だけではなく、中国南東部や東南アジアにも見られます。このお歯黒は、草木や果実で染めていたようですが、鉄器の到来により、鉄器の素材を使ったようです。日本人がお歯黒をするようになったのは、鑑真和上が中国から持ち寄った製法のひとつだと言われています。だから、お歯黒をしている日本人はすべてが中国南東部や東南アジアの人々であったということにはなりません。紀元前300年以前に日本に渡ってきた渡来人の中に、中国東南部や東南アジアの民族がいたということです。多分、春秋戦国時代の呉、越の国の人だったのでしょう。この黒歯国のことが『魏志倭人伝』に記されています。
 「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」(三国志 魏書東夷伝 倭人条 魏志倭人伝)
 女王・卑弥呼国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年、着く。
 ここで、初めて邪馬台国の卑弥呼が出てくるのですが、黒歯国が邪馬台国より東南に4000余里となっています。ここで、邪馬台国が日本本土だとすると、日本の東南に黒歯国のような国が存在しているでしょうか。仮に、この黒歯国が中国の呉、越の国の出身者がいた日本とすると、日本の北西部には朝鮮半島があり、そこには山東省や河北省から戦国時代の荒波を逃れてきた韓人がいます。邪馬台国の卑弥呼はこの韓人ではないでしょうか。紀元前100年から紀元300年頃の朝鮮半島の三韓時代に、馬韓に卑彌国という小国がありました。このような呼び名は、韓人が付けたのでしょうし、卑弥呼とか紀元107年に光武帝に日本の国王と認めてもらいたいと嘆願した帥升辺りも、馬韓から渡ってきた韓人、或いは、辰韓にいた秦氏となんらかの関係がある秦の始皇帝の兵役などから逃れてきた秦人ではなかったか。この当時の日本には、日本原住民と紀元前1,000年頃から日本に渡ってきた中国の呉、越の人が住んでいたと思われます。そこに、韓人や秦人が朝鮮半島から渡来し、日本で小国を作り、今までの燕や前漢、その後、後漢の楽浪郡とのつながりを生かして、その当時の中国政府と交渉し、如何にも日本の代表として、倭人と偽っていたのではないかと。
 「【仮説】邪馬台国は朝鮮半島の馬韓にあった。」は、今回を最終回にしたいと思います。正当な結論はだせませんでしたが、日本には脈々とつながる天皇家と邪馬台国という外来の資料に基づく歴史資料が存在し、真の日本の古代史が不透明なものとなっています。この辺りが古代史を勉強している私としては頭を捻ることになるのです。この紀元前前後から紀元500年の間には、日本でどのようなことが起こったのでしょうか。興味が尽きません。
2012年11月17日

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hatamono あるブロガーの友達に誘われて、宇治市歩こう会に参加してきました。コース日程は、10月21日=京阪交野線河内森駅前に9時30分集合。南山弥生時代住居遺跡標石―菅原神社―交野生き物ふれあいの里(昼食)―源氏の滝―機物神社―JR河内磐船駅。私が何故この歩こう会に参加したか。それは、この地が古代史に出てくる秦氏と関係がある土地柄で、秦氏の古墳があり、江戸時代までこの地に秦氏の子孫が生活していたからです。機物(はたもの)神社は七夕の伝説で有名で、祭神が天棚機比売大神(アマノタナバタヒメ)、織姫です。その他に、栲機千々比売大神(タクハタチヂヒメ)、地代主大神(トコシロヌシ)、八重事代主大神(ヤヘコトシロヌシ)で、コトシロヌシは出雲のオオクニヌシの子です。祭神をみたら、織物や蚕に精通し、出雲の民族とも関係があり、コトシロヌシがミゾクイタマクシヒメのもとに通ってヒメタタライスズヒメを生んだとの説話があり、鉄器の製造にも、その観点から、葛城系・賀茂系の豪族と関係が深かったことが解る。
 最初に、秦氏が日本書紀に登場するのは応神天皇の時代で、弓月君(融通王)が朝鮮半島の南端、加羅から葛城襲津彦の助けを得て、120~127村落の民を引き連れて日本に渡来している。1村落が10人としても1200人以上の人々が渡来したことになる。この弓月君は、秦の始皇帝の末裔と言われ、始皇帝の末子の胡亥が二世始皇帝に着任したが、丞相・趙高のクーデターにより自決し、劉邦の反乱軍により秦が滅亡した。胡亥の一族は山東省から河北省を経て、遼寧省から朝鮮半島の南部に移り住んだと思われます。その地には、殷王朝が周王朝に滅亡された頃、紀元前1,046年頃に河北省にいた韓の人々が、紀元前771年に晋の攻勢により、周王朝が弱体し、春秋時代がはじまる頃、晋によって、韓の人々は陝西省に移住させられた。その頃、朝鮮半島の北部には殷王朝の最後の皇帝、帝辛(紂王)の末裔、箕子朝鮮が存在し、朝鮮半島の南部には辰国が存在していた。そして、辰国は紀元前230年に秦の始皇帝に滅ぼされた陝西省の韓の人々を受け入れ、秦が劉邦の反乱軍で滅ぼされたことにより、秦の人々がこの辰国に移住していった。この辰国も、紀元1世紀頃に、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)に分かれる。馬韓を支配していた韓の人々は、最初、辰韓も支配していたが、秦の移住民に辰韓の支配を与え、秦韓とよばれるようになった。この三韓の時代も紀元3世紀頃には、馬韓は百済に、辰韓は新羅に、弁韓は任那になり、新羅にいた秦の人々は、新羅の政権から追い出され、百済を頼り、任那に逃れた。そして、神功皇后の新羅と戦うため、三韓征伐がはじまる。その頃に、弓月君と知り合うのだろう。
 弓月君は、秦の始皇帝から数えて、13世の子孫と言われ、秦の技術、織物、土木、仏閣の建築などを継承し、秦が進めてきた法治国家や中央集権国家を継承していた。そこで、応神天皇が弓月君を日本に渡来させ、前方後円墳のような巨大な御陵を作らせ、仁徳天皇の時代には淀川の治水工事、茨田提を築いている。その頃に河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)に土着し、その太秦に近い、交野市倉治にも秦の渡来人が住み着いたと思われる。地元の逸話では、織物神社は1,600年前に、漢人庄員によって開かれたと言われています。この漢人庄員は秦氏のことだと思われます。
 雄略天皇の時代に蚕の生産と絹織物を奨励すれため、秦氏の祖と言われている秦酒公に太秦の姓を与え、秦氏の一族の結集を図り、秦氏の元締めとなった。その頃から、蚕業による財力から、伊勢神宮の創建や各地に稲荷神社や八幡神社の建立に貢献し、酒公より4代後の秦川勝(河勝)は、推古天皇に使えて聖徳太子のブレーンになり、聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、広隆寺を建てそれを安置した。また、四天王寺の建立に貢献し、聖徳太子の要望により、猿楽を奉納したりした。聖徳太子が死去した後、秦久麻に依頼して中宮寺の天寿国繍帳を絵がさせている。天平の時代、聖武天皇が東大寺建立を立案し、娘の孝謙天皇が東大寺の建立を完成させた。この東大寺も、秦氏が関係している。
 その後の秦氏は、財務官僚として活躍し、秦川勝より4代後の秦嶋麿(太秦嶋麿)は、桓武天皇の平安京の遷都に財力と建築、造成に尽力した。秦氏から分かれた氏族としては、官邸に残った惟宗氏、太宰府の大夫を勤め、対馬の守護になった宗氏、秦川勝の子、秦広国が信濃国更級郡桑原郷に領地を朝廷から与えられ、鎌倉時代に土佐に領地を移動させた長宗我部氏、その他に島津氏や朝原氏なども秦氏の末裔です。雅楽の世界では、世阿弥の娘婿、金春禅竹も秦川勝の末裔と言われている。
2012年10月29日

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dogu_1 ククテニ文化(紀元前5,500年~紀元前2,750年)は、新石器時代後期に黒海の北部、現在のルーマニア北東部、モルドバ、ウクライナ南西部で、農耕と牧畜、狩猟と漁労を加え、黒海北東部からカスピ海北部、コーカサス山脈の北側にいたインド・ヨーロッパ語族(イラン・アーリア人等)が西方に進出するまでにこの地に定住した民族によって発生した文化です。ククテニ文化の遺物には、彩陶(独特の模様をあしらった彩色土器)と土偶(農作物の豊饒を祈る地母神)があります。
 ククテニ文化の民族は定かではないですが、亜旧石器時代(紀元前9,500年~紀元前8,000年)にレバトン(シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル)の南部にナトゥーフ文化を開いた人達が、農耕地を探して北上し、現在のアルメニア、アゼルバイジャン、グルジア辺りに定住したのが、旧約聖書に出てくるノアの方舟の民族で、セム系語族(アッシリア人等)。さらにコーカサス山脈を越え、黒海の北部に定住した人達がククテニ文化を築いたのだろうと思われる。
 亜旧石器時代に農耕が始まるのですが、コーカサス山脈を越えた人々の中には、農耕の傍ら、狩猟を目的として、牧畜をはじめる人々も現れた。そして、コーカサス山脈の北側のステップ地帯で、ヤギ、羊、犬、豚、牛を飼い、アカシカ、ノロジカ、イノシシ、ヘラジカ、カワウソ、オオカミ、キツネ、ビーバー、オナガー(野ロバ)等を獲っていた。そして、馬に出会い、馬を家畜できるようになっdogu_2た。この民族がインド・ヨーロッパ語族のアーリア人です。このアーリア人が古代ギリシャのエーゲ海の周辺やカスピ海から東へ、中央アジアのアルタイ山脈まで銅鉱山を求めて、遊牧し、カスピ海北部からアルタイ山脈まで青銅器文化のアンドロノヴォ文化(紀元前2,300年~紀元前1,000年)を築いた。その後、アーリア人は南下し、インダス文明を築いたドラヴィタ人をインドから追い出し、インドを占領した。このアーリア人がインド・アーリア人。南下したアーリア人がカスピ海の南側に進出して、紀元前550年にアケメネス朝を築いたのが、イラン・アーリア人。イラン・アーリア人の一部が、紀元前700年からアレキサンドロス3世が東方に遠征した紀元前330年頃まで、現在の西はウクライナ、カザフスタン、東はロシア連邦のトゥヴァ共和国まで遊牧をしたスキタイ人。このスキタイ人の中にカサ人がアケメネス朝を築き、アッシリアを滅ぼした。東部にいたスキタイ人はアナトリア半島からアケドニアまで進出している。
dogu_3 話が少し脱線しましたが、ククテニ文化の土偶にまで戻ります。土偶はククテニ文化だけに見受けられるものではなく、農耕を始めた世界各地で見受けられます。日本でも一番古いのは、縄文時代草創期(紀元前10,000年~紀元前9,000年)の三重県松阪市飯南町粥見井尻遺跡から2つの土偶が発見されています。その後、縄文時代中期に長野県棚畑遺跡出土の「土偶のビーナス」は立像土偶の代表的なものです。縄文時代晩期の青森県つるが市亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶は、1980年に発掘されている。
 土偶は中国や朝鮮半島から渡ってきたのではなく、農耕の神として民俗なものであったのでしょう。土偶も弥生時代には姿を消しています。縄文時代に日本独自で各地に広がったと思われます。
2012年10月11日

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