いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2011

 日本の歴史から抹殺されている邪馬台国の歴史は、海外の歴史書、中国の三国志の魏書東夷伝倭人条(魏史倭人伝)で登場する。この当時の中国の背景は、後漢の最後の皇帝、献帝が紀元220年に魏の曹操の子曹丕(文帝)により、後漢の皇帝の座を奪って、魏の初代皇帝に就く。紀元226年に文帝が死去し、曹丕の子、曹叡(明帝)が第2代皇帝に就く。後漢滅亡後も地方制度は、官位として太守(郡守・地方豪族)と刺史(州牧・中央官僚)が置かれ、日本に近い遼東郡でも、紀元228年に遼東郡の太守として公孫淵が就任した。
 公孫淵の祖父公孫度は紀元189年に朝鮮半島の楽浪郡を支配下に置き、父公孫康が楽浪郡の南半分を帯方郡と称して支配下に置いた。そして、公孫淵は遼東郡の太守に就任したときに、魏の明帝から揚烈将軍の官位も頂き、遼東郡だけでなく、楽浪郡、帯方郡の政治、経済、軍事を握ることになった。帯方郡を支配下においた公孫淵は、朝鮮半島の三韓諸国や倭の諸国から魏の出先機関として、朝貢物を受け取るようになり、私腹を膨らせていた。その後、公孫淵は、紀元233年に呉とも内通していた結果、呉から遼東郡一帯の王として燕王に任命されたり、魏から大司馬・楽浪公に任命されたりしたが、最終的に紀元237年に燕王として魏に反旗を向け、紀元238年に魏の司馬懿によって降伏し、楽浪郡や帯方郡は魏の直轄地になった。
 このような中国史の背景で、紀元238年に邪馬台国の女王、卑弥呼は大夫の難升米と次使の都市牛利らの一行を新生帯方郡の太守、劉夏を尋ねてさせている。劉夏は官吏を付けて、魏の都、洛陽に倭の朝貢使として魏の明帝に拝謁した。その後、紀元239年に魏の明帝が死去、その後を斉王が就任し、紀元240年に帯方郡の太守弓遵は帯方郡の官吏梯儁を詔書と印綬を持って邪馬台国に派遣している。その派遣経路を邪馬台国の地理的位置として、『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の初頭に掲載し、倭国の様子や倭人の慣習や倭の諸国の情勢等が記され、紀元243年に卑弥呼は再び魏に伊聲耆、掖邪狗らを派遣し、奴隷や布等を朝貢している。紀元247年に邪馬台国と狗奴国との戦いに伴い、卑弥呼は載斯烏越を使者として派遣して、帯方郡から張政が檄文をもって、邪馬台国に渡って来た。そして、卑弥呼の死。それから、卑弥呼の後を継いだ壹与がその檄文を受け取り、邪馬台国と狗奴国との争いは治まり、壹与は大夫の掖邪狗等二十人を魏の都、洛陽に派遣している。ここまでの歴史を記述されているのが、『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)です。もう少し詳しくお知りになりたい方は、邪馬台国大研究の魏志倭人伝全文(汲古閣本)と現代語訳を読む(作者訳)を閲覧ください。
 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)は中国の歴史書でありますから、邪馬台国や卑弥呼は存在していたのでしょう。また、『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)で記載されている国々で、朝鮮半島の南端の狗邪韓国、対馬列島の対海国(対馬国)、壱岐島の一大国(一支国)、佐賀県唐津市の末盧国、福岡県糸島市と福岡市西区の伊都国、福岡市博多区付近の奴国、福岡県宇美町付近の不弥国の7カ国位は判明されているが、後の南へ水行20日かかる投馬国からが判明されず、その投馬国から南に水行10日と陸行1月で邪馬台国に着くとなっている。この謎が、邪馬台国の位置が北九州説や畿内説をもたらしている原因です。また、邪馬台国が支配していた国として、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が上げられ、その他に邪馬台国から海を渡って東へ1000里に行ったところに侏儒国、裸国、黑齒国があると記載され、邪馬台国の南に卑弥弓呼が治める狗奴国があると記載されている。
 この謎に包まれた国の中で、黑齒国は前漢の武帝(紀元前156年~紀元前87)の頃、劉安が編集した思想史『淮南子』や『山海経』の地理書に出てくる国で、歯が黒いことから付けられた名前で、日本の戦前まで婦人がお歯黒をしていた風習があるので、黑齒国は日本の何処かにあったことは確かです。日本の風習で『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に記載されている中で、男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っているとあります。このことは、現在でも刺青があるように日本人の特徴だと思われます。古事記の神武天皇が東征したときに、オオクメが目の淵に刺青をしていて、ヒメタタライスヨリヒメをびっくりさせた話があるように。日本人の祖先は海洋系の民族も含まれていたことは確かですし、海に潜って魚介類を取るのにサメなどに襲われないために刺青をしていたのでしょう。
 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)が書かれた当時、日本には漢字がなく、大和言葉のような話し言葉しかなかった時代です。邪馬台国にしても話し言葉を紀元280年から紀元290年に編集した『三国志』の作者が漢字に置き換えたものなのでしょう。或は、その当時、朝鮮半島の南半分は三韓(馬韓、辰韓、弁韓)に分かれていて、この三韓もいにしえララバイのブログの記事「朝鮮半島の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)にいた中国の遺民が日本に渡来した。」で記述したように馬韓[54ヵ国:爰襄国ㆍ牟水国ㆍ桑外国ㆍ小石索国ㆍ大石索国ㆍ優休牟涿国ㆍ臣濆沽国ㆍ伯濟国(後の百済)ㆍ速盧不斯国・日華国ㆍ古誕者国ㆍ古離国ㆍ怒藍国ㆍ月支国ㆍ咨離牟盧国・素謂乾国・古爰国・莫盧国・内卑離国・占離卑国・臣釁国・支侵国・狗盧国・卑彌国・監奚卑離国・古蒲国・致利鞠国・冉路国・兒林国・駟盧国・卑離国・感奚国・萬盧国・辟卑離国・臼斯烏旦国・一離国・不彌国・支半国・狗素国・捷盧国・牟盧卑離国・臣蘇塗国・莫盧国・古臘国・臨素半国・臣雲新国・如來卑離国・楚山塗卑離国・一難国・狗奚国・不雲国・不斯濆邪国・爰池国・乾馬国・楚離国]と辰韓[12ヵ国:斯蘆国(後の新羅)・己柢国(已柢・巳柢)・不斯国(後の非斯伐国)・勤耆国(後の迎日)・難彌理彌凍国・冉奚国(那奚国)・軍彌国・如湛国・戸路国(戸路・尸路)・州鮮戶(後の卓淳国)・馬延戶・優由戶(優中国、秦氏の国とする説)]と弁韓[12ヵ国:弥離弥凍国・古資弥凍国・古淳是国・半跛国・楽奴国・軍弥国・弥烏馬邪国・ 甘路国・狗邪国(後の駕洛国=金官伽耶)・走漕馬国(後の卒麻国)・安邪国(後の安羅国)・涜盧国(後の東莱郡。倭に接す)]に分かれていた。日本の古代の国名や難升米等の邪馬台国の官僚を記述するのに、馬韓人や辰韓人(多くは中国の移民)の力を借りたのではないか。或は、邪馬台国の卑弥呼をはじめとする官僚達は、馬韓人や辰韓人や弁韓人ではなかったか。紀元107年に後漢の安帝に生口160人を献上し、倭国王と認められようとした帥升も朝鮮半島から渡来した馬韓人、辰韓人、弁韓人ではないだろうか。
 佐賀県唐津市の末盧国、福岡県糸島市と福岡市西区の伊都国、福岡市博多区付近の奴国、福岡県宇美町付近の不弥国については、いにしえララバイのブログ記事「福岡県の遺跡から見た古代史」で示したように、弥生時代後期には朝鮮半島から日本に渡って来て、稲作技術だけでなく、青銅器や鉄器、陶器や貨幣まで福岡県の遺跡郡から発見されていることから、邪馬台国の卑弥呼は、朝鮮半島から渡って来た渡来人であるかも知れない。その根拠のひとつに、その当時の馬韓の諸国に卑彌国が存在していた。この国の歴史的検証はできていないので、何とも言えないですが。
 この後の話は、「邪馬台国は朝鮮半島の馬韓にあった。Part4」に続きます。
2011年9月3日

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 人類(ホモ・サピエンス)が地球に出現したのは、約20万年前と言われ、地球が寒冷化と温暖化が10万年周期で繰り返し、氷河期の終結が約10万年~5万年前と言われている。地球の温暖化の時期、20万年前頃に出現した人類は、広葉樹の果実で炭水化物、哺乳類の肉、ミルク、魚等でたんぱく質やナトリウムやカルシウムなどのミネラルを摂取できるので、狩を中心に生活を営んでいた。それが、地球の寒冷化が始まり、今まで海であったところが海水の湖になり、海水は水分がなくなり、海水の塩分は岩塩と変化していった。地球の寒冷化によって、人類は広葉樹の果実を求めて移動が始まり、この岩塩を発見したのでしょう。人類が生命を維持するには、水とナトリウムやカルシウムなどのミネラルが必要ですから。約10万年前~5万年前に最後の氷河期が終わってから、食糧を求め、水やナトリウムを求め、大陸内部での生活から海辺での生活をするものもあったでしょう。
 古代中国での塩の産地としては、内陸部では山西省運城市の解州の「塩池」の塩湖や青海省・新疆ウイグル自治区・内モンゴル自治区などの「塩池」や自貢市を中心とする四川省や雲南省には、濃い塩分を含む地下水をくみ上げる「塩井」があり、海岸部では河北省の長蘆塩、山東省の山東塩、江蘇省(長江以北)の両淮塩、江蘇省(長江以南)・浙江省の両浙塩、福建省の福建塩、広東省の両広塩があります。
 10万年前~5万年前の人類は、狩を中心に生活していたのですが、次第に家畜を飼うようになり、遊牧生活に移っていった。そして、各地の湖や山岳地帯の地下水辺りから塩を発見し、生命の維持のため水と一緒に摂取していたと思います。そして、紀元前12,000年程前から焼畑による陸稲栽培が始まり、紀元前2,500年程前から水田による稲作が始まった。人類は広葉樹の果実から炭水化物を摂取していたが、稲作の発展により米から炭水化物を摂取するようになり、野菜の栽培も始めました。すると、野菜を食べるのに塩が必要になってきます。海岸線で生活しているのであれば、土器に海水を入れ、煮詰めれば塩ができますが、海辺でもなければ、塩池や塩井もない場所に移住している人は塩を求めるようになります。そして、塩の物々交換が始まりました。
 前漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)が匈奴との度重なる争いから、国家財政が悪化し、均輸法(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送してその地域の市場に払い下げる)と平準法(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)を唱えた桑弘羊らの意見を取り入れて、塩、鉄、酒を専売制にして財政を立て直した。このように、塩は人が生活する上での必需品であったことがわかる。
 日本では、岩塩や塩湖は存在せず、古来より海水を煮込んで生産する「採鹹」や「煎熬」を繰り返して塩を生産していた。日本は海に囲まれているので、塩の生産は簡単であるように思われるが、不純物も多く含まれるので食用には限られ、瀬戸内海近辺での塩からしか食用塩が取れなかった。江戸時代には塩の生産者の販売が禁じられていたので、塩問屋が出現し、生産者と消費者の間で売買をし、口銭として3~5%の収入を得ていた。また、藩財政の観点から、塩を専売制にする藩もあった。明治時代になって、日露戦争の財源確保のため、1905年(明治38年)にタバコ、樟脳を専売制にした。そして、1985年(昭和60年)に、日本専売公社が民営化(日本たばこ産業に移行)することになり、塩の販売も専売制から徐々に自由に販売できるようになってきた。1997年(平成9年)4月には塩の専売制が廃止(塩事業法に移行)され、日本たばこ産業の塩事業は財団法人塩事業センターに移管され、現在、塩の自由化に伴い、沖縄、九州、四国、大島など、日本各地で少数ながら流下式を基本とした製法で海塩が作られ、日本人の健康志向の高まり、自然塩のブームが巻き起こっている。
2011年7月19日

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 古事記や日本書紀には、邪馬台国のことや卑弥呼のことが記載されていない。古事記(714年)は太安万侶が天武天皇の命によって、帝記や旧辞をもとに編集されが、天武天皇が描いた律令国家としての歴史書としてはそぐわなかったので、八年後に、稗田阿礼によって日本書紀(720年)が編纂された。日本書紀は、百済三書(百済本記、百済記、百済新撰)の日本の記事を参照していると言われている。これらの記紀は、律令国家を推進する目的で編集された天皇記ですから、邪馬台国や卑弥呼(紀元175年頃~紀元248年)ことなど掲載していないのは当たり前かも知れません。
 日本書紀は百済三書を参考にしているので、古事記の方がまだ史実に近いかも。そこで、古事記を見ていると、崇神天皇以後は詳しく記載されていますが、神武天皇以後、八代の天皇の業績は後から付け加えたところがあって、系図程度のものしか載せられていません。だからといって、これらの八代の天皇が存在しなかったかというとそうでもないのです。たとえば、孝元天皇の孫にタケウチノスクネがいたり、開化天皇の子にヒコイマス、そのヒコイマスの子にサホビコ、サホヒメがいたり、ヒコイマスの曾孫にオキナガノスクネ、その子にオキナガタラシヒメ(神功皇后)がいたりしている。
 崇神天皇の在位は紀元前97年から紀元前29年とされているが、古事記では崇神天皇の没年が干支でいくと戊寅であるから紀元318年或は紀元258年という説を採用すると後漢書の東夷列傅に「桓帝・霊帝の治世の間(紀元146年~紀元189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した。」という記事がある。倭国大乱のことです。邪馬台国の卑弥呼が女王となって、倭国大乱が治まったとあるように、崇神天皇が在位していたころと重なる。神武天皇(在位:紀元前660年~紀元前585年)が大和朝廷を樹立したのが、干支では辛酉となっている。しかし、紀元前660年ではなくて紀元61年としたら、紀元107年に北九州の国の国王帥升が倭国の国王として認められることを目的とし、後漢の安帝に献納物や生口を差し出し、謁見を請うてきた時代から倭国大乱が始まったとすると、欠史八代の天皇の時代が倭国大乱の時代となってくる。
 倭国大乱の時代には大和朝廷は存在していたとしても、全国的に国家として権限はなかったことになる。では、この倭国大乱の頃はどのような時代だったのだろうか。紀元1世紀頃の日本の住人については、縄文時代から住み着いている民族と紀元前5世紀頃から、水田を用いた稲作技術と航海術を持った民族が日本に住んでいましたが、紀元前1世紀頃から朝鮮半島から新たな渡来人が日本に永住することになり、気候不順が続いたため、従来の日本の住人と新たな渡来人の主導権争いが激しくなり、倭国大乱が始まった。
 また、朝鮮半島から渡ってきた民族は、倭国と朝鮮の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の交流が活発になり、国として形成されるようになった。
 この後の話は、「邪馬台国は朝鮮半島の馬韓にあった。Part3」に続きます。
2011年7月16日

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 邪馬台国と卑弥呼が中国史記に登場するのは、『三国志』の『魏書』30巻の中で書かれた東夷伝の倭人の条、すなわち、『魏志倭人伝』である。この三国志は、紀元220年から紀元280年の魏・呉・蜀の歴史を寄稿されている。著者は西晋の陳寿で、紀元280年から紀元290年の間に書かれた。紀元2世紀頃の日本の古代史の出来事として、『後漢書』孝安帝東夷伝に記されているのは、紀元107年に北九州の国の国王帥升が倭国の国王として認められることを目的とし、後漢の安帝に献納物や生口を差し出し、謁見を請うてきた記事が載せられている。その後、『後漢書』東夷列伝に紀元146年から紀元189年の間に倭国が乱れ、最終的に、邪馬台国の女王、卑弥呼(紀元175年頃~紀元248年)が倭国を治めたと記されている。そして、卑弥呼は難升米を魏に派遣し、紀元239年に魏の皇帝から親魏倭王の仮の金印と100枚の銅鏡(三角縁神獣鏡?)を頂戴している。そして、紀元240年に魏の使者が帯方郡より、倭国に来て、卑弥呼に倭国の国王としての詔書と印綬を授けた。この帯方郡から来た使者が卑弥呼に拝顔するため、海路と陸路を通って邪馬台国にやって来た経路が、現在の邪馬台国、北九州説と畿内説とに分かれる根源になっている。
 日本の記紀に邪馬台国や卑弥呼の記述があれば、これ程までに邪馬台国や卑弥呼が日本古代史において騒がれることはなかったのですが、全く記述が見当たらない。ただ、卑弥呼が魏の皇帝から頂戴した三角縁神獣鏡については、畿内を中心に発見されている。本当に謎の多い話です。
 卑弥呼が活躍した年代を日本の記紀で探ると、丁度、オキナガタラシヒメ、神功皇后(紀元170年~紀元269年)の時代に当たる。神功皇后は100歳近く生きたことになる。このようなことから、江戸時代までは、神功皇后が卑弥呼であると言われていた。しかし、現在では、いろいろな説があり、日本初期の古墳、箸基古墳から三角縁神獣鏡が出土し、その古墳が第7代孝霊天皇子、ヤマトトモモソヒメではないかと言われている。
 神功皇后は仲哀天皇の後、紀元201年から紀元269年まで政を行い、新羅と戦い、百済や高句麗にまで侵略した三韓征伐が有名で、高句麗の好太王碑(広開土王碑)に紀元399年から紀元404年までの倭人との戦いが刻まれている。この倭人との戦いが三韓征伐ですから、さらに、この王碑は好太王の業績を記念して、好太王の息子、長寿王が紀元414年に建てたから、神功皇后の生存年代が違ってくる。だから、卑弥呼が神功皇后ではない。日本の古代年表が偽りであることが分かる。もうひとつ日本の古代年表で疑問に思うのは、いにしえララバイのブログ記事「タケウチノスクネの謎」でも述べたように、タケウチノスクネ(武内宿禰或は建内宿禰)は景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇と神功皇后に仕えたとある。この日本の年表からいくと、紀元71年から紀元399年の間、天皇家に従えたことになり、現実としてありえない。
 日本古代史ではっきりと解明されているのは、紀元57年に後漢の光武帝から『漢委奴国王印』を頂戴したこと。倭国の大乱が紀元146年から紀元189年の間に起きたこと。好太王碑に刻まれている紀元399年から紀元404年の倭人との戦いは事実であるが、その戦いが即、神功皇后が指揮した三韓征伐であったかというと定かでない。紀元1世紀後半から紀元4世紀後半までの間に日本でどのようなことが起こり、このころの日本と朝鮮半島の三韓との関係を考慮しながら、日本の古代年表のあやふやさと邪馬台国の謎を仮説として、解明したいと思っています。
 この後の話は、「邪馬台国は朝鮮半島の馬韓にあった。Part2」に続きます。
2011年5月30日

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silk 西洋と東洋を結ぶ交易の道、シルクロードは、紀元前3世紀後半にアレキサンドロス3世がギリシャのアケドニア地方から中央ユーラシア地域から中央アジアまで、南はペルシアからインドまで西洋から東洋へ攻めてきてから、秦や漢の時代に確立したように言われている。また、日本では、シルクロードと言うと、西域の敦煌辺りを指しているように言われているが、中国から東南アジアを通ってペルシア湾から、紅海までの物資の往来に船を使っていた事は、余り、シルクロードと表現されていないようです。紀元前2,000年頃の中国は、すでにシルクロードの原型ができていた。
 紀元前4,100年から紀元前2,600年頃の中国山東省の大汶口文化の遺跡から、トルコ石や象牙や翡翠が発見されていることからも、山東省の漁師が船でインドやアラビア半島位まで、大航海していた事が窺える。それと、渤海の海岸では、南から黒潮海流に乗って、魚達が集まってきたところで、それを追っかけて亜熱帯地方に入るくじらの群れがこの渤海に現れていたのではないでしょうか。また、くじらを追って東南アジアからインド洋にまで行った漁師もいるかも知れません。アラビア半島で古代東洋人の遺骨が発見されたと言う話もあります。
 この当時から航海術を持っていたのでしょう。それは、中国には日本では考えられない大河、黄亜河と揚子江があったからです。それと、古代人が航海するのに、羅針盤も持たずに航海ができたのは、鳥の様子を観察していたからです。現代日本でも、京都の鴨川で漁師姿をして船に乗り、鵜飼をする行事がありますね。中国でも、この鵜飼の漁が残っているところがあります。日本の文化はやはり中国から入ってきたのでしょう。
 古代中国の経済を考えると、紀元前2,000年頃から中国本土の蚕の生産や鉱山から出る金を持ち出し、インドで象牙や翡翠や真珠に替えて、中国本土に持ち帰る部族が存在して、古代中国の文化で一番華やかな龍山文化が芽生えたのでしょう。中国山東省辺りは、現在の工業国が先進国であるように、第一産業しかなかった時代ですが、中国山東省は、メソポタミア地方から、インダス地方から流れてくる物資の交易、織物や陶器類等の工業的な要素を含んだ先進国だったかも知れません。
2011年5月2日

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