いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2011

 日本の古代(縄文時代、弥生時代)を知る手がかりは、やはり中国の古代史を調べる必要があります。中国の歴史でも先史時代があり、中国の最初の王朝、夏、殷、周の時代以前の中国神話の時代です。その中で、三皇五帝の話があり、この神話は中国の正しい歴史ではないにしてもある程度参考にはなります。この神話は先史時代からの言い伝えをもとに前漢の武帝の時代に司馬遷が五帝以後の中国の歴史を執筆した「史記」を作成した。その後、唐の時代に司馬貞によって、「三皇本紀」が追加され、三皇五帝の話が完成するのです。
 中国の先史時代の歴史を知る上で三皇五帝の話は興味深いのですが、事実に沿った歴史であるかというと疑問に思います。この三皇五帝の話のなかで黄河の氾濫による治水の話が度々でてきます。最初に出てくるのが、三皇に扱われ、水神の神と言われている共工(現在のチャン族)と方船に乗って洪水を逃れた伏羲、女媧兄妹(現在のミャオ族)。五帝の時代では、天文を観察して暦を作らせた堯が天子を務めた時に、またも黄河の氾濫が起き、治水工事を夏王朝の初代皇帝、禹の父鯀(現在の越人)に託し、その工事に失敗すると殷の始祖と言われている舜に依頼し、舜が天子になった時に禹に治水工事を完成させた。
 史記では、三皇五帝で登場する人物の関係が同じ一族のように描かれているのですが、実はそれぞれ民族が違うのです。でも、これらの人物が活動した地区は黄河の中流から下流にかけてであり、現在の河南省、河北省、山西省辺りであったようです。堯の命令で治水工事をした夏人は元々、揚子江中流から下流にいて、長江文明を築いた春秋戦国時代の楚、越、呉の民族で、紀元前2,500年頃~紀元前2,000年頃に北上し、夏王朝を築き、現在の陝西省、山西省にいた殷王朝の民族に滅ぼされ、現在の河南省、河北省、山西省辺りから南下して、浙江省、江蘇省、安徽省、湖北省、福建省に移り住んだ。
 また、夏を滅ぼした殷王朝も舜に仕えた農耕の神、后稷を始祖とする周王朝に紀元前1,046年に滅ぼされる。殷の最後の王、帝辛の親戚に箕子がいて、殷滅亡後、朝鮮に追いやられ、箕子朝鮮を建国する。
 夏王朝滅亡後の夏人は、杞の国を建国し、或は楚の国を建国し、越人になり、その一部が中国の春秋戦国時代の動乱期に水田技術を持って日本に渡ってきている。また、殷滅亡後箕子朝鮮を建国したが、秦の始皇帝が中国を統一すると燕、斉、趙の民族が朝鮮に流れ込み、燕の衛氏によって箕子朝鮮が滅亡し、箕子朝鮮の民族は朝鮮半島を南下し、馬韓に移住し、百済になったころ日本に渡来した。
 日本に中国から渡来し、日本の原住民と同化していき、現在の日本人を形成しているのですが、中国が混乱期になった頃に日本に渡来してきているように思われる。
2011年12月23日

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 最近の考古学のニュースで「2,400年前の水田跡を発掘」の記事を基に古代中国史や日本神話の観点から、水田による稲作が日本に渡って来た時期を考えてみました。11月8日に県立橿原考古学研究所が、奈良県御所市條(じょう)の中西遺跡で、紀元前400年頃の13,000㎡もの水田跡を出土したと発表した。この中西遺跡では、以前にも7,000㎡の水田跡が確認されており、今回の出土と合わせて20,000㎡となり、中西遺跡の隣の秋津遺跡の水田跡を加えると24,000㎡となり、弥生時代前期の水田跡としては、滋賀県守山市の服部遺跡、大阪府八尾市、東大阪市の池島・福万寺遺跡を抜いて、日本最大の水田跡になった。
 今回の発掘で、標準的な水田が3×4メートルの周囲をあぜで囲まれています。この標準の水田跡が850箇所も出土したそうです。中西遺跡と秋津遺跡の水田跡のすべてがこの標準の水田跡だとすると、2,000箇所もあったことになり、 一世帯で3×4メートルの水田を管理していたとすると、この地域(24,000㎡ですから、東京ドームの半分位の広さ)に2,000世帯が生活していたことになる。また、この当時の生活環境として、一部の人が権力を持って支配するのではなくて、標準の面積の水田を持ち、ここの生活を営んでいたようにも見受けられる。
 水田による稲作が日本で行われるようになったのは、縄文時代晩期から弥生時代前期(紀元前1,000年~紀元前400年)ころと言われていますが、中国で周王朝は紀元前1046年に昌(文王)の次男の発(武王)が殷の帝辛を倒して建国したのですが、昌の父が季歴、祖父が古公亶父。古公亶父の子には季歴(3男)の他に太伯(長男)、虞仲(次男)がいて、この二人が呉を建国した。また、殷を倒した発を助けた呂尚(太公望:斉の祖)と周公旦(発の弟:魯の祖)や発の兄弟から、姓が姫と名乗る春秋戦国時代の国となっていく。
 日本語の読み方として、漢音読み、呉音読み、訓読みがあるのですが、この呉音読みに中国の春秋戦国時代の呉、越の文化が倭に水田技術と一緒に入って来たとしても不思議ではない。発が伯父である太伯、虞仲を周王朝に呼び戻そうとしたのですが、太伯、虞仲は刺青をして野蛮人になり、周王朝に戻らなかった。この刺青も海に素潜りする時に魚を威圧するために行なわれたと言われている。大和朝廷の久米一族やそれ以外の海航系の豪族は、呉、越出身かも知れない。
 日本神話で、アマテラスが高天の原(周王朝の朝廷)でマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミと相談して、子のアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギに米の種を与え、葦原の瑞穂の国(倭)を治めるために高千穂に天孫降臨した。また、神武天皇が大和朝廷を樹立するため東征した時期が紀元前660年とされているのも、水田による稲作が日本に渡って来た時期とダブってくるように思えてならない。
2011年11月21日

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 以前、いにしえララバイのブログ記事で「日本人の氏名は何時頃から使われるようになったか。」で、日本人の氏名が何時ごろから使われ出したかを記事にしましたが、最近中国の古代史を研究していると、日本人が使っている姓は、中国では民族を表していることが分かりました。また、氏は中国ではこれらの民族の中で、職業集団とか部族の一員として付けられたようです。
 紀元前3,000年~2,500年前ごろに、すでに中国では姓が存在していました。中国の神話に三皇五帝の話がありますが、この中の三皇のひとりに炎帝神農氏がおられ、農耕の神様、漢方薬の神様として、夏王朝の前に中国ではじめて皇帝についた人物です。これは神話の世界ですので、実際に皇帝に就いたかは定かでないですが。この炎帝神農氏の姓が姜(きょう)と言います。また、炎帝神農氏は中国の湖北省あたりで生まれ、揚子江から発生した文化を持ち、最初に稲作をはじめた民族の出身でした。
 炎帝神農氏の後、五帝のひとりに黄帝がおられ、医療の神様として知られ、炎帝神農氏の子孫、蚩尤と涿鹿の戦いで勝利し、中国の皇帝についた人物です。この黄帝の子孫が夏、殷、周の王朝を築いていくのですが、この黄帝の姓が姫(き)と言われ、出身が黄河の中流の河北省あたりでした。そして、中国の中華思想の考え方として葦原中原(中国または中華)を中心とした漢民族の支配の基礎を作った。この黄帝の民族こそが、青銅器や鉄器の技術などの黄河流域の文化を持った民族だったのです。
 紀元前1,046年に周の武王によって、周王朝が建国され、国姓を姫として葦原中原を支配した。その後、紀元前771年に西戎の侵略によって都を洛邑に移してから、中国では春秋時代が始まり、斉の桓公、秦の穆公、宋の襄公、晋の文公、楚の荘王等の春秋五覇に当初分かれて、中国各地を個々の国として分裂支配が続きます。その中で斉の桓公の姓は姜であり、晋の文公の姓は姫で、その他の秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王は別の姓でした。晋の国の民族が黄河流域の文化を受け継いだことになり、斉の国の民族が揚子江流域の文化を。その後、晋は魏、韓、趙等に分かれ戦国時代に突入するのですが、その中で魏と韓の国姓は姫である。春秋戦国時代に姫の国姓を名乗った国として、呉も黄河流域の文化を受け継いだのであろう。
 このように、中国で姓は国姓として、同族を表す名前として使用されていた。この姓の考え方が日本にも伝わったのかも知れないが、日本で姓が姓(かばね)と変化し、大和朝廷の樹立した頃は、朝廷に従う有力氏族に天皇が臣や連等の姓(かばね)を与え、職掌や立場を明確にした。また、戸籍制度の充実を図るため、祖先を同じくする同族集団に氏(うじ)が大和朝廷から与えられるようになり、蘇我氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏等その土地に因んだ名前が天皇から与えられたことになる。また、職務に因んだ名前としては物部氏、日下部氏等があり、天皇から直接命名された名前として、藤原氏、源氏、平氏等もあります。
 戸籍制度がいつからあったかは定かでないが、中央集権国家を目だした大和朝廷の基盤として中国から取り入れた律令制の充実を図るため、戸籍制度が出現したのではないでしょうか。戸籍として、日本の最古のものは欽明天皇の時代の540年の戸籍がある。中国の律令制は秦王朝や漢王朝に原型があるとされているが、実際に律令国家として現れてきたのは魏晋南北朝時代(184年~589年)と言われている。すると、日本に戸籍制度の考え方が出てきたのは古墳時代頃なのかな。
2011年11月6日

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 大和朝廷の官僚政治も7回目を向かえ、今回は和歌山に勢力を持っていた紀氏を取り上げます。神武天皇が東征する時、白肩の津(大阪の四条畷辺り)でナガスネビコと戦って、兄のイツセが負傷して、神武天皇の軍は南に下って、紀氏のいる紀の国(和歌山)に逃げて、イツセは男の水門(大阪府泉南市辺り)で死んでしまう。
 紀氏の祖先神は、高天の原に成り立った最初の独り神のひとり、カムムスヒの子孫のアメノミチネで、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが高千穂に天孫降臨した時にアメノコヤネやアメニウズメ等の三十二の神のひとりとして、お供したアメノミチネです。そして、神武天皇が白檮原の宮で政治を行なった時に、アメノミチネを紀国造に任命している。その後、アメのミチネの子孫は、アマテラスが天岩戸に隠れられた時にイシコリドメが天香久山から銅を採出して作った八咫鏡(天皇家の三種の神器)に先立って造られた日像鏡(ひがたのかがみ)を神体としている日前神宮と日矛鏡(いぼこのかがみ)を神体としている國懸神宮の神職を勤めることになる。
 日本神話では、紀氏は天皇家と同じ天つ神系の豪族だったようです。しかし、この紀氏も物部氏、中臣氏、大伴氏、久米氏と同様に中国からの渡来人だと想定できます。中国の神話に出てくる神農の子孫は姜の姓(同一民族の証として姓)のを名乗りました。その姜の姓から、州、甫、甘、許、戯、露、斉、紀、怡、向、呂の氏に分かれ、中国の春秋・戦国時代の斉の国王、呂尚(太公望)はこの神農氏の子孫。この中に、紀氏があり、周王朝時代に大臣を務めた甫侯と同じ様に周王朝の官僚を勤めていたのかも知れない。
 渡来系の豪族、紀氏は大和朝廷が政権を持つ前まで、物部氏と同じ様に和歌山の地で、高野山の麓に丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)も支配し、高野山の麓で取れる辰砂を鉄の製造する能力があった海洋系の豪族で、鉄による財源を基に天皇家にも影響力を与えた豪族だったのかも知れない。
 紀氏が天皇家に同化していった背景として、第八代孝元天皇の子、ヒコフツオシノマコトが、アメノミチネの子孫、ウチマロの子、ヤマシタカゲヒメと結ばれ、タケウチノスクネを生んでいる。このタケウチノスクネの子にキノツヌノスクネ(紀氏角家の祖)が平安時代まで、大和朝廷の官僚として仕えた紀氏の祖先です。この辺りの話になるのですが、タケウチノスクネの子に、蘇我氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、波多氏等に分かれていく。タケウチノスクネ自身が架空の人物ではないかと言われていますし、古事記や日本書紀を編集した時に地方豪族を天皇家の系図に含めてしまったのかも知れません。
 この後、神功皇后時代の三韓征伐を初めとした朝鮮出兵に、蘇我氏、大伴氏、物部氏、葛城氏等と共に、紀小弓、紀崗前、紀大磐等が出兵しています。その後、紀氏は物部氏に付いたり、蘇我氏に付いたりしながら、大和朝廷の中堅官僚として仕事をして、平安時代には文化人として、歌人紀貫之と紀友則を輩出しました。
2011年10月23日

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 アマテラスが天の岩屋に隠れられた原因を作ったスサノヲは、高天の原の八百万の神々の協議の結果、高天の原を追いやられた。そして、スサノヲはさまよいながら、高天の原から出雲の国に降り立った。それから、オホヤマツミの子、アシナヅチとテナヅチ夫婦とその娘クシナダヒメに会い、コシノヤマタノヲロチにクシナダヒメがさらわれるので助けて欲しいと依頼され、スサノヲは草薙の剣でコシノヤマタノヲロチを退治してしまう。そして、スサノヲはクシナダヒメと結ばれる。
 中国の周の時代に、中華思想という考え方が生まれ、中国大陸を支配するものが、中華であり、それ以外の異民族を四夷、或は夷狄といい、中華の北側に北狄、東側に東夷、南側に南蛮、西側に西戎に分けた。その当時、中華の中心は朝廷であり、その周りにいた民族、漢人となり、それ以外の民族が四夷となります。この四夷の中に、日本や朝鮮を含んだ東夷があるのですが、その東夷の主流は、山東省や河南省に住んでいた萊族だったのです。紀元前11世紀頃に山東省に勢力を持っていた萊族は、太公望で知られ、周の軍師、陝西省出身の呂尚が周の武王の命により、制圧されてしまい、呂尚によって斉を建国されてしまう。その後、萊人は漢族と同化し、また江蘇省、遼寧省、吉林省、黒竜江省、朝鮮、台湾、日本に移住していった。とすると、江蘇省に移住した萊人が浙江省に移り、戦国時代の越人に同化し、吉林省に移動して濊人に同化して扶余の建国に参加したかも知れない。
 いにしえララバイのブログ記事「日本文化の源は山東龍山文化。」や「中華文明を発信した楽浪郡が日本文化の基礎」でも述べたように、日本の文化が紀元前2000年頃の中国山東省の文化から来ているとしたら、萊人の文化を受け継いだのではないでしょうか。萊人が弥生時代の早期に渡来していたとしても不思議ではない。
 さて、また古事記に戻りますが、クシナダヒメ(櫛名田比売=霊妙な稲田の女神)と殺害したオホゲツヒメの死体から得た穀物の種を出雲の国に持って行ったスサノヲが結ばれる話は、古代の出雲の国は弥生時代初期に中国から水田による稲作技術を持って、日本に渡ってきた萊族が出雲に住みつき、大和朝廷系の民族が出雲の萊人と手を結んだ話かも知れない。前漢の楽浪郡に深い関係があった出雲の国に萊人が渡って来ていたとすると、高志の国を越の国とし、大和朝廷がこの高志の国より北を蝦夷あるいは蝦狄と言ったのもある程度理解ができる。
 コシノヤマタノヲロチの正体は、出雲の国の東、今の北陸地方と新潟に古事記では高志の国であり、日本書紀では越の国であり、その国が出雲の国に侵略してきた人々ではないかとすると、コシノは高志の国のことで、ヤマタは得体のしれないモノ、ヲロチは怪物を表していることになり、出雲の国の隣国、高志の国の得体の知れない民族のことを神話として扱われているのであろう。
 では、高志の国の得体の知れない民族とは、周の時代に吉林省や黒竜江省当たりにいたツングース系の狩猟民族、粛慎ではないか。この粛慎は後漢頃には挹婁となり、勿吉となっていく。出雲の国にいた萊人が、高志の国にいた狩猟民族を粛慎と言ったのか、吉林省や黒竜江省に住んでいた粛慎が日本に渡来したのかも知れない。
2011年9月25日

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