いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2010

 前回の大和朝廷と言う名称は神武天皇が命名したのではなく、大化の改新以前をヤマト政権と名づけていると言う話をしましたが、大和朝廷が後から命名された事については否定しません。しかし、朝廷と言う用語は中国の周時代からありましたし、官僚の名称として『大夫』は周時代から存在していました。
 日本で最初に大夫と言う官職の名称が出てくるのが、漢委奴国王印が後漢の光武帝によって、日本の派遣の使者に手渡された時である。『後漢書』東夷伝に「建武中元二年(AC57)、倭の奴国、朝に賀して貢を奉ずる、使いの人、自らを大夫と称す、倭国の極めて南の界いなり、光武、印綬を以て賜う」と記載されていので、大和朝廷の大夫ではないが、奴国の使者が大夫を名乗っている。この事は、弥生時代中期、1世紀の頃には、国に君主がいて、官僚として大夫がいた事になる。その他にも、親魏倭王の金印を魏の皇帝・曹叡(明帝)から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、西暦238年(239年説もある)に与えられたと『魏志倭人伝』に記述されている。この時の使者が。難升米と言う大夫である。このように、大夫と言う官職は、すでに1世紀の頃には日本に存在していた事になる。だから、大和朝廷の垂仁天皇の時代に五大夫が設けられたとしても不思議ではない。
 大和朝廷が日本全土を支配したのは、応神天皇以降と考えられるので、1世紀から3世紀頃には、奴国や邪馬台国等の諸国が日本に存在していた事は事実であり、それらの国に官職としての『大夫』が存在していた事も事実です。この大夫と言う官職の制度や名称が中国に習ったものだとすると、周や秦から、倭に渡って来た民族がいた事になり、倭に住み着いた事になる。その時期が、水田による稲作文化と平行して進行してきたと仮定すると興味深い。
2010年11月17日

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 大和朝廷は神武天皇が九州の高千穂から東征して、現在の奈良県桜井市に到着して、樹立した事になっている。日本書記によると神武天皇は、紀元前660年に即位した事になっている。古事記や日本書記では、初代天皇として大和朝廷を樹立した事になる訳であるが、はたして、紀元前660年に大和朝廷が存在したのだろうか。
 朝廷と言う呼び方は、中国の周時代(紀元前1046年~紀元前256年)に発生した用語で、朝は政権を意味し、廷は朝堂院がある庭を意味している。この朝堂院に官僚が集まって、政務を行うところであり、朝廷と言う用語を使う限りにおいては、政権下にある王の下に官僚がいる組織を指している。中国でも、朝廷として確立されたのは秦時代(紀元前221年~紀元前206年)である。となると、日本の大和朝廷が紀元前660年には存在していた事は、疑問であるし、官僚制度がその当時から存在していた事は考え難い。
 大和朝廷として、官僚を配置し、政権下で官僚が政務に励んでいた時代となると、大化の改新以後となる訳です。このような事から、現在では、大化の改新以前の政権をヤマト政権とかヤマト王権とか言われるようになった。では、古墳時代の倭の五王の時代をヤマト王権と呼んでいるのですが、古墳時代には、日本の政権には官僚が存在しなかったのでしょうか。
 垂仁天皇(即位:垂仁天皇元年~垂仁天皇99年・紀元71年)の時代に物部十千根、大伴武日、中臣国摩大鹿島、丸邇彦国葺、阿倍武渟川別は五大夫に選ばれているし、皇族の意冨比垝、阿倍武渟川別、吉備津彦、丹波道主は四道将軍として全国統一のため、将軍に任命されている。また、仲哀天皇(即位:紀元192年~紀元200年)の時代に武内宿禰を始めとして、物部胆咋、大伴武以、中臣狭山彦、大神大友主は四大夫に選ばれている。その他にも、神功皇后(紀元170年~紀元269年)の時代に三韓征伐で活躍した葛城襲津彦や田蓑宿禰(津守氏の祖)など、大和朝廷の官僚ではなかったのか。垂仁天皇、仲哀天皇、神功皇后など存在しなかったと言えばそれまでですがね。朝廷と言う組織の運営と官僚制度は、やはり中国から入ってきたのでしょう。このような組織や官僚制度が何時ごろ日本に入って来たかは、今後の課題です。多分、中国の漢時代か、後漢時代かではないでしょうか。
2010年11月10日

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 韓国の伝説的な王、韓流ドラマで話題になった首露王と大和朝廷を樹立するため、東征した神武天皇が同時代と仮定すると、古代国家を建設する上で、韓国と日本との関係が明白になってくる。韓国の首露王は紀元42年に生まれたとされ、駕洛国(金官伽耶国)を42年から199年までの158年間治めたとなっている。日本の神武天皇は紀元前711年に生まれ、紀元前660年から紀元前585年まで即位した事になっている。この略歴から見ると首露王と神武天皇とは、全く比較にならないと言われる方も居られるでしょう。
 しかし、駕洛国の歴史を作る上で、首露王の略歴を後世の人が作ったと考える。駕洛国は、鉄器文化を持った農耕国家、辰国(紀元前3世紀~2世紀頃)から分かれた狗邪韓国(紀元前1世紀頃)が前身であり、紀元1世紀頃、駕洛国は6集落の首長が集まって政を行う集団統治国家でした。そのひとつの集落に首露王をはじめとする金海金氏がいたと考えられます。この事は、6個の金の卵が天から亀旨峰(韓国慶尚道金海市)に落ちて来たという駕洛国の建国神話からも察しが付きます。首露王の出生神話は、この6個の金の卵のひとつから首露王が生まれ、金海金氏を名乗り、駕洛国を治めるという天孫降臨の神話となるのです。この様な神話は、駕洛国の第2代国王、居登王(即位199年~259年)の時代に作られたのでしょう。
 駕洛国の居登王の時代前後の日本の状況は、ちょうど倭国大乱の時代に相当する。中国の「後漢書東夷列伝」には、146年から189年に倭国が大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立したとある。 この倭国大乱の時期の天皇は、成務天皇(即位131年~190年)となるのです。この頃、大和朝廷の実権を握っていたのが、建内宿禰でした。成務天皇の後、仲哀天皇及び神功皇后となるのです。この頃の日本は、朝鮮と活発に交流していた頃ですから、駕洛国の首露王や居登王との繋がりもあったと思われます。また、アマテラス大御神の命により、豊葦原の瑞穂の国を治めるため、高天の原から高千穂にアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが降り立ったという天孫降臨の神話はその当時、作られたのではないでしょうか。
 倭国大乱に勝ち残った大和朝廷は、天皇家の権威を保持するために天孫降臨の神話を生み出したのではないでしょうか。神武天皇の誕生年代が紀元前711年、即位が紀元前660年~紀元前585年となっているのは、倭国としての起源を表していると思います。「三国志」魏書東夷伝で倭国大乱の記事で、その国(倭国)は元々、男子を王としていたが70年~80年ほどで終わったとある様に、倭国が古くから存在していたことは事実ですし、国家として王が存在していた事も事実です。
 日本神話を歴史的に解明する事は、確かに難しいし、それだけの意味があるかというと疑問ではありますが、天孫降臨の考え方が日本独自のものか、或は朝鮮から渡って来たのかは分かりませんが、古代人が考え出した事に対して敬服します。
2010年10月28日

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 日本古代のヒューマン信仰の起源は、アマテラス信仰に始まる。そして、アマテラス信仰は、アマテラスの「豊葦原の瑞穂の国を治めよ」という仰せにより、孫のアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニキが、高天の原から高千穂に降り立った天孫降臨から始まる。その子孫の神武天皇が大和朝廷を樹立して、脈々と続く天皇家が存在している。また、日本のヒューマン信仰は、釈迦が説法した経典を基礎にした仏教やイエス・キリストが説いた聖書を基にしたキリスト教等の宗教とは違って、アマテラスを個人崇拝する。弥生時代から、日本の食生活は稲作が主ですので、太陽信仰の象徴としてのアマテラスなのでしょう。
 弥生時代の日本では、アレキサンダー大王の様に強烈な個性によって、人民を支配する西洋と違って、中国大陸や朝鮮半島から渡って来て、移住した或は、縄文時代から住み着いた民族が混じりあって出来た人民ですから、大和朝廷が設立した当時、人民を纏め上げるには、象徴としてのアマテラスが必要だったのでしょう。日本の国家の形成の過程は、西洋諸国と違って、集落の形成から始まり、その集落の運営は、巫女がよろずの神のお告げをもとにして行われ、集落の拡大が国家になるのですが、ひとりの個人が、廻りの集落を制圧して出来た国家でなく、集団体制のなかから、経済力、軍事力の優れた集落が他の集落を支配していく形を取った。このため、いろいろな考えをもった人民を抑えて行くのには、アマテラスの神と巫女が必要であった。確かに、神武天皇が日本を統一して、大和朝廷を樹立するのですが、神武天皇が個人崇拝するような国の情勢ではなかった。神武天皇を支えた氏族の存在があり、アマテラスと言う神、或は天皇を象徴とする事で、集団体制で政権を維持した経過が、弥生時代の歴史を探ってみると見られる。古代に於いて、日本国家が形成される過程が、戦前の日本が、軍国主義に偏った時、ナチスドイツのように、ヒットラー個人によって、国の進路が変えられた経緯と違って、日本軍部によって、天皇と言う仮の偶像を立てる事により、国家を支配し、集団体制でアジア諸国に攻め入ったのも、古代から永遠と繋ぐ、日本人の特製である。現在でも、西洋諸国からよく言われるのが、日本国家としての日本人は存在するが、日本人個人の顔がみえない。
 では、日本には、ヒューマニズムが存在しないのかと言うと、そうではない。古代においての万葉集や古今和歌集等に見られるようなのびのびとした表現力、江戸時代に花開いた町人文化としての浮世絵等を見ていると、そこには確かにヒューマニズムが存在している。西洋のヒューマニズムは強烈な個性から発生した個人主義、本人主義に対して、日本人のヒューマニズムは、集団というベールに囲まれているが、周りの環境を考えながら、密かに自己主張をする日本人独特の性質を持っているのではないでしょうか。これは、西洋の人には理解できないかもしれませんが。
2010年10月20日

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 神武天皇以来続いていると言われて中で、八代天皇の欠如や崇神天皇の暗殺や仲哀天皇から応神天皇に移る過程での疑問等色々と天皇家での問題があります。継体天皇が即位したのも、天皇家の疑問のひとつです。6世紀の初頭の頃、大伴金持が大連を勤めていた頃。大伴金持は武烈天皇の子息がないので、応神天皇の五代目の子孫ヲホドを近江の国(越前の国とも言われている)から探して来て、武烈天皇の姉タシラカノイラツメを嫁にして、入り婿と言う形で継体天皇として即位させた。即位期間は、507年から531年です。
 ヲホドの父はヒコウシであり、近江の国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、息長氏系の三国氏を母方に持つヲホドは、母、フリヒメの故郷である越前の国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。そして、57歳の頃に第26代継体天皇に即位しました。ヲホドの系図は、応神天皇~ワカヌケノフタマタ(若野毛二俣王)~オホイラツコ(意富富杼王)~オイ(乎非王)~ヒコウシ(彦主人王)~ヲホド(男大迹王)となっています。この系図で注目するのが、オホイラツコです。意富氏と関係があったのでしょうか。意富氏とは、大和朝廷の中級官僚として歴代の天皇を支えた氏族です。古事記では、神武天皇の子カムヤヰミミの子孫となっていますし、垂仁天皇の四道将軍として北陸道を制圧した孝元天皇の子オホビコ(意富比垝)もこの氏族です。また、埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見えるオワケノオミ(乎獲居臣)の上祖が、オホビコである。古事記を編集した太安万侶も、この意富氏族です。意富氏は元を正せば、鉄器に関係が深い丸迩氏(春日氏)や息長氏と同族と考えられ、朝鮮半島から渡って来たワイ族ではないでしょうか。
 ヲホドの時代の近江の国は、どのような処だったのでしょうか。その当時、近江の国を支配していたのはオホイラツコを祖とする息長しです。また、息長氏の祖先をたどれば、第9代開化天皇の子ヒコイマスにまで辿り着き、ヒコイマスの伯父がヒコクニオケツで丸迩氏の祖となる。ヒコイマスの子孫には、丹波の国を治め、息長氏の祖タニハノヒコタタスミチノウシがいるし、神功皇后の祖オキナガノスクネがいる。なた、新羅の王子とされているアメノヒボコとも関係がある。すなわち、息長氏も鉄器に関係がある事になる。ヲホドの時代、滋賀県米原市上丹生の丹生川流域で、鉄の元となる辰砂が取れていた。余談ですが、近江の国に辰砂が取れるので、鉄器製造技術を持った賀茂氏の一部も移り住んでいた。近江の国に最初に宮殿を建てたのが、タニハノヒコタタスミチノウシを外祖父とする第12代景行天皇の晩年の志賀高穴穂宮ですし、第38代天智天皇の近江大津宮がある。
 このように近江の国は、日本の古代において、鉄と言う産業の中心にあった地域で、その近江を支配していた息長氏をバックに持つヲホドが、大伴金持や物部麁鹿火の支持を得て、継体天皇に即位した事になる。また、継体天皇から現在の天皇まで、天皇家が継承されている。
2010年9月19日

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