いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ:古代史ファイル > 2010

 日本の天皇は中国から来た部族と言う説には肯定も否定もしませんが、日本人のルーツを考えるとやはり、縄文人となります。縄文時代の草創期は、今から約16,000年~12,000年前の頃です。日本列島が大陸と陸続きの頃で、最後の氷河期が終わって、日本の気候が温暖化に進み、地盤が約100kmも徐々に下がっていった時代です。その当時の日本人は、マンモス象等の巨大動物を追いかけて、猟をしていたため、定住をせず、北は北海道から南は沖縄まで、移動して生活をしていた。この当時は、国境もなく、中国大陸から日本へ来たり、日本から中国大陸に移動したりしていたのでしょう。では、中国大陸のどの辺りから日本にやって来たのかとなると、はっきり分からないのですが、以前、いにしえララバイのブログで「古代日本人が、日本に定住した時期について」の記事を投稿しましたように、縄文時代の早期(約12,000年~7,000年)頃には、縄文人は半定住から、竪穴式住居を構えて、狩猟と農作をするようになり、定住を始めた。この定住した縄文人が話した言語が、アルタイ諸語族のツングース諸語系日本語(琉球語、アイヌ語も同系統)でした。日本人は、中国の漢民族でもなければ、朝鮮民族でもないのです。アルタイ諸族と言えば、トルコ系から、モンゴル系、朝鮮系と中央アジア系、西域系民族です。しかし、日本語はアルタイ諸語族のツングース諸語系に属していますが、母音の強い音韻体系がオーストロネシア語族と類似しているとも言われている。
 日本人の男性のY染色体を調べてみると、D2系統とO2b系統を中心としている事が判明している。その中で、D系統は、Y染色体では比較的古い系統で、現在、D系統はD1、D3系統が多いチベット人とD2系統が多いアイヌ人、日本人、琉球人にだけしか残っていない。また、D系統はアジア人種よりも地中海沿岸や中東のアラブ系人種のE系統に近い。このように遺伝子から、日本人の起源は約50,000年前に地中海沿岸からやって来た事になる。
 縄文人は、縄文時代前期(約7,000年~5,500年前)頃に東日本から定住が始まり、中期(約5,500年~約4,500年前)には東日本で大集落が出現している。この縄文時代前期、中期に中国では、黄河文明の仰韶文化(7,000年~5,000年前)から龍山文化(6,800年~4,000年前)が、長江文明の河姆渡文化(7,000年~5,400年前)から良渚文化(5,200年~3,800年前)が、遼河文明の興隆窪文化(8,200年~7,400年前)から花山文化(5,400年~4,300年前)が出現している。この頃には、日本の縄文文化と中国の文化の接点は見出せない。
 縄文時代後期(約4,500年~3,300年前)から晩期(約3,300年~2,800年前)頃になると中部山岳部の定住は少なくなり、西日本の定住が増加してくる。この頃に水田による稲作が中国大陸から渡って来るようになり、弥生時代早期(約3,000年~2,800年前)、前期(約2,800年~2,400年前)には水田による稲作と共に中国の民族が渡って来て、中国の文化(青銅器、養蚕、ヒスイの玉器等)を伝えた。そして、弥生時代中期(約2,400年~1,900年前)に中国の文化(鉄器、陶器等)が朝鮮半島経由で渡ってくるのです。
 このように、縄文から弥生時代に掛けて日本の文化或いは日本神話を考えると、縄文時代晩期から弥生時代早期に掛けて、水田による稲作が中国から入ってきて、弥生時代中期には鉄器が入ってきて、現在の日本の文化や日本神話が形成された事になるのではないでしょうか。
2010年12月30日

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 以前、いにしえララバイのブログで紹介しました「鉄製造技術としての古代たたら製鉄について」の記事の中で、紀元前1680年に、現代のトルコにインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話す民族が、ヒッタイト帝国を建国し、アナトリア半島の遺跡から鉄滓(てっさい・鉄鉱石と木炭を熱した時の鉄以外の副産物)が発見された事を話しましたが、その後、日本に鉄製造技術がどのような過程で伝わったか。今回、中国の古代史を調べ、「ミャオ族が日本での最初の渡来人」や「天皇と言う名称と日本神話の起源」の記事を書いている時に、ひとつの仮説が浮かびました。
 黄帝(紀元前2510年~紀元前2448年)がいた頃、黄帝は、蚩尤(しゆう)と大戦争になり、涿鹿(河北省張家口市付近)の戦いで勝利を治める。この時に、蚩尤に味方したのがミャオ族の祖で、現在の山東省にいた九黎族です。黄帝に敗北した九黎族は揚子江付近に逃れて、三苗族となったのですが、その一部は現在の陝西省から青海省の付近に移った。そして、テュルク諸語の民族(トルコ系)と交わり、鉄製造技術を習得する事になる。そして、華夏族(漢民族)の国家、夏、殷(商)、周の領土に侵入して、略奪を続けていたが、ついに紀元前770年に周王朝の首都鎬京を陥落させて、西周時代に終わりを告げさせた。これ以降、中国は春秋時代に入り、西周の領土に秦が入り、西戎は元の陝西省から青海省に追いやられてしまった。そして、紀元前5世紀に西戎出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成することになり、西戎は秦の第9代君主、繆公(紀元前659年~紀元前621年)によって滅ぼされ、羌族と氐族に分かれ、氐族は甘粛省の南に移住する事になる。また、羌族も氐族もチベット系民族の三苗族と交わる事になる。
 戦国時代を統一した秦の始皇帝は、羌族や氐族を優遇していたが、漢の時代になって、弾圧を受けるようになり、その一部は山東半島に移住し、朝鮮半島から鉄製造技術をもって、日本に渡来したと考えられる。
2010年12月28日

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 日本の天皇と言う名称は、世界の皇帝に当る意味合いがあると思っていました。しかし、中国神話の世界になるのですが、中国史を調べていると、中国最初の国家、夏以前の時代に三皇五帝がある事を知りました。この三皇には、天皇【てんこう】、地皇、人皇(泰皇)あり、各皇に何代か続き、その後、五帝が続いて、夏の時代に入っていく。天皇とは、中国神話において三皇は神ですので、天地が最初に誕生した時に降り立った神と言う事になり、十二支の暦を発案した。三皇の神話は、前漢の7代皇帝、武帝(紀元前156年~紀元前87年)の時代に、司馬遷によって編纂された『史記』三皇本紀に記載されている。また、前漢の時代(紀元前206年~8年)に、三皇五帝が中国神話に出てくる神、ミャオ族の祖、伏羲【ふくぎ】、女媧【じょか】、神農を当てはめたりしている。西晋の時代(265年~316年)には、三皇を伏羲、神農、黄帝とする説を唱えた。伏羲(紀元前3350年~紀元前3040年)は中国の雲南省を中心に勢力を持っていたミャオ族の祖で、洪水神話で妹の女媧と二人だけが生き残り、伏羲と女媧が夫婦になって、人類を創生した。神農(紀元前2470年頃)は漢方薬と農耕技術を伝えた神で、農具を鉄器に替えた農業の神です。神農の部族は、黄帝(紀元前2510年~紀元前2480年)と連合して華夏族(漢民族の原型)となる。中国史の中で、夏、殷(商)、周、秦、前漢と続く、漢民族の国家ですのに、黄帝と戦って負け、南下したミャオ族の神話が、中国神話として、残っているのも不思議に思います。このように、中国神話を体系化したのは、前漢の時代でしょうが、三皇五帝の神話や洪水神話は、周の時代や春秋戦国時代から、言い伝えられてきたのでしょう。秦の始皇帝が中国では、最初に国の君主を皇帝と定めたのですが、この皇は三皇から、帝は五帝からとって、三皇五帝よりも上である事を強調したかったのでしょう。
 日本で天皇【てんのう】と言う名称を使ったのは、神武天皇が初めてです。古事記では、神武天皇は神として扱われています。中国の三皇の天皇【てんこう】と同じ扱いをしたかったのかもしれません。日本で頻繁に天皇と言う言葉が使われるようになったのは、明治時代になってからですが、明治以前は天皇と言う呼び方を訓読みで『すめらぎのみこと』と呼んでいたようです。日本の天皇と言う読み方は、呉音の【てんおう】が連語になって【てんのう】となったのに対して、中国の天皇【てんこう】は漢音です。多分、意味合いとか、使われ方は同じではないでしょうか。日本の弥生時代早期に渡来したミャオ族や弥生時代前期に渡来した呉越の民族により、古代日本では呉音と話し言葉としての訓読みが普及していたのですから。
 日本神話で最初の頃に出てくるのが、イザナキとイザナミです。この兄妹が日本の国土を生み出していく神話ですが、この手の神話はアダムとイヴ(エバ)を描いた旧約聖書をはじめとして、世界中の神話によく出てくる話ですが、この手の神話が日本に伝わったとすると、やはりミャオ族の洪水神話に出てくる伏羲と女媧の神話ではないでしょうか。アマテラスの神話ですが、東南アジアからオセアニア諸国によく似た話があるそうですが、日本に伝わったとすると、中国の春秋時代の呉・越の国から伝わったオオヒルメの神話ではないでしょうか。日本神話の起源は弥生時代の早期から前期だと推測されますが、中国の前漢、後漢、魏と経過した時代で、倭の大乱が終わってからのように思えます。
2010年12月23日

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 ミャオ族(苗族)は現在、中国では貴州省、湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省に住み、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムにも分かれて住んでいる。この少数民族の歴史は古く、揚子江周辺の長江文明(紀元前14000年~紀元前1000年)にまで遡る。畑作の黄河文明に対して、長江文明は稲作文化であり、日本の米(ジャモニカ米)の発祥地方の文明である。この時代のミャオ族の神話で、紀元前3350年~紀元前3040年頃、伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)の兄妹が主人公で、彼らの父が雷公(チャン族)の戦いで洪水攻めに合い、ミャオ族のほとんどが死んでしまって、その時に船で逃げ出した二人の神は結婚して、子供を沢山生んでミャオ族を復興させた。
 紀元前2500年頃、夏の初代皇帝、禹(う、紀元前2070年頃)の祖、漢字を開発した黄帝(紀元前2510年~紀元前2448年)がいた頃、黄帝は、蚩尤(しゆう)と大戦争になり、涿鹿(河北省張家口市付近)の戦いで勝利を治める。この時に、蚩尤に味方したのがミャオ族の祖、九黎族です。黄帝に敗北した九黎族は揚子江付近に逃れて、三苗族となった。それから、黄帝の子孫、が夏を建国した。
 その後、華夏族(漢民族)に反発し、反乱をお越したりしていたミャオ族は、周の時代に華夏族と同化した部族と春秋時代に楚、呉、越の配下に付いた。そして、呉が越に滅ぼされ、越が楚に滅ぼされ、最後に楚が秦に滅ぼされたため、ミャオ族はさらに南下して、広西チワン族自治区、海南省、ベトナムに移住した。そのミャオ族の一部が黒潮海流に乗って、沖縄諸島から奄美諸島、そして、南九州に、さらに対馬海流に乗って、対馬列島や朝鮮半島南部や北九州に上陸する事になる。では、何時頃日本に渡来したか。中国の春秋時代の頃で、楚・呉・越の戦いが盛んな頃、紀元前500年頃、日本では縄文時代晩期から弥生時代早期に当る。ちょうど、日本に水田による稲作が渡って来た頃です。
 最後に、魏志倭人伝で倭人の衣装に触れた文章があります。それには、幅の広い布に穴を開けて、そこから頭を通して、腰を紐等で縛る貫頭衣と言う服装です。そこで、ミャオ族の民族衣装と沖縄の民族衣装と古墳時代の衣装、日本の和服の原型の十二単の画像を紹介します。民族衣装だけでなく、ミャオ族が日本に渡ってきた証拠は他にもある様に思われます。
myao_i
nihon_i
okinawa_i
2010年12月19日

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 古事記は元明天皇の命により、大和朝廷の中級官僚、朝臣の太安万侶が下級官僚、舎人の稗田阿礼の語り部を音訓漢字で記述した現代写本として残っている最古の歴史書です。この稗田阿礼と言う人物は天武天皇の命により、帝記と旧辞を調べ、また、諸豪族に伝わっている言い伝えを記録した。この記録した出来事を語り部として、誦えたのを太安万侶が記述したのが、古事記です。天武天皇が何故、稗田阿礼に帝記や旧辞を調べさせたのか。それは、律令制度と専制君主制の復旧のためと、推古天皇が手掛けた天皇記の引継ぎの意味も含まれています。天皇記は推古天皇の時代に延焼のため、現代には残っていませんが。古事記は3巻からなり、上巻は神武天皇までの神話、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までを納めています。また、帝記は歴代天皇の生まれ、婚礼、子息、即位、宮殿、死去等の情報を載せてあるだけで、古事記の記事で、神話や即位している天皇の出来事等は、旧辞か諸豪族の言い伝えです。このような古事記についての情報は、歴史をかじっておられる方だとご存知だと思います。
 稗田阿礼と言う人物は、どのような人物であったかについてはまだ解明されていません。女性であったと言う説もあります。この根拠は、稗田阿礼がアメノウズメの子孫で、猿女族に所属し、伊勢神宮の斎司を受け持っていたところから出てきた話です。男性であったと言う説もあります。この根拠は、伊勢神宮にも関わりある中臣氏の分家であったと言うところから出ています。どちらにしろ、中臣氏はアメノコヤネの子孫ですから、稗田阿礼は、天の岩屋にアマテラス大御神がお隠れになった時に、活躍した神々の子孫である事には違いないと思います。だから、古事記の上巻の神々の世界を誦える事が出来たのかも知れません。
 太安万侶については、実代の人物であった事は、考古学的にも実証されています。太安万侶の祖は、古事記では神武天皇の子、カムヤヰミミとなっているが、仮説ですがどうも朝鮮半島から渡って来た渡来人である可能性が強い。それも、丸邇氏と同系の部族出身ではないかと思われるし、ワニの部族の神話に対する考え方が倭において色よく残っているかもしれない。また、太安万侶がワニの部族の出身なので、スサノヲやオホクニヌシ等の出雲に関する神話が採用されている。また、古事記が弥生時代の日本の歴史書になり得ないのは、都合の悪い事が省かれ、天皇家の都合の良いように編集されている事です。この事は、日本書紀でも言えます。古事記よりも日本書紀の方がこのような傾向が鮮明に現れています。中国の魏志倭人伝では、邪馬台国の卑弥呼が出てきますが、記紀には卑弥呼等は出てきません。
 神武天皇が橿原宮で即位した年は、日本書紀によると辛酉の年となっている。この年が日本の皇紀の紀元で、現在では毎年2月11日が建国記念日となっている。この皇紀は、1872(明治5)年に明治政府によって制定され、神武天皇が即位した年、紀元前660年を1年とした暦です。神武天皇が即位した年を紀元前660年に設定したのは、日本書紀の歴代天皇の即位期間を計算した結果である。また、神武天皇が即位した辛酉の年を紀元前660年とした説は、明治時代の歴史学者、那珂通世で、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年が大革命の年と説いた。神武天皇の即位の年から1260年後は、推古天皇が飛鳥に宮をおいた601(推古天皇9)年に当る。
 古事記が誕生した712(和銅5)年当時では、神武天皇が即位した時代を遠い昔と言う感覚であったのだろう。それが、明治以降の研究で紀元前660年頃と設定したのでしょう。現在では、神武天皇が即位した年が紀元前660年と考えている人は少ないかも知れません。しかし、神武天皇が即位した年がどうであれ、紀元前660年頃と言うと、弥生時代前期の頃で、水田による稲作が日本に入って来た時代である。また、中国史において周が紀元前770年に都を洛邑(成周)へ移して、春秋戦国時代に突入してから100年程たった時代であり、この頃から、中国大陸や朝鮮半島から渡来してくる民族があった事は事実である。
2010年12月8日

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