いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ: 青春歴史小説「たつやの古代旅日記」

第5章 百花繚乱 第4節

 晴美が歴史民俗資料館の扉を開けようとしたとき。
 「しょっと、待って。」
 「どうしたの。」
 俊樹は、階段を半分上がっていたのにUターン。
弥生式竪穴住居跡 「あの標識を見てくる。」
 「弥生式竪穴住居跡ね。」
 「この辺りには、1,700年から1,600年前の集落があったらしい。堀立柱建物跡が4棟、竪穴式住居跡が10棟も。かなり大きな集落だ。それにあの煉瓦の形からみて、隅丸方形・長方形住居のようで、カマドも設置されていたようだ。古墳時代前期から中期に掛けての住居跡だな。」
 「さぁ、資料館に入りましょう。この辺りで発掘された製塩土器や魚をとる網に付けるおもりも展示されていますから。」展示室(歴史民俗資料館)
 「晴美さんじゃないか。」と俊樹たちに近づいて来たのはここの館長だった。
 「おはようございます。彼は松井俊樹といいます。」
 「私、館長の小林です。今日は、彼氏を連れてきたのかい。」
 晴美は、はずかしそうにうなずいて、「東京の大学から昨日帰ってきて、何か徐福のことを調べたいと。そこでここに。」
展示品(歴史民俗資料館) 「そうだったのか。松井さんも一緒に、私の部屋まで。」
 館長に案内された部屋は、資料館の3階にあった。
 「珍しいですね。その若さで徐福のことを調べておられるとは。」
 「私、大学で日本文化の起源を専攻していまして、先生に帰郷したら徐福のことを調べるようにと宿題を頂いたものですから。」
 「それでここに。この辺りには弥生時代から古墳時代前半までの集落があって、何故かあの飛鳥山が蓬莱山と呼ばれる言い伝えが。そんなことで、2004年にユネスコの世界遺産に登録された熊野古道の入り口として、この辺りも注目が集るようになり、その頃、かなり整備されました。」
阿須賀神社 「この辺りは、阿須賀神社の境内ですか。」
 「そうですね。阿須賀神社には徐福宮があり、昔から徐福はこの地方の方に信仰され、大切に守られてきたようです。この阿須賀神社は、古墳時代から飛鳥時代、奈良時代に掛けては今の熊野三山(本宮大社・那智大社・速玉大社)よりも尊ばれていたようです。それが藤原氏と菅原道真の確執があって宇多天皇が仏門徐福宮に入り宇多法皇になられて、熊野三山詣でが始まります。そのため、宇多源氏の関係から鎌倉・室町時代までは阿須賀神社も栄えたのですが、次第に廃れていきました。江戸時代になって、藩主、徳川家宜の命によって、新宮城主の浅野家や水野家によって再建され、現在に至っています。」
 「徐福は徐福公園に墓があって、この地で亡くなられたのでしょうか。」
 「徐福宮も、徐福の墓だと言われています。徐福の墓と言えば、そうそう、山中湖村長池の羽田さん宅から、徐徐福の山中湖の墓室福の祠が発見されたという毎日新聞の記事を見たことがあります。徐福はこの阿須賀にたどり着いて、富士山麓まで足を伸ばしたのでしょうかね。徐福伝説は各地にあって、不思議ですね。その新聞記事、ファイルにしてありますのでお見せしましょう。」
 俊樹はその新聞記事を見て、ひとつの疑問が湧いた。
 「確かに、山梨にも徐福伝説があったのですね。この羽田さんとありますが、徐福の子孫ですか。それと、徐福公園の徐福の墓に書かれていた『秦徐福之墓』で徐福の上に秦とあるのは何故なのでしょうか。」
 「秦の始皇帝の命で、徐福に連れられてきた3,000名の子孫達は、秦国を誇りに思っていたのでしょうね。それで徐福も秦から来たので、秦の徐福となったようです。」
 「なるほど。羽田さんも秦国の子孫なのですね。そのような人達は何故、『秦』と言う漢字を使わず日本読みの『ハタ』の当て字を使ったのでしょうか。」
 「それはわからないですが、ここから伊勢道を通って数10㎞の三重県熊野市山梨の徐福の墓に波田須という海岸線沿いの村があります。そこにも3,000名もの秦から来た子孫が住み着き、波田と名乗っています。どうも、故国の『秦』から波田,波多,羽田,畑など『ハタ』と読む漢字をあてたようです。」
 「俊樹さん、そろそろお邪魔しよう。所長さんもお忙しいですから。」
 「そうしよう。」と言って、俊樹と晴美は立ち上がった。
 「どうも、いろいろなお話を聞かせて頂いてありがとうございました。では、ここらで。」
 歴史民俗資料館を出たところで。
 「これからどうする。阿須賀神社でも参拝しますか。」
 「そうしよう。」


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第5章 百花繚乱 第3節

 俊樹は、もう陽が落ちようとしているときに家に着いた。母親は俊樹のために食事の用意も終え、テーブルには俊樹の好きな肉料理が並べられていた。
 「ただいま。」
 「お帰り。遅かったね。さぁ、お風呂に入って着替えなさい。そうそう、晴美ちゃんに会った。この間、バッタリあって俊樹の話をしたら、駅まで向かいに行きますといっていたけれど。」
 「駅に着いたら待っていたよ。そして、徐福公園をぶらぶらして。明日、阿須賀の歴史民俗資料館に行くことを約束してきたよ。」
 「歴史民俗資料館に何か調べに行くの。」
歴史民俗資料館 「徐福のことで、ちょっと。」
 俊樹は、風呂で疲れをとり、家族揃って食事を。東京のことなど持参話に花が咲いた。その後、家のふんわりの布団でぐっすりと寝込んでしまった。
 「母さん、行ってきます。」奥にいた母親に聞こえるように大きな声で。
 徐福公園に着いたときは、もう晴美が来ていた。
 「待った。」
 「そんなに。よく寝られた。それと、昨日の墓だけど、本当に徐福さんが眠っているのかしら。」
 「江戸時代になって、藩主が。でも、庶民の願いをかなえるのも藩主の仕事だし。徐福が日本に渡って来たのが、紀元前3世紀頃。江戸幕府ができて東京から就任したお殿様にしては、1,800年も前の話など信じられないだろうね。それでも、庶民がそれだけの年月が経っているのに、大昔の話が言い伝えられているから信じるしかなかった。」
 「言い伝えて、すごいね。そんな気が長くなるほどの昔話なのに曲折があってもおかしくないのに。」
 「そこなのだよ。昨日、晴美と別れてからそのこと、伝説のことを。今回、帰って来たときの宿題ね。考えて見ると売店で知った不老長寿の薬、天台烏薬があったからではないかなぁ。それと、ちょっと気になったのは墓なのだ。」
 「墓、私が思った。本当に徐福さんの。」
 「晴美も見ただろう。普通、墓石に刻む。徐福之墓でいいのだろ。それをその上に秦となっている。」
 「秦の始皇帝の秦ですよね。」
 「この上の秦が何を意味しているか。たとえば、徐福は秦の始皇帝の命令で日本にきたから、上に。または、秦の徐福というとらえ方で、徐福自体が秦の始皇帝と同じ家柄。徐福が秦の人。」
 「俊樹くんは、どれだと思う。」
 「わからないけれど。徐福は、秦の始皇帝の血筋だとも思えないし、徐福は琅邪郡(山東省東南部と江蘇省東北部)の人で斉国の住民。」
 「着いたわよ。この裏の熊野地保育園、私の保育園なの。小さいころ、ここでお世話に。」
 「晴美は、この辺り。高校から付き合っているけれど、知らなかった。阿須賀神社と飛鳥山(蓬莱山)の麓だったのか。」
 「ここの館長、私、よく知っているの。お会いして色々と聞いてみる。」
 俊樹はうなずいた。そして、強い味方ができたことで、気がほっとした仕草をした。


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第5章 百花繚乱 第2節

 俊樹が新宮駅に着いたとき、彼女、立花晴美が駅の改札口で待っていた。
 「お帰り。東京からだと時間がかかるね。私、もうここで小一時間も待っていたのよ。」
 「スマホで到着する時間をメールで送っておいただろう。」
 「でも。早く着いたらと思って。ゆっくりできるのでしょ。」
 「それが。大学のたつや先生から宿題をもらって。」
 「宿題。それ何。」
 「新宮に帰ったら、徐福の伝説を調べてくるように。」
 「徐福公園に石像が立っている。あれね。」
 「徐福伝説の話、聞いたことある。ないよな。」
 「私のおばぁちゃんから少し聞いたことあるけど、小さいときで忘れてしまっている。」
徐福公園 「そうだよ、そんな伝説あるのも知らなかった。それで、新宮市立歴史民俗資料館に行こうかと思っている。そこには、阿須賀神社もあることだし。晴美も一緒に行くかい。」
 「今から。」
 「これから、徐福公園でも行って、明日にしよう。」
 俊樹と晴美は手を繋いで、駅から10分ほど歩いたところに徐福公園があった。この公園の入り口には中国のお寺の門のような建物があり、その門をくぐると徐福の石像が見えた。近くによると、徐福の墓石もあり、かなり整備されていた。
徐福の墓 「これが、徐福の墓。スマホで写真を撮っておこう。」
 「ここに何か書いてあるよ。」
 晴美は、この墓の標識を見つけた。そこには、「初代紀州藩主、徳川頼宣が編纂した『熊野年譜』によるとこの墓は、藩主の命により「元文元年(1736)楠藪へ秦徐福の石塔立」と書かれてあり、儒臣李梅渓によって書かれた文字(秦徐福之墓)を約100年後に綠色片岩に彫り込んで建立した。」と書いてあった。
 「この墓、江戸時代に立てられた墓石なのよ。」
 「昔からの言い伝えで、ここに徐福の遺体が埋められたと言われているのだろうな。」
 「ちょっと、休まない。あそこに売店があるし。」
 俊樹は何かのヒントを得て、少し考え深い顔をし、晴美は久しぶりに俊樹と会い楽しそうな顔をしながら、売店の方にゆっくりと歩いて行った。
徐福茶 「これ何。徐福茶。」
 俊樹は箱詰めになった徐福茶を手で取って、裏の説明書に「天台烏薬は、今から約2,200年前に秦の始皇帝の命により、熊野新宮に渡来した徐福が探し求めた「不老長寿」の霊薬だと言われており、腎臓病、リウマチス、健胃のも特効を有します。徐福は、この地を拓き、耕作の術を教え、この地方の先覚者として古くからその徳を賛え敬われています。常綠の低木(クスノキ科)で雌雄異株、葉は広い楕円形をなし、三本の脈を持ち、秋葉のわきに小さな花のつぼみをつけ4月頃開花を迎えます。根を春か冬クスノキ科のテンダイウヤクの根に採取し、干して薬用に供されています。」と書いてあった。
 「これ、クスノキ科のテンダイウヤクの根を薬用にきざんだ天台烏薬、徐福が探し求めていた不老長寿の薬のお茶だ。買って、たつや先生のお土産にしよう。」
 「私、ペットポトル、買っていこうと。」
 「では、帰ろうか。明日、10時にこの徐福公園の門の前で。」


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第5章 百花繚乱 第1節

物部氏の正体 松井俊樹は、大学の行き帰りに電車の中で、持ち歩いている書籍があった。丁度座っている前に良祐が。
 「俊樹、何を読んでいるのだ。」
 「良祐ではないか。」
 「関裕二さんの『物部氏の正体』だよ。新潮文庫だけどね。」
 「関さん、歴史評論家だよね。天皇家や蘇我氏のことも書かれていますね。」
 「一度、たつや先生に聞こうと思っている。関さんこと。」
 「では、先生のところに一緒にいって聞こうよ。」
 青柳良祐と松井俊樹は、大学の門をくぐるとさっさとたつやの部屋に直行した。
 「やぁ、りょう君と俊樹君じゃないか。俊樹くん、そろそろゼミで発表してもらわないと。何か、ネタを見つけたかい。」
 「今、関裕二さんの『物部氏の正体』を読んでいます。」
 「関さんは、仏教美術から古代史を独学で勉強されて書かれていますね。仏教が日本に入ってきた頃、丁度、物部氏や蘇我氏が勢力を伸ばしてきた時代を中心に書かれていますね。俊樹君は今どの辺りを読んでいますか。」
 「吉備の物部氏のあたりですね。」
 「成城大学文芸学部の篠川賢先生の論文『物部氏の始祖伝承と石上麻呂』を読んでみますか。違った視点で篠川賢先生の論文を読むのも勉強になりますよ。」
 「石上麻呂というと丁未の乱で殺害された物部守屋の甥、物部目の孫ですね。」
 「俊樹君、よく調べていますね。」
物部氏の謎 「その論文、どこで手に入りますか。」
 「国会図書館か、成城大学の図書館です。」
 「この間、飛鳥昭雄さんの『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』を読んだのですが、先生はどのように思われます。」
 「飛鳥昭雄さんね。小説家で漫画家の。徐福や秦の始皇帝がユダヤ人だったとか。推理とはおもしろいですけれどね。徐福が物部氏と関係があった。それはひょっとして可能性はあるかも。」
徐福 「私、和歌山の新宮なのです。地元では徐福の石像がたっているのです。今まで興味がなかったのですが、徐福伝説があるらしい。」
 「俊樹君は、新宮の出身なのか。このゴールデンウィークには帰郷するのかね。」
 俊樹は照れくさそうに。「はい。新宮に彼女がいるもので。」
 「ほぉ。では、徐福伝説を調べてくるかい。それと、熊野大社まで足を伸ばして、神武東征の神話でも探ってくるのも、またいいかも。」
 「あぁ、先生に宿題を。彼女をそっちのけにして。」
 良祐は、笑みを浮かべながら。「俊樹、彼女と一緒に調べればいいのと違うか。」


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第4章 永永無窮 第4節

 ケイコの米の発表が一区切りついた時、たつやはケイコと交代して教壇にたった。
 「ケイコさんの発表でも解られたと思いますが、米が日本で食べられるようになったのは、中国で稲作が開始された時期とそんなに変わらないのではないか。中国の浙江省の河姆渡遺跡から紀元前5,000年頃の水田跡が発見され、その水田の周りに集落が形成されています。この頃、日本でも青森県の三内丸山で集落が発生し、200人以上の縄文人が共同生活をしていました。また、この三内丸山遺跡の集落跡は、中国の河姆渡遺跡の集落跡とよく似ているのです。りょう君、何か。」
 「先生は、河姆渡の人達が日本にやってきたとでも言われるのですか。」
 「その当時の三内丸山では、稲の形跡がないので何とも言えないですが。北九州や日本海沿岸の西日本には、河姆渡の人達が丸太舟でやってきたのではないでしょうか。現在でもそうですが、見知らぬ土地に旅立つときは食料を確保するのが当たり前ですからね。ケイコさん、そうですよね。」
 「稲作の日本への伝達ルートなのですが、先生は江南説(対馬暖流ルート)を支持されているのですか。」
稲作の伝来 「伝達ルート説には、その他に朝鮮半島経由説と南方経由説(黒潮ルート)がありますね。この3つの説をひとつに決めるのは、難しいですね。それぞれ正しいと言えば正しいですし。中国で紀元前5,000年前に水稲がはじまり、日本で現在最古の水田跡が発見されたのは、佐賀県の菜畑遺跡でしょ。それが紀元前930年だとされています。この4,000年の時の流れがあるのでしょ。その間にどれだけの人が大陸からどのようなルートで流れてきたかと言うと一概には言えません。縄文人は元々日本に石器時代からいた人達と限定するのもおかしな話で、弥生時代になって大陸から渡って来た人達が弥生人だと限定するのも。縄文時代から大陸から渡って来て、その当時の原住民と同化していったと考えるのが正しいでしょう。」
RM1遺伝子の国別の分布 「米のこと(米の遺伝子解析)を調べているときに、ひとつ疑問に思ったのがあります。水稲(温帯ジャポニカ)の遺伝子を解析するとRM1にAからHの8種類の遺伝子があり、中国ではこの8種がすべてあるそうで、Bが最も多く、Aが次いで多い。朝鮮半島では、このうち7種があり、Aが多くて、Cがその次、そのうちBが無い。日本では8種のうちAとBとCがあり、そのうちBが一番多い。このことから、朝鮮半島から稲作が伝わってないのでは。そんなふうに思うのです。
 「このことは、私が描いている伝達ルートに合いますね。」
 「と言いますと。」
 「これはあくまで仮説ですけれど。中国で、Bが最初に栽培されて、その後、地域にもよりますが、後の7種は改良された品種だと思います。日本でBが多いのは、中国で初期の稲が持ち込まれていると思います。AとCはだいぶん後に朝鮮半島から。それと、Bは寒さに弱いのではないですか。朝鮮半島は、日本より寒いですから。こんなふうに言われる方もおられて、朝鮮半島は稲作の不毛地帯だった。そこで、日本にある寒さに強いAを逆に朝鮮半島に持っていった。」
 良祐は、先生のその言葉にピンときた。
 「それって、紀元前後に北九州の諸国(奴国、伊都国、末ら国)が朝鮮半島の南にあった加羅諸国と交流があったからではないですか。」
 「りょう君、その辺りのことをまた調べて発表してください。では、この辺りで授業を終わります。」


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