いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ: 青春歴史小説「たつやの古代旅日記」

第6章 殷鑑不遠 第3節

 『中山世鑑』は、ニライカナイやアマミキヨの神話的な琉球開闢説話から、源為朝が琉球へ逃れ、その子が実在しない伝説上の王統の舜天になったという説話まで載っています。この為朝琉球渡来説が発端になって、京都の五山僧侶、臨済宗の月舟寿桂等によって唱えられた日琉同祖論。日琉間の禅宗僧侶の交流を通じて琉球戦前の羽地朝秀の墓へもたらされ、呉象賢(羽地朝秀)は、『中山世鑑』を編纂する前に日琉同祖論の影響を受けたようです。また、この『中山世鑑』を編纂する前、薩摩藩に留学して、日本の書物をかなり読破したようで、1666年に尚質王の摂政になって、薩摩藩による琉球侵攻以来、疲弊していた国を立て直すのに成功。そして、摂政を退任する1673年に令達及び意見を記し置きした書、仕置書を書留、その中に、「琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。」と述べている。
 たつやは、コーヒーを飲みながら羽地朝秀のことを良祐と陽介に説明した。
 「羽地朝秀の話は、お爺さんから聞いたことがあります。でも、それ以前の本土と琉球の関係は知りません。」
 「琉球神話がどのようにして出来たか。知りたいなぁ。」
 「まずは、陽介君の疑問から。江戸時代初期に浄土宗の僧侶、袋中がおられました。その僧侶は、かねてよりエイサー明に渡って未だ見ぬ仏法を学びたいと望んでおられ、1602年に出国しています。そして、沖縄に漂流。結局、明に渡れずに日本に帰国しました。その時、沖縄で念仏踊りをその当時の琉球人に教えています。それが現在でも伝わっているエイサーですね。」
 「へぇ、エイサーにそんな歴史があるのですか。」
 「袋中の浄土宗では、西方浄土という考え方があり、浄土宗の信者はこの世の西方、十万億の仏土を隔てたところに極楽浄土があると信じていた。浄土信仰は平安時代末期の浄土教に端を発し、神仏習合の考え方が平安時代頃からあり、古事記に出てくる他界観を表わす『常世の国』が海のはるか彼方の理想郷にあるという考え方と合致して、南方に臨む海岸から行者が渡渡海船海船に乗り込み、そのまま沖に出るという捨身行が行われるようになった。補陀落渡海と言います。渡海船は、入母屋造りの箱が置かれ、その四方に四つの鳥居が建てられ、艪、櫂なども含めて航行のための道具は備えていない。その箱の中には30日分の食物や水とともに行者が乗り込み、箱が壊れない限りそこから出られない修行で、殆どが日本に帰ってくることができない。」
 「凄い修行ですね。全く死に行くみたい。それで、その渡海船が沖縄に漂流するわけ。」
 「そうですね。沖縄に仏教が伝わったのは、そんな渡海船に乗った僧侶が沖縄に漂着したから。『中山世鑑』の後に編纂された『琉球国由来記』では、鎌倉時代の蒙古襲来の頃に、禅鑑という渡海船に乗った禅宗の鑑真第六回渡海図僧侶が小那覇港に流れ着き、仏教を沖縄に伝えたとあります。この僧が日本人であるか、その当時の中国、南宋の僧侶であったかは、はっきりと明記されていませんが。それ以前にも、奈良時代に唐招提寺を建立した鑑真和上も754年に沖縄に半月間滞在していますから、沖縄には日本や中国の僧侶が立ち寄ったことでしょうね。また、白鳳時代や奈良時代の遣隋使や遣唐使も沖縄に立ち寄り、日本の文化を伝えた可能性はありますね。」
 良祐はたつやの長い話を聞いて、早く琉球神話と日本神話の関係を知りたくてやきもきして、落ち着かないそぶりをしていた。

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第6章 殷鑑不遠 第2節

 大城陽介は、本土と沖縄とは別の国、或いは本土にある程度対抗意識を持っていた。それで、たつやの神話の話を聞いて、琉球神話が本土の神話より先に出来たのかと疑問が湧いてきた。
 「先生、沖縄は本土より早く日本人が住んでいるのではないでですか。たとえば、山下洞人や港川人。石垣島では、約2万7千年前の人骨が19体も見つかっていますね。」
 「山下洞人は、3万2千年前と言われていますが、人骨から直接抽出されたタンパク質を調べたのではなく、人骨と一緒に出土した炭化物の年代を測定したもので、信頼性が薄い。それと、石垣島の人骨を国立科学博物館が母系の遺伝子、ミトコンドリアを調べたところ、ハプログループM7aとなり、沖縄では23%で本土では7%でした。約2万5千年前にスンダランドで誕生し、北上して日本列島に到達した系統ですね。」
 その話を聞いていた良祐が。
サキタリ洞遺跡 「2万5千年前。先生、その頃の貝製の釣り針が沖縄のサキタリ洞遺跡で発見されたのをニュースでしりました。2万3千年前のもので、世界最古の釣り針だそうです。また、そのサキタリ洞遺跡から約1万4千年前の人骨と石器が出土したそうです。」
 「沖縄で発見された人骨に限り、沖縄から本土に移り、縄文人となったと考えてもいいのではないですか。」
 「陽介君、それが違うんだなぁ。確かに、沖縄の人には25%を占めているミトコンドリアのハプログループM7aも日本人には7%。それと沖縄にもM7a以外の母系遺伝子を持った人が75%もいます。その当時、沖縄から日本に渡ったのは僅かだったと思います。」
 「すると、先生は本土から沖縄に渡った人の方が多いとでも言われるのですか。」
鬼界アカホヤ火山 「日本から沖縄に渡った最初の出来事は、縄文時代、7千300年前におきた鬼界カルデラの鬼界アカホヤ火山噴火で、九州にいた縄文人は殆ど全滅したが一部は九州や奄美群島から沖縄に避難している。そこで、琉球人と縄文人が交わっています。縄文時代晩期になって、中国から稲作が九州に伝わり、九州にも中国からの渡来人として人口が増え、その一部が奄美群島から沖縄に渡り、稲作を伝えた。或いは、中国から近かった久米島に最初に渡り、その後、沖縄本島に稲作を伝えた可能性もあります。」
 「沖縄は琉球王国の時代から中国と関係が深く、本土とは江戸時代の薩摩藩の南下政策により、本土と関係ができたとばかり思っていました。」
 奄美群島から沖縄への話を聞いていた良祐は、琉球神話と結びつけようと。
 「先生、先ほどの琉球神話と日本神話の関係は。」
中山世鑑 「琉球神話が正史として書かれたのは、日本で言うと江戸時代の徳川家光の頃で、1650年に琉球王国の第10代国王、尚質王の命により、王家分家の呉象賢(日本名は羽地朝秀)によって編纂された『中山世鑑』です。ここには、神話的な琉球開闢説話も記載されていますね。琉球神話と日本神話の関係の話をする前にりょう君も陽介君もコーヒーでも飲みませんか。」
 「頂きます。」


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第6章 殷鑑不遠 第1節

 大学校内も日差しがきつくなり、いよいよ夏休みが近づいてきた頃、たつやの部屋に青柳良祐がやって来た。
 「やぁ、りょう君。入りなさい。」
 「先生、今日は沖縄から来ている大城陽介君を連れてきました。」
 「陽介君もどうぞ。沖縄ですか。沖縄のどの辺りの出身ですか。」
 「私、沖縄本島の南にある知念岬辺りで、知念高校から東京のこの大学に入学しました。」
知念岬から見た久高島 「陽介君がこの夏に沖縄に帰るというので、私も沖縄を旅行して来ようと思っています。」
 「それでしたら、久高島にも行かれたらいいのでは。」
 「久高島ですか。」
 その時、大城陽介が青柳良祐の肩をたたいて。
 「良祐、それがいい。久高島は、アマミキヨという神とニライカナイ(神の世界)という伝説がある島ですからね。」
三庫理から眺む久高島 「アマミキヨ。それは、アマテラスではなくて。」
 「ニライカナイにいる太陽神、東方大主がアマミキヨを最高の聖地、久高島のクボー御嶽(祭祀場)に臨降させるのですね。それと、久高島の中ほどにあるイシキ浜には、五穀が入った壷が流れてきて、それから久高島、沖縄本島へと穀物が広まったという伝説があります。ニライカナイは、古事記に書かれている根の国にあたるのでは。」
 「古事記では、アマテラスはイザナギとイザナミの子として扱われています。ニライカナイもそれらしい神がいたのですか。」
シルミチューの洞窟 「沖縄本島中東部のうるま市にある浜比嘉島には、久高島と同じように神話伝説があり、ニライカナイから女神であるアマミキヨと男神のシネリキヨが降り立ち住み着いたと言われるシルミチューの洞窟がある。沖縄には洞窟がたくさんあるからね。アメリカが沖縄に攻めてきたときに沖縄の人達はそのような洞窟に避難したようです。」
 「浜比嘉島辺りは、今、ホテルが建築されてリゾート地になっています。良祐、大泊ビーチ大泊ビーチに泳ぎに行くか。」
 「陽介、それもいいけれど。僕は沖縄の神話に興味があるなぁ。先生、アマテラスのような食物起源神話やイザナギとイザナミの創生型神話が沖縄にもあったのですね。よく似た神話が沖縄にもあったのですね。」
 「国立民族学博物館名誉教授だった伊藤幹二先生によると、日本と沖縄の神話を比較しておクボー御嶽られて、イザナギとイザナミのオノゴロ島の国生み神話とアマミキヨが島々をつくる神話はよく似ていますが、風による妊娠、原祖の地中からの出現、原祖の漂着、犬祖などの神話は沖縄しか見られないと述べられています。久高島が最高の聖地である七御嶽があり、ノロ(祈願行事の司祭をおこなう祝女)が御嶽で祈祷する習慣は沖縄や奄美諸島にしかありません。久高島は沖縄本島から見て、太陽が昇る東方信仰(太陽信仰)の聖地だったのです。」
 良祐はたつやの話を聞いて、沖縄の先史時代に興味が湧いてきた。


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第5章 百花繚乱 第6節

 「先生、徐福茶、飲んでくださいね。長生きして頂かないと。それで、徐福の日本渡来はわかりましたが、徐福伝説なのです。私が育った新宮には、1,700年から1,600年前に掛けて飛鳥山の麓に集落があって、阿須賀神社の境内に弥生式竪穴住居跡があって。」
 「ふぉ、4世紀から5世紀の頃だね。邪馬台国の卑弥呼が亡くなって、臺與の頃から倭の五王までの失われた4世紀の時代ですね。」
 「阿須賀神社はその頃に創建されたと思う。神社によると第5代孝昭天皇の時代だと言われています。また、主祭神はコトワケノオノミコトとなっています。」
 「おかしいね。記紀をまともに信じると孝昭天皇は、紀元前4世紀になるし、コトワケノオノミコトは、黄泉国に逃げ込んだイザナミが産んだ子。黄泉国は、『古事記』では出雲になっていますが、『日本書紀』では熊野になっています。この辺りは『古事記』しても『日本書紀』でも着色された話ですから。それにしても、阿須賀神社は熊野権現を祀る熊野本宮大社より古いのですね。」
鬼ヶ城 「私はそれよりも、熊野古道は、神武東征のときに神武天皇が大和に行くのに通った道。この阿須賀神社は、阿部氏の阿で須恵器の須、賀正の賀と書いてアスカと読むのです。大和、奈良にも蘇我馬子の墓だと言われている石舞台が明日香村にありますし、明日香村にある蘇我氏のお寺、飛鳥寺も漢字が違うが読み方は同じなのです。そして、徐福が最後に到着し、飛鳥山を中国の蓬莱山に例えた。そして、そこに住み着いた人達は、秦の始皇帝の命で日本に渡ってきて、秦国からきた秦、日本読みでハタと名乗った。この地では、波のハと田んぼのタと書いて、波田と名乗っている人が多いのです。この秦の国から来て住み着いた人石舞台達の一部が、神武東征と同じ道を辿って大和の国に移り住んだ。これは、私の発想ですが、その人達が飛鳥時代に蘇我氏を名乗ったのではないかと思っています。」
 「俊樹くんは、すごい発想をしますね。」
 「あの明日香村にある石舞台の大きな岩石は、ひょっとしたら新宮から運ばれたのではないかと思います。」
 「その根拠は。そうだ。日本に外来宗教(仏教)が入ってくる前は、亀石自然信仰として岩石信仰があった。それだな。」
 「明日香村の亀石もそうですね。今回、そのために少し調べたのですが、熊野には約1500万年前(中期中新世)の巨大カルデラ火山活動で生じた火成岩体で、三重県東紀州地域にも分布し,流紋岩質の溶岩や火砕岩(火砕流堆積物),貫入岩を形成している。熊野の鬼ヶ城の岩も火砕岩だそうです。これらの岩を称して熊野酸性岩類と言います。その岩が熊野から明日香村まで運ばれた。」
徐福村と新宮市 「そうなると、黄泉国が二種類あるのも納得できる。『古事記』に書かれている出雲の黄泉国は、物部氏の言い伝えで、『日本書紀』の黄泉国は蘇我氏の言い伝え。俊樹君、そんな大胆な仮説には裏づけが必要。その調子で卒論までがんばってください。」
 「はい。徐福は、中国の江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮の徐阜という村が清の乾隆帝の時代以前は『徐福村』と呼ばれ、徐福にまつわる伝承や遺跡があるらしいけれど、本当に徐福はいたのでしょうか。」


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第5章 百花繚乱 第5節

新宮地図 俊樹と晴美は、阿須賀神社を参拝した後、熊野川の沿岸に出た。
 「ねぇ、俊樹、大学を卒業したら新宮に帰ってくるの。」
 「今のところわからない。」
 「将来、何がしたい。」
 「学校の先生にでもなるか。大学で教員課程を選択しているから。」
 「東京に何時戻るの。」
 「明日、たつや先生にも言われているので熊野三山に。そして、明後日にでも戻ろうかと。」
熊野三山地図 「もう、戻っちゃうのね。」
 俊樹と晴美はたわいもない会話を続けた後、昼食を共にして別れた。そして、翌日に静かな熊野参道を歩きながら、今回の徐福伝説や弥生時代に我が町で生活していた人達のことを考えながら。ふと、古事記に書かれていた神武東征で、神武天皇もこの道を歩いて大和の国に向かったのか。と思うといろいろなことが頭を巡ってきた。早く東京に戻って、先生に聞くことがたくさん増えて来た。
 数日後、ゴールデンウイークも終わり、俊樹は大学の中庭のベンチに座って、徐福のことの頭の整理をしていた。その時、たつやが突然、通り過ぎようとした。
 「たつや先生。」
 「よぉ、俊樹君か。どうだった新宮での徐福の出会いは。」
 「いろいろと疑問が。」
 「疑問とは。」
 「徐福達が、日本に渡って来たのは紀元前3世紀の頃ですね。」
 「前漢の時代、紀元前99年に司馬遷が、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したため、武帝の怒りを買い、牢獄につながれた。その牢獄生活の8年間で、古代の偉人の生きかたを極めたいと『史記』の執筆を重ね完成させた。徐福の話は『史記』が完成させる100年程前の出来事で、主に『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」に書かれている。3,000人も河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市から韓国済州道西帰浦市や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いた。その出来事は、その頃の大ニュースだったのでしょう。100年経っても人々に言い伝えられた出来事だったのでしょう。それと、不老長寿の薬の話になるとその話題がでたみたいです。神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理する神仙思想を求めて。その当時、日本は東方の三神山の一つ、瀛州と言われていましたから。」
 「そうそう、新宮に帰ったとき、不老長寿の天台烏薬で作った徐福茶をお土産に。先生に。」
 「神仙思想は道教が主要な柱で、その核心は『不老不死』の追求にあった。不老不死の仙人が棲むというユートピア『仙境=蓬莱山・崑崙山』にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹『扶桑樹』古代日本と神仙思想―三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解くにあやかろうとした。それで、太陽が昇る最初の場所、扶桑樹が生えている日本に向けて渡ったのですね。藤田友治さんが書かれた『古代日本と神仙思想―三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く』を読めばよくわかるよ。」
 「ありがとう。俊樹君、私の部屋でゆっくり、徐福の話を聞かせてもらうよ。」
 たつやと俊樹は、心地よい中庭のベンチでの話を中断して、たつやの部屋に向かった。


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