最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外ヶ浜町の大平山元1遺跡では、新石器時代の石器の矢尻が発掘され、その矢尻の中には北海道産の黒曜石が見られた。この当時の東北地方の縄文人の人口は、多くて2,000人ほどですから、1㎞先に30名の竪穴式住居がある感じ。その住居を線で結んでいくと猪や鹿が行き交う獣道が存在した。狩りをしている内に、山の谷間に住居を移し、山の麓の広い土地に集落が形成され、或いは北海道南部から本州に広がるブナ類、特にドングリを生み出す樫の木やクリの木で丸太舟を作り、北上川を南下して海岸線に。そして、縄文人は食糧のある山の麓や海の近くに集落を形成した。山裾に集落を構えた縄文人は、狩りをしながらドングリやクリを栽培し始める。また、海岸線に住居を移し、集落を形成した縄文人は貝や魚を採取するようになり、海水から塩も造り出すことも出来るようになった。集落通しの物々交換が始まり、海岸線と山裾とを山の谷間を通って、陸路が形成され、北上川などの河川を利用して水路ができた。集落という点と隣の集落の点を結べば陸路の線で結ばれた。その陸路が東北地方から関東平野に伸びていく。また、山の谷間を通って、新潟や長野のような中部地方まで縄文人の陸路が伸び、縄文時代中期の6,000年前位には旧東山道が完成していた。そして、関東地方でも人口が増え、中期には95,400人に膨らんでいた。1㎞の間に2,950人が、信濃地方でも71,900人で、1㎞の間に2,400人が竪穴式住居で狩猟採取の食生活をしていた。信濃地方では、信濃川という大河川や糸魚川市に流れ込む姫皮があり、河川沿いに丸太舟で海岸線にでることが出来た。姫川の下流には翡翠の岩石が産出され、信濃地方の縄文人は、縄文時代中期にこの翡翠の岩石をヒスイ玉として加工し、海路を使って青森県や九州まで運び、水路と陸路を使って山梨県から関東地方まで運んだとされている。
小国家が全国的に統一されたのは、大化の改新以降で、7世紀後半に律令国家となってから。畿内を中心にした七道(北陸道、東海道、山陽道、山陰道、東山道、西海道、南海道)が整備された。この飛鳥時代の7世紀中程には、阿倍比羅夫が蝦夷地を制圧するため、北陸道から東山道を兵士が通った道であり、東北地方を大和朝廷が掌握し、中央の役人を派遣した。大和政府の命令文がこの陸路を通って伝えられた道でもあります。
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