いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ: 古代史ファイル

 日本国土は酸性土で、なかなか人骨が見つからないのですが、弥生時代前期頃、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本にやって来た人達が集落を形成し、死後にお棺(甕棺、首長級だと石棺)に入れて埋葬されていた。その集落の墓地を考古学者が発掘作業をして、人骨を発見。その人骨は、数が少ないので一概に決めつけることはできないが、縄文人や渡来人行動範囲を時代ごとにまとめてみた。
人骨と遺跡の西日本地図
 まだ、青銅器や鉄器が入ってこなかった時代、縄文時代と弥生時代前期頃、刃物の主流は黒曜石かサヌカイトでした。縄文時代は、狩猟採集の生活を送っていたので、弓の矢尻とか木材を伐倒するための斧が必要でした。男達は、丸木舟を作って、海に出た。それも東日本から。船旅を続けて、良質の黒曜石がある九州の姫島に。その中には九州に住み着いた縄文人もいただろう。また、沖縄諸島から、または奄美群島から黒潮に流されて、九州にたどり着いた縄文人もいた。今から7,300年程前、種子島の西側、竹島や薩摩硫黄島あたりで海底火山が噴火し、九州全土だけでなく、西日本で縄文人の人口が減少。「鬼界カルデラ」噴火のことですね。縄文時代後期になって、九州に縄文人が住むようになった。  弥生時代後半から古墳時代ころまで、種子島の南種子島町、広田遺跡に集落が存在していた。その広田遺跡で人骨が発見。顔面の高さは低く、幅は広い。縄文人の特徴を色よく残している。この人達は、北部九州から渡来人がやって来て、縄文人との同化が始まる中で、その波に乗れなかった人達、九州での縄文人の末裔と考えてもいいかと思われる。 北方横田遺跡の水田遺構 稲作の水田化は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡から紀元前930年前から始まっている。水田遺構が発見されたのです。水田構や農業水路の技術は渡来人が持ち込んだと思われ、そのような技術をもった渡来人を北部九州に連れてきたのは、丸太舟で航海を続ける東日本の縄文人、海人系集団だった。水田式稲作は、北部九州から山陽道を通って、岡山県の吉備地域へ。岡山市北区いずみ町にある弥生時代前期の集落と水田が隣接している津島遺跡の北側に北方横田遺跡から、その当時なので極めて小さい水田区画が発見されている。吉備地域から河内湾の北部、高槻市安満地区へ。安満遺跡では、紀元前500年頃の大規模な水田遺構が発見されている。河内湾北部から大和の巻向地区へ。ヤマト王権が本拠地、纏向遺跡で稲作から得られる収入で、政権を維持した。  菜畑遺跡の南東に吉野ケ里遺跡があります。その吉野ケ里の墓地として二塚山遺跡があり、そこから発掘された人骨は、顔面の高さは低く、幅が広く、眉の上が隆起し、鼻が高く、ホリが深い。縄文人の様相を残しつつ、菜畑地区から渡来人がやって来て、混血が始まり、同化していった。吉野ケ里地区の弥生人はそんな様相をしていたのでしょう。元になった縄文人は、東日本から糸魚川の翡翠を持帯田遺跡の翡翠ち込んだ海人系集団だった。邪馬台国の時代の不彌国かも知れない遠賀川流域、福岡県直方市下新入にある帯田遺跡には、縄文時代に作られた翡翠の管玉が弥生時代まで大切に受け継がれた遺品が発見されている。そのような縄文人と倭国の小国時代に青銅器や鉄器を持ち込んだ渡来人との混血の人骨が福岡市博多区の金隈遺跡から発見された。この人骨は、韓国金海市・礼安里古墳群頭骨に近く、顔面の高さは高く、幅がやや広く、眉の上が弱く、鼻がやや高く、ホリが浅い。この人達が出雲に鉄器を持ち込んだのであろうか。島根県八束郡鹿島町古浦の古浦遺跡の人骨とほぼ同じである。 ゴホウラ貝の腕輪 朝鮮半島経由で日本に渡ってきた人達の原型を残しているのが、下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡の人骨。この人骨と類似しているのは、中国の山東省で発掘された人骨で、頭型は中頭型で顔面の高さは高く、眉の上の隆起は弱い。鼻が低いのでホリは浅い。また、土井ヶ浜遺跡の人骨の腕には、沖縄諸唐古鍵遺跡の弥生人の人骨島や奄美群島で取れるゴホウラ貝の腕輪。この人達は、中国の海人系集団だったのだろうか。土井ヶ浜遺跡の人骨とよく似ている弥生時代前期の人骨が奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡から発掘された。この遺跡から青銅器の工房も発見され、農具だけでなく、銅鐸も製造されていた。既に、弥生時代前期には畿内に中国系の渡来人が存在していた。この遺跡から発掘された土器から多層式楼閣が描かれていたことからも中国系の渡来人の集落が大和にあった。ヤ楼閣が描かれた土器マト王権が設立した3世紀頃、唐古・鍵遺跡の近辺の巻向地区に本拠地を置いたのは、この地域が弥生時代前期から文化的にも発展していたことが読み取れます。


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磐余池 神武天皇の和風諡号は、神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)となっています。この和風諡号というのは、先帝の血筋が正しく継承されたものであること証明する意味で、第41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼の一環として定められた制度です。ですから、神武天皇が実際に存在していたかどうか。それは、天武・持統天皇の時代に創作されたかも知れませんね。神武天皇の和風諡号を見てみると、神武天皇を神として扱い、日本を「やまと」と読み、磐余がヤマト王権の誕生の場所、彦が男神に付けた名前、となるのです。さて、磐余とはどこなのでしょうか。古代、磐余の邑と言われたところがあり、そこには「磐余池」が存在していた。現在の桜井市池之内と橿原市池尻町辺り。この磐余池の周りに、神功皇后が磐余若桜宮、履中天皇が磐余稚桜宮、清寧天皇が磐余甕栗宮、継体天皇が磐余玉穂宮、用明天皇が磐余池辺雙槻宮という宮を設置した。そう考えると神武天皇が大和国にやって来た最初の土地は、この磐余の邑ではなかったか。これは架空の話ですが。
磐余玉穂宮跡
 奈良盆地に巨大な大集落が現れたのは、3世紀の初めで、巻向地区でした。そう、箸墓古墳がある纒向遺跡付近ですね。よく言われるのは、箸墓古墳が卑弥呼の墓で、邪馬台国は纒向遺跡辺りにあった。これは、邪馬台国近畿説ですね。私自身は、この説には賛同しません。ヤマト王権の発祥の地だからです。天皇家の祖先は九州だったと思う。それが、九州を出て、岡山=吉備に移動。そして、その吉備で三輪系の氏族に出会う。海神族の三輪系氏族には、三輪氏や吉備氏や賀茂氏や出雲氏や宗像氏など。安曇氏や和邇氏も同系かも。三輪系氏族は、出雲から大和の三輪山付近に移動し、巻向地区で大集落を形成する。三輪系氏族は、神話に出てくるスサノヲを神と崇めていた。アマテラス系の天皇家一行は、その三輪系氏族と手を結んで、大和の磐余の邑にやって来た。そして、4世紀の初めに神武天皇が豪族(兄猾、弟猾兄弟)から奪い取って直轄地にした磯城地区に崇神天皇が磯城瑞籬宮を、垂仁天皇が三輪山の麓に纒向珠城宮を、景行天皇が纒向日代宮、纒向遺跡付近に宮殿を設置した。ヤマト王権は、磯城地区から始まり、巻向地区に広がっていった。天皇家のアマテラス系と三輪一派のスサノヲ系がいがみ合ったりはしたものの手を結んで、ヤマト王権が誕生した。
初期ヤマト王権の勢力図 初期のヤマト王権では、王権の直轄地として「御県」とした。後に、全国に天皇領として国造を設置していくが、「御県」は国造より古いカバネであった。成務天皇が地方行政区画を整備するまでは、県と国造が同等として扱われた。ヤマト王権が磯城地区を直轄地にしたとき、その象徴として、守り神として志貴御県坐神社を建立し、崇神天皇が磯城瑞籬宮を。祭祀&政治の居館だったのですね。垂仁天皇、景行天皇頃までに、ヤマト王権は大和に磯城地区以外に直轄地「御県」を獲得し、そこに御県坐神社を建立した。倭の六県ですね。その六県に、志貴御県坐神社(桜井市三輪金屋)、十市御縣坐神社(橿原市十市町)、高市御県坐神社(橿原市四条町)、葛木御県神社(葛城市葛木)、山邊御県坐神社(天理市別所町、天理市西井戸堂町)、添御県坐神社(奈良市三碓、奈良市歌姫町)を建立した。
 ヤマト王権が大和で直轄地「御県」を増やし、祭祀&政治の居館を建立し、そこで働く官僚を募った。その地区の豪族ですね。その官僚は、全国からの朝廷への引出物の管理や軍事の手配や三韓との外交などの職務をしていた。その官僚に中で、武内宿禰(架空の人物)の子となっている波多氏(高市郡波多郷)・巨勢氏(高市郡巨勢郷)・蘇我氏(葛城県蘇我郷)・平群氏(平群郡平群郷)・紀氏(平群県紀里)・葛城氏(葛城県長柄里)がその任務に当たった。波多氏は、1954年まで佐賀県に波多津村・南波多村が存在していたし、現在でも唐津市北波多村がある。波多氏は、末ら国の出身ではないか。巨勢氏は、江戸時代まで肥前国巨勢郷があり、日本武尊がこの地に巡幸し、佐嘉郡と呼ばれた。現在でも佐賀市巨勢町が存在し、明治時代に古瀬村とも呼ばれていた。紀氏は、代々紀伊国の国造職と日前神宮・國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、日前神宮・國懸神宮の神体(日像鏡・日矛鏡)が伊都国の遺跡群の平原遺跡の大型内行花文鏡と類似していることから、紀氏は福岡県糸島市(伊都国)の出身ではないか。葛城氏と蘇我氏は新羅と関係が深く、両氏とも同系か。弁韓(狗邪韓国)辺りからやって来たかも知れませんね。平群氏は武内宿禰とダブルところがあり、現在の佐賀県武雄市武内町が存在していて、1950年まで杵島郡武内村であった。
武内宿禰の子達の出身地
 ヤマト王権に仕えた波多氏・巨勢氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・葛城氏は、北部九州で水田式稲作が始まった唐津市の菜畑遺跡を中心にしたアマテラス系の氏族だったのではないだろうか。天皇家が九州から大和に移動したとき、軍隊の一員として参加し、次第に力を発揮して、ヤマト王権の中核となっていった。


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星糞峠で採れた黒曜石
 石器時代に、鋭い石器を求め、狩りをしながら移動生活を送っていた。そして、黒い輝きのある石を発見する。黒曜石ですね。黒曜石を砕けば、鋭い矢尻にもなった。また、獲物を解体する刃物にもなった。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道遠軽町(旧白滝村)、長野県霧ヶ峰周辺(和田峠や星糞峠)、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)などの山地、海水に接して急冷される機会があった島嶼では、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県松浦市の牟田、同県佐世保市の東浜と針尾、同県川棚町の大崎などが知られる。この黒曜石の産地に縄文人が集結してくるようになった。特に山地では、クルミなどが取れて、食肉となる野生動物もいたであろう。鹿とかウサギや野鳥類。その宝庫が諏訪地域にあった。黒曜石が取れる霧ヶ峰を中心にした八ヶ岳山麓に縄文人が。
諏訪湖とその周辺
 今から30,000年前から20,000年前、旧石器時代の石器人が黒曜石の魅力を知って、この八ヶ岳山麓で生活していた痕跡が茅野市奥蓼科の渋川遺跡で発見されている。10,000年前になって、狩猟採集生活をする縄文人がこの八ヶ岳山麓に集結し、諏訪市の細久保遺跡あたりに集落を形成するようになった。また、日本最古の黒曜石鉱山、星糞峠と星ヶ塔辺りで採掘坑の痕跡が発見されている。この黒曜石鉱山で取れた黒曜石の矢尻などが5,900年前から4,200年前の青森県三内丸山遺跡からも発見されている事からもわかるように、霧ヶ峰周辺の黒曜石は良質であった。三内丸山遺跡で糸魚川の翡翠が発見されているように、縄文人のネットワークが確立していたようです。
八ヶ岳山麓の遺跡
 三内丸山地域は4,000年前ころから寒冷化と広葉樹が少なくなり、針葉樹が増えて、食料としての木の実の収穫が減少。そのため新たな地を求めて、縄文人は南下した。東北地方にいた縄文人が、広葉樹の豊富な信濃・諏訪地域まで。5,000年前頃、縄文時代中期に八ヶ岳山麓に集落が発生し、たとえば、「縄文のビーナス」や「仮面の女神」で有名な茅野市の尖石遺跡を始めとするこの地域、富士見町藤内遺跡、井戸尻遺跡、原村阿久遺跡、茅野市の駒形遺跡、棚畑遺跡、中ッ原遺跡などに、東北地方の縄文人が移動してきて、大規模な集落を形成した。この地域では縄文人の食物、ドングリなどの実や鹿、イノシシ、川魚などが生息する豊かな森が広がり、人口が増加し、「縄文の都」とまで言われるようになった。中には、黒曜石の矢や槍を使いこなす集団も出現したかも知れませんね。それが物部氏か。
守屋神社 八ヶ岳山麓の向かい側に守屋山があり、頂上に守屋神社があります。「守屋」、そうです、物部守屋を祀っています。587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋の屋敷があった河内国渋川郡に追討軍の派遣した丁未の乱。これにより、屋敷を焼かれた物部守屋は死去した。そして、物部一族は全国に散らばった。その中に、物部守屋の次男の武麿が守屋山に逃れて、やがて守矢氏へ養子入りして神長となった。元々、この山は守矢氏が諏訪大社の諏訪氏がこの地に入ってくるまでは、諏訪地方の民間信仰の神、洩矢神(もりやのかみ)を祀っていた。武麿がこの地で生活するようになって、守屋神社を祀り、守屋山と名付けるようになった。ちょっと穿った考えかも知れないが、物部氏の本拠地、河内国渋川郡の「渋川」と石器人も生活していた茅野市奥蓼科の渋川遺跡の「渋川」とは同じではないか。また、次男の物部武麿がこの地を選んだのは、物部氏の祖先は八ヶ岳山麓周辺の縄文人ではないだろうか。守矢氏と物部氏とは何らかの関係がある。


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南ツングース諸語満州語群 日本人のルーツは、騎馬民族であると唱えた人がいた。確かに、以前、日本語はアルタイ諸語のツングース語族に属していると言われていた。現在では、アルタイ諸語の日球語族となっている。1968年に、中央公論新社から発行された江上波夫さんの『騎馬民族国家日本古代史へのアプローチ』では、東北ユーラシア系の騎馬民族が朝鮮半島を南下して、伽耶地方を支配し、任那を基地に日本列島に入り、4世紀から5世紀に、大和地方の王朝を支配、或いは征服し大和朝廷を樹立した。騎馬民族征服王朝説ですね。江上波夫さんは東洋史学者の観点から、そんな風に唱えられたと思う。その当時、かなり説得力があって、日本人の祖先は遊牧民族だったと理解された方もおられたようです。
 日本人の起源は、新石器時代まで遡り、バルカン湖辺りから日本列島に。そして、東日本に縄文文化を築いた。その後、少し遅れて西日本には、東アジアから黒潮に乗って、日本列島に上陸した南方系縄文人。その北方系縄文人と南方系縄文人の混合が原始的日本人。それが、紀元前1,000年頃から中国の山東半島辺りからと朝鮮半島経由で日本列島に入ってきた。その人達は、日本で稲作を始め、中国の「邑」のように一族で共有の農地を開拓し、集落を形成して、周壁を築いた。最初は、縄文人の侵入を防ぐため。それが、永い歳月の間に、従来の縄文人と同化していった。
殷王朝と異民族 紀元前1,000年頃の中国は、殷王朝が周王朝によって滅ぼされた頃で、殷の残党は山東半島の異民族地域とか揚子江下流地区とか遼寧省や遼東半島周辺に。そして、それらの異民族と同化し、殷の青銅器文化を伝えた。その中に、殷の最後の王、帝辛の叔父にあたる箕子という人物がいて、現在の遼寧省あたりを治めていた。殷王朝が滅亡してから、箕子朝鮮を建国。この遼寧省辺りの異民族は、新石器時代の紅山文化で栄えた土地で牛河梁文化発祥の民で、文化水準が高く、箕子の時代には、殷から流れてきていた青銅器も製造していた。それがこの遼寧省辺りを周王朝の燕が支配するようになって、箕子は朝鮮半島に。青銅器を習得した異民族は、箕子政権とともに南部朝鮮まで南下し、馬韓や弁韓に。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃、伽耶地域から日本に青銅器を伝えた。
4世紀頃の百済と前燕二号鞍金具 遼寧省や遼東半島周辺の異民族は、4世紀前半に百済を建国する。当初の百済は、鮮卑が建国した前燕(遼寧省や遼東半島周辺)と隣国関係にあるほど大きな国でした。当然、殷王朝に関わりある遼寧省や遼東半島周辺の異民族の繋がりがあったと思う。前燕時代(337年から370年)の朝陽市北票市の喇嘛洞IIM101号墓から遊牧民族の鮮卑が使う馬具、龍文透彫鞍が出土され、その馬具を製作したのは、百済に関係がある職人だったのだろうか。応神天皇陵の誉田丸山古墳の2号鞍と同一の馬具なのです。それでも、遼寧省朝陽市で作られた馬具が日本にあることは、南部朝鮮に遼寧省からやって来た人が製作したか百済からの贈り物だったのか。江上波夫さんの騎馬民族が大和朝廷を樹立したという論理は、言い過ぎかも知れないが、仲哀天皇・神功皇后時代に新羅と手を切り、百済と友好関係を結んで、南下する高句麗と戦ったのはうなずける。
 日本に青銅器が伝わった紀元前3世紀から2世紀の時代に、弁韓から遼寧省や遼東半島周辺の異民族が日本にやって来ている可能性はあり得る。佐賀県の吉野ケ里遺跡は紀元前4世紀頃から吉野ケ里丘陵に集落ができはじめ、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土し、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるもの、さらに銅鐸も発掘されている。この吉野ケ里遺跡から出土した巴形銅器や細形銅剣と酷似している出土品が、伽耶の金海貝塚から。その他に、弥生時代にあたる韓国靭島遺跡から、抜歯をした人骨やイモガイの腕輪や日本の弥生土器(須玖I式、II式土器など)が多数出土し、恐らく日本人が移住していたとの研究結果もある。吉野ケ里で生活していた人は、遼寧省や遼東半島周辺の異民族だったかも知れませんね。


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 古事記の神話で、どう見ても渡来系の神が現れる。アマテラスとスサノヲが剣と玉を交換したときにアマテラスの玉から生まれたアマツヒコネ。この神の子にアメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とヒメコソミコト(比売許曽命)がいる。アメノマヒトツノカミは製鉄・鍛冶の神で、『播磨国風土記』に農耕民の地元の道主日女命を娶って、意富伊我都命を生む。凡河内氏の祖・彦己曽保理命の父にあたる。物部氏とも関係が深い凡河内国、後の河内国、和泉国、摂津国を支配し、大阪湾を囲んでいたため、ヤマト王権では大阪湾に侵入する渡来人の管理と統率を担っていた。また、近江国野洲郡三上郷出身の三上氏も末裔としているので、中臣氏や物部氏が琵琶湖北湖に本拠地を置いていたことを考えると、凡河内氏・三上氏は物部氏の手下。大和朝廷が成立してからは、両氏も公家として宮中で仕事をし、凡河内氏は、ヤマト王権の時代から朝鮮との外交の役目を果たした。大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号にあ坐摩神社る坐摩神社は、日本の名字、渡辺の発祥地とされ、この渡辺も凡河内氏の末裔である。そのように考えると、製鉄や鍛冶に強い渡来人で、どうも任那の伽耶地方から日本にやってきたのではないか。物部氏が秦氏と関係があるように、凡河内氏も物部氏が伽耶から連れてきたかも知れない。『日本書紀』では、崇神天皇65年7月に蘇那曷叱知が任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。4世紀の初めの話。壱岐のカラカミ遺跡から鉄を加工したり生産したりするための炉や鉄片が発見されたが、その炉や鉄片は1,700年前のもので、その当時に凡河内氏の祖先が日本にやって来たと思う。
 アマツヒコネの子、ヒメコソミコトは、『古事記』応神天皇記では新羅王の子であるアメノヒボコの妻となっているアカルヒメノカミ(阿加流比売神)で、赤い玉の神話の娘。ある日奢り高ぶったアメノヒボコがアカルヒメノカミを罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げた。アメノヒボコは、日本まで追いかけて来る。『日本書紀』垂仁天皇紀では、伽耶王の子である都怒我阿羅斯等が持ち牛を殺され食肉にされた代償に得た白石が美しい童女と化し、難波の津に逃げた話。この都怒我阿羅斯等がアメノヒボコであり、その白石の童女がアカルヒメノカミ。また、崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着し、都怒我阿羅斯等が伽耶に帰るときに、垂仁天皇は崇神天皇の諱「みまき」を伽耶の国名にするように伝え、伽耶国王に赤絹を贈った。この「みまき」が任那の語源とされている。
応神天皇記の系図 よく似た話が『日本書紀』にダブって掲載されている。蘇那曷叱知と都怒我阿羅斯等とは同一人物。神話のアメノマヒトツノカミと『古事記』応神天皇記のアメノヒボコは、同一の神となる。この都怒我阿羅斯等ですが、「都怒我」は「角鹿(つねが)」の語源で、敦賀に転じた。福井県の敦賀湾に南部朝鮮から渡来してきたことを表している。伽耶や新羅の人達が渡ってきた。その人達は製鉄や鍛冶に優れた能力のある人や新羅・百済・高句麗と交渉できる人だった。アメノヒボコは、南部朝鮮から流れてきた集団の象徴として記紀に掲載されている。そして、アメノヒボコの子孫は但馬国に留まり、ヤマト王権に仕えることになる。その子孫に、『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」と言う人物が登場し、古代三宅氏の祖となる。三宅氏は、ヤマト王権の直轄地(屯倉)から来ていて、その屯倉で警備を担当していた。また、田道間守が垂仁天皇の命により、常世の国から不老不死の妙薬、橘の実を持ち帰ったことから、橘氏の祖ともなっている。
 崇神天皇・垂仁天皇の時代、3世紀後半から4世紀前半の南部朝鮮は小国がひしめいていた。任那と新羅の境がはっきりしなかった時代。新羅は高句麗の侵略を受けて、おおよそ洛東江を境にして東側は新羅、西側は伽耶として異なる政治的・文化的な領域を形成していた。そこに、製鉄の原料、鉄鉱石を求めてヤマト王権が侵入してきた。狗邪韓国(金官国)に人員を送っていたと思われる。そして、284年に慶尚北道星州郡星州面に侵入して、集落に放火して周り、1,000人を捕虜にした。その頃、ヤマト王権は百済と手を結んで、高句麗の南下政策に対抗しようとしていた。そして、300年に新羅から使者が送られてきて、ヤマト王権と新羅が和睦している。その頃の話が、アメノヒボコの説話になったのではないか。4世紀後半になって、任那に侵略するので、新羅に兵を送った。この時代のことが神功皇后の三韓征伐として語られている。

4世紀頃の任那


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