いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ: 古代史ファイル

 中国側から日本を表すのに「倭」を使用し、この表現は紀元前1,000年頃、周王朝から独立し、呉を建国した太伯・虞仲時代からのようです。その当時の倭人の風習は、髪を短く切り、刺青をする。これは、海に潜って魚を捕る素潜りのため。この様相は、呉国の海岸線の人達とよく似ていた。そこで中国では、太伯の子孫が日本に渡って倭人になったと言い伝えがある。「倭」に対して、そんな意識が紀元前後の漢王朝でもあった。また、そんな後漢の時代には、楽浪郡をはじめとして、山東半島の対岸である朝鮮半島東北部も支配していた。その当時、中国、後漢は、日本列島に一番近い国家であった。
2世紀の後漢
 日本では、まだ全国的に統一された国家らしきものはなかった。神武天皇が存在していたと主張する古代史愛好家は、そうとは思わないかもしれないが、あるとしたら、小さな国だった。朝鮮半島でも、高句麗が楽浪郡を占領するまでは、馬韓や弁韓や辰韓も小国ばかりだった。その中には、楽浪郡と交渉権を持った国があったと思う。このような三韓の小国と関係があった日本の小国家。そんな日本の国は、楽浪郡と交渉するに当たって、日本の代表、中国からすると、倭国と名乗った。南部朝鮮も含めて、日本の代表権、中国側からすると、倭国の代表権を争ったのが、2世紀後半の倭国大乱でした。日本の小国同士の争い。その範囲は、九州全土と下関から出雲に掛けて、そして瀬戸内海の沿岸。この時点では、ヤマト王権は蚊帳の外だったと思う。後漢との交渉権を争った小国が、邪馬台国の卑弥呼を女王にすることによって、倭国大乱は治まる。この大乱の時期は、中国では後漢の時代で、第11代桓帝と第12代霊帝の時代だと言われています。個々の小国が楽浪郡、桓帝や霊帝とのお目通りを目出して、日本の代表権と南部朝鮮支配を願い出た。それで、卑弥呼によって成就するのですね。
邪馬台国とその周辺国
 卑弥呼が女王になった頃、霊帝の末期に中国では黄巾の乱が起こり、魏・蜀・呉の三国時代を迎える。189年に霊帝が崩御、220年に後漢が滅亡して、日本としては魏と交渉することになる。魏が238年に楽浪郡を接収すると、卑弥呼は楽浪郡に難升米を派遣する。247年に狗奴国との戦いで、魏に応援を依頼している。そして、248年に卑弥呼が死去。魏も265年に滅亡し、西晋が魏の後を継いだ。その頃になると楽浪郡も313年に高句麗によって滅ばされる。それ以後、西晋は朝鮮半島の実権を失う。そして、西晋は291年から始まる内部分裂、八王の乱からにより316年に洛陽が陥落して、長江より南の江南に移住して東晋を建国した。また、その頃には邪馬台国の存在も消えてなくなっていた。
西晉軍鎮及八王封國分布圖
 南部朝鮮支配を願っている倭国の小国の首長達は、魏の後ろ盾をなくすことになる。魏が倭国の小国を把握していたのは、弁韓の狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国等の邪馬台国の関係国、その他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。これらの国が邪馬台国で統一しかけたが、魏や西晋の後ろ盾がなくなったことで、狗奴国やヤマト王権が日本の統一に向けて動き出す。それが、空白の4世紀と言われる時代です。
4世紀頃の中国
 さて、大和朝廷が編纂した『日本書紀』では、紀元前600年頃から政権を持続していたと言わんばかりに、神武天皇がその頃、奈良の橿原で即位したとなっている。そのため、実際年数と100年ほど食い違ってくる。戦前では、倭国大乱は景行天皇やヤマトタケルが九州に出向いて、戦ったという認識であった。卑弥呼においては、神功皇后ではないかと。実際はどうだったのだろうか。2世紀後半頃にはヤマト王権は存在しなかった。或いは寄せ集めの集団的存在。卑弥呼が死去した頃、奈良の大和国で崇神天皇が王権を誕生させた。空白の4世紀になって、景行天皇・ヤマトタケルの時代から仲哀天皇が九州を平定させ、念願の南部朝鮮の支配を目的として、神功皇后の三韓征伐がある。5世紀の始め頃に、ようやく、魏の後見国、南朝の東晋、梁などと交渉権を得られた。それが、倭の五王の時代です。その交渉権の主な目的が、やはり南部朝鮮の支配だったのです。南部朝鮮には、鉄の原料、鉄鉱石が大量に存在していましたからね。倭の五王は、ヤマト王権のスメラミコトではありますが、中国南朝の国王に対して、倭国の代表としていた。


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チャノキ 日本茶は、世界でも例のない製造方法で作られています。それは、原木のチャノキの葉っぱを「蒸す」という工程です。それは、酸化や発酵を防ぎ、蒸し終わった葉っぱを乾燥させる。そのことによって、緑茶が出来るわけですね。乾燥させた茶葉にお湯を注ぐ。私達がよく飲むお茶が出来上がります。原木のチャノキは、ツバキ科ツバキ属の常緑樹で、野生では熱帯から温帯のアジアに広く分布している。インド北東部のダージリン地方、台湾やセイロン島中央の山地といった高所の栽培に向いている。寒さの霜に弱く、酸性土壌に適している。日本での栽培は、酸性土壌であり、山地の多い日本には向いていますが、寒さだけに気をつけて栽培されているようです。そのため、11月頃になると、チャノキの株元に藁を敷いて、冬の茶畑冬の寒さや霜に備えます。
 日本茶として定着したのは、安土桃山時代に千利休が武家階層にわび茶を浸透させ、茶道を確立させてから。しかし、鎌倉時代に禅宗を広めた栄西が中国から持ち帰った茶を九州筑肥背振山に植え、1214年に抹茶とともに『喫茶養生記』を源実朝に献上し、武士階級に茶が広まる足がかりとした。この抹茶は、緑茶を石臼でひいたお茶。栄西から禅を学んだ明恵は、宇治の地に茶を植えた。これが宇治茶の起源と言われている。お茶を飲む抹茶習慣とか製造とかは、平安時代の遣唐使が薬として日本に持ち込んだ。804年に空海や最澄も茶の知識を最初に書いた『茶経』を持ち込み、茶の習慣を広めようとしたが、公家の間でも浸透しなかった。それ以前、奈良時代に聖武天皇が729年に、宮中に100人の僧侶を集めて大般若経を講義し、その2日目に行茶と称して茶を賜ったと伝えられている。その当時の中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の微発酵茶と考えられ、薬として飲むぐらいのものとしか認識していなかった。中国のお茶は、日本の緑茶と違って、茶の葉っぱを釜ゆでするため、微発酵していてお茶の色はブラウンで、この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色となる。日本でも、中国から輸入したときは、釜ゆでしたと思う。たぶん、朝鮮半島南部と北部九州が交易を始めた頃、紀元前後にはチャノキが入ってきていたと思われる。
緑茶 日本人がお茶を飲む習慣は近世からだと思うけれど、お茶の習慣もそうだけれど、お酒を飲む習慣も日本人にはありますね。3世紀末に発行された『三国志』の魏志倭人伝でもコメから作られる酒を倭人は嗜んでいたとある。その当時には原料としての豊富なコメであり、きれいな水も日本にはあった。でも、日本酒を製造する工程で「蒸す」という技術がなければ酒は出来ない。この「蒸す」という技術は日本茶を生産する上でも必要。土製蒸し器土製蒸し器、甑(こしき)は、甕という湯を沸かす土器とともに用い、甑の内部の底に布などを敷き、その上に米などの調理物を入れる土器。そして、湯を沸かす甕の上に乗せて蒸す。この甑は、中国では稲作で知られている河姆渡遺跡などで出土している。祭事などでコメを蒸し、餅を作るのに使っていたのだろう。それに朝鮮式のかまど(堀込炉)が必要でした。このかまどは、鉄器の製造にも使用された。それが、福岡市西新町の西南学院高等学校南側にある吉村韓竈病院新築工事にともなう発掘調査、1992年に行われ、竪穴住居と堀込炉、甑、甕が発見された。この西新遺跡には、3世紀の中程に朝鮮半島南部から渡ってきた人達が住み、日本でほとんど製造されていない鉄の板、鉄鍵を生産していたことが発掘調査で示された。
 古代中国、神農の時代、紀元前2,700年では、チャノキは薬草として食べられていた。そして、中国の神話なので、お茶を飲むようになった起源がハッキリしないが、「神農がお湯を飲もうとしたとき、偶然、茶の葉っぱが入ってきて、いい香りと旨味を覚えた」とある。紀元前59年に王褒によって書かれた『奴隷売買契約書』の中に「武陽買荼(武陽で茶を買う)」が出てくる。漢の時代には中国では、お茶を飲む習慣が既にあったと思われる。日本では、『日本後記』の815年の条に「嵯峨天皇に大僧都、永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが最初のお茶についての記事です。奈良時代から平安時代に掛けての、遣隋使・遣唐使の方々が中国に渡って、お茶という嗜好品を日本に持ち帰ったのでしょう。この辺りのお茶は、茶の葉っぱを釜ゆでして作られていたと思います。3世紀中期ころの蒸し器、甑は、時代が進む間に蒸籠に進化し、鎌倉時代頃から茶の葉っぱを蒸すようになり、日本茶の緑茶が完成していった。中国にも緑茶はあるが、製造の段階で釜炒りし、日本の蒸すとはちょっと違う。
 お茶の成分には、タンパク質、ビタミンB₂、葉酸、ビタミンC、カフェイン、タンニン、テアニンが含まれています。最近、問題になっているコロナ禍においては、お茶に含まれているタンニン(カテキン類)が抗菌作用を持ち、2020年11月27日に奈良県立医科大学の発表によると30分でほぼウイルスが不活化したとのこと。欧米諸国に比べて、コロナ禍の患者数が少ないのは、お茶を好む国民性からでしょうか。


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 戦前までの任那に対する認識は、紀元前3世紀頃の弁韓=任那。そして、任那は倭国(日本)の領土。『日本書紀』に記載されているように、任那日本府が存在した。神武天皇が橿原の地で即位したのが、紀元前600 年頃だと信じられていた時代だから、任那はヤマト王権の領土だと信じられていました。しかし、現在では任那の地域には小国が沢山あり、その連合会議みたいなのがあり、新羅の侵略に対抗していた。その軍事的援助をヤマト王権が行っていたとされる。最近の文部科学省の歴史認識は、「倭国には任那の恒常的統治機構がなかった」としている。また、2002年に新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に対する検定で認可しなかった。
 韓国では、日本が任那を支配していた事について否定している。北朝鮮の歴史学者、金錫亨が1960年代に発表した『分国論』では、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)三国(高句麗・百済・新羅)の分国が日本列島に存在していた。そして、日本古代の文化のルーツは朝鮮にあると論じた。確かに、任那の地域から日本に渡ってきて、ヤマト王権の管理下で集落を形成していたのは事実。でも、日本国内で三韓・三国洛東江下流の分国があったとは、ちょっと言い過ぎではないだろうか。朝鮮半島南部の洛東江下流地域に、紀元前400年頃から中国の長江から伝えられたとする稲作が始まり、無文土器をしようした住民が住み着いた。九州・佐賀県の吉野ヶ里の無文土器と同じ。そこで集落を形成した人達は、稲作の技術を持った日本に住み着いた人達と同じだったかも知れませんね。ただ、揚子江から舟に乗って、北部九州とか洛東江下流地域に。或いは揚子江から北上して、山東半島や遼東半島から朝鮮半島を南下。それとも、北部九州から壱岐、対馬経由で洛東江下流地域に。任那の人達は、日本人(弥生人)と密接な関係があったのは事実です。
 大加羅紀元前後には、洛東江下流地域と北部九州の人達で交流が盛んに、そして、鉄器の生産技術もその洛東江下流地域から。特に、紀元前2世紀後半の鋳造鉄器の製造跡が発見された莱城遺跡をはじめとして、三韓時代には楽民洞貝塚・城山貝塚・固城貝塚でも鉄の鍛冶工房が発見された。倭人は、この地域に早くから目を付け、鉄器の原料、鉄鉱石を洛東江の支流(密陽江)の上流、沙村遺跡当りから採取していた。倭人が鉄を求めて、最初に上陸したのは、紀元前4、3世紀に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始める金官国(現代の慶尚南道金海市)、後に狗邪韓国、駕洛国とも言われている。この地が後の任那となり、地域に繋がる倭人が進出した結果と見られる。
 ヤマト王権は、鉄器の生産に任那の地がどうしても必要であった。ヤマト王権が畿内を政権下に置き、北部九州に勢力を伸ばしていた景行天皇・ヤマトタケルの時代、さらに仲哀天皇・神功皇后の時代、4世紀後半には、金官国を拠点に安羅、多羅、大伽耶を掌握し、伽耶連合(任那の小国家連合)に軍事援助を行った。新羅の領土内(現在の慶尚北道慶州市)にも隍城洞遺跡、鶏林南便遺跡、瓦村遺跡のように鉄の鍛冶工房があって、鉄鉱石が採れる密陽江の上流の支配権が欲しかった。そこで、ヤマト任那の遍歴王権軍と新羅軍との衝突が起こった。神功皇后の三韓征伐ですね。さらに、南下してきた高句麗も任那の鉄鉱石が欲しかった。倭人と高句麗が戦っています。そのことは、広開土王碑文にも書かれている。倭の五王時代になった400年頃には、中国の南朝に使者を送り、任那の領土権を認めさせようとした。『宋書倭国伝』によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。このように、ヤマト王権では、任那・加羅を軍事基点としていたことがわかる。
 武烈天皇の時代までは、北部九州の弥生人が任那でも生活していたのは韓国の前方後円墳事実。それが継体天皇の時代になって、高句麗が南下し、百済の領地が縮小。神功皇后が三韓征伐を行い、その時に手に入れた朝鮮半島西南部、任那4県にあたる。応神天皇以来の領土を百済に譲渡する。512年のことです。応神天皇以来、朝鮮半島西南部に多くの前方後円墳を築き、倭人の大王が存在していた地域を失うのです。さらに、新羅が南加羅・喙己呑に進軍して領土を奪われた。そこで領土の回復のため、近江毛野軍、6万人が出陣した。だが、筑紫国造で新羅に内通していた磐井氏阻止して内乱が起こった。磐井の乱です。ヤマト王権は、物部麁鹿火を派遣して、528年11月に磐井の乱を終結させた。
 継体天皇の時代に、任那4県が百済の領土になった関係で、朝鮮半島西南部にいた倭人は、ヤマト王権が指示する土地に移住。継体天皇自身も507年に樟葉宮で即位し、511年に筒城宮、518年に弟国宮、526年に磐余玉穂宮と転々と宮殿を移動させている。移転した都には、任那から移り住む倭人を吸収した。継体天皇の後、安閑天皇が4年間。この間に各地に41件もの屯倉を設置している。そして、その屯倉を守衛する役人、犬養部をおいた。その犬養部は、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連、辛犬養連が海神族系、阿多御手犬養は隼人系、県犬養連が山祇族系。とあるが、たぶん、任那からの移住者だったと思う。安閑天皇の次が宣化天皇、そして欽明天皇。この頃になると、任那では新羅の攻撃が続き、頻繁に任那に兵を送っている。欽明天皇は、522年に百済の聖明王より仏教を教わる。仏教公伝ですね。欽明天皇と聖明王は、541年に任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇は、562年に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却した。これで、任那は完全に朝鮮半島から姿を消えてしまった。


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 倭国大乱の時代、2世紀から3世紀頃、日本では「倭国」とか「ヤマト王権」と言った統一国家ではなく、縄文時代からの集落の延長線上にある小さな国が存在していた。その小国には、稲作を中心にした人達や多少の土器、青銅器、鉄器などを製作する工房があり、そこで作業する人達が共同生活をしていた。生活の源である稲の発育において、天候不順からの凶作になら内容に祈りを捧げる巫女がいて、「日女」と書いて「ヒミ→ヒメ」と呼んでいた。その当時、まだ日本には日本語の漢字が存在せず、中国から入ってきた漢字を当てはめているので、時代によって或いはそれらの小国の集団によって「ヒメ」は、(比売、比咩、日女、孫女、火売)と書かれていた。「ヒミ」は(比彌)。この「ヒミ」は、邪馬台国の卑弥呼の「卑弥」に当り、「姫子(ひみこ→ひめこ)」を表している。となると、『魏志倭人伝』に書かれている「卑弥呼」は個人名ではなく、一種のカバネ? 「姫」や「媛」が使われるようになったのは、『日本書紀』が編纂されてから。
 縄文時代には平和な集落で、巫女を中心にした集団社会であった。それが、中国や朝鮮半島との交流が盛んになった九州、紀元前後の時代には、大陸との往来が盛んになり、日本への移民も増えてきた。そして、平和な従来の集落は大集落から小国へと。そうなると、食料の確保、水田の拡大や水路の維持など領土が問題になってくる。そうすると、隣国との戦争に。小国には、戦いを指示する男性が必要になってきて、今までの女王的存在だった「ヒメ」が首長としての「ヒコ」に。『魏志倭人伝』によると、対馬国や壱岐国には首長として、「ヒコ」が存在していた。その『魏志倭人伝』では、その「ヒコ」を「卑狗」と書かれている。また、「日女」に対して「日子」、「比売」に対して「比古」、その他に彦、孫、日古などが「ヒコ」の漢字に当てはめられている。この「ヒコ」の他に、首長を表す言葉として、「ミミ(耳、彌彌、美美)或いはミ(彌、見、美、海、看)」と「ネ(根、禰、尼)」があります。
 「ミ」は霊を表し、日本神話で「ワタツミ(海の霊)」た「ヤマツミ(山の霊)」の「ミ」ですね。『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。この「ミ或いはミミ」は、神霊的な人物に使用され、神武天皇の子、タギシミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミと記紀に書かれている。このことは、天皇家が神霊的な存在であり、大王の継承者を意味しているのだろう。天皇家だけでなく、賀茂氏の祖先オオカモツミ、久米氏のウマシミミ、吉備氏のミスキトモミミ、紀氏のトヨミミなど、ヤマト王権の豪族の祖先も首長として「ミ或いはミミ」が付いている。それにしても、3世紀までの日本は、まだヤマト王権化ではなく、首長(女王)が女性である小国もあり、豊国のウサツヒコとウサツヒメのように「ヒコ」と「ヒメ」体制のところもあり、まだ小国だったヤマト王権では、兄弟体制、結局は末っ子のカムヌナカワミミが第二代綏靖天皇になる。この頃はヤマト王権が日本を支配していない時代でした。
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣 「ネ」は、3世紀から4世紀に政治的・英雄的首長に付けられる名称であり、応神・仁徳天皇期以前に限られ、古くは「タリネ(垂根)」、「イリネ(入根)」、「タラシネ(帯根)」、「ヤネ(屋根、八根、矢根)」、「トネ(刀禰、戸根、等禰)」等、さまざまな「ネ」があった。ヤマト王権の初期、崇神天皇の時代、4世紀になってもこの「ネ」を使用していた。物部の「トチネ(物部十千根)」、中臣の「アマノコヤネ(天児屋根命)」、穂積の「タケオシヤマタリネ(建忍山垂根)」。「ネ」と言えば、スクネ(宿禰、足尼、足禰、少名、宿儺)があり、武内宿禰が有名ですが、この宿禰は官位を表し、崇神天皇の時代から現れた国造に任命された人物に○○スクネと官位を与えていた。たとえば、甲斐国造に塩海足尼、穂国造に菟上足尼 、淡道国造に矢口足尼など。その人物のほとんどが首長で、軍事的長の称号でした。軍事的部族としての物部に「オオネ(大根、大禰、大尼」と付き、明治時代から終戦までの日本軍隊で最高司令部責任者に「大将」という職位を与えたのと同じ。この大将を補助するのが「少将」。「オオネ(大根)」を補助する意味で「スクネ(少根)」。行政官とでも言えるかもしれないが、その行政官に武内宿禰の子となっている葛城、波多、平群、紀、巨勢、蘇我の部族が就任した。
 崇神天皇の時代になって、ヤマト王権初期が始まると地方の首長に使われていた「ヒコ」は、皇室に近い、身分の高い男性にもこのカバネ「ヒコ」を与えるようになった。第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である大彦命も「大」「彦」が付けられた例です。垂仁・景行天皇の時代に、ヤマト王権の権威を高めるため、または王権との関係や地位を明確にするため、各地で使われていた首長(ヒコ、ミ、ネなど)の称号整理が行われ、国造、県主という地域の長官の役目を与える称号を設け、その国造に就任する地位として「ワケ(和気、別)」、県主(郡)に就任する地位として「イナギ(稲置)」などが定められた。「ワケ」は初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者で、地方の領地を得た者に付けられた称号。それが、成務・仲哀天皇の時代には、皇子に分け与える領地がなくなったため、「ワケ」の称号をつけられた皇子はほとんど見られなくなった。また、景行天皇はオシロワケ(大足彦忍代別)、応神天皇はホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇はイザホワケ(大兄去来穂別、大江之伊邪本和気)、反正天皇はミズハワケ(多遅比瑞歯別)とワケの称号にもっている。このことは、皇室に生まれ、領地を分け与えた皇子に付けられた「ワケ」ではあり、本来、天皇になれないはずが、何かの理由で天皇になった。そして、允恭天皇の時代、5世紀の中程に、領地を求めて、皇族を名乗る者も現れたりしたので、氏姓制度の改革を断行。領地を分ける意味合いがあった「ワケ」の称号は、「キミ(君、公、王)」や「オミ(臣)」に。この允恭天皇が、後の大連・大臣体制の基礎を築いた。


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富士山 富士山は、どの場所から見ても綺麗な山の姿を見せていますね。この美しい姿はいつ頃から存在しているのでしょうか。富士山の形は、滑らかな斜面状になっていて、古来の大和言葉で、そのような形態を「フジ」といった。現在の「富士」という漢字が使われる前、『常陸国風土記』では「福慈岳」という語が使われ、不二山もしくは不尽山という表記された古文献もある。では、正式に「富士山」となったのは、平安時代前期の文人、都良香の書『富士山記』からだとされている。では、いつ頃から現在の富士山の構造富士山の姿を現したか。2004年に東京大学地震研究所がボーリングして調査した。その結果、現在の富士山の形になったのは、古富士は80,000年前頃から15,000年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。その古富士の下に、小御岳があり、その下に先小御岳があることが判った。先小御岳は、数十万年前の更新世にできた火山。
配石遺構 富士山の形は、縄文時代初期には出来上がっていた。静岡県富士宮市の12,900年前~12,600年前ごろの縄文時代の集落跡、大鹿窪遺跡がある。この遺跡には、14の竪穴式住居が発掘され、石器時代から縄文時代へとつながる中で、半永久的に住まいの定着がなされた。これは、日本全国でも最古にあたる。富士山の溶岩流からできた岩石を集石し、配石した遺構が発見されている。また、同じ富士宮市の縄文時代中期の遺跡、千居遺跡では祭事場としてストーン・サークル(配石遺構)が築かれていた。この痕跡は、まさしく富士山を神として崇めていたに違いない。
浅間神社奥宮 富士山の頂上には、浅間神社が祀られている。「あさま」とは火山を示す古語らしくて、九州起源の故事が原始信仰では、阿蘇山を表していた。同じように富士山も火山なので、「火の神」=「浅間神」を祀っていた。それが、『古事記』や『日本書紀』で日本神話が完成してから、富士山の浅間神社の主祭神が浅間大神からコノハナノサクヤビメに変わる。垂仁天皇の時代、ヤマト王権が東海に進出した頃。江戸時代の大宮司の富士民済が記した社伝『富士本宮浅間富士山本宮浅間神社社記』によると垂仁天皇3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたとされている。そして、景行天皇の時代、日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った時に、浅間大神に祈念して難を逃れた。賊徒を平定した後に、山宮浅間神社に磐境を設け、浅間大神を祀った。806年に、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の富士見市宮町に社殿を造営した。元々は、この地には「福地神」の社殿であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座したという。景行天皇の時代から続いた山宮浅間神社は、現在、富士見市朝日町の富知神社となっている。この富知神社の主祭神は、コノハナノサクヤ富知神社ビメの父のオオヤマツミ。また、現在、富士山という名称は、この富知神社が「福地社」「福地明神社」「不二神社」とも言われ、この神社から「富士」と名付けられたようです。
 日本と言えば、富士山とさくらが最初に頭に浮かぶ。富士山にはさくらが似合いますね。『古事記』や『日本書紀』には、ニニギが高天原から高千穂に天孫降臨し、オオヤマツミの娘、コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)をみそめる。姉のイワナガヒメ(石長比売)を拒否する。そんな神話では、結局、ニニギが岩のように永久性をのぞまないで、木花=さくらのように短期間の繁栄を選んだ。では何故、コノハナノサクヤビメが富士山の浅間神社に祀られているのだろう。富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は、江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』によると、「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとした。このことから、浅間神社の主祭神にコノハナノサクヤヒメを持ってきたと。まぁ、近世になってからそんな説がでてきた。でも、現在でも、浅間神社の大宮司は富士氏が務めている。この富士氏は、第五代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする和邇氏の末裔。和邇氏は、安曇氏とも関係が深い海人系氏族。そして、欠史八代の孝霊大王、和邇氏が開化大王に后妃2人を入れ、葛城氏の没落後に多くの大王に11人の后妃を出し、勢力を広げた。また、崇神天皇の時代の五大夫の一人、彦国葺も和邇氏。
和邇氏の祖
 浅間神社の大宮司家、富士氏の系図にこの彦国葺も記載され、神功皇后時代に忍熊皇子が反乱を起こし、討伐に遣わされた人物、武振熊も和邇氏の祖となっている。このように、和邇氏は当初のヤマト王権の軍事集団で、天皇家の維持のために継体天皇まで妃を。また、垂仁天皇の時代に天皇から神祇祭祀のことを命じられている。この時に、和邇氏は浅間神社の主祭神にコノハナノサクヤヒメを持ち出してきたのではないだろうか。ニニギが天孫降臨して、コノハナノサクヤヒメに出会う神話は、和邇氏が付け加えたのではないだろうか。


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