いにしえララバイのブログ

いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。

カテゴリ: 古代史ファイル

 最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る16,500年前から15,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外ヶ浜町の大平山元1遺跡では、新石器時代の石器の矢尻が発掘され、その矢尻の中には北海道産の黒曜石が見られた。この当時の東北地方の縄文人の人口は、多くて2,000人ほどですから、1㎞先に30名の竪穴式住居がある感じ。そ縄文人の移動経路の住居を線で結んでいくと猪や鹿が行き交う獣道が存在した。狩りをしている内に、山の谷間に住居を移し、山の麓の広い土地に集落が形成され、或いは北海道南部から本州に広がるブナ類、特にドングリを生み出す樫の木やクリの木で丸太舟を作り、北上川を南下して海岸線に。そして、縄文人は食糧のある山の麓や海の近くに集落を形成した。山裾に集落を構えた縄文人は、狩りをしながらドングリやクリを栽培し始める。また、海岸線に住居を移し、集落を形成した縄文人は貝や魚を採取するようになり、海水から塩も造り出すことも出来るようになった。集落通しの物々交換が始まり、海岸線と山裾とを山の谷間を通って、陸路が形成され、北上川などの河川を利用して水路ができた。集落という点と隣の集落の点を結べば陸路の線で結ばれた。その陸路が東北地方から関東平野に伸びていく。また、山の谷間を通って、新潟や長野のような中部地方まで縄文人の陸路が伸び、縄文時代中期の6,000年前位には旧東山道が完成していた。そして、関東地方でも人口が増え、中期には95,400人に膨らんでいた。1㎞の間に2,950人が、信濃地方でも71,900人で、1㎞の間に2,400人が竪穴式住居で狩猟採取の食生活をしていた。信濃地方では、信濃川という大河川や糸魚川市に流れ込む姫皮があり、河川沿いに丸太舟で海岸線にでることが出来た。姫川の下流には翡翠の岩石が産出され、信濃地方の縄文人は、縄文時代中期にこの翡翠の岩石をヒスイ玉として加工し、海路を使って青森県や九州まで運び、水路と陸路を使って山梨県から関東地方まで運んだとされている。

縄文早期・中期の人口密度

縄文時代の気候


 縄文人が北海道から東北地方に、さらに関東地方や信濃地方に移動していった経緯は、縄文時代早期に地球の気温がヤンガードゥリアス期に入り、-6℃まで下がった。その当時の縄文人は獲物を追って少しでも暖かい、関東平野や信濃地方まで徐々に南下していった。その当時の関東平野の人口は、9,700人程度であったが、縄文時代中期には10倍に膨れ上がった。気候も現在より2℃程高めで、温暖状態になっ縄文時代中期の関東平野
た。急激な温暖化で関東平野は、山の麓まで海の状態になった。これを縄文海進と言います。山で獲物を追いかけて生活していた縄文人が、山の麓まで押し寄せる海を見て、山のブナ類の木材で丸太舟を作り海に出た。そして、海路として東海から近畿まで移動できるようにもなった。大阪の森の宮貝塚では、東北地方の縄文時代後期の土器も発掘されている。西日本の縄文人も関東地方に丸太舟でたどり着き、交流を深めていった。縄文時代晩期には、東北地方の亀ヶ岡式土器が、大阪の森之宮遺跡でも発掘されることから、かなりの広範囲での海路が開かれていたようです。また、日本最古の水田跡(紀元前900年頃)が発掘された佐賀県唐津市の菜畑遺跡で、水田技術が中国から渡ってきたことが判明した。その水田技術が弥生時代前期(紀元前300年頃)には、本州最北端の青森県の砂沢遺跡まで浸透していった。陸路と海路での東西の交流があった証拠です。東山道
東海道北陸道

 弥生時代後期から古墳時代になると、大集落から小国家が日本各地に出来て、縄文人が通った獣道が国同士の交流により整備されていった。また、ヤマト王権が各地の小国家を征圧するために、兵を送った。神話で、第十代天皇の崇神天皇時代に北陸道と東海道と山陽道と丹波国に四道将軍(大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命)を送った話がありますが、この将軍は後に作られたフィクションとしても、また、これも神話ですが、4世紀半ばに第13代天皇の成務天皇によって、各地の大王を国造に配置した制度。でも、ヤマト王権時代の4世紀頃には、北陸道、東海道、山陽道、山陰道、東山道は整備されていたと思われる。この時代には、各地の大王が支配する小国があった。そして、小国同士で交流があったように思う。それにより、北陸道、東海道、山陽道、山陰道、東山道の幹線陸路があったのではないか。東山道でも、東海道でも、北陸道でも縄文人が集落との交流のために通った道です。

畿内七道
 小国家が全国的に統一されたのは、大化の改新以降で、7世紀後半に律令国家となってから。畿内を中心にした七道(北陸道、東海道、山陽道、山陰道、東山道、西海道、南海道)が整備された。この飛鳥時代の7世紀中程には、阿倍比羅夫が蝦夷地を制圧するため、北陸道から東山道を兵士が通った道であり、東北地方を大和朝廷が掌握し、中央の役人を派遣した。大和政府の命令文がこの陸路を通って伝えられた道でもあります。




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 昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によって南からマグロやカツオ、北からは鮭やサンマなど豊富な魚が。浜辺では貝類や海藻が採れる自然環境にある。そのような環境化で日本人の祖先、縄文人は15,000年前から日本列島で生活を行ってきた。

 最後の氷河期が終わり、日本列島も暖かくなってきて、獲物を求めて食肉を中心にした生活が始まり、鋭い刃物(石器)を求め、火山岩の黒曜石の山地には縄文人が結集するようになった。北海道の白滝遺跡群が縄文時代早期の代表的な集落で、縄文人は獲物を求めて南下していった。そして、栃木県高原山周辺や長野県霧ヶ峰周辺の黒曜石産地まで辿り着いた。この縄文人は山の民です。一方、南の端の九州でも縄文時代草創期のころから、佐賀県伊万里市腰岳の黒曜石が海を渡って朝鮮半島に。大分県姫島の黒曜石は中国地方や四国地方に瀬戸内海を通って持ち出された。島根県隠岐の島でも黒曜石が採れて、ロシアのウラジオストクまで運ばれた。これらの縄文人は海の民です。

隆線文土器 縄文人が食料や黒曜石を求めて移動していった経路は、土器の特徴によってある程度判断できます。今から13,000年前の土器として、九州の長崎県佐世保市吉井町の福井洞穴から出土した隆起線文土器は、底がラクビーボールのような形で簡素な模様が施された土器でした。この原型が隆起線文土器よりもさらに古い佐世保市にある泉福寺洞窟の隆起線文土器(豆粒文土器)です。この隆起線文土器が関東の神奈川県横浜市都筑区にある縄文時代草創期の花見山遺跡から大量に出土している。北は青森県六ヶ所村で隆起線文土器も縄文時火焔式土器大木式土器代草創期の土器として発掘されている。北海道と沖縄を除く各地の海岸線にみられる。また、青森県東敦賀郡外ヶ浜町にある大平山元Ⅰ遺跡の模様のない無文土器で、底が平らで角張っている土器も16,500年前とされている。この土器の発見が原型を留めていなく、破片の状態であったのが残念ではあるが、底が平らで底から間口まで円形で広がっている深鉢形土器の原型ではないかと言われている。5,000年前に、新潟県にある笹山遺跡や馬高遺跡で発掘された深鉢形土器は、間口の部分が炎のように盛り上がっていることから火焔形土器と言われるようになった。この集石炉火焔形土器は、長野県の遺跡からも発掘されている。その土器の原型は、7,500年前の東北地方南部で広がった大木式土器とされ、縄文時代中期には関東地方にも広がっていった。

 縄文人の一部は、北海道から始まり、東北地方を経由して獲物を求め、刃物としての黒曜石を採取して、それを宝にして南下していった。その時囲炉裏に用いられた土器は、石を積み重ねた炉で雑木を燃やし、そこに据えられて煮炊きされた。その用途の土器は、獲物を煮炊きするために間口を広くし、地面にも置けるように平らになっていた。その時に使った土器が大木式土器であり、深鉢形土器でした。このような土器を使用したのが山の民です。一方、底が楕円形になっている土器や円錐形に尖っている土器は、海岸線上の貝塚の遺跡に見られ、海に潜って魚介類を採取して、浜辺でこの土器を砂に潜らせ、回りに雷下遺跡の丸太舟雑木を置いて点火して、煮炊きする。そんな隆起線文土器を使用したのは海の民でした。竪穴式住居の囲炉裏でもこの深鉢形土器が使われた。山の民と海の民の一番の違いは、丸木舟を使用していたかどうかです。現在で日本の最古の丸太舟は、2013年に千葉県市川市雷下遺跡で発掘された。この丸太舟は7,500年前とされている。また、5,500年前の丸太舟も福井県鳥浜遺跡からも1981年に発掘されている。丸太舟の発掘件数は、125艇ぐらいで時期的には縄文時代後期から晩期が多く、地域的には関東平野、特に千葉県が最も多く、その次に琵琶湖となっている。

縄文時代の丸太舟分布
縄文中期の関東平野 縄文時代前期後葉から気候が温暖化になり、海の水位が最も上昇した時期になる。縄文海進と言う現象で、16,000年前から始まり、ピークである6,500年前には海水上昇が120㍍も上昇した。その頃の関東地方では、北の山間部の麓まで海水が。その頃、山の民は海岸線に出て、丸太舟を作り、海の民の助けを借りて、航海をするようになった。それで、千葉県で34隻もの丸太舟が発掘されている。縄文時代後期から晩期にかけて、海の民と山の民が縄文人として一体になった。この状況が後の日本神話で「山彦と海彦」として各地で語り継がれていった。『古事記』や『日本書紀』では、兄の海幸彦と弟の山幸彦が登場し、弟の山幸彦が兄の海幸彦に釣り針を借りる話や山幸彦が龍宮でワタツミ(海の神)と出会い、ワタツミの娘のトヨタマヒメと結婚することになって、陸に帰ってきたときにワタツミから田を与えられる。水田による稲作の始まりの神話で、山幸彦は海幸彦を稲作の面で上位にたった。山幸彦(火折尊)は神武天皇の祖父に当たる。

 水田の稲作が中国から海の民によってもたらされ、それを山の民が吸収していった。その浸透力は早く、3,000年前に九州北部に上陸し、2,700年前までには近畿地方まで浸透し、2,400年前までに東北地方の北端まで。このことは、縄文時代の山の民が海の民を従えて成しとけた。1万年もの歳月で培った縄文人の知恵だと思います。

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津波と地震

日本列島の活断層 地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で津波瘤のように盛り上がる液状化現象により津波が起きる。この結果、海から運ばれた砂によって今までの海岸線が変化する。このように、地盤変動により生活環境が一変する。住居は崩壊し、農作物が栽培出来なり、船着場状況も変化する。被災地では、住居崩壊により避難場所での生活を余儀なくされる。

縄文時代の大地震 現在では、保険により住居の建て直しや被災地を逃れての移転で、新たな生活が始まりますが、縄文人の時代には、地震により多数の死者が出て、さらに生活のため狩りをしようとも地震により獲物も減少し、栗やドングリの木も倒れて、その地では生活出来ない状況により、集落の移動をしなければならなくなる。縄文時代中期に東北地方で大規模な集落を営んでいた三内丸山遺跡でも同じように地震に襲われている。三内丸山文化が栄えたのは、5,900年前から4,200年前頃まで。終焉は、やはり地震だった。三内丸山遺跡の北側に活断層が通っていて、それが4,800年前と4,300年前頃に地震を起こしている。その結果、この三内丸山地区での人口が減少して、他の地域に移動していった。

鬼界アカホヤ鬼界アカホヤ火山灰跡 このように、縄文人が集落を築き、そこで集団生活を営んでいてもやはり地震や災害でその集落も終焉を迎えていた。石器時代から東アジアの島々を渡ってきた縄文人は、九州に上陸して、集落を築いて縄文時代早期(15,000年前から7,000年前まで)には、小林修三先生の縄文人口シミュレーションによると九州では1,900人となっていた。それが、7,300年前に鬼界アカホヤ火山噴火により、西日本全体に火山灰が投下され、生活環境が悪化し東日本人口と人口密度では縄文時代前期(7,000年前から5,500年前まで)に人口増加による繁栄時期を迎えるも、東北では2,000人から19,200人に増加したのに対して、九州では西日本では5,600人に留まった。縄文時代中期5,500年前から4,400年前まで)には、東北・関東・東海・中部・北陸と順調に人口を増やしていった。全国総合計が261,300人中、この4地域で251,800人を占めていた。特に多いのは関東と中部であった。縄文時代後期(4,400年前から3,200年前まで)になると中期に比べて気象変化の影響もありましたが、東日本で地震が多発し、東日本の人口が東北を除いて、減少に転じた。西日本は鬼界アカホヤ火山灰の影響から脱皮して増加に転じていた。縄文時代晩期(3,200年前から2,400年まで)になると富士山周辺の活断層が活発化して、3回程の大地震が起こり、関東では縄文時代後期に51,600人の人口があったのに、縄文時代晩期には7,700人と減少してしまった。東北だけは減少率がすくなかったが、他の中部・東海・北陸も減少率が高かった。おまけに西日本で近畿では大きな地震が京都・大阪を中心に多発して、ここでも4,400人から2,100人と半減した。全体として縄文時代晩期の縄文人は、75,800人と減少してしまった。

 縄文人は、北海道から東北に掛けて、日本に上陸した人達が中心になって、縄文文化を築き上げてきた。東アジアから島つたいにやって来た縄文人も存在していたが、多くは東北地方から関東や中部にやって来た人達です、それが地震により人口を減すアクシデントもあったものの、地震や台風や川の氾濫などを乗り越えて現代の日本人の祖先となった。



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 干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考えていた。元は日・時間を表す漢字だったのです。その十干が方向にも利用されたのが、古代中国思想で、すべてに「陰」と「陽」があると言う考え方から、この十干のひとつごとに陰と陽に分けられ、古代中国では万物が火・水・木・金・土の元素からなるという自然哲学、五行思想によって十干と重ねて合わせて、方向をしめすようになった。中国の戦国時代にはこの五行思想が中国の中で浸透していった。

 稲作が浸透していた殷時代に十干とともに日・月・年を表す指標として十二支が利用されていた。現在では十二支は動物に当てられていますが、殷時代(紀元前17世紀~紀元前10世紀頃)には、植物の成長段階で種子の芽生え状態を「子」としその後、植物の成長に伴い「丑」・「寅」・「卯」・「辰」・「巳」・「午」・「未」・「申」・「酉」・草木が枯れる状態の「戌」となり、種に植物の生命を閉じ込めてします「亥」となる。即ち、一年草の一年間の状況を12に分けた殷の人達の生活の知恵だったのです。そして、十干と十二支を組み合わせることによって、現在、還暦と言われるように60年で十干と十二支との組み合わせが一巡する仕組みになっていた。

十干と十二支 この仕組みを組み入れたのが、中国の戦国時代に構築された陰陽五行説で、十干と十二支が占いに利用されるようになった。中国各地で戦いが行われ、その中で日時や位置状況を占いで決めるようになり、その占いに十干と十二支が使われた。この当時、現在の西暦は使われてなく、古代中国では60種類の暦を採用していた。『後漢書』のような中国の文献では、その時にあった出来事を十干と十二支で表し、現在の西暦に直すには、60年ごとに遡る作業を行う。日本に暦が欽明天皇の時代に、百済から入ってきた。それまでの日本の歴史には暦はなく、すべて言い伝えによるものでした。欽明天皇の時代以前に書かれている『日本書紀』の十干と十二支の暦は後付けです。

十二支の漢字と意味の変化
 十二支が植物の成長を表していたのに、いつ頃から、どのような経過で動物名に変わっていったか。これは、色々な諸説がありますが、いつ頃となると中国の後漢時代ではないだろうか。動物名に変わった一つの説としては、漢字の略式化によるものではないかと言われています。今年(2024年・甲辰)の干支、辰でそのメカニズムを説明すると、殷の時代には「振」で表していた。この「振」は、ふりうごかす/ふるまい・盛んになる/助けるなどの意味があり、熟語で使われている例えば、ふりうごかすと言う意味で「振動」があり、ふるまい・盛んになるでは「振興」があり、助けるでは「振(賑)救」がある。この「振」の部首の手偏を削除したのが「辰」です。この「辰」で使われる熟語としては、朝鮮半島の昔の国「辰韓」や水銀と硫黄とからなる鉱物、昔の製鉄の材料「辰砂」や天体全体(日・月・星)を表す「辰星」がある。「辰」を部首として使っている漢字としては、農業の「農」があり、揺れると20240102-161234言う意味で地震の「震」がある。このように十二支の「辰」は、「天体」とか水害を起こす「水」とか農業に必要な「雨」に関わり、干支の5番目にあり、草木の形が整った状態の時期を表し、4月上旬から5月上旬を示している。その頃、稲作を豊作に導くならば雨が必要になる時期でもあった。そのように考えると、干支に当てはめていった十二獣で架空の動物、龍を当てたのも理解できる。龍は、伝統的に水、降雨、台風、洪水を制御する強力で縁起の良い力を持つ架空の動物だったのです。また、龍は麒麟・鳳凰・霊亀の瑞獣とともに応龍として上げられている。



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マンモスゾウとナウマンゾウ

 「日本本土にやって来た人達は、マンモスゾウを追いかけて大陸からやって来た。」よく言われますが、日本でのマンモスの化石は北海道の12点と島根県日本海海底200メートルから引き上げられた1点で、約48,000年~2万年前とされている。果たしてマンモスゾウを追いかけて大陸からやって来たのだろうか。1万年前まで生存したナウマンゾウの可能性もある。だが、島根県の砂原遺跡で127,000年前の石器が発掘され、岩手県の金取遺跡からも9万年前の石器が。それが、その人達が6万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスであったかは疑問が残る。しかし、日本最古の石器が発掘されたということは、すでに10数万年前から北海道や日本本州には人が住んでいた。その人達の血筋は、現在でも日本人に多少なりとも引き継がれているのではないか。

礫石の竈落とし穴 このような人達はナウマンゾウのような大物は別として、鹿、野牛などを狩猟し、猪や穴熊、野兎の小動物を落とし穴やナイフ型石器で捕らえて、石礫を並べ、火を起こし獲物を火炙りして食べていたと思われる。この礫群による35,000年前の日本最古調理場施設が、鹿児島県種子島の横峯遺跡に残っている。落とし穴も種子島の立切遺跡から日本最古(35,000年前)として発掘されている。東北地方でも、岩手県の金森(花泉)遺跡でもおなじような調理場黒曜石の産地施設として礫群や35,000年前~16,000年前のナイフ型石器が発掘されている。35,000年前から優秀なナイフ型石器として優遇されていたのが黒曜石で、その産地として有名なのが、九州では大分県の姫島産、中部地方では長野県霧ヶ峰産、北海道では遠軽町(旧白滝村)産。その他にも栃木県高原山産や伊豆諸島神津島・恩馳島産、島根県隠岐産、佐賀県腰岳産、長崎県牟田、東浜と針尾、大崎産が知られている。黒曜石以外ではサヌカイトがあり、香川県国分台産や大阪府と奈良県境の二上山産、長崎県福井洞窟産。これらの鋭いナイフ状の石器を探しながら、獲物を求めて転々と移動した。北海道白滝産の黒曜石が東北や関東で発掘されたり、隠岐産の黒曜石がウラジオストックで見つかったり、伊万里腰岳産の黒曜石が朝鮮半島の東三洞貝塚で出土したりしている。

 3万年前に姶良カルデラ(鹿児島県の桜島付近)で大噴火姶良カルデラがおき、関東までその火山灰が飛んだ。そして、西日本にいた狩猟中心の人達は全滅してしまう。関東以北の人達は生き残った。狩猟中心の人達は集団で生活することがなく、定住することもなかったため、墓地らしきものもないため、その当時の人骨を発掘することが出来ない状態であったが、姶良カルデラの大噴火が落ち着いてから、中国大陸から日本に移住してきた人達もいました。また、関西・関東方面から九州まで移動してきた人達もいたかも知れません。沖縄からも九州に渡ってきた人達がいたみたいで、新石垣空港の建設にともない白保竿根田原洞穴遺跡の調査が行われ、1,000点以上の人骨片が発掘され、旧石器時代の墓地とされた。その中には、全身の骨格が揃った27,000年前の人骨も出土した。その人骨をミトコンドリアDNA分析したところ日本人の7.6%を占める母系のパプログループM7aと判定され、このパプログループは、縄文人の人骨からも検出されている。
石器時代のヴィーナス 黒曜石をナイフ型石器に仕上げていく技術の中で、縄文時代のヴィーナスの原型とも言える石器時代のヴィーナスが誕生してくる。24,000年前に製作されてヴィーナスは、鹿児島県の桐木耳取遺跡から出土した。2万年前頃になると、弓矢や槍に使用される細石器の製作技術が東シベリア経由で北海道に伝授される。また、この細石器文化は九州にも極東から伝授され、鹿児島県種子島の銭亀遺跡から割り取った素材から作り出される細石刃核や細石刃が出土した。このように狩猟中心の人達は、縄文時代の幕開けのために北海道から東北へ、さらに関東へと狩猟時代の文化を伝え、石垣島から沖縄本島へ、さらに沖縄から種子島、そして南九州に。このようにして、北から南からその地に定着した縄文人が生まれる。これらの人々のY染色体パプログループは、D系列のM-55であった。縄文草創期には、縄文人も九州を中心にした西日本と東北を中心にした東日本で2種類のM-55の人がいた。それが、7,300年前の鬼界カルデ東アジアのY染色体ラの大噴火により、火山灰が関西まで届くほどで、西日本にいた縄文人は大打撃をうけ、人口も減少した。東シベリアから渡ってきたY染色体パプログループDM-55の人達は、東日本で健在であった。

 12万年前に石器を使っていた人達が、日本では最初の日本人かも知れない。しかし、その人達は日本に定住することなく、姿を消してしまった。35,000年前より以前に沖縄から九州に、或いは東シベリアから北海道に渡ってきたY染色体パプログループDM-55の男性やミトコンドリアDNAパプログループD7の女性が日本人の祖先だと思われる。



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