日本国土は酸性土で、なかなか人骨が見つからないのですが、弥生時代前期頃、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本にやって来た人達が集落を形成し、死後にお棺(甕棺、首長級だと石棺)に入れて埋葬されていた。その集落の墓地を考古学者が発掘作業をして、人骨を発見。その人骨は、数が少ないので一概に決めつけることはできないが、縄文人や渡来人行動範囲を時代ごとにまとめてみた。
人骨と遺跡の西日本地図
 まだ、青銅器や鉄器が入ってこなかった時代、縄文時代と弥生時代前期頃、刃物の主流は黒曜石かサヌカイトでした。縄文時代は、狩猟採集の生活を送っていたので、弓の矢尻とか木材を伐倒するための斧が必要でした。男達は、丸木舟を作って、海に出た。それも東日本から。船旅を続けて、良質の黒曜石がある九州の姫島に。その中には九州に住み着いた縄文人もいただろう。また、沖縄諸島から、または奄美群島から黒潮に流されて、九州にたどり着いた縄文人もいた。今から7,300年程前、種子島の西側、竹島や薩摩硫黄島あたりで海底火山が噴火し、九州全土だけでなく、西日本で縄文人の人口が減少。「鬼界カルデラ」噴火のことですね。縄文時代後期になって、九州に縄文人が住むようになった。  弥生時代後半から古墳時代ころまで、種子島の南種子島町、広田遺跡に集落が存在していた。その広田遺跡で人骨が発見。顔面の高さは低く、幅は広い。縄文人の特徴を色よく残している。この人達は、北部九州から渡来人がやって来て、縄文人との同化が始まる中で、その波に乗れなかった人達、九州での縄文人の末裔と考えてもいいかと思われる。 北方横田遺跡の水田遺構 稲作の水田化は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡から紀元前930年前から始まっている。水田遺構が発見されたのです。水田構や農業水路の技術は渡来人が持ち込んだと思われ、そのような技術をもった渡来人を北部九州に連れてきたのは、丸太舟で航海を続ける東日本の縄文人、海人系集団だった。水田式稲作は、北部九州から山陽道を通って、岡山県の吉備地域へ。岡山市北区いずみ町にある弥生時代前期の集落と水田が隣接している津島遺跡の北側に北方横田遺跡から、その当時なので極めて小さい水田区画が発見されている。吉備地域から河内湾の北部、高槻市安満地区へ。安満遺跡では、紀元前500年頃の大規模な水田遺構が発見されている。河内湾北部から大和の巻向地区へ。ヤマト王権が本拠地、纏向遺跡で稲作から得られる収入で、政権を維持した。  菜畑遺跡の南東に吉野ケ里遺跡があります。その吉野ケ里の墓地として二塚山遺跡があり、そこから発掘された人骨は、顔面の高さは低く、幅が広く、眉の上が隆起し、鼻が高く、ホリが深い。縄文人の様相を残しつつ、菜畑地区から渡来人がやって来て、混血が始まり、同化していった。吉野ケ里地区の弥生人はそんな様相をしていたのでしょう。元になった縄文人は、東日本から糸魚川の翡翠を持帯田遺跡の翡翠ち込んだ海人系集団だった。邪馬台国の時代の不彌国かも知れない遠賀川流域、福岡県直方市下新入にある帯田遺跡には、縄文時代に作られた翡翠の管玉が弥生時代まで大切に受け継がれた遺品が発見されている。そのような縄文人と倭国の小国時代に青銅器や鉄器を持ち込んだ渡来人との混血の人骨が福岡市博多区の金隈遺跡から発見された。この人骨は、韓国金海市・礼安里古墳群頭骨に近く、顔面の高さは高く、幅がやや広く、眉の上が弱く、鼻がやや高く、ホリが浅い。この人達が出雲に鉄器を持ち込んだのであろうか。島根県八束郡鹿島町古浦の古浦遺跡の人骨とほぼ同じである。 ゴホウラ貝の腕輪 朝鮮半島経由で日本に渡ってきた人達の原型を残しているのが、下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡の人骨。この人骨と類似しているのは、中国の山東省で発掘された人骨で、頭型は中頭型で顔面の高さは高く、眉の上の隆起は弱い。鼻が低いのでホリは浅い。また、土井ヶ浜遺跡の人骨の腕には、沖縄諸唐古鍵遺跡の弥生人の人骨島や奄美群島で取れるゴホウラ貝の腕輪。この人達は、中国の海人系集団だったのだろうか。土井ヶ浜遺跡の人骨とよく似ている弥生時代前期の人骨が奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡から発掘された。この遺跡から青銅器の工房も発見され、農具だけでなく、銅鐸も製造されていた。既に、弥生時代前期には畿内に中国系の渡来人が存在していた。この遺跡から発掘された土器から多層式楼閣が描かれていたことからも中国系の渡来人の集落が大和にあった。ヤ楼閣が描かれた土器マト王権が設立した3世紀頃、唐古・鍵遺跡の近辺の巻向地区に本拠地を置いたのは、この地域が弥生時代前期から文化的にも発展していたことが読み取れます。


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