磐余池 神武天皇の和風諡号は、神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)となっています。この和風諡号というのは、先帝の血筋が正しく継承されたものであること証明する意味で、第41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼の一環として定められた制度です。ですから、神武天皇が実際に存在していたかどうか。それは、天武・持統天皇の時代に創作されたかも知れませんね。神武天皇の和風諡号を見てみると、神武天皇を神として扱い、日本を「やまと」と読み、磐余がヤマト王権の誕生の場所、彦が男神に付けた名前、となるのです。さて、磐余とはどこなのでしょうか。古代、磐余の邑と言われたところがあり、そこには「磐余池」が存在していた。現在の桜井市池之内と橿原市池尻町辺り。この磐余池の周りに、神功皇后が磐余若桜宮、履中天皇が磐余稚桜宮、清寧天皇が磐余甕栗宮、継体天皇が磐余玉穂宮、用明天皇が磐余池辺雙槻宮という宮を設置した。そう考えると神武天皇が大和国にやって来た最初の土地は、この磐余の邑ではなかったか。これは架空の話ですが。
磐余玉穂宮跡
 奈良盆地に巨大な大集落が現れたのは、3世紀の初めで、巻向地区でした。そう、箸墓古墳がある纒向遺跡付近ですね。よく言われるのは、箸墓古墳が卑弥呼の墓で、邪馬台国は纒向遺跡辺りにあった。これは、邪馬台国近畿説ですね。私自身は、この説には賛同しません。ヤマト王権の発祥の地だからです。天皇家の祖先は九州だったと思う。それが、九州を出て、岡山=吉備に移動。そして、その吉備で三輪系の氏族に出会う。海神族の三輪系氏族には、三輪氏や吉備氏や賀茂氏や出雲氏や宗像氏など。安曇氏や和邇氏も同系かも。三輪系氏族は、出雲から大和の三輪山付近に移動し、巻向地区で大集落を形成する。三輪系氏族は、神話に出てくるスサノヲを神と崇めていた。アマテラス系の天皇家一行は、その三輪系氏族と手を結んで、大和の磐余の邑にやって来た。そして、4世紀の初めに神武天皇が豪族(兄猾、弟猾兄弟)から奪い取って直轄地にした磯城地区に崇神天皇が磯城瑞籬宮を、垂仁天皇が三輪山の麓に纒向珠城宮を、景行天皇が纒向日代宮、纒向遺跡付近に宮殿を設置した。ヤマト王権は、磯城地区から始まり、巻向地区に広がっていった。天皇家のアマテラス系と三輪一派のスサノヲ系がいがみ合ったりはしたものの手を結んで、ヤマト王権が誕生した。
初期ヤマト王権の勢力図 初期のヤマト王権では、王権の直轄地として「御県」とした。後に、全国に天皇領として国造を設置していくが、「御県」は国造より古いカバネであった。成務天皇が地方行政区画を整備するまでは、県と国造が同等として扱われた。ヤマト王権が磯城地区を直轄地にしたとき、その象徴として、守り神として志貴御県坐神社を建立し、崇神天皇が磯城瑞籬宮を。祭祀&政治の居館だったのですね。垂仁天皇、景行天皇頃までに、ヤマト王権は大和に磯城地区以外に直轄地「御県」を獲得し、そこに御県坐神社を建立した。倭の六県ですね。その六県に、志貴御県坐神社(桜井市三輪金屋)、十市御縣坐神社(橿原市十市町)、高市御県坐神社(橿原市四条町)、葛木御県神社(葛城市葛木)、山邊御県坐神社(天理市別所町、天理市西井戸堂町)、添御県坐神社(奈良市三碓、奈良市歌姫町)を建立した。
 ヤマト王権が大和で直轄地「御県」を増やし、祭祀&政治の居館を建立し、そこで働く官僚を募った。その地区の豪族ですね。その官僚は、全国からの朝廷への引出物の管理や軍事の手配や三韓との外交などの職務をしていた。その官僚に中で、武内宿禰(架空の人物)の子となっている波多氏(高市郡波多郷)・巨勢氏(高市郡巨勢郷)・蘇我氏(葛城県蘇我郷)・平群氏(平群郡平群郷)・紀氏(平群県紀里)・葛城氏(葛城県長柄里)がその任務に当たった。波多氏は、1954年まで佐賀県に波多津村・南波多村が存在していたし、現在でも唐津市北波多村がある。波多氏は、末ら国の出身ではないか。巨勢氏は、江戸時代まで肥前国巨勢郷があり、日本武尊がこの地に巡幸し、佐嘉郡と呼ばれた。現在でも佐賀市巨勢町が存在し、明治時代に古瀬村とも呼ばれていた。紀氏は、代々紀伊国の国造職と日前神宮・國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、日前神宮・國懸神宮の神体(日像鏡・日矛鏡)が伊都国の遺跡群の平原遺跡の大型内行花文鏡と類似していることから、紀氏は福岡県糸島市(伊都国)の出身ではないか。葛城氏と蘇我氏は新羅と関係が深く、両氏とも同系か。弁韓(狗邪韓国)辺りからやって来たかも知れませんね。平群氏は武内宿禰とダブルところがあり、現在の佐賀県武雄市武内町が存在していて、1950年まで杵島郡武内村であった。
武内宿禰の子達の出身地
 ヤマト王権に仕えた波多氏・巨勢氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・葛城氏は、北部九州で水田式稲作が始まった唐津市の菜畑遺跡を中心にしたアマテラス系の氏族だったのではないだろうか。天皇家が九州から大和に移動したとき、軍隊の一員として参加し、次第に力を発揮して、ヤマト王権の中核となっていった。


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