南ツングース諸語満州語群 日本人のルーツは、騎馬民族であると唱えた人がいた。確かに、以前、日本語はアルタイ諸語のツングース語族に属していると言われていた。現在では、アルタイ諸語の日球語族となっている。1968年に、中央公論新社から発行された江上波夫さんの『騎馬民族国家日本古代史へのアプローチ』では、東北ユーラシア系の騎馬民族が朝鮮半島を南下して、伽耶地方を支配し、任那を基地に日本列島に入り、4世紀から5世紀に、大和地方の王朝を支配、或いは征服し大和朝廷を樹立した。騎馬民族征服王朝説ですね。江上波夫さんは東洋史学者の観点から、そんな風に唱えられたと思う。その当時、かなり説得力があって、日本人の祖先は遊牧民族だったと理解された方もおられたようです。
 日本人の起源は、新石器時代まで遡り、バルカン湖辺りから日本列島に。そして、東日本に縄文文化を築いた。その後、少し遅れて西日本には、東アジアから黒潮に乗って、日本列島に上陸した南方系縄文人。その北方系縄文人と南方系縄文人の混合が原始的日本人。それが、紀元前1,000年頃から中国の山東半島辺りからと朝鮮半島経由で日本列島に入ってきた。その人達は、日本で稲作を始め、中国の「邑」のように一族で共有の農地を開拓し、集落を形成して、周壁を築いた。最初は、縄文人の侵入を防ぐため。それが、永い歳月の間に、従来の縄文人と同化していった。
殷王朝と異民族 紀元前1,000年頃の中国は、殷王朝が周王朝によって滅ぼされた頃で、殷の残党は山東半島の異民族地域とか揚子江下流地区とか遼寧省や遼東半島周辺に。そして、それらの異民族と同化し、殷の青銅器文化を伝えた。その中に、殷の最後の王、帝辛の叔父にあたる箕子という人物がいて、現在の遼寧省あたりを治めていた。殷王朝が滅亡してから、箕子朝鮮を建国。この遼寧省辺りの異民族は、新石器時代の紅山文化で栄えた土地で牛河梁文化発祥の民で、文化水準が高く、箕子の時代には、殷から流れてきていた青銅器も製造していた。それがこの遼寧省辺りを周王朝の燕が支配するようになって、箕子は朝鮮半島に。青銅器を習得した異民族は、箕子政権とともに南部朝鮮まで南下し、馬韓や弁韓に。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃、伽耶地域から日本に青銅器を伝えた。
4世紀頃の百済と前燕二号鞍金具 遼寧省や遼東半島周辺の異民族は、4世紀前半に百済を建国する。当初の百済は、鮮卑が建国した前燕(遼寧省や遼東半島周辺)と隣国関係にあるほど大きな国でした。当然、殷王朝に関わりある遼寧省や遼東半島周辺の異民族の繋がりがあったと思う。前燕時代(337年から370年)の朝陽市北票市の喇嘛洞IIM101号墓から遊牧民族の鮮卑が使う馬具、龍文透彫鞍が出土され、その馬具を製作したのは、百済に関係がある職人だったのだろうか。応神天皇陵の誉田丸山古墳の2号鞍と同一の馬具なのです。それでも、遼寧省朝陽市で作られた馬具が日本にあることは、南部朝鮮に遼寧省からやって来た人が製作したか百済からの贈り物だったのか。江上波夫さんの騎馬民族が大和朝廷を樹立したという論理は、言い過ぎかも知れないが、仲哀天皇・神功皇后時代に新羅と手を切り、百済と友好関係を結んで、南下する高句麗と戦ったのはうなずける。
 日本に青銅器が伝わった紀元前3世紀から2世紀の時代に、弁韓から遼寧省や遼東半島周辺の異民族が日本にやって来ている可能性はあり得る。佐賀県の吉野ケ里遺跡は紀元前4世紀頃から吉野ケ里丘陵に集落ができはじめ、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土し、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるもの、さらに銅鐸も発掘されている。この吉野ケ里遺跡から出土した巴形銅器や細形銅剣と酷似している出土品が、伽耶の金海貝塚から。その他に、弥生時代にあたる韓国靭島遺跡から、抜歯をした人骨やイモガイの腕輪や日本の弥生土器(須玖I式、II式土器など)が多数出土し、恐らく日本人が移住していたとの研究結果もある。吉野ケ里で生活していた人は、遼寧省や遼東半島周辺の異民族だったかも知れませんね。


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