古事記の神話で、どう見ても渡来系の神が現れる。アマテラスとスサノヲが剣と玉を交換したときにアマテラスの玉から生まれたアマツヒコネ。この神の子にアメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とヒメコソミコト(比売許曽命)がいる。アメノマヒトツノカミは製鉄・鍛冶の神で、『播磨国風土記』に農耕民の地元の道主日女命を娶って、意富伊我都命を生む。凡河内氏の祖・彦己曽保理命の父にあたる。物部氏とも関係が深い凡河内国、後の河内国、和泉国、摂津国を支配し、大阪湾を囲んでいたため、ヤマト王権では大阪湾に侵入する渡来人の管理と統率を担っていた。また、近江国野洲郡三上郷出身の三上氏も末裔としているので、中臣氏や物部氏が琵琶湖北湖に本拠地を置いていたことを考えると、凡河内氏・三上氏は物部氏の手下。大和朝廷が成立してからは、両氏も公家として宮中で仕事をし、凡河内氏は、ヤマト王権の時代から朝鮮との外交の役目を果たした。大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号にあ坐摩神社る坐摩神社は、日本の名字、渡辺の発祥地とされ、この渡辺も凡河内氏の末裔である。そのように考えると、製鉄や鍛冶に強い渡来人で、どうも任那の伽耶地方から日本にやってきたのではないか。物部氏が秦氏と関係があるように、凡河内氏も物部氏が伽耶から連れてきたかも知れない。『日本書紀』では、崇神天皇65年7月に蘇那曷叱知が任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。4世紀の初めの話。壱岐のカラカミ遺跡から鉄を加工したり生産したりするための炉や鉄片が発見されたが、その炉や鉄片は1,700年前のもので、その当時に凡河内氏の祖先が日本にやって来たと思う。
 アマツヒコネの子、ヒメコソミコトは、『古事記』応神天皇記では新羅王の子であるアメノヒボコの妻となっているアカルヒメノカミ(阿加流比売神)で、赤い玉の神話の娘。ある日奢り高ぶったアメノヒボコがアカルヒメノカミを罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げた。アメノヒボコは、日本まで追いかけて来る。『日本書紀』垂仁天皇紀では、伽耶王の子である都怒我阿羅斯等が持ち牛を殺され食肉にされた代償に得た白石が美しい童女と化し、難波の津に逃げた話。この都怒我阿羅斯等がアメノヒボコであり、その白石の童女がアカルヒメノカミ。また、崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着し、都怒我阿羅斯等が伽耶に帰るときに、垂仁天皇は崇神天皇の諱「みまき」を伽耶の国名にするように伝え、伽耶国王に赤絹を贈った。この「みまき」が任那の語源とされている。
応神天皇記の系図 よく似た話が『日本書紀』にダブって掲載されている。蘇那曷叱知と都怒我阿羅斯等とは同一人物。神話のアメノマヒトツノカミと『古事記』応神天皇記のアメノヒボコは、同一の神となる。この都怒我阿羅斯等ですが、「都怒我」は「角鹿(つねが)」の語源で、敦賀に転じた。福井県の敦賀湾に南部朝鮮から渡来してきたことを表している。伽耶や新羅の人達が渡ってきた。その人達は製鉄や鍛冶に優れた能力のある人や新羅・百済・高句麗と交渉できる人だった。アメノヒボコは、南部朝鮮から流れてきた集団の象徴として記紀に掲載されている。そして、アメノヒボコの子孫は但馬国に留まり、ヤマト王権に仕えることになる。その子孫に、『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」と言う人物が登場し、古代三宅氏の祖となる。三宅氏は、ヤマト王権の直轄地(屯倉)から来ていて、その屯倉で警備を担当していた。また、田道間守が垂仁天皇の命により、常世の国から不老不死の妙薬、橘の実を持ち帰ったことから、橘氏の祖ともなっている。
 崇神天皇・垂仁天皇の時代、3世紀後半から4世紀前半の南部朝鮮は小国がひしめいていた。任那と新羅の境がはっきりしなかった時代。新羅は高句麗の侵略を受けて、おおよそ洛東江を境にして東側は新羅、西側は伽耶として異なる政治的・文化的な領域を形成していた。そこに、製鉄の原料、鉄鉱石を求めてヤマト王権が侵入してきた。狗邪韓国(金官国)に人員を送っていたと思われる。そして、284年に慶尚北道星州郡星州面に侵入して、集落に放火して周り、1,000人を捕虜にした。その頃、ヤマト王権は百済と手を結んで、高句麗の南下政策に対抗しようとしていた。そして、300年に新羅から使者が送られてきて、ヤマト王権と新羅が和睦している。その頃の話が、アメノヒボコの説話になったのではないか。4世紀後半になって、任那に侵略するので、新羅に兵を送った。この時代のことが神功皇后の三韓征伐として語られている。

4世紀頃の任那


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