日本国土面積 弥生時代中期における国としての体裁は、どのようになっていたのだろうか。その当時の人口と実際の住居環境は、どのようになっていたのだろうか。学問的には、歴史人口学という分野。その第一人者で、現在、静岡県立大学の学長をされている鬼頭宏先生によると、縄文時代晩期、九州北部に水田式稲作が始められた時期、日本の人口は75,800人でした。九州北部が3,000人、畿内は僅か800人という統計データーがあります。この時期、人口が多いのは、まだ狩猟採取の生活をしていた縄文人が多く住む東北地方でした。北海道を除いた本州・四国・九州の面積は、283,021㎢ですから、山岳部や川や湖の面積を考慮しないで、単純に人口密度を計算すると、10㎢当り2人~3人となります。弥生縄文時代晩期と弥生時代中期の地域別推定人口時代中期、倭国の大乱があった頃の人口は594,900人ですから、その当時の人口密度は10㎢当り21人となります。この1,100年の間に平均して各地で人口が増えたのではなく、水田式稲作が九州から西日本に普及していった課程で人口が増えている。そして、ヤマト王権が誕生する。そして、朝鮮半島から渡ってくる人達を受け入れていった。九州では、紀元前900年頃、人口が6,300人だったのが、紀元200年には16.7倍の105,100人に。それより大きな倍率で人口が増えているのが、近畿圏。紀元前900年頃、2,000人だったのが、紀元200年には50倍の100,500人に。この時期には近畿圏でヤマト王権が設立していたと思う。そのため、近畿圏で人口が増加とともに、九州と同じぐらいの勢力に成長していた。
 紀元前900年頃には、日本で人口が多かった東北ではあったが、紀元200年には西日本で人口が増加したのに対して、殆ど横ばいか減少している。その分、関東や中部での紀元前900年頃、25,400人であったが、紀元200年には10倍の259,200人になった。この現象は、東北から人口移動したのだろうか。また、諏訪湖を中心にした甲斐、信濃、飛騨で紀元200年に85,100人。九州、近畿に次いで人口が多いのは何を表しているのだろうか。中部で160,200人。ヤマヤマトタケルト王権の景行天皇の時代、4世紀の中程に美濃行幸や九州巡幸を行い、ヤマトタケルを熊襲征討・東国征討に行かせています。その当時、人口の多い九州でヤマト王権に従わない首長や大王のために派遣したのだろう。その後、東国にも。
 ヤマトタケルは、お伴に吉備武彦と大伴武日を連れて、駿河・相模や信濃・甲斐を回って、美濃から尾張に。ヤマトタケルが駿河の賊衆に襲われ、草那藝剣で草を刈り掃い、火打石で迎え火を付ける火攻めの話は、昔話として有名ですね。景行天皇・ヤマトタケルの時代に、景行天皇の軍事的部民(来目部や靫負部から大きくなった伴造として成長した大伴連)やヤマトタケルの軍事的部民(建部、吉備の出身者)を東国に派遣して、ヤマト王権の東国支配を固めた。その後、大伴氏の子孫は富士浅間神社社家や甲斐伴氏となり、鶴岡八幡宮社家や三河伴氏に、静岡県や山梨県や神奈川県に土着した。吉備氏では、飛鳥時代に吉備の笠麻呂が国司になっている。ヤマトタケルが伊吹山付近で死亡してしまい、景行天皇は、東国に叔父の豊城入彦命の三世孫、御諸別王を派遣している。この御諸別王が上毛野氏、下毛野氏の祖となる人物です。
 吉備氏は本来三輪氏族の出身であったのが、同じく三輪氏族出身の彦坐王一族(息長氏・和邇氏)や御諸別王(毛野氏)と共に大王家の系譜に結びつけられた説がある。吉備氏も息長氏・和邇氏・安曇氏も毛野氏も皇室扱いされた同族ではないか。ヤマト王権は、これらの皇族扱いした氏族の長(君または公)を国造(くにのみやつこ)に。『日本書紀』の巻第七には、成務天皇が「諸国(くにぐに)に令(のりごと)して、国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)に稲置を置(た)つ」とあり、造長は国造にあたる。この当時、ヤマト王権には、直轄地として屯田・屯倉があり、その領土を国造に対して「県」とし、その土地の管理に皇族出身のワケ(地方に領地を得た者およびその一族)に「県主」を命じた。また、ヤマト王権の県を管理及び微税官として稲置(いなぎ)を任命した。
 国造について、唯一、分析と掲載している歴史書がある。それは、平安時代初期に刊行された『先代旧事本紀』で、神代から推古天皇まで、1巻から9巻に編纂され、10巻目が「国造本紀」となっている。初代国造の任命時期と初代国造と初代国造の系譜関係と令制遺称地が書かれている。任命時期は神武天皇の時代もあり、崇神天皇の時代もあるが、その半数は成務天皇の時代で、総数は132の国造と摂津と和泉の国司が編纂されている。応神・仁徳天皇の時代もあり、最後の1国造は継体天皇の時代。まぁ、神武天皇や崇神天皇の時代に、ヤマト王権が国造の領土が存在していたかは疑問ではあるが、景行天皇・ヤマトタケルの時代から成務天皇の時代には、ヤマト王権の領土拡大があったことは間違いないだろう。
先代旧事本紀10巻国造本紀


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