相谷土偶 人の形をした造形物の最古のもの。人形の起源が今から約13,000年も前、縄文時代早期の土偶。この土偶は、滋賀県の永源寺の近くの東近江市永源寺相谷町の相谷熊原遺跡から発見された。この時代に竪穴式住居が現れたころで、新石器時代の人たちが永住し出した頃。縄文人の始まり。この竪穴式住居跡から高さ、3.1㎝、重さ、14.6gの相谷土偶が見つかった。現在で言うとアクセサリーみたいなもの。この竪穴式住居には、家族形成が確立されていたのだろうか、この土偶を女の子の玩具として与えていたのだろうか。それとも、お守りとして。この相谷熊原遺跡から5棟の竪穴式住居跡が発見され、その1棟から発掘された。この土偶は、女性の胸の部分だけなので、どのような意味合いがあったか分からない。制作者は男性だろう。異性を意識して。
 新石器時代には、食料を求めて狩りをし、定住をしない生活を続けていた人たち、特に男性が縄文時代草創期には、半定住をしていた女性のもとへ、そして家族を形成していった。そんな家族には、狩りをして食料を持ち帰る働き手の男性が必要でした。そんな男性を呼び止めるためには、女の子の誕生は宝だったのです。所謂、母系家族の形成ですね。そんな観点からすると、誕生した女の子にこのアクセサリーのような土偶を身につけさせたとしても不思議ではありません。
画像_2021-02-14_100918 縄文時代中期には、大切な女の子の守り神としての土偶が制作されるようになった。長野県棚畑遺跡出土の土偶「縄文のビーナス」のように高さ、27㎝、重さ、2.14㎏という大きさになり、アクセサリーではなく、母系社会或いは農耕社会の象徴である地母神崇拝のための土偶として形つくられた。この頃には、かなり大きな集落ができ、女の子が誕生を祝い、穢れを祓う祭事を集落の中心部の祭事場で、このような大きな土偶を据えて、神にお祈りしたのでしょう。
 縄文時代の土偶は、ある説によると全国で三千万箇とも言われ、その時代その時に応じて普通の庶民が制作してきた。古墳時代になると土偶は、埴輪と変化していきます。そして、縄文時代の集落も、大規模集落から小国家となり、そこにはリーダーとしての大王が。各地で政権争いが始まり、父系社会となっていきます。でも、女の子の誕生はその氏族の宝とされ、政権を担う大王に嫁がすことで、政権の中心部に。現在では許されない、このような仕来りが江戸時代まで続く。3月3日の桃の節句に、誕生した女の子の穢れを祓うためにおひな様を飾る風習は、天皇制中心の男性社会とは言え、現在でも母系社会が陰ながら続いているようにも思える。
 縄文時代のように土で女性の人形を作る風習はなくなりましたが、女の子の誕生と共にその子の穢れを祓う行事として、上巳の節句に紙や藁で作られた人形を川に流す、「流し雛」が行われていました。飛鳥時代や奈良時代の頃だと思います。平安時代になって、宮中で「ひいな遊び」が女性の間で流行ります。紙で作られた人形と小道具を並べて遊ぶ、現在で言う「ままごと遊び」。それが、「流し雛」と「ひいな遊び」が合体して、桃の節句の時期に紙で作ったひな人形を飾るようになったのが「ひな祭り」の起源だとされています。
七段飾りのひな人形 現在の七段飾りのひな人形を設置するようになったのは、安土桃山時代で、豊臣秀吉が宮廷に近づき、関白の称号を賜った頃から。それでも、名だたる武家の家でのことでした。江戸時代になって、ひな人形の制作技術が上方(京都)だけに限られていましたが、江戸(東京)が発展する中で、上方から嫁にもらうことが増え、その時に嫁入り道具として、ひな人形を持参した。それが江戸の庶民に普及。そして、ひな人形も京都から仕入れるのではなく、江戸の職人がひな人形を制作するようになった。江戸木目込み雛人形前のひな人形として、木目込み雛人形があるが。この制作でも、元々、京都の賀茂人形と言って、上賀茂神社の奉納箱を作る京職人が切り込みの木くずを固めて作ったひな人形だった。それが江戸末期のひな人形職人がその技術を江戸に持ち帰り、木目込み雛人形を制作するようになった。
 縄文時代から受け継いだ「女の子の誕生を祝い、穢れを祓うための人形」。そして、3月3日に「ひな祭り」を行う。これは日本人の文化であり、形を変えながらも引き継がれなければならない。日本女性のために。

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