木の神様 神社を訪ねると森林に囲まれた環境にあり、中には巨木にしめ縄が巻かれた風景が見受けられる。古代人は、高い巨木頭上に天、神が宿ると考えていた。神社の発生は、いつ頃か等、定かではない。気温が低い山岳地帯で、落葉広葉樹林系のドングリやクリを主食にしていた縄文人が集落を作り、そこで祭りが開かれるようになり、祭事場の周りにはストーンサークル(環状列石)の代わりに、高い材木を立てた。木の柱から、天或いは神建木に通じる道があると信じられていた。その沿線上に、神社の木信仰がある。神木と言われ、スギやヒノキ等、天候の変化に強く、高く伸びる針葉樹林が選ばれた。
 古代中国の伝説には、天と地を結ぶ神聖な樹木として、建木という言葉が出てきます。戦国時代から秦朝を経て、漢朝までの地理書『山海経』や前漢の武帝時代に書かれた『淮南子』にも出てくる。この時代には、天地の中央に位置する建木から、天動説神のお告げを受け、帝(皇帝)に乗り移る。それをつかって往来をしたと考えられる記述があり、天梯(天に通ずるはしご)、通天柱(天と交通するための柱)と表現している。この天地中央の考え方は、中国で稲作が始まった頃、太陽信仰思想で、太陽は東から昇り、西に沈む、天動説だった。そして、太陽はから東の巨木、扶桑昇り、西の巨木、若木に沈む。こ八仙渡海図の太陽信仰は、現在の中国のミャオ族に受け継がれている。
 秦の始皇帝の時代、不老不死の薬を求めて徐福の一行は、東の地のはて、太陽が昇る地、扶桑国にたどり着くために日本にやって来た。そして、神仙思想を広げていく。滝に打たれて身を清める行為、禊ぎも仙人信仰から来ている。日本神話でイザナギがイザナミの死体を見て、逃げる場面で、最後に禊ぎをする。その禊ぎです。ニニギが天孫降臨する場所が高千穂山の頂上、或いは岩に囲まれた高千穂峡だと言われていますが、これも神仙思想。日本神話は、神仙思想の影響を受けて書かれています。紀元前2世紀頃、山東半島以南の中国人が扶桑の地、広くて大きな木のある地、取りあえず九州に舟で渡って来た。そして、原住民である縄文人と混じっていく。その当時の中国人の扶桑の地は、日本列島の九州だったのですね。『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると高千穂峡記され、この黒歯国が宮古島以北の琉球諸島の何処かだとすると、扶桑国は九州になる。その当時、日本では大集落は存在していたが、まだまだ、国の形態ではなかった。黒歯国にしても、扶桑国などはその頃の中国の王朝が名付けた国なのです。
 邪馬台国の時代、紀元2世紀後半ころになると安定していた後漢王朝が184年の黄巾の乱を封切りに、魏・呉・蜀の三国時代に入り、南北朝時代を経て、隋王朝によって中国が統一する581年まで分裂してしまう。日本では、魏王朝と交渉を始めた北部九州の小国家が生まれ、倭国大乱という小国同士の戦いがあり、それが治まって、中国側が言う邪馬台国が魏と交渉を始める。紀元3世紀頃。その頃、近畿圏にヤマト王権が誕生している。紀元4世紀になると、中国は北朝の北魏王朝と南朝の宋王朝に分かれ、邪馬台国を中心にした北部九州勢は北朝と交渉を続ける。一方、ヤマト王権は仙人思想を生み出した山東半島以南の南朝と交渉していた。その南朝は宋・斉・梁・陳で、日本の政権とはヤマト王権。ヤマト王権は中国と交渉を始め、南朝側(概ね宋王朝)では倭の五王(讃・珍・済・興・武)として、5人の魏志倭人伝の倭人日本の王が交渉のため、使者を派遣したとある。南朝梁王朝の歴史書『梁書』では、日本のことを東海上に実在する島国と考えられるようになった。そして、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替された。梁王朝(502年~557年)は、日本にヤマト王権という政権が存在していることを認識していた。その頃、南朝の文化、特に梁王朝から仏教が入ってきます。『扶桑略記』によると、梁王朝出身の司馬達等が522年(継体天皇16年)2月に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したという。日本では、梁王朝の時代に武烈天皇、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、そして欽明天皇と続く。仏教公伝は、朝鮮半島の百済から入ってきましたが、僧呂は梁王朝の人ではなかったか。欽明天皇の時代に仏典だけでなく、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志』、『晋書』、『宋書』、『梁書』等も入ってきたかも知れませんね。そこには、中国から見た日本の姿が書かれてあった。倭国のことや扶桑国のこと。
 欽明天皇の子には、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇があり、用明天皇の子に厩戸皇子(聖徳太子)がいます。聖徳太子は、中国の歴史書を読んで勉強していたのでしょう。推古天皇の時代に皇太子に。就任すると、冠位十二階や十七条憲法を次々と制定し、力量を発揮した。そして、中国では北朝と南朝に分かれていたが、581年に隋が統一し、その隋王朝に小野妹子を派遣し、ヤマト王権の正当性を示す書状を持たせた。遣隋使の始まりです。その書状には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で、日が出るところの天子、これは扶桑国の天子、ヤマト王権の天皇を表している。「私の国は、太陽が最初に昇る国なのですよ」と言わんばかりの書状だったのです。聖徳太子の従兄弟に当たる押坂彦人大兄皇子の子、舒明天皇の子が天武天皇で、この聖徳太子の「日出處」という言葉を引用して、日の本、国名を日本と定めた。
 「東の端から太陽が昇る」それが「扶桑」と名付け、中国人が神仙思想をもって、日本に渡ってきた。そして、原住民である縄文人と同化していく。日本文化の源は、仙人信仰とともに進化していったと考えてもいいのではないか。

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