30万年前の琵琶湖 琵琶湖といっても現在の形になるまでは、凄い歳月を費やしました。今から30万年程前、琵琶湖の原型ができ、徐々に現在の琵琶湖に近づいていきます。縄文時代初期には、現在の琵琶湖より一回り小さな形で、彦根から坂田の間に入江内湖があったが、現在は米原市入江になっている地域で、1944年から1950年まで干拓された。その干拓の時に干拓地より3m下辺りに、7,300年前の鬼界アカホヤ火山噴火による火山灰が南九州からこの琵琶湖まで飛んできたその火山灰が発見された。その後、この干拓地に国道8号米原バイパスが通過することになり、工事が2012年にはじまった。その工事を前にして、2007年に入江内湖遺跡調査が行われた。2m~3m掘ったところに縄文時代中期末地層から4艇の丸木舟を発見した。その他の1艇は、全国で発見された丸木舟で最古。約6,500年前の丸木舟が発見されて驚かされ銛た。縄文時代中期末地層からその他に、鹿の角で作ったヤスや釣り針、その重りか漁網用石錘が発見された。丁度、三内丸山遺跡の大規模集落が存在していた頃、4,500年前。琵琶湖北湖では、琵琶湖で採れるコイ・ギギ・ナマズなど骨や歯が発掘されていることから魚類の採取入江内湖が行われ、その中に1匹だけではありますが、何とマグロの背骨も。縄文時代中期末の琵琶湖北湖の縄文人は、琵琶湖で漁業に従事しているだけでなく、丸木舟で琵琶湖から淀川を下り、河内湾の海岸線まで。そして、物資の交流を行っていたのだろうか。
 琵琶湖北湖のこの地は、福井や岐阜の近隣県があり、北陸や中部・信濃辺りから人が流れてくる。森林樹から言うとクリやドングリが採れる落葉広葉樹林で育った縄文人が、食料を求めて西に。そこが琵琶湖北湖あたりなのです。琵琶湖の地は、西から流れてくる常緑広葉樹林で野生の稲などが生えている。この入江内湖遺跡の縄文土器から、ドングリやクリの他に球根も固着している炭が付着していた。しかし、縄文時代晩期末の地層の土器からは、イネの固着している炭も見られるようになった。琵琶湖の湖岸は、葦などが生える湿地帯だったので、稲作に適していた。河内湾の北東部、大阪府高槻市の安満遺跡の水田跡と同じ時期には、琵琶湖北湖でも水田式稲作が行われていたのではないだろうか。
入江内湖遺跡
木偶(大中湖南) 彦根から南に下がると近江八幡市がある。日本の戦国時代に織田信長が安土城を築いたあの安土町の琵琶湖湖岸に昔、大中の湖があった。この内湖も1964年に干拓工事が始まり、発掘調査が行われた。すると、弥生時代中期初め、紀元前100年頃の大規模集落跡が発見された。その大きさは、奈良の唐古遺跡に匹敵する。勿論、縄文時代からの遺跡も発見されている遺跡で、大中湖南遺跡と名付けられた。この遺跡からは、縄文時代中期の丸木舟も発見されているが、縄文人が水田式稲作を習得した可能性がある弥生時代前期初め、紀元前300年頃の木製の農具や祭事に使用されたろう木偶も発掘されている。
 入江内遺跡の北東部には、息長小学校や息長郵便局があり、この辺りが明治22年から昭和30年まで坂田郡息長村があった所です。そう、神功皇后の出身豪族、息長氏の本拠地とされています。この息長氏の同族、坂田氏、継体天皇の妃もこの氏族。お隣の坂田村(JR北陸本線の坂田駅周辺)を本拠地としていた。この息長村と坂田村が合併して現在の近江町になっている。私の所見としては、息長氏も坂田氏も元々、北琵琶湖に永住していた縄文人の子孫ではないいかと。うぅん、天皇家も。まぁ、謎に満ちていますけれどね。息長とは、「息が長い」「風を吹く」と言う意味で、潜水を専門とする海人、いや風の神で製鉄の民と言われていますけれどね。
琵琶湖北湖2
尾上浜と竹島
尾上浜遺跡の丸木舟 入江内遺跡より北には、長浜市があって、そこにも葛籠尾崎湖底遺跡と余呉湖に源を発する余呉川の河口に尾上浜遺跡があります。1924年に長浜市尾上の漁師が葛籠尾崎半島の奥琵琶湖で縄文時代の土器を引き上げた。これが葛籠尾崎湖底遺跡。また、尾上浜遺跡では、縄文時代後期末頃に川岸に並行するように沈んだ丸木舟が発見された。この尾上浜は、どうも船着き場だったようで、縄文時代から丸木舟での琵琶湖から河内湾、さらには瀬戸内海から北部九州との交流が盛んだったことが忍ばれる。また、この余呉川の上流には、『近江国風土記』にも記載されている、日本で一番古い羽衣伝説がある余呉湖があります。この周辺に伊香氏が勢力を持っていたと『近江国風土記』に記されている。この伊香氏の祖は、神功皇后の時代に登場する中臣烏賊津(伊香津臣命)。その子に臣知人命、梨迹臣、伊世理命、伊是理媛、奈是理媛の5人の子がいた。その臣知人命の子孫で672年に朝廷から伊香氏の姓を頂戴している。となると、中臣鎌足もこの琵琶湖北湖の出身と言うことになるかも。さらに驚かされるのが、物部氏と中臣氏の関係。物部氏の領土で河内国茨田郡伊香郷という所がある。この伊香郷と余呉湖の伊香氏との関係。ひょっとしたら、物部氏と中臣氏は縄文時代には同族であった可能性がある。
琵琶湖北湖 このように琵琶湖北湖で築かれた縄文人が、後世で息長氏、物部氏、中臣氏と分かれていった可能性もある。そして、神功皇后の時代に3氏族が中心になって三韓征伐を行い、そこに大伴氏も加えて、息長氏の子孫でもあるヲホト(継体天皇)を天皇に迎えた。継体天皇の母方は、越後の豪族である三尾氏。若きヲホトは、琵琶湖の北西部安曇川の河口、高嶋郷三尾野(現在の高島市)で生まれた。弥生時代に海人の安曇氏がこの琵琶湖北湖にも移住していた。となると、息長氏と安曇氏との関係も繋がってくる。神功皇后が三韓征伐の時に、海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求めた。そんな関係にあったのだろう。


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