掘込炉 現時点で、日本での鉄器の最初の工房らしきものが発見されたのは、平成23年3月~5月にかけて、発掘調査がおこなわれた長崎県島原市有明町所在の小原下遺跡2区。縄文時代晩期の地層で、地面を掘りくぼめた炉のような遺構から鉄滓が発見された。縄文時代には、竪穴住居の中に掘込炉があり、土器を据え付けて掘り込んだ所から木材を燃やして、煮たり、蒸したり、乾燥したりと調理をしていた。その炉は室内の暖房にも利用されていた。縄文時代から鉄器の生産があったとは言いにくいが、ただ、火をおこすための炉を掘るのは、日常行われていた行為だったと思う。その炉に不純物の鉄鉱石や砂鉄が含まれていたとしても不思議ではない。縄文時代晩期になってから北部九州では、水田式稲作が中国から導入される。その当時はまだ鉄器はなく、黒曜石を砕いて斧を作り、その斧で木材を伐採して、黒曜石の刃物で鍬を作り、田を耕したり、灌漑を掘ったりしていた。これは、すべて、集落の共同作業であった。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片 弥生時代初期に渡来品として、刀子と鉄斧が入ってくる。これらをもたらしたのは壱岐や対馬の海人系の人達でした。北部九州でも鉄器の模造品が、生産されるようになった。福岡県春日市赤井手遺跡の鍛冶工房跡は、現在最古の鍛冶工房と言われている。そんな鍛冶工房が北部九州に出現すると共に、壱岐などの海人系人達は、朝鮮半島から鉄鋼石をそれらの鍛冶工房に引き渡し、生産された鉄斧や鉄鍬などと交換し、その農具などを水田式稲作の集落に。その集落で米を手に入れた。弥生時代中期になると、鉄器農具により農耕の効率化がはかられ、人口の増加と余暇に行っていた鍛冶工も、専門職となり、職業の分業化が進むようになった。また、北部九州では、中国の貨幣の流通がはじまった。そこで、物資の移動に伴う利益により、財力を蓄える者もあられ始めた。それが、弥生時代後期の大王に発展していく。その中には、壱岐の一支国であっただろう原の辻遺跡では、五銖錢が発五銖錢見され、朝鮮半島との交易が行われていた。そして、鍛冶工などの技術者も渡来人として受け入れていた。この原の辻遺跡にも鍛冶工房が発見されている。また、車馬具や馬骨も発掘されていることから、馬も北部九州の大王の手元には届いていたようです。
 古墳時代になって、鉄器の農具や工具の発達と共に大王の墓、古墳建造には、農作業の合間を使って、多くの民が参加した。開墾した土や灌漑で掘り起こされた土砂を使って、円墳を造り、更に余った土、堀の土などをその円墳に付けて、前方後円墳が完成した。神霊を映しだす青銅鏡や大王が使用していた鉄剣、鉄の馬具、そこには綺麗な刺繍された織物なども埋葬されたことでしょう。この頃には、北部九州の民を引き連れた大王が、畿内という中央政権に移動。ヤマト王権の連合政権に参画するようになる。
須賀古墳群の馬具
 ヤマト王権は、中国との繋がりが深かった百済と手を組み、朝鮮半島の新羅や高句麗との戦いを繰り返し、武器としての矢尻、兜、鎧などの鉄器の生産に力を注ぎ、朝鮮半島から逃げてくる渡来人を受け入れ、畿内での開墾とともに、特殊技能者を優遇して移住させた。そして、天皇家の直轄領土、屯倉を増やしていった。そこには、専門職の技術者や渡来系の工員も含まれ、宮中に献納させた。そして、稲作を中心した産業が発展していく。


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