鏡と言えば、透明ガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のめっきを塗って、さらに酸化防止のため銅めっきや有機塗料などを重ねたもの。女性の化粧には欠かせない道具ですね。このガラスの鏡が南天柄鏡日本に入ってきたのは、わりと新しい。大航海時代にキリスト教と共に日本にもたらされた。そう、織田信長や豊臣秀吉の時代、安土桃山時代からのことなのです。一般的に普及したのは明治時代から。西洋でも、ガラスの鏡を開発したのは、1317年にヴェネツィア(イタリア)のガラス工が、錫アマルガムをガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明してから。
 では、江戸時代までの鏡と言えば、青銅器で作られた銅鏡でした。平安時代から鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代まで嫁道具として、必ず娘に持たせたのも銅鏡。そんな銅鏡ではありますが、日本にこの銅鏡が大陸から入ってきたのは、青銅器技術が浸透して、剣や矛が製造される紀元前3世紀より、1世紀後の紀元前2世紀ころだと言われています。2015年に福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡から青銅鏡鋳型の破片が見つかった。中国が戦国時代から秦の始皇帝によって統一され、前漢の時代が始まる頃には、日本に朝鮮半島から青銅鏡が輸入され、その鏡の型版を石材で作り、銅を流し、固まった状態で鏡の表面を研磨した国産がすでに生産されていた。銅鏡が製造される前、縄文人や弥生人は、自分の姿が映る神秘さを水面神鏡で体験し、黒曜石を研磨しているときにも映る現象を体験していた。また、太陽光が反射するのも知っていたかも知れない。そんな弥生時代には、鏡は神霊の対象でしかなかった。その当時は、集落での祭礼が行われた場所には、この銅鏡が据えられていたでしょう。後に神社が建立されるようになった時、銅鏡は神体として祀られた。剣とともに鏡も神体の対象となった。
 紀元前後になると、北部九州を中心にして中国鏡(方格規矩鏡、内行花文鏡など)が輸入され、その当時の大王の手元に置かれた。それだけ貴重品だった。その後、邪馬台国時代に、三角縁神獣鏡が魏の明皇帝から卑弥呼に与えられた。日本で三角縁神獣鏡の模造が始まり、銅鏡の増産の基に、古墳時代の幕開けの頃から、銅鏡は大王の死後の霊魂に供える意味で、古墳のお棺に三角縁神獣鏡装飾品などと共に収められた。魏から与えられた100枚の三角縁神獣鏡が、現在の考古学の遺跡の発掘により、330枚近くが発見されていることは、日本での模造がかなりあったようです。大王の死によって神になったわけですね。各地の大王がヤマト王権によって統合され、古墳の築造も少なくなってきた6世紀頃から仏教が自然崇拝の神々に変わって信仰の対象に。神体としての鏡の役割は終わっていった。それでも、青銅鏡の生産は続けられ、女性の化粧道具となっていく。
白粉 古くから日本で女性の化粧と言うと、「おしろい(白粉)」がありますね。この白粉は、7世紀頃、飛鳥時代に唐から「はらや(塩化第一水銀)」や「はふに(塩基性炭酸鉛)」が入ってきた。そして、高貴な女性が白粉を塗って化粧しだした。胸元や背中に至るまで白粉を塗るのが主流でしたから鏡が必要だったのですね。平安時代になると、顔全体に「はふに」を塗るのが主流になった。しかし、その成分には鉛白(塩基性炭酸鉛)が含まれているので有害で、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至ることがあったようで、1934年に鉛を使用した白粉の製造が禁止された。現在では、ファンデーションを塗った上に仕上げとしてルースパウダー、化粧直しに用いるプレストパウダーを使用している。
 平安時代の女性は、顔全体に白粉を塗り、薄暗い所でも目立つように、唇にはおちょぼ口に見えるよ京紅う紅を。口紅ですね。そして、頬にうっすらと紅。頬紅ですね。その当時の紅は、ベニバナの色素を梅酢で分離したのを使用していた。江戸時代にになって、高級な「京紅」が持てはやされたが、これも良質のベニバナが原料でした。平安時代以前は、死者に紅を口基に塗った「死化粧」。この成分は、鉄鋼物の丹や朱であった。現在の女性にとって、化粧品としての口紅は必需品ですが、江戸時代以前には貴重品だったのですね。


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