人の名前をあらわす表現に氏名と姓名があります。氏名という表現は、公文書に使われ、姓名は一般的に名字を表します。氏名と姓名を使い分けされています。氏とは、古代の氏(うじ)として男系祖先を同じくする同族集団から来ていて、古代中国では同一の先祖から出た血縁集団(姓)から分れ出た小集団を表し、居住地や職業、一族の中の社会的序列などによって独立した集団でした。姓は古代の姓(かばね)から来ていて、大化の改新以前、天皇から賜与された名前や地位で、ヤマト王権が成立してから世襲制が牽かれるようになった。また、古代中国では血縁集団を表し、その漢字により地位・階級を示した。公文書で氏名が使われているのは、現在でも家族形成が父系を中心に行われていることを表していますね。
 ヤマト王権が成立以前は、母系の血縁関係+渡来系男子によって集落が結成され、集団は田を耕し、平等な集団生活を送っていたと思う。そして、その地の地名を姓で表されていた。それが古墳時代草創期には、各集落の貧富の差や特殊性が現れ、大きな集落となり、その大集落を支配するリーダーが出現、主導的立場にある家の家長が「氏の上」(うじのかみ)となった。その「氏の上」がヤマト王権に従うようになって、天皇から姓氏を賜ることになる。「氏の上」が支配する領土では、「氏の上」の祖先を氏神として祀られた。
中臣氏と物部氏の領土
 物部氏の場合、氏神はニギハヤヒで、ニギハヤヒを祀る集団は「氏の上」である十千根が垂仁天皇から物部という姓氏を賜り、カバネも「連」となり、物部連を名乗る。「部」とは職業や王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌を表し、物資を支給する「部」として名付けられた。軍事の意味合いもあった。その頃の物部の集落は、生駒山をはさんで河内の地と大和の地に〇〇物部連として存在していた。この頃には、田植えを生活の糧とし、その他に各集落で特技としての分業が行われていた。ヤマト王権からの要望で、商品の献上や軍事や災害の人員もこの物部の集落から調達していた。このそれぞれの物部連は、天皇家が畿内の大和に政権を樹立する前から河内・大和の地に。継体天皇の時代、527年から528年頃に九州で磐井の乱が起こり、物部麁鹿火は筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫から人民を送り出した。そのことからも、畿内に移り住む以前は、特殊技能を所持し北部九州を拠点に、朝鮮半島や中国との交流もあった氏族だったのでしょう。
 中臣氏の場合、氏神はアメノコヤネであるが、物部氏と同じぐらい古い氏族で、神話で天地開闢したとき、最初に現れる神、アメノミナカヌシから来ていると言われ、ヤマトタケルの子、仲哀天皇の時代、中臣烏賊津使主に亀卜の術に達したとして、卜部の「部」を与えている。中臣の姓氏は、「中つ臣」の略で、神と人との仲介をするという意味で付けられた。朝鮮半島から伝わった亀卜の術で天皇と豪族の間を取り持った。神功皇后の時代、仲哀天皇の急逝に際し、神が神功皇后に乗り移り、神主にな祭事場る。その時に中臣烏賊津使主に審神者(さにわ・祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者・神を祭り、神託を受けるために忌み清めた庭)を務めさせている。中臣烏賊津使主を祀る審神者神社が福岡県久山町にあることからも、中臣氏は物部氏と同じように北部九州の出身であることがわかる。それと、中臣氏は物部氏と関係が深い。というのは、崇神天皇の時代に、疫病が流行したことがあり、人民が多くなくなった。そこで、崇神天皇は、大和の神、大物主神をまつるため物部の伊香色雄命を神班物者(神に捧げる物を分かつ人)に任命し、その疫病騒ぎを治めている。物部氏も呪術を習得していた。そんな伊香色雄命の娘、新川媛命が中臣烏賊津使主の妃。中臣氏と物部氏は、何らかの関係があった。物部氏が畿内に進出した際にも、中臣氏も畿内に進出し、中臣〇〇連を形成している。物部氏の近くで。また、ヤマトタケルの東国遠征に対しても物部氏と共に参加し、東方に勢力を伸ばした。
吉野ヶ里歴史公園の祈祷師の様子 中臣氏は、亀卜の術を武器に集落の祭典に呼ばれ、呪術により集落の将来を占い、そして、その集落をものにしていった。物部氏は、鉄の鍛冶技術を始めとして、織物などの技術を朝鮮半島から入手し、職人を養う経済力を持ち、いざとなれば軍事力を背景に領土の拡大を進め、天皇家と対等の政治力を持つ存在だったと思う。日本書紀には、中臣鎌足や物部守屋の祖先として、烏賊津使主や伊香色雄命などが系図上出てくるが、それは作られた人物か、中臣や物部という集団の誰か、という可能性がある。


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