第7章 温故知新 第4節

 たつやは、流正の先輩の「ヤマト王権の政治拠点について」の講義を最後まで見終えた後、ふと助手時代の「稲作の発展と灌漑の進歩」を思い出した。
 「流正くん、貴重な先輩の講演を見せて頂いて、ありがとう。この講演を見ていると私が助手時代に北摂を歩き、この地域で稲作の最初がどこで始まったかを調べたその当時の記憶がよみがえってきました。」
 「それはどこなのですか。」
安満遺跡のプラントオパール 「JRの高槻駅、阪急電鉄の高槻市駅から東に行くと八丁畷町があって、そこに京都大学大学院農学研究科附属農場があった。現在、安満遺跡公園になっていますが。その京大農場によせて貰ったことがありました。その時に農場の北側からプラントオパールが見つかったことを知り、そのプラントオパールが紀元前500年頃の。その頃から稲作が始められていた。」
 「先生、私も2015年に安満遺跡の発掘調査結果の説明会に参加しました。この大阪の高槻でまさか、2500年前の水田跡が見つかるなんて想像もしていませんでした。驚きました。」
 「私がお会いした京大農場の先生の話では、元々この地でヨシやキビが自然栽培されていたそうです。ヨシが生えるくらいだから水際、浅瀬の状態だった。近くには北摂山系から流れてくる檜尾川があり、その当時、氾濫が絶えなかったようで、湿地帯の状態だったようです。そこに弥生時代前期の頃、ヨシと共存する形で稲が芽生えてきました。誰がイネの種を安満遺跡の水田跡植えたのでしょうか。それが近畿圏での稲作の最初です。この京大農場が2014年に高槻市に譲渡され、移転されたので、本格的な発掘調査が始まりました。そして、2500年前の水田遺構が発見されたのですね。」
 「イネの種子はどこから来たのでしょうか。また、この安満地域に縄文時代から人が生活していたのでしょうか。」
 「日本で最古のプラントオパールと言えば、1991年に岡山県立大学の建築現場から3000年前の籾の痕とプラントオパールが土器の中から発見されています。吉備から播磨を経て、この北摂にイネの種子をもたらしたのでしょうか。それか、水田の知識を持った九州北部の人が瀬戸内海を経て、河内湾に。そして、この安満地域に根付いたのでしょうか。」
 流正が研究した居館の謎を胸に抱きながら、安満地域の集落のことを考えていた。
 「縄文時代からこの北摂には、集落があったのでしょうか。」
 「縄文人は、琵琶湖周辺に集落を形成し、丸太舟で淀川を下った。そして、この安満地域にたどり着いた可能性はありますね。そこに、集落が出来、吉備や筑紫からの人達もこの地に集結した。これが弥生時代前期の状況だったのではないですか。」
 「全く、寄り集まりですね。」
弥生時代前期頃の河内湾 「その当時の安満地域は、北に北摂山系があり、南は河内湾の北端でしたから。丹波の方から山越えでこの地にたどり着くか、河内湾の岸辺に沿って、或いは丸太舟で縄文人の交流が行われていた。その後、檜尾川や芥川や女瀬川や安威川の氾濫や北摂山系からの土砂が流れ込み、中洲ができ、河内湾が河内湖になってきた。その頃が紀元前後、筑紫や吉備や出雲からこの地に移住する人達が増えました。」
 「すると、コミュニケーションが必要になってくるわけですね。大きな集落と田畑を守る環濠が必要になった。そして、その集落のリーダーが。大王の出現ですね。縄文時代から続く、アニマティズム、精霊崇拝が始まるのですね。その集落には居館が必要になる。」
 「そうですね。その集落で独自の神々が誕生することになりますね。」
 「あれ、今回の先生の講演のさわりを聞かせて貰ったみたいですね。」

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