神武天皇が橿原の地で天皇に即位し、三輪山を支配していた大物主神または、三嶋湟咋(加茂建角身命・八咫烏と同一神)と玉節姫から生まれた娘、媛蹈鞴五十鈴媛を皇后に迎える。記紀ではそのようになっていますが、実際には神話の世界での話。この神話を2世紀から3世紀のころを想定してみると、現在の大阪府三島地域を支配していた大王が存在していた。それが賀茂氏であったか、定かでない。三島地域の遺跡や古墳をひもといてみます。
三島地域の遺跡群
津之江南遺跡の石器 最初に、津之江南遺跡から。この遺跡が発見されたのは、高槻市が新たに津之江北町7 に小学校を建設した1972年8月から10月のころでした。その遺跡調査高槻市教育委員会から1976年に報告されています。郡家今城遺跡でも発掘されていますが、この津之江南遺跡も旧石器時代の矢尻が発掘されています。旧石器時代、縄文時代、弥生時代とこの地で生活をしていた人たちがいたということです。この津之江小学校のすぐ近くに稲荷神社があり、その神社の由来は、継体天皇の子で、安閑天皇(母方がその当時、ヤマト王権で国造を務めるなど勢力があった尾張連の尾張草香の娘)に、その当時の三嶋県主、三嶋飯粒(スクナビコを祖とし、鳥類を飼う役どころにあった鳥養部の鳥取氏)が、屯倉として竹村屯倉(竹村の地40町からなる土地を献上)の一部として提供した。土地だけでなく、民の労働力も安閑天皇に献上したのですね。津之江南遺跡は、継体天皇の事実上の古墳、今城塚古墳からも近5000年前の河内湖く、古墳の築造の時には、この辺りの住民が労働力として参加したのでしょう。また、この辺りをアジャリの森と言われ、このアジャリは大河内味張のアジハリが訛ったとされています。この大河内味張(アマツネコを祖とする凡河内氏)は、三島全体の国造を務めていた。それが、安閑天皇が皇后のために屯倉を増やす政策に従わないで、自分の領地(大山崎辺り)は米を生産するのに相応しくない土地と嘘をついた。それが、大伴金持を同行させて、安閑天皇がこの地を視察。実際には、竹村村のような良田だったのです。その嘘を付いた罪で、大河内味張の領民が、春と秋に分かれて500人を津之江南遺跡の隣の五百住(よずみ)に住まわせた。現在でも、この地名は残っています。
 現在の高槻市津之江辺りは、住宅地となっていますが、継体・安閑天皇の時代には、河内湖の北端で筑紫津と言わ2000年前の河内湖れていました。九州北部から畿内にやって来て、この地に舟を着かせたのでしょう。この地に渡来人がやって来る港の役割を果たし、なかなか栄えていた土地柄だったようです。その津之江には、もう1500年前の河内湖一つの神社、筑紫津神社があります。スサノオの命が筑紫よりやって来て、この地で仮宿をしたという伝説が残っています。
 約2,500年前、稲作技術をたずさえた開拓者たちが安満山を望む葦辺に水田を拓き、先住の縄文人たちと共生するなかで、新たな弥生文化が華ひらきました。それが安満遺跡です。三島地域で最初に米作りの集落ができたのが安満(あま)です。高槻市には、五百住もそうですが、現在では読めない地名がたくさんあります。漢字が中国から入ってくる前から、この地域を「あま」と呼んでいたのでしょう。漢字が入ってきたのが西暦200年から400年頃、正式には仏教が日本に伝来された頃、それ以前から漢字文化が入ってきていたと思われます。あまを「安満」という漢字に当てはめたのは、安らかに満ちた土地という意味合いがあったのでしょうか。現在、安満山の中腹には高槻市公園墓地があり、そこから眺めた麓には、安満遺跡が広がっています。この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていました。安満古墳群も存在します。全体では東西1500m、南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている貴重な遺跡です。以前、京都大学農学部の農場があった場所から、多数の弥生土器、青銅製の矢尻や木製の農具、珍しい漆塗りのカンザシやクシ、勾玉などの装身具などもみつかっています。現在、京大農場は高槻市に譲渡され、安満史跡公園として生まれ変わろうとしています。
安満の水田のイラスト
安満古墳の銅鏡 この安満地域に縄文時代から人が生活し、弥生時代になって、九州北部から稲がもたらされ、渡来人が筑紫津などから渡来人が鉄器なども伝え、そこには小国家が生まれただろう。そして、大王も存在していたはず。そして、西暦300年頃から古墳時代が始まる。時の流れによって、そんな大王も変化していった。当初は、縄文系の人。稲作が入ってきた頃には、海人系(例えば、尾張氏や津守氏など)と天津神系(例えば、中臣氏や賀茂氏など)。鉄器が入ってきた頃には、国津神系(スサノオを崇拝している天神山遺跡の銅鐸氏族)や息長氏系(継体天皇も息長氏系だと思う)。西暦200年頃から、渡来系或いは北部九州の人達がこの三島地域に移り住んだ。天神山遺跡には、銅鐸が出土していますし、安満宮山古墳では、邪馬台国の卑弥呼が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部、三角縁神獣鏡が出土しています。この地域では古い、3世紀末の弁天山古墳群の岡本山古墳から北部九州でも発見された内行花文鏡、弁天山古墳からは中国製の二神二獣鏡や四獣鏡や三角縁三神三獣鏡が出土されている。普通、同じ遺跡や古墳から銅鐸と三角縁神獣鏡が出土することがない。この三島地域が、縄文人系から渡来系まで、入り交じっていて、そこには各大王が存在していたと思われます。
弁天山古墳の鏡 安満遺跡から東に行ったところに、磐手杜神社がある。この「安満」にも藤原氏が実権を握っていたようで、この神社は藤原鎌足が666年に創建した神社。当初は安満神社といっていたが、藤原氏が平安時代中期まで実権を握っていた時代、12世紀頃には、磐手杜神社と言う名所は春日神社と言っていたようですね。中臣氏に関係が深いタケイカヅチの命、アメノコヤネの命などを祭神として祀っている。それから、藤原鎌足が亡くなった時に、最終的に高槻市の阿武山に埋葬したそうです。1934年に京都大学地震観測所を建設する際に阿武山古墳(摂津安威の地)が発見されて、当時撮影されたX線写真などから、金糸で刺繍した冠帽と玉枕(現在、復元されて今塚古代歴史館に展示されている)が添えられていた。大織冠だった藤原鎌足の大冠帽子藤原鎌足が有力視されている。確かに、藤原鎌足は摂津安威の地に葬られた。その後、長男の定恵(藤原不比等の兄で僧侶として遣唐使になった)が奈良県桜井市の談山神社に遺骨を移したとされている。中臣氏の出身地は、三島地域ではないでしょうか。
 天智天皇崩御の後、大海人皇子がアマテラスを立てて、大友皇子から政権を奪い取った。そして、天武天皇として即位。この天武天皇を支えたのが藤原不比等で、天津神と国津神を分けて、天津神系を優位にしたのも。また、藤原不比等は、皇室に娘を嫁がせて生まれた子が天皇になり、平安時代には藤原氏が摂政として実権握った礎を築いた。そんな藤原不比等の出身地が「安満」だとするなら、「あま」という漢字が入ってきていない時代に何を表していたか。天津神の象徴、アマテラスも「あま」が付いている。ひょっとしたら、天照大神ではなく、「安満を照らす神」ではなかったか。また、尾張氏と関係がある海部氏は、京都府宮津市で元伊勢神宮の一つとして籠神社を建立している。籠神社もアマテラスを祀って、その海部氏の海部も「あま」とも読める。海部氏もこの三島地域が出身なのだろうか。大海人皇子がアマテラスを立てて、壬申の乱を起こして勝ち抜いた。その時に応援を依頼した尾張氏や安曇氏などもこの三島地域に関係が深い氏族だったかも知れない。大海人皇子に付いたのは、皇族、皇親氏族、近江朝廷から疎外された一流豪族や、かなりの数の二流豪族、畿内(きない)の下級豪族や東国の地方豪族であった。その応援部隊は、アマテラスの合い言葉によって集まってきたとすると、三島(安満)地域出身か関係が深い豪族だったかも知れませんね。


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