第7章 温故知新 第3節

 ホテルマンがドアをノックした。そして、コーヒーが運ばれてきた。
 「先生、継体天皇の話がでてきたので、私の先輩が継体天皇を中心にして、ヤマト王権の政治拠点について講義されていますので、見てみませんか。」

池上曽根遺跡の堀立柱建物 「う~ん。さっきの居館の話と繋がっていますね。百舌鳥古墳群から南に位置する池上曽根遺跡何かは、紀元前からの大きな集落。この遺跡には大きな堀立柱建物があり、高床式倉庫ですね。柱を年輪年代測定器で調べたら、紀元前52年とでた。ここに大量に収穫した米などが備蓄されていたのでしょう。また、工房もあり、ヒスイの勾玉や銅鐸の破片なども発見されていることから、技術者も確保していたのでしょう。この遺跡には、祭事の場や居館もありました。」
 「池上曽根に集落があったのは、いつ頃までですか。」
 「土器も発見されていて、弥生時代中期の頃で、炭化米は紀元前2世紀頃と断定された。池上曽根集落がいつ頃まで? さて、鉄製品の工房もあったようだから、弥生時代後期、倭国大乱までではないだろうか。」
 「それでは、池上曽根の居館も大王の住まいだと考えていいのですね。」
 「各地の集落に大王がいましたからね。それが、2世紀後半に九州北部を中心に倭国大乱となって、内戦状態になり、各地で権力をもっていた大王が戦った。そして、小さな集落が大きな政治集団に吸収されていった。池上曽根の集落もそのような時代の波に飲み込まれていった。また、九州北部から起こった大乱で、九州から河内の地に移住してくる人達の受け皿になったかも知れません。」
 「河内王権の誕生ですか。」
黄金塚古墳の画文帯同向式神獣鏡 「まだそこまではいっていない。河内湖南部には壮大な農地があり、九州からの移民を受け入れた。その当時の河内には、九州の伊都国や奴国、或いは九州を経由して、百済や新羅や高句麗からの移民も受け入れた集落が沢山ありました。池上曽根遺跡の周辺にある古墳、黄金塚古墳出土した銅鏡は、中国の魏王から邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られた一枚ではないかといわれています。信太山丘陵にある 惣ヶ池遺跡では、鉄の矢尻も発見されています。この地域でも政権争いがあったのでしょうね。これが3世紀後半から4世紀前半のことです。応神天皇から始まる河内王権は、この地、河内湖の南側に政治拠点を置きました。」
惣ヶ池遺跡の鉄の矢尻 「居館と宮とは関係があると思いますが、考古学的には古墳時代以前の宮殿は未だに発掘されてない現状です。また、居館と古墳の関係でも、宮内庁指定の古墳の発掘調査は行えないですが、それ以外の古墳の発掘は進んではいますけれど、その古墳がどの大王の墓だったかは掴めていません。何か書き置いたものでもあればいいですけれど。」
 「そうだね。日本書紀や古事記などの文献は、後世に書かれたもので確信できる情報ではないですから。応神天皇がいつ頃の人なのかもはっきりしない。中国の南北朝時代の南朝宋の宋書に書かれている倭の五王、讃が応神天皇ではないかと言うことぐらいかわかっていませんね。5世紀前半の倭王です。記紀では、仁徳天皇や履中天皇をもこの讃に当てはまります。よく言われるのは、中国の文献で卑弥呼以降、倭の五王までの間が空白になっているので、謎の四世紀と言われていますね。日本の古代史で文献でも、考古学的にもはっきりしてくるのは、渡部くんの先輩が示された継体天皇以降かも知れませんね。」

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