第7章 温故知新 第2節

 たつやの講演の日、朝早くから流正はたつやが宿泊しているホテルにやって来た。
 「先生、おはようございます。」
 「渡部くん、おはよう。昨日、少し心斎橋から道頓堀辺りを散歩がてら歩いてきたよ。道頓堀も昔に比べてきれいになっていたね。それと、外国の観光客の多いこと、驚かされました。」
 「そうでしょ。関西国際空港ができて、関西の窓口として大阪が見直されましたからね。」
 「大阪も昔のイメージがなくなり、きれいに整備された良い街になりましたね。」
 「大阪は、古代の時代に日本の中心になった歴史ある街ですからね。皆さんは、豊臣秀吉が大坂城を築いてからの歴史からしか知らない人がたくさんおられますけれどね。今でも、大坂城は外国の観光客の大阪での一番のスポットです。」
 「仁徳天皇の時代ですね。大阪で百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されましたから。それで、渡部くんはそんな大阪で学芸員として働いているのでしょ。何か、最近、研究した課題がありましたか。」
 「はい、そこでこの間、あるところで講義をしたのです。考古学的な観点からヤマト王権のことを。丁度、録音したのがあるので、先生に聞いて頂こうと思って、持参しました。」
 流正は、持参したパソコンを開いた。
 「パソコンから見ることができるのですね。画像処理してある。」


 「なかなか立派な講義ではないですか。」
 「そうですか。考古学では限界があって、遺跡の掘り出しはでき、そこに居館が存在し、その遺跡から発掘された土器などによって、その当時の年代がわかる。しかし、その居館が誰の大王であったか。それが判らないですから。」
 「そうだね。発掘されている古墳の近辺で、居館が発掘されても、それがはたして埋没されている人物の居館であったかは、判らないですから。その居館から木簡か、何かの文字でも出てくればいいのですけれど。古墳にしても、宮内庁が管理しているところでは、この古墳は誰々の大王の古墳だと断定しているだけで、実際のことはまだまだ謎につつまれていますね。」
IMG_20200111_092944 「大阪でも、堺や藤井寺の古墳でも倭の五王の墓だと宮内庁が管理し、なかなか発掘までには至っていません。考古学を専攻している者としては、発掘したいですけれど。発掘できる古墳は限られています。倭の五王より少し後になりますが、北摂の高槻辺りにも古墳があり、そこでは太田茶臼山古墳は宮内庁の管理下にあるので難しいですけれど、今城塚古墳等の発掘は進んでいます。」
IMG_20191208_142706 「継体天皇陵のことですね。宮内庁の見解では太田茶臼山古墳が継体天皇のお墓となっていますね。」
 「私達としては、今城塚古墳が継体天皇のお墓だと思うのですが。」
 「この問題は、江戸時代の元禄にまで遡り、徳川幕府がその当時の高槻藩に調査を依頼した。その時、今城塚古墳からは継体天皇の遺品が発掘されなかった。それで、太田にあった茶臼山古墳が高槻藩の調査で、継体天皇陵だと決定したのです。このことは元禄9年に発行された松下見林の『前王廟陵記』に記載されています。それを明治政府がうのみにして、現在に至っています。」
 「そうなのですか。そのお陰で、今城塚古墳は高槻市が整備して、いましろ大王の杜として公園になっています。」
今城塚古墳
 「太田茶臼山古墳の円筒埴輪を調べたら、5世紀の中程。今城塚古墳の円筒埴輪は、6世紀の中程。継体天皇が即位し、磐井の乱を治めたのが528年11月のことだから、今城塚古墳が継体天皇陵と言っていいでしょうね。」
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 話が盛り上がってきたとき、流正は立ち上がって、フロントに繋がるポーンで、コーヒーを注文した。

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