瓢箪の実 日本で「瓢箪から駒が出る」という古い諺がありますね。瓢箪はウリ科のユウガオ属の変形種で、アフリカが原産で世界最古の栽培種の一つ。それが、縄文時代草創期から日本で植えられていた。福井県の若狭湾国定公園の三方胡から流れる支流と高瀬川の合流地点一帯に12,000年前から5,000年前に集落があった鳥浜貝塚から瓢箪の種子が発見されている。縄文人は瓢箪を栽培して、果実を削除して乾燥させ、水やお酒を入れて容器として持ち歩きしていたようです。
 瓢箪(瓠)を持ち歩いた縄文人が紀元前2世紀頃には朝鮮半島南部に現れます。その頃、朝鮮には国家としての形態が存在しなかった。日本と同じ状態だったのです。中国からの侵略は存在し、中国の戦国時代の燕もその一つの国で、朝鮮半島に接していた。その燕国の照王(在位紀元前312年~紀元前279年)の時代に領土を拡大し、朝鮮半島も支配下に置いた。その当時の日本、倭国もその範囲に入っていた。事実的には朝鮮も日本も実行支配ではなく、朝鮮半島の西海岸に港を開いたりして、不老不死の薬があると思われていた日本に商人や技師を送り込む目的で、植民地化していた。その逆もあって、日本からその当時の倭人が燕から送られてくる民と交流するために、朝鮮半島の南部に渡った可能性がある。その当時の朝鮮半島の西海岸には、中国の春秋戦国時代に呉・越から斉と北上した戦火を逃れた民が結集していた。この民が日本に水田式稲作を日本に伝えている。中国が秦の始皇帝によって統一された頃、この港には秦の苦役を逃れてくる秦の亡命者も集まるようになり、朝鮮半島の東南地方が未開の地だったので、秦の亡命者と倭人はその地に永住するようになった。秦の亡命者は、青銅器、鉄器の技術をこの地に持ち込んだ。そして、倭人はその技術を習得することになる。その後、燕国は前漢の武紀元前1世紀頃の漢四郡帝により紀元前108年に滅ぼされ、漢の武帝は朝鮮半島に漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を設置して、そして、実行支配をしようとした。この時点でも、朝鮮半島南部は日本と同じように小国が乱立していた。紀元前82年に漢の昭帝は、真番・臨屯を廃止、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入されている。この時点で真番郡があった朝鮮半島の西南部は前漢の植民地支配から逃れた。そこには、燕の亡命者とも交わっていた。そして、馬韓という小国が集まった稲作と漁業を中心とした民が。秦の亡命者と倭人の辰韓という小国が集まった鉄器集団の民が。倭人が中心の小国が集まった弁韓が、そして日本本土、特に九州北部の小国に高度の稲作と鉄器の技術を。高度の稲作を持ち込んだ倭人は馬韓よりで、青銅器や鉄器を持ち込んだ倭人は辰韓より。前漢が楽浪郡を設置して朝鮮半島の植民地化を進める中、楽浪郡と交渉を持ったのは、後の百済となる馬韓にいた倭人達だったのです。九州北部の倭人達。一方、後の新羅となる辰韓では、出雲から丹波に至る山陰地方の倭人が辰韓に渡り、鉄器技術を学びながら新羅の政権に参画した。これが、紀元前1世紀から倭国大乱が始まるころまでの朝鮮と日本の関係です。
 瓠を持ち歩いた倭人が歴史書に登場するのは、新羅が唐の援助により朝鮮半島を統一し、8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き分裂、そして高麗が統一し、その高麗の17代仁宋の命で編纂された『三国史記』卷一・新羅本紀第一に出てくる。『三国史記』が完成したのは1145年で、朝鮮史では最古の歴史書。3世紀頃の三国時代(新羅・百済・高句麗)から統一新羅末期までを記載されている。その『三国史記』には新羅が紀元前57年に建国したとある。そして、紀元前20年に初代斯蘆(新羅)王の朴赫居世は馬韓との国交結ぼうとして、重臣、瓠公に命じている。この瓠公は、瓢箪を腰に下げて倭国から渡ってきた人物です。中国にしても朝鮮にしても、倭人の特徴を表現するのに瓢箪がでてきます。
 『三国史記』は、日本の『古事記』と同じように新羅の建国について神話から始まります。新羅は、朴氏・昔氏・金氏の順で王権が入れ替わり、それどれに始祖説話を持っています。最初に王位についた朴氏の始祖説話を韓国釜山出身の詩人、金素雲さんの『三韓昔がたり』で紹介すると、「辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬金の卵が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)の大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す朴を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする。」となる。『三国史記』は、韓国の古書なのに倭人が新羅の最初の王位となっていることに驚かされる。この『三韓昔がたり』がいつ頃作られたか。新羅が建国したのは紀元前57年となっているが、建国神話でのことだけどその当時に作られたのか定かでない。その当時、中国では辰国或いは辰韓と呼ばれはしているが、実際には小国の集まりで、その中には倭人の国もあったのでしょう。この昔がたりでは、瓠ほどの大きな卵から初代の王、朴赫居世が生まれている。辰国から斯蘆国(慶州一帯)になった頃、紀元前2世紀から紀元前1世紀頃、斯蘆国では農業が盛んな地域でした。そこには、揚子江付近から流れてきた人達と日本から渡ってきた倭人達が生活をしていました。この話で卵が出てくるのは、辰韓の六村の一つには倭人の村も存在していたと思います。卵から生まれると言う神話は、空を神の住む天界と信じられ、鳥は空から飛んでくるので、天の使い。その鳥の卵は天からの落とし子。そんなイメージだったのでしょう。ヨーロッパではコウノトリが赤ちゃんを運んでくるという話と同じですね。また、この昔がたりに馬が出てきます。この馬はその当時、日本には存在しなかった。その当時から匈奴の人達もこの地に住み着いていたのでしょう。
 第四代王として昔脱解が現れる。その昔氏の始祖説話には、「倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一カササギ人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して昔を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから脱解を名とした。」とある。ここでも卵が出てきます。カササギは日本の古代には生息していなかったが、カラスの一種。カラスは稲作を営む者としては、太陽の使者として扱われていました。太陽の黒点がカラスだと。この建国神話では、日本の丹波地方だと想定されている多婆那国が出てきます。倭人が斯蘆国に渡っていた神話での実証となる個所ですね。これとよく似た話が、『古事記』にも出てきます。応神天皇記の中で、その昔に新羅王子を自称する天之日矛(アメノヒボコ)が渡来したとしとあります。斯蘆国の阿具沼で昼寝をしていた娘いて、日光がにじのように差し込んだときに妊娠し、赤い玉を生んだ。その赤い玉を手に入れたのが新羅の王子、アメノヒボコだった。赤い玉から少女があらわれた。それがアカルヒメで、アメノヒボコから逃げ出して、祖国である難波付近に。アメノヒボコは日本まで追いかけてきて、アカルヒメに出会うことなく、但馬国に留まった。『日本書紀』では、アメノヒボコは垂仁天皇の時代に日本に渡っていると記されている。このアカルヒメが神功皇后だという説もあるので、出身が息長氏ですから鉄器の集団と関係がありそうです。となると、この建国神話は2世紀から3世紀の頃に作られたのかも知れませんね。ヤマト王権が新羅と関係が深かった時代ですね。
 第十三代王として金味鄒が現れる。その金氏の始祖説話には、「昔脱解が首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞こえたので、瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。小箱を開くと中から小さな男の子が現れた。」この男の子が金閼智です。その7代目が金味鄒となります。この金色の小箱は鉄器で作られていたのでしょうか。金氏の祖先は、漢の武帝の部下で、匈奴の休屠王の太子、金日磾だと言われています。そうすると、辰韓に匈奴系の人達が馬や青銅器や鉄器を持ち込んだことになります。
 新羅の実質の建国は、第十七代金奈勿の時代で百済の第十三代近肖古王との間で羅済同盟を結んだ366年の頃。高句麗が南下してきて、新羅と百済の領土に侵入してきた頃です。その頃のヤマト王権は、百済の要請で高句麗と戦うために朝鮮半島に遠征していた頃。神功皇后の三韓征伐の時代ですね。それ以前の新羅は、匈奴系の金氏と倭人による連帯国家だった。新羅には倭人の大王も存在していた。倭人は弁韓も含めて、辰韓にも支配拡大に動いていたようです。しかし、匈奴系の王権も存在していた。中国には「職貢図」が各王朝に存在し、王朝の周辺の諸国からの朝貢を記録した書物があります。2011年に南朝の『梁職貢図』が発見された。南朝の梁だから、500年代前半の記録で、その職貢図には新羅の朝貢は、「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉。」とあります。斯羅国は新羅ことです。「あるいは韓に属し、あるいは倭に属し、国王は(中国に)使者を派遣することができなかった」のところが騒ぎになってるらしい。梁の「普通二年」は西暦521年。「その王の姓は募、名は泰」ということで、法興王ことです。521年に新羅の法興王が百済の先導ではじめて梁に遣使したってことですね、たぶん。言葉は百済の通訳がないと通じなかったということが書かれています。
北魏と宋
 その当時の倭国、即ちヤマト王権について、中国の歴史書や地理書に書かれています。ヤマト王権、いや、中国からの文献から倭王讃・倭王珍・倭王済・倭王興・倭王武という王が倭国に存在していたと『宋書』に書かれています。「倭の五王」のことですね。この当時、ヤマト王権も国内の紛争を解決し、同民族がいる朝鮮の支配に向かっていた。ヤマト王権は、東晋・宋・南済・梁に対して、朝鮮半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を任される安東大将軍と倭王の称号を求め、与えられた。倭の五王が南朝の各王朝に朝貢したの真興王時代の領土拡大は、413年から502年の間で、最後の梁の武帝から征東大将軍の称号を賜った。その間に、新羅に軍を送っていたのですね。梁が滅亡する557年までに仏教の伝来や暦の輸入がありました。しかし、新羅の第24代王、金真興は550年以降勢力を増し、高句麗の南下した領土を取り戻し、百済との羅済同盟を破棄し、百済の領土に侵入。しかも、倭人が長年住み着いた領土、加羅も占領した。その頃、ヤマト王権では欽明天皇の時代で、大伴金村が失脚し、物部尾輿と蘇我稲目が台頭してくる。
張果老 前つばが長くなりましたが、「瓢箪から駒が出る」の諺は、唐の時代の仙人、張果老が白いロバに乗って各地を放浪したそうです。休む時はロバを紙のように折りたたんで巾箱の中にしまい、乗る際には水を吹きかけてもとの姿に戻した。この伝説が日本に入ってきて、巾箱が瓢箪に。瓢箪は、東アジアでは物をしまい込むのに使われた。でも、瓢箪に駒(馬)を詰め込むことは不可能ですね。この諺は、意外な所から意外の物が出ることのたとえ。冗談半分のことが事実と千成瓢箪なってしまう場合などに使われます。鎌倉時代末期から江戸時代初期までに書かれた『御伽草子』に張果老の仙人話が取り上げられ、描かれた大和絵で瓢箪から白いロバが出てくる絵が庶民に広がった。豊臣秀吉も馬印・千成瓢箪を掲げて天下を取った。そして、秀吉は神功皇后の三韓征伐や孝謙天皇のによる新羅国王への入朝命令などと考えて、高麗王国に進撃し、李氏朝鮮と戦った。その馬印も千成瓢箪でした。殷・周王朝から伝わる風水で、瓢箪の中には霊力が宿っているという言い伝えが日本にも伝わった。そこで、仙人と瓢箪なのです。縄文時代から栽培された瓢箪と紀元前2世紀ころに中国から伝わった仙人思想により、瓠を腰にぶら下げていた倭人と神の使いを表す卵から生まれた倭人出身の斯蘆国の王。その子孫が朝鮮を離れ、ヤマト王権に吸収されていった。

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